百年の孤独 7
所轄の二人が並んで非常階段を降りていく様子を瞬きもせずに見送っていた室井は、突然姿を現した一倉に引っ張られ、無理矢理昼食を摂らされた後、この湾岸暑の屋上へと付き合わされた。
四方八方、空き地だらけの管内は、高いところから見るとより無秩序な拡がりを目前に見せ、一種の脱力感を誘う感じさえする。一応、湾内とはいえ海域が近く、周囲に高層建築物も無いことから遮るものが殆ど存在しないこの屋上には結構な風か吹きつけて、饐えた磯の香りと湿った大気をこの場に置き去りにして行くのが常であり、殊更呑気な空気に包まれがちだった。
「吸うか?」
目の前に差し出された煙草と一倉とを交互に見比べながら、室井は眉間に皺を刻んだまま首を傾げた。
「いや、いい・・・お前、吸っていたのか?」
「ああ、たまにな。屋上に来ると、吸いたくなる―――癖になったかな・・・」
ゆっくりとふかしながらレインボーブリッジの方へ顔を向けた一倉は、沢山のビルに阻まれて見える筈のない警察病院がある方角を見遣り、その屋上にも確かに存在する長閑さを思い出していた。
室井が何のことか解らないというように、訝しげな表情を見せる。丸々一本を灰にする時間だけ無言でいた一倉は二本目に火を点けると静かな声で話しだした。
「躾がなってないな」
「?」
大きな瞳がこちらに向き直り、眇められた。
「ああ、青島のことじゃない。あの女刑事の方だ」
室井はきつく唇を噛んだ。
今回のことは、突発的な事故のようなものだった。すみれの怒りは尤もだと思うものの、事前に何か手を打っておけば避けられたかというと、やはりそれは無理な相談だっただろう。
一倉が紫煙を燻らしながら、黙ったままの室井に追い討ちをかけた。
「まあ、心境は判るがな・・・オマエの役目はオレ達がこの管内で楽に動けるよう、支店サイドと渡りをつけることだ。つまり、ここの連中を黙らせておくことだってのは、忘れないでいてくれ・・・」
室井は無言のまま、浅く息を吐いた。
一倉の言う通りだった。
今回、自分は単なる調整役としてここに来ているだけに過ぎぬ。外事課が追っている案件に対して、何某かの権限がある訳ではなし、ましてや所轄の捜査に対して手助けできる筈もない。
それでも、自分がよく馴染んでいる支店からの突き上げだっただけに、何とかしてやりたかったといという感情が室井の心を締め上げていた。尤もあの場へ青島がすみれを説得しに現われたことにより、彼を通して自分の立場が彼女にも少しは理解されるだろうという兆しを感じて、少しく救われたような気持ちになりはしたのだが。
室井は、そんな自分が情けなかった。
自分を信じて、ついてきてくれる者がいる。
自分をあてにして、だからこそ腹を立て、感情をぶつけてくる者もいる。
だが、今もしくはこれからの己が職務に於いて、彼らの為にどれほどの力を発揮できるのかと考える度、一つ、また一つと自信の欠片が足許から転がり出ていくような虚しさに苛まれてゆく。
警察官僚といえども、現在の室井は所詮中間管理職であり、巨大な組織の中で日々すり減らされていく螺旋の一つに過ぎない。様々な部署が力関係に基づいて内部取引を行い、それぞれの職務を遂行する為少しでも優位に立とうとする実情は、一般企業のそれと大差は無いのである。時に、利害や思惑が複雑に縺れ合い、ささいなトラブルが縦割り社会の亀裂をさらに深めていくのは、何も今日に始まったことではない。
果たして将来、自分が頂点に立てたとして、その時、一体どれくらいの改革ができるのだろうと考えると、全身が震え出しそうになる。
