ぼくのミステリな日常  前編




萩原慎吾はベッドの上に上体を起こすと、大きなあくびを一つした。
冬場の南中高度が投げて寄越す陽射しは夏場のそれよりも角度が緩やかで、殊の外大きな日溜りをこうして病室の床へ作っている。軽く体をよじり、サイドテーブルに置かれたカレンダー表示付きの時計で現在時刻を確認しても、まだ午後2時だった。
緊急手術を伴った入院生活は既に十日を数えており、見舞客もあらかた訪れてしまっていた。夕食を摂らされる時刻まで、さてどうしたものかと思い、萩原は僅かに眉根を寄せた。
ここ新宿の天真楼病院は、都会によくあるタイプの総合医療施設である。救急指定病院となっている為、一日に多くの怪我人や病人が急患として担ぎ込まれるのだが、萩原もそんなクランケの一人だった。
27歳、独身。小さな番組制作会社勤務で、仕事はAD―――というと聞こえはいいが、要は使い走りである。大手テレビ局から回ってくる仕事は、スケジュールも予算もギリギリのものばかりで、そこに山のような雑用が含まれるのは毎度のことであり、この業界に於いて半ば常識となっている。
萩原が入院する羽目になった直接の原因は怪我であった。スタジオでの撮影中に出演者間で軽い諍いが起こり、突き飛ばされた女性が立てかけてあった大道具の嵌め込みガラスへぶつかりそうになったのを咄嗟に庇ったのだ。利き手でガラスを突き破ったかたちになり、慌てて腕を引いたのが災いして、萩原は自分の手首をザックリ切ることになってしまったのである。
即座に救急車が手配され、病院へ担ぎ込まれるなり、すぐさまオペとなった。震える左手で同意書にサインし、局部麻酔で手術台に上がった。痛みを感じない筈なのに、体内の何処かが悲鳴を上げ始める。だんだん意識が朦朧としてきて、いつの間にか萩原は眠ってしまったようだった。そして、切断された手首の血管及び各指の神経全てを繋ぐ手術は6時間の長きに渡ったが、無事成功した。
術後の注意事項を告げるために残っていた看護婦も病室から消え、真夜中の静けさがひしひしと迫ってくる。麻酔が切れた際に服用する痛み止めを枕元に確認して、萩原は一時の眠りに身を委ねた。
翌朝、執刀医―――つまり、後に担当医となる男を紹介された。笑顔が爽やかな青年医師は「石川です」と名乗り、更に、萩原と同い年であることを明かした。そうして、自分と同年の外科医に助けてもらったことを知った患者は、誠実そうな彼の姿に少なからぬ親しみを覚えた。
起き上がれるようになって真っ先にしたのは、北海道の両親に入院している旨を伝えることだった。一人息子の身上へ突如降りかかってきた災難を知らされるなり、電話の向こうで「だから、言わんこっちゃない」と怒鳴り出した父親や涙声の母親を宥め透かすのに、かなりの100円玉を費やしてしまった。怪我による入院だからいずれ治るので、見舞いに来る必要はないと念押しもした。飛行機にしてもJRにしても、札幌−東京間の運賃出費は決してバカにできない金額なのである。
術後三日目のこと、萩原の右腕に肘下から手首までを固定するギプスが装着された。石膏でぐるぐる巻きにされ、十日から十五日はこのまま様子を見るという。石川は「一週間もしたら、退院できますよ」と言ってくれたが、萩原はギプスを外してから更に二週間が予定されている右手首のリハビリ終了まで、入院し続けることにした。
理由は単純で、有休が掃いて捨てるほど余っていたのと、利き手が使えない状態での一人暮しに不安を感じたからだった。そして、代わる代わる見舞いに訪れた職場の同僚達も口を揃え、「暫く、病院にいた方がいい」と賛成してくれた。あの日、出演者の間で起きたトラブルはどうやら色恋絡みだったようで、スタジオ内での出来事を嗅ぎ回っている芸能記者がいるという。スタッフの一人が怪我したことなど聞きつけようものなら、スクープを狙うハイエナどもが間違いなく群がってくるだろう。萩原がこのまま入院していれば、そういう輩の訪問をかなり避けられる筈だった。
そして、萩原が庇った女性はなんと番組の主演女優だった。お陰で撮影スケジュールに穴を空けなくて済み、それは吹けば飛ぶような制作会社の今後を馘の皮一枚で繋いだ。
「あの時、怪我でもさせていたら、次から仕事が回ってこなかったかもしれんな」
病院に顔を出した社長はホッとしたようにそう言うと、勤務中の事故であるから労災の認定が下りるかどうかを検討すると告げて、帰って行った。
社会人45年目で多忙な日々を送っている友人達の大半が慌しく面会を切り上げていき、毎日見舞いにきてくれるような彼女もいない萩原は、そういう訳で暇をもて余しているのだった。

担当医の石川とは、不思議に馬が合った。
