夢のあとさき  4




共に薬剤師である男女二人と交わしたやり取りの一部でも思い出しているのか、石川の目が軽く眇められた。
「でも、彼女達との時とは違って、今日の相手とは、全く話、噛み合わなかったけどね」
「ま、最初は、そんなもんだろ」
「いや、そうじゃなくて・・・多分、住んでる世界が違う」
「住んでる世界?」
「なんていうのか―――かしずかれるのが当たり前、っていうか・・・」
そんな女じゃ、ダメだ―――司馬は、心の中だけで大きく溜息を吐いた。
逆なのだ。石川を第一に考えて尽くしてくれるような女性でなければ、ならないのだ。こいつが自分の時間全てを医療業務に注ぎ込んでいても、それ以外を補って生活全般に何ら支障がないよう、身の周りを整えてくれるような伴侶でなければ、彼を任せられない。
尤も、この見合いの相手は、周囲から盛大に甘やかされてきた、いわゆる『お嬢様』だ。そんな殊勝な心掛けなど、望む方が虫の良すぎる期待だったか。
とはいえ、相手がどう思ったのかはその当人に訊いてみなければ判らないのだし、石川自身と接したことで、向こうの意識が変わらないとも限らない。それに、人の邂逅は回を数えてこそ、より深く相手を理解し認め合えることもある―――そう思った司馬は、一般論を述べた。
「でも、一回会っただけじゃ、相手の一部分しか判んない、だろ?」
ううん、と小さく首を左右に振ってから、石川は答えた。
「向こうも『違う』って判ったはずだよ。後半は話、続かなくなってたし・・・だからきっと、あっちから断ってくるだろうね」
「そう、か・・・」
「もちろん僕の方からも、ちゃんと断ろうと思ってる」
最初から互いにはっきりとした違和感を覚えたのであれば、それを誤魔化して付き合ったところで、関係性の好転は期待できないだろう。この男の頑固さと融通の利かなさをよく知っている自分からしても、上手くいく可能性は低そうに思われた。何より、石川自身が「断る」と決めているのなら、司馬が口を差し挟むことでもない。
ネクタイを解いた石川が枕元へ腰かけた。軽く顔を捩ると、毛布をかけたままの大腿へ左頬杖をついて上半身を起こしている司馬へ、問いかける。
「けど、なんだって僕に、話、きたんだろ・・・普通、先に、きみにいくんじゃ、ないのか?」
「一目惚れ―――だ、そうだ」
「え?」
「院長の姪・・・この前、病院に来た時に、おまえを見初めたんだ、とさ」
院長の実子は息子二人で、いずれも東都医科大学の研究室に籍を置いている。男児よりも女児が欲しかった彼は、資産家へ嫁した自分の妹が産んだ一粒種を実の娘の如くに可愛がってきた。有名私立女子大の卒業を控えた彼女が、伯父からの『卒業前祝の晩餐への招待』へ与るため天真楼病院院長室を訪ねる前に、たまたま外科病棟で患者に囲まれていた石川の姿を目にした。そして、その誠実な対応によく似合った二枚目ぶりと明るく爽やかな笑顔へ見惚れたらしい。
そんな訳で、あのハンサムな外科の先生に一対一で会わせてほしいと、目に入れても痛くない姪から強請られた院長が、部長に圧力をかけた。峰という、石川に恋する部下を持つ中川は一応の抵抗を試みたらしいが、結局、上の意向へは逆らえなかった。本来業務である医術とは無縁な分野での『命令』だったことも、外科部長として渋り続ける意義は見出せなかっただろう。
峰に纏わる部分だけを伏せ、司馬は石川へ、自分も一日前に中川から聞かされた相手のバックグラウンドと、見合い話が成立するに至った経緯を説明した。
「ああ・・・それで」
腑に落ちたような表情で、石川が頷く。
「確かに、お嬢様って感じだったなぁ・・・身に着けてるものも、ブランド物ばかりだったよ。言葉悪いけど、お金かかってるな、って思ってた」
「おまえ、それ―――顔に出てたんじゃ、ねーのか?」
「そうかもね。でも、別に構わないよ。そんなお嬢様なら、僕の給料ではやってけないんじゃないかな」
「そりゃ、違いねー・・・な」
「だろ?」
平均的なサラリーマン世帯で育った石川と、裕福な家の一人娘として生を受け、両親だけでなく大病院の院長を務める伯父からも大事にされ何不自由ない日常を送ってきた女性とでは、生活のレベルにそれなりの開きがある。惚れた腫れたで始まる恋愛であれば、出会った二人の境遇が天と地ほどに隔たっている可能性もないとはいえないが、最初から結婚を前提とする見合いの場合は、価値観の似通っている者同士を引き合わせるのが一般的だ。そう考えるとやはり、お嬢様の気紛れに端を発した感のある今回の縁談自体、無理な組み合わせだったのだ。