警察組織の中を一歩づつ上に昇るたびに、また一つ、自分の知らなかった組織の病巣が抉られ目前に曝け出される。見なかったことにするわけにはいかぬ、宿題ばかりが増えていく。自分達官僚を下で支える名も無い多くの警官達が日夜突き当たっている、ある意味でささやかな問題点ですら、今の自分には何とかしてやることが出来ぬというのに―――こんな、己の無力さを思い知らされる毎日を繰り返してばかりで、青島との約束が守れるのかと不安になる。
だが、諦めるわけにはいかないのだ。
自分を頼りにしてくれている多くの仲間の為に。
ひたむきに待ちつづけている青島の為に、自分達が信じた正しい事をする為に―――共に夢見た『理想』を手に入れられるようにする為に。
何よりも、まず、力をつけなくては―――権力や欲望や名誉といったものが様々に絡み合った複雑怪奇な水槽の中を無事に泳ぎ切る為には、些細なことで足許を掬われたりされぬよう、それ相応の力を貯えなくてはならない。信念を貫き通す以前に、組織の中で潰されてしまったのでは、過去、理不尽な命令をこれも職務と割り切って遂行してきた意味が無いのだから。
そして、少しでも早く、一歩でも多く、上に行かねばならぬ。
本当の意味での改革を実現させるには、己が提案する『正しい事』に人が従わざるを得なくなるような地位を築いてからでないと為されないのが実状であり、それは何も警察に限ったことではなく、すべての『組織』に通ずる真理なのだ。
だからこそ自分は上を目指し、現場で頑張り続ける青島と、誓いにも似た固い約束を交したのである。
市民の日常に一番近い存在である所轄の警察官が、組織内の建前や牽制に煩わされることなく、正しいと思った捜査をすることが叶えられるように―――そう、今は孤軍奮闘している青島のような刑事達が、正しいと信じたことを出来るようにする為に・・・
「なあ、午後、ちょっと抜けるが、構わんか?」
ずっと押し黙ったままの室井を見守っていた一倉が、ふいに口を開いた。互いに、同期の中ではおそらく一番親しい相手と認めながらも、不必要な干渉はしないできた付き合いだった。どこか共鳴するものを持つこの男による急な外出許可申請に対して、まったくの私用かもしれないと思ったりもしたが、今の室井には不思議と咎め立てしようという気は起こらなかった。
深い色合いの瞳が少し細められ、諦めたように一倉に笑いかける。
「駄目だ、と言ったところで、行くんだろう?」
「―――済まんな」
一倉としては、このまま午後、少しは落ち込んでいるであろう室井と顔を突き合わせつつ、また、フロアを移動する度に突き刺さる所轄の冷たい視線を受けながら、鬱鬱と仕事をする気にはなれなかった。かと言って、あからさまにフケられるほど、その責務を放棄している訳でもないのだが。
すみれが悪いわけでも室井が悪いわけでもない、ただただ運に見放された日常のひとこまを見たからといって、今更心を痛めるような純情さは自分の中の何処を探したところで、見つかりはしないだろう。普段の一倉なら一蹴する筈の出来事が今こうして心に重く圧し掛かってくるのは、湾岸暑に捜査拠点を移して以来、優に二ヶ月が経過しているにもかかわらずめぼしい収穫が何一つ得られないでいるからだった。
何事も長期戦になればなるほど集中力や忍耐力が低下し、些細なことにも煩わされがちになる。過去にも何度か苦戦を強いられてきたが、公安第一課を出し抜いているという後ろめたさと、業務遂行の為の最善策だったとはいえ、ほぼ終日行動を共にすることによって気持ちが微妙に掻き乱される存在とその恋人(?)が勤務する管内で、常に二人の動向を意識しつつ、実りの少ない調査に携わっていることからくる疲弊感は、今までに無いものとして充分過ぎるほど一倉を追い詰めていたのだった。