尤も医者からすれば、萩原は『患者』という名の大事な商品である。優しく接してくるのは当然のことかもしれなかったが、同い年ということもあり、回診のたびに交す雑談の量が増えていった。
誰にでも分け隔てなく、気さくに声をかける石川は、外科病棟で一番人気のあるドクターだ。患者だけではなく看護婦や他科の医師からの受けもいいらしい。そんな医者が自分を担当してくれていると知って、萩原はなんだか嬉しかった。
そして、石川が単に評判の良い医者ではなく、実際に優秀な外科医であったことは、萩原にとって実に幸いだった。
「何しろ手首のかなり深いところまで切れてましてね―――ほら、ピンと張り詰めた糸を真ん中でプチンと切ると、切れ端が両端に縮むでしょう。その縮こまった神経をこう、引っ張って、一本一本、繋げなければならなかったんですねぇ。果たして、普通の外科医では対処できたかどうか・・・でも、手先の器用な石川先生でしたから―――天真楼一の優秀なドクターがあなたを手術したんですよ、萩原さん」
外科部長の中川淳一からもこう言われて、つくづくこの病院に担ぎ込まれた幸運を噛み締めずにはいられなかった。
日が過ぎていくにつれて、看護婦達とも仲良くなった。元々病院というところは若い患者が少ないせいもあり、同年代であるということが若いナースの輪に萩原を容易く馴染ませた。
どのような世界であれ、女性が複数集まるところに必ず生じるのが人の噂というやつである。天真楼病院ももちろん例外ではなく、ナース達の多くは専ら病院内の人間関係―――平たく言ってしまえば恋愛模様に、殊更の関心を寄せているようだった。当然、肴になるのは独身のドクター連中だ。
萩原の場合、不自由なのは右手だけなので、ギプス装着の翌日から院内を自由に歩き回ることが許された。そうして、ナースステーションでお茶を飲みながら、頭上を飛び交う話題へ黙って耳を傾け、後でそれらを繋ぎ合わせることが退屈な入院生活での日課のようなものとなっていった。

天真楼病院内で、誰と誰が好き合っていようが、誰が誰に片想いだろうが、自分には関係ないことである。だが、己の担当医、石川に関する噂を耳にすると、やはり多少は気になった。

全体的に若いスタッフが多い天真楼病院の場合、女医についても例外ではなかった。
まだ研修医とはいえ、れっきとした医師免許を持つ外科の峰春美や、麻酔科の大槻沢子は、男ばかりのドクター畑に咲く可憐な花の如き存在である。楚々とした峰と快活でハキハキしている大槻とは、好対照なだけに瑣末な部分を比較する必要もなく、違う種類の美人として位置づけし易いのだろう。どちらが好みかということはさて置いて、彼女達を"美人女医"と呼ぶことに誰も異存などなく、男性患者の人気を大きく二分していた。
看護婦達は、峰と大槻のどちらが石川のタイプだろうかという、「だから、何なんだ」と言いたくなるようなことをよく話題にしている。仕事熱心なアメリカ帰りのドクターがどういう女性を選ぶのかということに興味を持つのは、ここのところ慶事と無縁の病院内に於ける些細なレクリエーションなのかもしれない。
だが、いくら異性に対して漠とした『好み』が存在するとはいえ、恋人になった相手が時として理想のタイプと異なることもあるのだから、そんな議論などするだけ無駄だと思う。しかし、賢明な萩原はそれをお喋り好きなかわせみ達へ諭したりしなかった。
尤も、峰の場合、石川に想いを寄せているのは間違いなさそうである。今年の初め、この病院に配属されたばかりだという彼女は屡々石川の回診について来て、萩原の病室にも何度か可愛らしい顔を見せていた。控え目で大人しそうな雰囲気は多くの男性の保護欲を掻き立てるに違いないだろうが、当の石川は彼女を単なる後輩以上に扱ってはいないようだった。
大槻に関しては石川と一緒にいるところを萩原自身が目にしていないこともあり、判断を下しかねていた。けれどもナース連中の情報網によると、時折、石川の方から彼女へ何らかの相談事を持ちかけているらしい。
萩原が石川を取り巻く人間関係にはっきり興味を覚えたのは、右腕のギプスが取れる三日前のことだった。あの時、石川と交わした科白の一言一句までが、今だ鮮明に甦ってくる。
幾分塞ぎ込んだ面持ちで自分の脈を取っていた石川へ、「何か、心配ごとでもあるんスか?」と声をかけたのが発端となり、こちらの促すまま、担当医はとある人物について語り始めた。ポツポツと紡がれる言葉の裏側に、相手を大切に思い愛おしんでいる密かな心情が感じられて、萩原の好奇心をいたく刺激したのである。
ひょっとして、先生―――その人のこと、好きなんじゃ、ないんスか?