それでも結婚した方が、こいつの為になるのではないか―――日中、思量していた諸々が司馬の頭を掠める。
本日会ったようなアッパークラスの相手でなく、普通の家庭出身で周囲の愛にも恵まれてきた、気立てのよい女性であれば案外、上手くいくのではないか。
石川自身の容姿や職業なら、見合い相手に求める条件としては最高ランクの筈だ。難点は、仕事第一で健康管理も含めた私的部分への配慮を二の次にしがちなことと、こうと決めたら譲らない頑なさだろうか。他にも女性から見て気に入らない部分はあるかもしれないが、共に生活するパートナーとしての相手を値踏みする場合は絶対譲れないこと以外を加点方式で評価するであろうから、よほど性格的に合わなくなければ、楽々と及第点へ達するに違いない。尤も、最終的には相性の良し悪しがものをいうのだろうが。
「ま、今日のお嬢様は別として、だ」
司馬は石川の目を見据えると、努めて平静を装いながら告げた。
「いい機会だし、結婚、考えたらどうだ?」
心の揺れを気取られないよう最大限の注意を払いつつ、ただの世間話であるかの如くに、淡々と言葉を続ける。
「部長が、言ってた―――奥さん貰って、世話してもらった方がいいんじゃねーかって、さ・・・その方が、おまえの身体の為にもなるんじゃねぇか?」
石川の顔から表情が消えた。思っていたよりも硬い声が、司馬へ向かってきた。
「どういう・・・意味、だ?」
「どう―――って、言葉通りの意味、だが?」
「きみ・・・本気で、言ってるのか?」
立ち上がった石川が司馬の両肩へ手をかけた。そのままベッドの上へ司馬の身体を押し倒して馬乗りになった石川は、自分の下になった男を思いきり怒鳴りつけた。
「司馬君!!!」
司馬の端正な顔立ちに驚きの表情が拡がった。石川は険しい顔で、組み敷いた相手へ問いかけた。
「きみは、僕がきみから離れても、平気なのか?!」
「おい、石川・・・」
肩を強くシーツへ押し付けられ、ほとんど身動きの取れなくなってしまった司馬は、焦心に駆られていた。
極力、いつもの話し方をしたつもりだった。中川が口にした意見には普遍性もあったから、ついでに付け加えただけだ。
戸惑いを隠せないまま、司馬は呻いた。
「ちょっ・・・何、怒ってんだ?」
「どうしてきみは、そんな平気な顔、してられるんだ―――」
苦汁を飲まされた如くに、石川の表情が歪む。
「僕はきみじゃなきゃ、嫌だッ」
ふいに、小さな声が司馬の耳許で弾けた。
―――こうたろう・・・やだっ
泣きそうだった、あのチビの声だ。
一人にしないでくれと訴えてきた子供の気持ちが、司馬の中へ一挙に流れ込んでくる。おそらく石川自身も気付けていない深い寂寥感はずっと其処にあったものなのだと、なぜか確信できた。概して負と見做される感情でも、何一つ偽ろうとしない彼の素直さが、偏にそれを伝えた。
それでも、目を逸らさない強さは、石川の誠意であり矜持だ。振り絞るように放たれた言葉が、容赦なく司馬の心を突き刺す。
「きみじゃなきゃ駄目、なんだ―――きみは、僕じゃなくても、いいのか?!」
正面から回答を要求されて、司馬は躊躇した。こっちだって、おまえじゃなきゃ、駄目に決まってる―――という本心を口にするなど柄ではない。だが、下手に突っ張って話が拗れたなら、これまた面倒なことになる。
「・・・んな訳、ねーだろ・・・」
今、自分が言える精一杯の心情を司馬が口にした途端、石川が強引にその唇を塞いだ。
すぐに歯列を割って侵入してきた舌の動きは、これまでにない程の激しさだった。いつも以上に熱く濃厚な口付けを受けた司馬の身も心も、極限へと追いつめられる。脳天に直接響くような刺激は、抵抗しようとする気力をいとも簡単に削いでゆく。
暫くして司馬の唇を開放した石川が、その声音へ怒気よりも口惜しさを込めた。
「こんなこと、とっくに判ってると思ってたのに―――」
司馬は力なく返した。
「・・・判った、って・・・わかって、る―――から・・・」
「いいや、判ってないね」
強い光を宿した石川の瞳に見据えられ、動けなくなる。
「江太郎」
「げ・・・玄?」
どうやら石川は本気で怒ってしまったようだ。
「今夜は、手加減しないからね」
(・・・って、今までだって、手加減したことなんか、ねーだろ、おめーはッ!!!)