やっぱり、あいつの処へ行ってこよう―――
なぜか無性に、会いたくなった。
顔を見せたところで自分を慰めたり力づけたりしてくれるわけでもない、無愛想な男の存在が、一倉には必要だった。特に何をするわけでもなく、隣にいるだけの司馬と過ごす時間がとても懐かしかった。
もしも司馬が、明るく愛想のよい、そう―――例えば青島のような性格だったなら(といっても外見は非常によく似ているのだが)、自分はわざわざ何度も面会に行ったりはしなかっただろうと思う。人懐っこく寄ってこられて、心配げに「大丈夫っすか?」などと言われでもしたら、それこそたまったものではない。
どんなに参っていても、疲れていても、弱音を吐きたいなどと思ったことは無かった。ましてや愚痴を零す相手など、欲しくなかった。尤も手掛けている仕事の内容からして、チーム以外には他言無用なのだから、他人に言える泣き言自体がまず存在しないのであるが。
だからこそ、司馬のようなそっけない人間と過ごす時間は一倉にとって非常に貴重なのかもしれなかった。
役職上、機嫌を窺われたりおだてられたりすることが常であり、己に対する媚へつらいは常に居心地の悪さと不快感を伴うばかりである。そしてまた、より上の人間に対して同様の手筈を自分にも要求される現実が、尚一層の煩わしさを一倉に感じさせていた。
歴然とした階級差に支えられるところの大きい警察機構の中ではいたしかたないことなのだと頭では解っているものの、部下達をも含む人同士のやり取りがうわべだけを滑っていき、各々違う筈の人間性を画一化されたカタチへと整形させ、不透明で鈍く厚ぼったい色をその中にぴっちりと塗り込めていく様は見ていて楽しいものではない。国家公務員採用として組織内の階段を昇り始めた時からある程度予見していたことだが、最初の頃は口に含んだ水の僅かな濁りにも敏感に反応した誠実さが年月を経るにつれて徐々に擦り減っていっているような気がするのは、やはり慣れや諦めからくるものなのだろう。
社会人となり、一歩を踏み出したその時に心の中で掲げたささやかな目標の幾つかには、ものの見事に砕け散ったものもある反面、形は維持されていてもいつの間にか埃塗れなって地べたへ転がされたままになっているものもある。無限の可能性に想いを馳せて、己の限界と世の中に轟然と横たわる理に阻まれることなど思いもよらず、自分の周りにいる人間の裏側を覗くことなど問題外だったあの頃は、遼かに遠い日々となってしまっていた。
だが、人生はまだまだ長く、これからもそうした日常を繰り返し、大切なものを少しづつ失っていくことに変わりはないだろう。そして、斯様な無味乾燥さをひしひしと感じているからこそ、今現在自分を取り巻いている世界とは無縁の人間と関わりたくて、それ故に司馬を必要としているのかもしれぬ。
湾岸署での諜報活動を開始してからひと月ほど経ったあたりで、多数の外科医に関する情報収集は一応終了し、司馬についての調査も、既に打ち切られていた。
その結果、自分達が血眼になって追っている参考人・黒田清と天真楼病院外科との接触は皆無であったことが徐々に裏付けされ、あの病院に勤務している現役の外科医達はもちろん、現在どこで何をしているのかはっきりしない平賀も今だ入院中の司馬も白であることは、ほぼ完全に証明されたのである。それでも一倉は司馬に拘り、その身辺を調べ続けたのだが―――