そう感じた途端、萩原はダメもとで訊いてみることにした。
「それにしても気になるなあ、先生をそんな顔にさせちゃう人・・・ね、名前くらい教えてくださいよ」
話の流れからすると、相手は同業者―――ドクターもしくは看護婦である可能性が高かった。しかし、石川自身『初対面の時から、結構、対立していた』と回想しているのだ。現在の状況で見る限り、該当者は天真楼病院にいなさそうである。だとすれば、過去、ここに勤務していて余所へ移ったに違いない。
「どーせ、俺の知らない人でしょ?」
萩原の予感は、正しかった。石川が至極あっさりと相手の名前を白状したことからして、その人物はやはり今、この病院にいないということに他ならなかった。
「・・・司馬っていう、奴なんですけどね・・・」
はにかむような淡い微笑が石川の顔に拡がったのを萩原の目はしっかりと確認した。
(一体、どんな女性が、この先生を虜にしたんだろーか・・・?)
世間一般の常識で考えた場合、想い人というのは、まず異性である。だから、萩原が『しば』を女性だと思い込んだことは、当然の帰結であり、誰も責める訳にいかないのだが。
とりあえず、『しば』さんとやらの情報を集めてみるかな―――ま、暇潰しにもなるしね?
かくして、『しば』の人為(ひととなり)は丁度良いミステリとなり、動かせないのがよりにもよって利き手だという不幸に見舞われている患者とって、最大の関心事へと昇格したのだった。

「加世ちゃん、加世ちゃん・・・―――ちょっと、いい?」
看護婦の中井加世が珍しくナースステーションに一人でいることを確認した萩原は、そっと呼びかけると室内へ滑りこんだ。
「あら、萩原さん―――どうかしたんですか?」
席に座って一心にペンを走らせていた彼女は、萩原の姿を見るなり手許の書類を素早く裏返しにして微笑みかけてくる。
ちびくろさんぼ―――さほど色黒という訳でもないのだが―――のような雰囲気が愛くるしい彼女はまだ22歳で、俗に言う新人看護婦だ。入院患者という弱い立場故か、ベテラン看護婦の伊東みつ子や田村のえを前にすると、萩原はつい萎縮してしまう。似たような年齢であるにも拘わらず、自分がひどく子供であるかのように錯覚させられるのだ。それが嫌で、萩原は聞きにくいことや瑣末な事柄を尋ねる時、この、一番若い彼女へこっそり話しかけることにしている。
「うん、ちょっと聞きたいことがあってさ・・・『しば』さん、って人のことなんだけど―――」
「しばさん、って―――あの・・・ひょっとして、司馬先生のことですか・・・?」
(先生ってコトは、やっぱ医者だった訳だ―――)
『しば』という名前を聞いた途端、加世は神妙な顔つきになったが、萩原はとりあえず話を進めることにした。
「そう・・・その『しば』先生なんだけど―――前、ここにいた先生? どんな人か、チョット教えてくんないかな?」
素早く辺りを見回して誰もいないことを確認した加世は、それでも声を潜めてこう告げた。
「司馬先生は、3月の終わりに天真楼病院を辞めて別の病院に行かれました。外科の先生だったんです」
「外科・・・ってことは、石川先生と一緒に働いてたの?」
ひそひそ話をするように小声で訊き返してきた萩原を見つめ、加世はしっかりと頷いた。
