ぼくのミステリな日常 後編
「どうかしましたか?」
いきなり後ろから声をかけられて、萩原は飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて振り向くと、眼鏡をかけた背の高い男が、これまた吃驚した面持ちでこちらを見返している。
「入院している患者さん? 駄目ですよ、こんなところへ入ってきちゃあ・・・ここは病院関係者以外、立ち入り禁止です」
つい先ほど前野と別れたその足で、萩原は病院内のフロア案内図を頼りに、放射線科を探してうろうろしていたのだった。もちろん、『しば』と共通の印象があるらしい山村医師の姿を一目拝もうと目論んでのことである。
「あ、あの・・・すいません―――放射線科の山村先生を探してて・・・」
「僕が、その山村ですが・・・?」
「ええ?!」
思いもかけない事実に、萩原はすっかり度肝を抜かれてしまった。
(げっ、男じゃんかよ〜)
確かに、目の前の人物からはクールな印象を受ける。背も高い。しかしいくらなんでも、似ているのが男性だとは思わなかったのだ。気がつくと、萩原は無我夢中で謝っていた。
「あ、その・・・す、すすすすすいません!!! もう、ウロチョロしません! ごめんなさいッ」
「ああ、そんなに、謝らなくても―――それより、僕に何か用ですか?」
宥めるように視線を絡められてしまい、萩原はどう答えたものかと迷っていた。山村がある人物に似ているという話を聞いたので実物を確認に来たということ自体は、告白しても問題ないだろう。だが、誰に似ているのかということになったら・・・
おどおどしている萩原が口を開くのを山村は根気良く待っている。
他の状況ならいざ知らず、捜し求めていた人物が男性だったということですっかり動転してしまっている今、何か尤らしい言い訳を考えるのは不可能だった。とうとう、萩原は山村を訪ねてきた本当の理由を口にした。
「司馬先生と、僕、が?」
今度は、山村が絶句した。
「うう・・・ん、雰囲気が、ねぇ―――」
性格や言動が似ていると言われたら冗談じゃないと怒るところだが、雰囲気がそうだと言われた放射線科医は、複雑な心境だった。
司馬は容姿の良い男なので、同列に擬えられるのは決して不名誉なことではない。クールやマイペースという評価も山村からしたら、そう悪いものではないと思えた。だが、外科の人間(萩原は「とある外科の先生がそう言った」とだけしか、口にしなかったのである)からそのように評されているというのは、どう考えたものだろうか・・・
尤も、司馬本人を実際に知っている者は、似ているところがあると言われても、まず喜びはしないだろう。寧ろ、侮辱されたと取る方が普通ではないかと思う。
困惑して黙り込んでしまった山村の前で小さくなりながら、萩原は全く別のことを考えていた。
(そうだよな―――女性に似ているって言われて、嬉しい気がする男は、いないよなあ・・・)
すっかり申し訳ない気分になった萩原は、本心から詫びた。
「変なこと言っちゃって、すいません・・・」
「いや、あなたが悪い訳じゃないですから・・・しかし、司馬先生と、かぁ―――自分では、そんなに人付き合い悪い方じゃないと思ってたのになあ」
「え、『しば』先生って、人付き合い、悪いんスか?」
「うん、まあね―――でも、腕は確かですし、ドクターとしては信頼が置けますよ。だから僕は、別に嫌いじゃなかったけど・・・」
その時、近くの内線電話機が鳴り出した。受話器を手に取った山村が自分へ向かって小さく頭を下げたのと同時に萩原も軽く一礼し、そそくさと放射線科の医事室から退散して、会見は終了となった。「萩原さん、回診の時間ですよ」
明るい声を枕元に聞いて、うとうとしていた萩原は軽く目を擦り、重い瞼を押し上げた。今日は石川の公休日なので、峰が代わりに入院患者を診ていた。後ろでは萩原の一番苦手な看護婦・田村のえ が、カルテの束を抱えながらついて来ている。
ベッド脇に引き寄せられた椅子へ腰を落ち着けると、峰は萩原の投げ出した腕を取り、手首の付け根を軽く押さえた。
「右手のリハビリも残り一週間ですね、頑張ってください。応援してますよ」
美人の女先生からそう言われて悪い気のする男性患者はいない。しかし、鼻の下を伸ばした萩原の幸せは実に短いものだった。後ろに控えていた のえ がこう言ったのだ。
「あのぉ、萩原さん。司馬先生のこと、アチコチで聞き回っているそうですけど―――」
萩原だけでなく、その場にいた峰までが、驚いたように のえ を見つめた。
ビクリと身体を強張らせた萩原よりも、驚愕の表情を顔一杯に拡げつつある峰へ向かって、のえ は説明した。
「ウチの千代ちゃんや主任が、この人に司馬漬けのこと聞かれたって―――前野先生もそう言ってましたよ」
(オイオイ、みんな、口が軽いぜッ!!)