「塵も積もれば山となる」という諺の通り、職権を乱用してまで手に入れた膨大な資料はなかなか埋まらなかった空白をじりじりと駆逐してゆき、ある一つの可能性を一倉に提示し始めていた。おそらくそれは、以前一倉が話を聞きに行った女性、大槻沢子の考える憶測と寸分違わぬものであろう。恩師と元・恋人が必死で隠し通そうとしている秘密を暴露できるほど、彼女にとって、司馬も中川も過去の人間ではないに違いなく、だからこそ自分にその考察を決して明かそうとしなかったことが、今や立派な証拠と考えられるほどだった。
だが、秘められた過去が朧に炙り出されてきたからといって、それ故に司馬の生き様や行動について考えたりすることを一倉はしなかった。
一倉にとって、それはどうでもいいことだった。
司馬の過去に興味が無いと言えば嘘になる。しかし、病院の屋上で無駄な時間を費やす相手としての司馬の存在だけでいいような気がしはじめていた。
なんでかな・・・あいつは妙に人を惹き付ける・・・
幾度足を運べど気を許したような素振りは一切見せようとしないあの男を何故気に留めるのかと、自分自身に問いかけたことも、初めの頃は確かにあった。然るにそれはあくまでも表面的な態度なだけで、司馬が己の来訪を徐々に受け入れつつあることは、一倉とて本能的に感づいていたのだが。
決して人に懐かぬ野の獣のようなあの男の風情は、そのアウトロー性故に一般的な支持は望めなくとも、ある種の人々を強烈に吸引する筈である。そして気がついた時には、その存在自体に魅了され、目を逸らすことなど叶わなくなってしまうのかもしれない。
気になるモンは、しかたがない、か―――
何かが身体の奥底で弾け、一倉を駆り立てた。まるで、これから起こる大きな事件があたかも津波のように荒れ狂い、まわりの人間をも含めて全てを先の見えない混沌の中へと呑み込んでいくのを予見するかのようであったが、今の一倉がそのような運命の行く末を知る由は無かった。「・・・アンタ、こんなにしょっちゅう見舞いに来てて、仕事、いいのか?」
警察病院の屋上で恒例となった一服を燻らした後、今日は珍しく何も言い出さない男の大柄な背中を前にして、司馬は手摺りへ凭れ掛かったまま表情少なに呆れていた。
その言葉を受けて漸く我にかえったらしい一倉が、振り返って司馬をジッと見つめた。
「ん? スマン、何か、言ったか?」
上空では重苦しく折り重なった雲がのろのろとしたスピードで流れていき、二人の上に影を落としていた。予報では、この後ひと雨くるようなことを言っていたか。吹きつける湿気はどうにも生温く、夕立が訪れようとする気配をあたりに呼び寄せつつあった。
「いや、忙しいんじゃ―――」
司馬は紡ぎかけた言葉を思わず呑み込んだ。その時、一倉の顔に宿った表情が、まるで虚をつかれたように不可思議なものだったからである。それはここ数週間、自分を訪ねてきては常に悠然と構えている男が今までに見せたことのないものだった。
一倉のその様子は相対する者に充分過ぎる程の戸惑いと混乱を与えるだけの影響力を持ち合わせているのだが、にも拘わらず決して不快な感情が誘発されないのを司馬は当然のこととして受け止めていた。それどころか、いつも何を考えているのか解らないような一種底知れぬ雰囲気を醸し出し、それでいて相手に敵意を感じさせぬ物腰を心がけている筈のこのエリートが、やけに身近な人物として感じられた。
(へぇ・・・こんなカオ、することもあるんだ・・・?)