「石川先生とは・・・その、『しば』先生、仲良くなかった―――とか・・・」
恐る恐るそう口にした途端、加世の顔が泣き崩れそうに歪んだ。唇を噛み、辛うじて涙をこらえているような表情を見られまいとして俯いたらしい彼女を萩原はただ呆然と見守った。
「司馬先生・・・私のせいで・・・私、司馬先生に悪かったと思ってるんです、本当です」
「ち、ちょっと、加世ちゃん・・・?!」
「司馬先生、冷たい、冷たいって言われてましたけど、本当はそんな先生じゃないんです! 私には優しかったし、患者さんにだって、ちゃんと接してました。なのに、私、先生にヒドイ事しちゃって・・・それで、司馬先生、ここを追い出されることになっちゃって―――」
急にそう言われて、萩原はおろおろするばかりだった。全く話が見えない上に、この場で加世に泣かれでもしたら―――そしてそれが他人の目に入ったら、一体どんなことになるのだろうかという恐怖が襲いかかってくる。
「あんなこと、言わなきゃ良かった―――私が石川先生に告げ口なんか、したから・・・司馬先生、石川先生から凄く責められて、それで―――」
「か、加世ちゃん、落ち着いて・・・」
半分涙声になっている加世をなんとか宥めようと、萩原は慌てていた。
よくは解らないが、石川と『しば』の間に何か大きなトラブルがあったらしい。加世がどの程度それに関係していたのかまでは推し測れないものの、少なくとも彼女は『しば』を悪く思っていないということが感じられて、なんとなくホッとする。
小柄な看護婦の肩へ手を添え、萩原は真面目に囁いた。
「大丈夫だよ、その―――詳しいことは俺にもわかんないけど、石川先生、『しば』先生のことを"友達"・・・って言ってたからさ」
「・・・それ、本当ですか?!」
その一言を聞いた途端、加世が急いで顔を上げた。目元にはうっすらと涙が光っている。
「うん、ホント―――本当に、そう言ってたよ。なんか、いろいろ反省してたみたいだけど・・・」
「反省・・・ですか?」
「んー・・・こっちにも責任がある、って言ってたから―――ね?」
「そうですか・・・良かったあ―――」
やっと表情を綻ばせた加世へ「うんうん」と頷いてみせる。他の看護婦が戻って来る前にナースステーションから逃げ出した萩原は、急いで自分の病室へ戻った。

「司馬先生―――ですか?」
次に萩原が話を聞いたのは、富川千代だった。24歳の彼女は加世と親しく、よく一緒に行動していて、萩原が二番目に声をかけやすい看護婦だ。休憩コーナーの角を横切ってナースステーションへ戻る寸前の彼女を強引に呼び止め、間仕切りも兼ねている観葉植物の陰で質問を試みた。
「うーん・・・一言でいうと、クールな先生っていう感じでしょうか」
眉根に皺を寄せながら、千代は慎重に言葉を選んで答えを返してきた。その、奥歯にものを詰めたような感触は、萩原にもしっかりと伝わって、かの人物の評判があまり芳しくないことを暗に匂わせている。
石川が『自分とは正反対だ』と言っていた通り、およそ愛想の良い人間ではないようである。尤も、女性で愛嬌が無かったら相当マイナスなのではと思うが、医者という職業の場合、時には威厳も必要であり、愛想が良過ぎるのもまたどうかということになるのかもしれない。
(しっかし、愛想悪くてブスだったら、たまんないよね?)