司馬の無言の突っ込みに石川が気付いたかどうかは、判らない。
上からきつく抱きしめられて、思わず喘ぎそうになった司馬は慌てて唇を噛んだ。肩口に顔を埋めてきた石川の囁きが全身を縛りつけた。
「今更、僕から逃げようだなんて、許さない」
「んなこと、しねー・・・って」
司馬の口から、今度は本心が漏れた。
初めて抱かれた時から、逃げられるとは思わなかった。何の計算も下心も無く自分へ差し出された、あの、真摯でひたむきで真っ直ぐな感情を受け取った時点で、今後の運命は決定されてしまったのだ。
二人の関係がこうなってしまった以上、それは引き返せるような道ではなくなった。互いに手を携え、ひたすら前に進んでゆくしかないのだ。そして、その手が離れる時には、共に、自分の一番大切なものを失うことになる。
石川が顔を上げた。再び司馬へ目を合わせ、きっぱりと告げた。
「一生、離すつもり、ないから」
「おまえ―――」
よく、そういう恥ずかしいこと言えるな、と呟いた司馬の表情が、石川の憤った心を少しだけ冷ました。
観念したように目を瞑った司馬へ、石川が今度は優しく口付けた。スウェットの下へ差し入れられた器用な指は、馴染んで久しい相手の肌を本格的に愛撫しはじめた。

その夜、石川は宣言した通りに司馬を抱いた。
司馬は夜通し石川から攻められて、散々なまでに啼かされた。

目が覚めた途端、今まで経験したことのない怠さに全身が支配されていることを司馬は自覚した。
(身体・・・が、重いッ―――本当に一晩中、抱きやがって・・・)
下半身の痛感はいつもの鈍さではなく、かなりはっきりしたもので、その、形の良い眉を思わず顰めさせた。身体を捩り、まだ隣で寝入っている石川へ背を向けると、司馬は今日予定されている自身の業務内容を頭の中だけで確認しはじめた。
背後で衣擦れる気配がした。石川が目を覚ましたに違いない。
腹部に腕を回してきた石川が背後から司馬を抱きすくめた。首筋に柔らかくキスされて、夜の間中続いた甘く痺れる快感へ引き戻されそうになった。
背を向けたまま、司馬は石川へ苦言を呈した。
「・・・ったく、どうしてくれんだ、よ・・・コッチは今日、オペ二件、あんだぞ・・・」
「きみが・・・あんなこと言ったから、だろ・・・」
言い返してきた声はまだ、憮然としていた。
確かに、自分の一言が発端となった。結婚した方がいい、という世間一般の考え方を押し付けるような物言いが気に障ったのだろうということは想像に難くなかったが、それ以上に激憤や無念といった感情が彼を大きく支配していたように思えた。それは、司馬が石川から離れようとしたことに対する、ある意味で正当な反応だった。
考えてみれば、恋人から自分以外の人間との将来を考慮するよう言われて、冷静でいられる方がおかしいのだ。
それでも、完全な健康体ではない石川がより長生きできる可能性と、女性を伴侶とすれば夢に現れたチビのような子供を得られるかもしれない―――彼の遺伝子が後世に残される未来を鑑みて、つい、あんなことを言ってしまった。だが、そんなこちらの想いを事細かに説明したところで、所詮、言い訳としか受け取られないだろう。
司馬は帰伏する態で応えた。
「二度と言わねー・・・から」
当然だッ、と小さく叫んだ石川が、上になっていた司馬の右肩へ手をかけ、軽く引いた。そうして司馬の身体を難なく自分の方へ向き直らせた男は腕を伸ばし、掌で目の前の顔を包み込こんだ。しっかりと視線を合わせた石川が真剣な面持ちで訴えた。
「きみ以外の人と一生を共にする気なんか、僕にある筈ない―――ってこと、いい加減、判れよ!!!」
司馬が、その目を見開いた。一瞬、驚愕の表情をみせた恋人に、石川の方が軽くショックを受けた。
(そんな、驚かせるようなこと、言ったかな?)