世の中に数多あるやっかいな雑事に対峙してもそれらに足許を掬われるようなヘマをしでかすこととは無縁でいられる、ある種の幸運もとい勝負強さを持ちえているような男だと思っていたのだが、その完璧な姿にも僅かに弱点があることをはっきりと認識できたような気がするのは、単調な入院生活がもたらした気まぐれなものの見方なのかもしれない。健康体で日夜激務に追われていたあの頃に比べたら、今の自分に許されていることは何か本を読むか考え事をするか、たった一人の見舞い客と無駄な会話を続けるか―――というところである。その、数少ない行動類型のうち、一倉と共に過ごす時間だけが司馬の生活には色鮮やかなものとして添えられていた。
警察官でありながら自分のことを嗅ぎまわったりせず―――尤も司馬がそう信じているだけなのだが―――雑談する為だけに己の許を訪れている一倉が一体どのような職務に従事しているのか、どれほどの部下を統括しているのか、司馬も興味が無い訳ではなかった。だがプライヴェートに直接纏わる事柄を訊ねたりしたら、引き換えにこちら側の事情をも告白しなければならないような気がして、自分からは問えないだけなのである。そんな司馬の気持ちを知ってか知らずにか、一倉は常に雑多な世間話を目前へ山のように積み上げていくだけだった。
なぜそんなどうでもいいことばかり訊くのか、と疑問を投げかけたこともあったが、
「まあ、いいじゃないか。お前だったらどう考えるかな―――と思っただけだ。気に障ったか? なら、謝るが・・・」
と、やんわり矛先をかわされてしまうのが常となっていた。
鬱陶しい程の大気がどんよりと垂れ込め、薄墨を溢したような雲海はかなり低い位置まで降りてきていた。
その時、柔らかみを帯びた眼差しが自分に向けられているのを感じて、司馬は身動きがとれなくなるような錯覚に襲われた。
「そういえば、そろそろだろ?」
「・・・?」
何のことか判らないというように首を傾げた仕種がやけに幼く見えて、一倉は心の中だけで小さく笑った。
「退院―――ここを出たら、どうするんだ?」
穏やかに慈しむような声が司馬の耳から体内へじわじわと沁み込んでゆき、その意識を絡めとっていく。
「次の勤め先とか―――もう決まってるのか?」
一倉が自分に向けてはっきりと立ち入るような話題を持ち出したのは実にこれが初めてだったこともあり、司馬はすっかり面食らってしまっていた。
「いや・・・まだ、何も―――」
「そうか・・・」
それでも自分が率先して話を続けなければ、更なる追及をしてこないのが、一倉との間に交わされる会話の数々のうちで一番有難いことだった。当たり前の正義感を盾にして人の心の中へずかずかと土足で上がり込もうとした今は亡き男とは対照的ですらある。とはいえ、自分はその男のことを決して嫌いだった訳ではなかったのだが。
むやみやたらと相手のテリトリーを犯すような真似を決してしない、大人の付合いともいえる接し方は、司馬にとっても非常に気が休まるものだった。その実、社交辞令のような空々しさを感じることはまず無く、寧ろ回を重ねる毎に一種の親しさが増していくのがはっきりと感じられて、それが擽ったくも快いものであることが、尚更ありがたみを感じさせてくれている。
しかし、今日は何かが違っていた。
「なあ、江太郎―――」
突然、名前で呼ばれたことに吃驚した司馬は思わず顔を上げ、一倉の方を振り返った。今まで一倉が自分を呼ぶのにはっきりとした呼称を用いたことはなく、大体『おい』とか『なあ』という呼びかけで注意喚起させられるか、『お前』という二人称で話しかけられるのが常だった。
考えてみれば、初めて病室で顔を合わせた時から、苗字で呼ばれることは皆無だったのだ。確かに一倉から『司馬さん』と声をかけられるなど想像外ではあったが、直接名前を呼ばれるというのも充分に予想しえぬことだった。
そんな司馬の戸惑いなどどこ吹く風といった一倉の様子は、まるでこの屋上の景色に溶け込んでいるかのように自然だった。しかし、次に発せられた科白は、そのゆったりとした雰囲気に相反して、厳しい響きを伴っていた。
「これからも、医者は続けていくんだろう?」
何か眩しいものを見るように眇められた瞳は奇妙な鋭さを伴っていた。自分に対して当たり障りのない話題だけを提供し続けている一倉が初めて発した、誤魔化すことも逃げることも許さぬ質問は司馬の内部を容赦なく抉った。