そう思った萩原は、興味の方向を少し捻じ曲げ、再度千代に問いかけた。
「その・・・外見は、どんなカンジ? 身長とか・・・」
「身長は何センチ、あるのかなぁ・・・結構、背高いですよ〜 石川先生と同じくらいかもしれないですね。痩せてて、シャープなカンジで、顔立ちは整ってると思います」
「って、ことは―――美人?」
一瞬、千代はきょとんとして首を傾げたが、納得したように頷いた。
「美人って言い方はしないと思いますけど―――カッコイイ先生ってことになるんじゃないですか? あ、内村さん!」
すぐ近くを通りかかろうとしていた、これまた外科担当の看護婦・内村恵美が、千代の呼びかけに振り向く。
「ね、内村さんも司馬先生のこと、カッコイイって言ってましたよね〜」
そう言われた途端、恵美の顔にパッと朱がさした。こちらの視線を避けようとして顎を強く引いているが、徐々に顔全体が赤らんできている。
「加世ちゃんも司馬先生ファンだけど、内村さんもそうでしょう?」
別にからかっているのではなく、ごく普通の世間話をしているつもりの千代は淡々と言葉を続けた。今や耳の付け根まで真っ赤になってしまった恵美は消え入るような声で、それでも、
「司馬先生は、優秀なドクターだと思います」
とだけ言うと、一礼してその場から足早に立ち去って行った。
(ふーん、ナースの中に固定ファンがいるのか・・・)
萩原は、目の前の千代に視線を戻すと、敢えて彼女自身の意見を尋ねてみた。
「で――― 千代ちゃんは、どーなの? 『しば』先生ってどんな先生だと思ってるわけ?」
「は? 私ですか? 私も、司馬先生は優秀でカッコイイ先生だと思いまーす」
多分に付和雷同的なものを感じたが、萩原はとりあえず満足した。よしんば気に食わない医者だったとしても、まさか患者にそう言う看護婦はいないだろうから、本当に思うところを聞き出すのはどのみち難しい。歯切れは良くなかったが歯の浮くような美辞麗句でない分、ある程度信じられる評価だろうと思うことにした。

「外科医としては超一流の先生でしたよ。オペの技術は、間違いなく天真楼病院一のドクターだったと思います」
慣れた手つきで包帯を巻き直しながら、伊東みつ子は萩原の質問に快く答えてくれた。
午後の病室は奇妙な静けさに包まれ、曇り空がお情け程度に零す弱々しい太陽光を無言で掻き集めようとしているかのようだ。この病室は三人部屋だが、先日一人退院してゆき、もう一人は放射線科での治療を受けに行ってしまっていて、今の時間は萩原ただ一人の空間となっていた。
通常、回診の際に替えてもらう手首の包帯を今こうしてやり直して貰っているのは、不注意からそれをベッドの金具に引っ掛けてしまい、大きな鉤裂きを作ってしまったからである。普段なら加世か千代が来てくれるのだが、二人とも緊急手術の手伝いへ駆り出されていたので、たまたま手隙のみつ子が病室へ出向いてきたのだった。
彼女の前だと、どうしても苦手意識が頭を擡げてくるものの、看護主任という立場と責任感から、みつ子がきちんと仕事をこなす優秀な女性であるのは萩原にもよく判っていた。器械出し(手術の際に執刀医へメス等を手渡すこと)を務める助手として、多くの外科医と共にオペ室へ入った経験を持つ彼女がそう言うのであれば、ドクターとしての『しば』の腕は確かなものに違いない。
(ってことは、ひょっとして、石川先生よりも上だった・・・?)
萩原はふと心に思い浮かんだ疑問を頭の中で捏ねくりまわし始めた。いくら石川がレディファーストを常とするアメリカで長いこと過ごしているとはいえ、男の立場からすれば、勉学や仕事に於いて恋する女性の能力が自分より優れているというのは、やはり面白いものではないだろう。男女平等の時代だと声高に謳い上げていても、それはまだ多くのカップルにとって建前に過ぎず、例えば妻の収入が夫のそれを上回ったりしようものなら、男としての沽券に拘わる問題に発展しかねないのが世の実情である。
萩原はおずおずと、みつ子に問いかけた。
「その、『しば』先生と石川先生、どっちが凄いっすかね・・・?」
「司馬先生のメス捌きは"天才"だと言われていました。でも、石川先生も優秀な先生ですよ」
質問者の真意を露ほども解していない看護主任は、落ち着いた声でそう言った後、
「司馬先生のことが気になるのなら、前野先生に訊かれたらどうですか? 割と仲良しだったようですから」
天恵のような一言を残して、別の病室を看る為に萩原の傍を離れていった。
(前野先生かあ・・・まいったなぁ―――)
ベッドの上へ軽く上体を起こした姿勢のまま、萩原は独りごちた。

「え? 前、ここにいた司馬先生のこと?」