しかし、鳶色の瞳へすぐ安堵したような色が宿ったのを石川の意識はきちんと捉えた。外ではいつも他人行儀な態度をとっている相手の表情を読むのは、二年近い付き合いのお陰で大分、上達してきている。自分と対峙している時に一瞬だけ緩められる気持ちの変化を正確に察知できなければ、この男の真意は到底、掴めないからだ。
こちらを避けるように伏せた目にはきっと、ばつの悪さに不貞腐れた色も少し混ざっているのだろう。
表情を見られまいとして俯いた顔を無理には覗き込もうとせず、その頬へ指をゆるく這わせていた石川の耳へ、
「・・・悪かった、よ」
気不味げな声が聞こえたかと思うと、司馬がそっと顔を近づけ、口付けた。
すぐに離れたその唇は再び触れてきて、優しく確認するようなキスを繰り返した。たまらなくなった石川が、また触れてきた唇を捉えて強引に舌を差し入れると、反応はすぐに返ってくる。互いを絡め合うかのような舌の動きは、それぞれの裡にある本当の熱を直截に伝えた。結局、相手を手離すことなど考えられないし、そもそも、そんなことが出来る訳ないのだ。
一頻り続けられた激しい口付けは、二人の間へ確かな約束をもたらす。
「きみは、僕のものだ」
向かいで小さく瞬いた、二重の大きな目をしっかりと見据えて、石川は司馬へ、言い聞かせるように囁いた。
「僕もきみのもの、なんだから―――勝手に手、離さないでよ」
真っ直ぐで真摯な瞳は、いつもと変わらぬ暖かさを湛えて、司馬を見つめている。きっと自分が石川を見る眼差しにも同じものが宿っているのだ。
「・・・そう、だな・・・」
静かな声で返した司馬に、漸く石川も満足気な笑顔を見せた。
腕を石川の背へ回した司馬が、向かい合っているその身体を引き寄せた。強く抱きしめられた石川の耳許へ、ほとんど聞き取れないほどの微かな声がささめいた。
  おまえが、俺でいいのなら―――
  おまえが俺を必要とするなら、俺は、いつまででも、おまえの傍にいてやる
思わず司馬の方を向こうとした石川の後頭部を、いつの間にか回されていた手が押さえた。動きを阻まれて、石川が困惑気味にその名を呼ぶ。
「江太郎・・・?」
「二度と、言わねーから」
すぐに返ってきた一言を「え?」と思う間もなく、司馬が顔を背けた。確かに、彼の性格からしたら口に出して誓ってくれることなど、今生では望めないかもしれない。
左手をその背に這わせ、自分の方からも司馬を掻き抱く。朱が差してきている耳朶へそっと口付けた後で、石川は小さく溜息を吐いた。
「まあ、いいよ―――ちゃんと、聞こえたから」
腕の中の司馬が身じろぎした。
「おい、起きンぞ」
無愛想に言い放たれた一言は、それでも充分、照れくさそうだった。
逃げ出そうとする身体を石川がしっかりと抱き込む。
「もう少し、いいだろ? このまま・・・あと五分」
少しして、諦めたような声が聞こえた。
「―――三分、な」
まだ薄暗い室内が、わだかまっていた互いの気持ちを宥め、元通りに均してゆく。
晩秋の朝、改めて確認した想いを噛みしめて目を合わせた二人は、心からの笑みを交わし合った。

(2023/1/13)


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自分に書けると思わなかったショタ話ですが、見合いネタとのコラボで、なんとか脱稿にまで漕ぎつけました(ぜぇぜぇぜぇ…)
最初に降ってきていた科白部分は、"起きたら隣にいたチビ玄と司馬とのやり取り"および"泣きそうなチビ玄と司馬とのやり取り"です。他に、漠然とした食事シーンのイメージはあったのですが、それ以外は白紙状態でした。書き始めたら、主にチビ玄が動き回って、話を作っていってくれた感じです(笑)
今でこそ、結婚をしない自由もそこそこ認められる『多様性』の時代になりましたが、
1993年当時はまだ"結婚するのが当たり前"な風潮が主流だったように思います。この話は、二人がデキてから約二年後の出来事で、司馬も石川も29歳になっているんですね。年齢的には周囲も世話を焼いたりするんじゃないかな……ということで、中川先生や天野副院長にも参加してもらいました(大笑〜)
Cell』誌は『Nature』『Science』と並ぶ世界三大学術誌のうちの一つです。定期購読誌を『The Lancet』等の医学専門誌にしてしまうと分野が限定されるので、ライフサイエンス系の学術誌を取っていることにしました。本当は隔週発行ですが、描写が面倒(←オイコラ)で月刊誌扱いにしています。
尚、チビ玄と司馬のパートに於いて、そもそも、この組合せが生まれるキッカケを作ってくださった井上★律子へ深く感謝いたします!!! また、見合い話パートは、彩輝月光様篠原祐理様
Katsumiから多くのアイディアをいただきました。更に、司馬や石川の私生活について、梨子様美沙子様シハヤ様なつき様柳原紫苑様から寄せられた様々な考察を参考にさせていただきました。どうも、ありがとうございましたっ!!!