嘆いても、後の祭である。尤も、萩原の方が口止めしなかったのだから、彼らを咎める訳にはいかないのだが。
「でも、司馬先生は現在、ここにいませんから―――誰かから、その名前を聞いたっとコトですよね?」
前半は峰への説明も兼ねていただろうが、後半の科白は「あんたに聞いてるのよ」と言わんばかりにしっかり患者を見据え、のえ は詰め寄ってきた。
明朗快活という言葉がしっくり嵌るような彼女は動作もきびきびしていて、見ている分には気持ちが良い。だが、そのサッパリした気性から来る言動は、時として容赦無く他人の中へ踏み込んでくることがあり、それが己にとって痛いところを突いていたりすると、どうしようもなく不愉快にさせられるのだ。そして今、萩原は、入院してから何度目かの"不愉快"をこうして味わっていた。
「そ、そうね。司馬先生は、もう、この病院にいないし・・・萩原さん、誰からその名前を聞いたんですか? 大槻先生ですか?」
ひとまず動揺を抑えたらしい峰も質問に加わってきた。しかし、萩原はどうしていいか判らなかった。
石川に好意を抱いている峰からすれば、『しば』は恋敵ということになるのではないだろうか。その『しば』という名前を石川自身から聞き出したという事実が、白状しても差し支えないのかどうかは微妙なところである。尤も、石川が『しば』を想っていることを峰が知っているとは限らない。だが、それでも『しば』という名前を聞いたときのうろたえようからしたら、やはり言わない方がいいような気がするのだ。
峰の発した最後の一言に、のえ が反応した。
「大槻先生ってことはないんじゃないですか? 沢子先生に聞いたんだったら、この人がここまで他の人に情報求めてウロウロすることないと思うんですけど」
「そうよね。大槻先生に全部聞けばいいことですもんね・・・」
(え、『しば』先生については、大槻先生が一番詳しい―――ってこと?!)
萩原が驚く番だった。
(ちょっと待てよ・・・誰もそんなこと、言わなかったぞ?)
しかし、考えてみれば、自分は『しば』がどんな人物かということを訊いて歩いただけで、『しば』に詳しい人間を教えてくれと質問してはいない。盲点だった。最初、加世に話しかけた時にでも、そう尋ねてみれば良かった。
「あの―――大槻先生って、『しば』先生と親しかったんスか?」
逆に聞き返してきた萩原を前にして、「ええ、まあ・・・」と相槌を打った峰は困ってしまった。司馬と大槻が過去に親密な交際をしていたのは事実だが、そんな立ち入った話を患者へ話す訳にはいかなかった。
「出身大学が一緒ですから、付合い長かったんですよ。そういう意味では部長も詳しいと思います。司馬先生と大槻先生は部長先生の大学時代の教え子なんです」
どう説明したらいいだろうかと悩んでいた峰の窮地は のえ のテキパキした説明で救われた。
「あ・・・そですか」
隙の無い口調に圧されて、なんだか縮こまってしまう。だが、女性二人はそんな様子の萩原に一向頓着せず、本来の質問へ立ち戻った。
「誰から、その名前を聞いたんですか? その辺から湧いて出るような名前じゃ、ないでしょ」
のえ が有無をも言わせない厳しさで追及する。
「教えてくださいよ、萩原さん」
煽られて、峰も懇願するような眼差しを向けてきた。
女医と看護婦の視線が萩原に突き刺さる。怖い。萩原は、なんだって今日オフなんスか、石川先生!!と叫び出したい気分だった。だが、自分が口を割らなければ、この二人はここから動いてくれそうにない。
怯えきったクランケは、とうとう根負けした。
「―――石川先生から、なんスけど・・・」「え・・・?」
「ウソ―――」
口々に驚きの言葉を発して、峰と のえ はその場で固まってしまった。
気まずい沈黙が病室全体に拡がった。こういう時に限って、もう一人の同室患者は、一番奥のベッドで腹立たしいほど深く寝入っている。時計の針が進む音や開け放したドアの向こうで微かに響く足音だけが、そのボリュームを最大にして銘々の意識へ浸入してくるも、それらは何の蓄積も残さないで霧散していくだけだった。
「どうして、石川先生が司馬先生のことを・・・」
峰の弱々しい声が、萩原の耳にも届いた。その言葉を聞きつけた のえ は、
「ちょっと、いい加減なこと言わないでくださいよ! 石川先生があいつのこと、口にする筈ないでしょう?!」
と萩原に食ってかかる有様だ。疑われた萩原も、ムキになって言い返す。
「嘘言ったって、しょーがないじゃないっすか! 本当に、石川先生から聞いたんだってば!!」
もう、半ばヤケである。追い詰められて、萩原は居直った。
石川が『しば』を想っているのは間違いないのだが、言葉ではっきりそうと言われた訳ではない。だから、その部分については話せないし話す必要もないことが、更に萩原の気を大きくした。
(大体、『しば』って名前を石川先生から聞いたからって、何だってんだよ?)