アンタには、関係ないだろ―――という、一倉の興味を煩がる気持ちは確かに存在するにも拘わらず、それを口の端へ乗せようとしない自分の心中が奇妙に感じられた。出会ってから三ヶ月程度の、まだ浅いとも言える付き合いでしかない相手―――それも刺された自分を助けてくれたという命の恩人に対して、そんな失礼な口を利くものではない、などという常識的な考え方から生じた感覚でないことだけは、やけにはっきりしていたのだが。
「・・・」
咄嗟に返せる言葉が思い浮かばなくて、司馬は唇を強く引き結んだ。一倉はそんな司馬の様子を一瞥しただけで、正面に向き直ると新たな煙草に火を点けた
それきり途絶えた会話の残り香が放つもの言わぬ圧迫感を追い払うことができず、遂に手を伸ばしたのは、司馬の方だった。
「退院して、どうするか・・・本当に、何も決めて、ない・・・」
医者として働き続けるかどうかということですら、今の自分には定かでない―――と、さすがに其処までは口に出さなかったものの、最後の方は消え入りそうな声になってしまったことを咎められそうな気がしたのだが、予想に反して一倉は
「そう、か・・・」
と呟いただけだった。
手摺りに両腕をかけ、咥え煙草のまま暫く無言でいた男は、右手で吸いさしを持ちかえると眼下に拡がる景色へ視線を投げ出したまま、ゆるりと紫煙を吐いた。
「勤め先が決まっているなら、聞いておこうと思ったんだが―――」
そう言われて初めて、自分がここを退院したら今まで何とはなしに繋がっていた一倉との関係が簡単に切れてしまうことを司馬は自覚した。元々、警察官と助けられた怪我人というだけの間柄である。一倉が何故自分を訪ねてくるのか、今一つ理由がはっきりしないものの、最初の頃こそ迷惑千万に考えていた男の来訪は単調な入院生活の充分な刺激剤となり、密かに心待ちするまでとなっていた。今まで接してきた多くの年長者達の誰とも似つかぬ男が自分に与えてくれる不思議に寛げる時間を失うのが、司馬には勿体無く思えてきた。
「職場が決まったら、アンタに連絡、するよ――― 一応・・・」
退院してからも顔を合わせる可能性をゼロにしたくなくて、気がついた時には、ひとりでに科白が零れ出ていた。
「そうだな・・・」
一倉は曖昧な笑顔を司馬に向けると、背広の内ポケットから手帳を取り出した。無造作に開いたページにサラサラと万年筆を滑らせ、あっという間にその箇所を破り取り、司馬の目の前に差し出した。
「・・・オレの携帯番号だ。仕事用だから、留守電になってる時もあるが―――まあ、遠慮しないで、かけてこい」
「ああ―――ちゃんと、知らせるから、さ・・・」
だが、自分を見つめる穏やかな瞳の奥に色濃く滲み出ている疲労の影を司馬の鋭い眼差しは見逃さなかった。
―――何か辛労するようなことでもあったんだろうか・・・仕事上で? それとも・・・?
相手が自ら語らない限り、こちらから根掘り葉掘り訊くつもりは無いのだが、司馬は改めて一倉正和という一個人に気持ちを傾け始めている自分自身をどこか遠くの天界から覗いているような気分で眺めていた。To Be Continued・・・・・
(1999/9/18)
へ戻る
−第7話に対する言い訳−
今回も、見事に話が進んでいません。なんでだ(涙)
なんだか、一倉の心境も司馬のそれも堂々巡りしているような感じで、もやもやしています。まあ、ここを通過しないとお互いをもっとはっきり意識する次の段階へ進まないので、しょうがないかなーという気もするんですが←チョット、言い訳っぽい……
自分の考えた設定だと、一倉と司馬はこの時35歳と27歳で、8年差ということになっているのですが、学生時代はともかく、社会人になってからの8年というのは相手次第で、それほど気にならないのでは……と私は思っています。とはいえ、階級差のハッキリしている警察内部の8年は大きいでしょうけれど、この二人の場合、異業種ですからね。出会い方も特殊でしたし。
それにしても、6話脱稿からひどく間が開いてしまいました。待っていただいていた皆様、本当に申し訳ありません!!! 何しろ、自分でも話全体を思い出す為に1話から読み直したくらいです(汗)←コラコラ (^^;
一応、この後の展開はちゃんと出来ているので、後はキャラが暴走しないことを祈るばかりだわ(苦笑)
次回に、乞うご期待(でも、この後も何が飛び出すか判らない……)