25歳という若さにも拘わらず一日に何件ものオペを担当させられている前野健次は首を傾げると、煩そうな目で萩原を見上げたが、何やら思い直したらしく、視線とゼスチャーで目前の椅子へ着席を促した。そうして二人は、病棟の廊下から直接出られるようになっているルーフバルコニーの一番奥で向かい合い、ガーデンテーブルを挟んで座っている。
「確かに、石川先生とは反りが合わなかったみたいですね。ま、タイプが全然違いますから」
「そうなんスか?」
「水と油―――ってとこ」
少し斜に構えたような口調ではあるものの、気安く質問へ応じてくれた前野を萩原はやや胡散げな面持ちで見遣った。
ベテランナースを苦手に感じるのとはまた別の意味で、萩原はこの若い外科医が不得手だった。一見、優しそうに見えるが、石川のように表裏の無い性格とは違い、前野からはどことなく人を分け隔てているような印象を受けるのだ。自分が認めた相手にはとことん懐いても、そうでない人間とは深く馴染まず、時として見下すような視線を向けてくるのが、気に入らない。あからさまに余所余所しい態度を取りはしない、というだけで、どこか一線を引かれているような感触が伝わってくるのは、前野自身がこちらを好いていない証拠だった。
そして、萩原が彼に対して構えてしまうのには、もう一つ理由があった。前野は石川をよく思っていないのである。
敵対というにはほど遠いのだが、石川に対して何か面白くないと感じる部分があるらしい。それは二人の間を流れる空気の気まずさが物語っていたし、周知の事実でもあった。尤も、石川の方は特にマイナス感情を持っていないようで、職場経験としては先輩である年下のこの外科医へごく普通に接しているのだが。
「なんていうか・・・全てに於いて対照的でしたよ、司馬先生と石川先生って―――え? 誰か、似ている人・・・ですか?」
渦中の人物に対して今一つ具体的な肖像が掴めない萩原は、誰か『しば』と近い雰囲気を持つ人間がいないだろうかと尋ねたのである。
痩せ型で、超一流もしくは天才と崇められるほどの腕を持つその姿からは、シャープな印象を受けるらしい。おそらく高身長と相俟って、容姿は上等な部類に入るのだろう。顔立ちが整っている分、他人の目にキツく感じられるのは多分間違いない。大体、クールという単語は褒め言葉としても使われるが、そもそも文字通りに解釈すれば「冷たい」という意味になるのだ。そういえば加世だって、『しば』が「冷たいと言われていた」と口にしていたではないか?
「そうだなあ、強いて言えば放射線科の山村先生が、司馬先生に近いタイプですかね。背格好とか、マイペースでクールなところとかが、共通かなあ・・・?」
前野は考え考え、言葉を紡いだ。
「あ、やっぱ"クール"なんスか?」
「よく、冷たいドクターだと言われてましたがね。冷たいっていうより、醒めてたんじゃないの」
「はあ、醒めてる―――っすか・・・」
「萩原さんは怪我での入院でしたよね? まあ、中には、我々がどうしたところで完治しない人もいる訳ですから―――割り切らないとやっていけない部分もあるじゃないですか。それを一々オーバーに騒ぎ立てる医者の方が人情味のあるドクターってことになっちゃうのは、なんか違うと思うんだよな」
名前こそ出していないが、前野の批判は自分の担当医へはっきり向けられている。萩原は慌てて矛先を逸らそうとした。
「あの、前野先生は『しば』先生と親しかったって、聞いたんスけど」
「そう、僕は割と仲良かったかな―――よく一緒に麻雀、しましたよ。司馬先生、強くてねえ」
(マージャン??)
予想もしていなかった答えが返ってきて、萩原は文字通りポカンと口をあけてしまった。その狼狽ぶりに全く気づいていない前野が続けた内容は、萩原へ更なるダメージを与えることとなった。
「あの人、ヘビースモーカーだから、換気の無い場所で長時間勝負するのはチョット堪えるんだけどね。でも、ギャンブルはやっぱり強い人とやらないと、面白くないでしょ?」
(―――雀鬼で、ニコチン中毒・・・って、石川先生、趣味悪かったんだなぁ)
自分なら、絶対、恋愛対象に選ばない女性のような気がしてくる。
(でも、ま、好きなら、そんなことどうでもよくなっちゃうんだろうね? 美人は、美人みたいだし・・・)
この患者がなぜ司馬について聞いてきたのかということに全く関心の無い前野は、
「じゃ・・・僕は、そろそろ休憩終わるんで」
と言い置いて席を立ったが、萩原本人はその場から暫く動けないままだった。



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ちょっと、ねぇ……誰か、萩原に司馬が『男』だってこと、教えてあげてよ!! それと、どーいう字を書くのかも(笑)
ということで、次を読んでください。長くて申し訳ありません…