いっそ啖呵を切ってみたいが、実際にそうする勇気などありはしない。心の中で毒づくだけの自分を情けないと思っても、入院中の身でありながらナースを敵に回すような愚挙に出る気にはなれなかった。
「だって、ここにいない司馬のことを、どうして石川先生が萩原さんに話すんですか? あいつ、石川先生を苦しめ続けてた、最低の医者なんですよ?!」
すっかり気持ちを昂ぶらせた のえ は司馬から『先生』という敬称をもぎ取ってしまった。自分は見も知らぬ『しば』だが、石川が真剣に想っている相手をこんな風に言われるのはやはり許せない。萩原は のえ を睨みつけた。
「石川先生、その人のことで気になることがある・・・って言ってました。で、俺に、その人がどんな人なのか、チョットだけ話してくれて―――んで、名前も教えてくれたんスけど・・・」
興奮している看護婦よりも、放心状態の女医に向かって、萩原は語りかけた。
「気になる・・・って、石川先生がそう言ったんですか?」
少しばかり気を取り直した声音が返ってきた。その、峰の想いを知っているだけに、萩原はいたたまれない気持ちになりながらそっと頷いた。
「・・・あんなやつ、石川先生に気にしてもらう資格なんか、無いのに―――」
「のえちゃん!」
刺々しい口調でそう決めつける看護婦を女医がたしなめた、その時である。
外の廊下からパタパタと健康サンダルの音が近づいてきたかと思うと、小柄な男が姿を現した。
「ああ、良かった! ここにいた―――」
天真楼病院の一室に殆ど居住していると言っていいケースワーカーの稲村寛は肩で息をしながら、峰と のえ の張りついている萩原のベッド目指して、駆け寄ってきた。
「稲村さん? どうかしたんですか?」
ほぼ同時に口を開いた女性二人の視線を受けて、ごくりと唾を飲み込んだ稲村が口にしたのは、まさに驚くべきニュースだった。
「えらい事になったよ、峰先生―――司馬先生が、ここへ戻ってくる」
「え―――」
「ウソ・・・」
再び固まってしまった女性陣の後方で、萩原はじっと息を潜めていた。「そんな、バカな・・・」
先般までの鼻息の荒さは何処へ消し飛んでしまったのかと思われるくらいに沈んだ声で、のえ が呻いた。
「俺だって、ビックリしたよ・・・ついさっき、中川部長から聞いたんだけどね。来月1日から、第一外科に戻ってくるって―――もう決定だって」
「石川先生は―――石川先生は、そのこと知ってるんでしょうか・・・?」
峰が今にも泣き出しそうな声で、稲村へ視線を向ける。ベッド脇の椅子でへたり込んだまま周章狼狽している女医を懸命に落ち着かせようとして、ケースワーカーは彼女の肩へ自分の手をそっと置いた。
「それなんだけどね」
この病室内で覚醒している者全員―――奥の病人は相変わらず高鼾で熟睡していた―――が、固唾を飲んで次の科白を待った。
「今日、石川先生、休みだよね? だから、本当のところはハッキリしないんだけど・・・どうも、石川先生が司馬先生を説得したらしいんだよ」
「まさか、そんなことって・・・」
意外だというように、峰が呆然と呟いた。
しかし萩原は、石川が自分に『しば』とのことを話したその様子からすれば、至極当然の成り行きだと思っていた。
(何か行き違いがあったにしたって、やり直したいと思ったら、出来るだけ近くにいた方がいいもんな)
元々一緒に働いていたのであれば尚更、石川が『しば』を同じ職場へ連れ戻そうとしてもおかしくない。
稲村が指を折りながら、話を続ける。
「ほら、いつだったか―――十日くらい前に、石川先生が午後半取って、山川記念病院へ行ったことあったでしょう。あれは、司馬先生を説得するのが目的だったらしいんだよね」
峰が、蚊の鳴くような声で応じた。
「山川記念病院へ出向かれたのは、知っています。カルテを届けるって、仰ってましたけど・・・」
「当日、司馬先生も半休取ることになってたらしいけど、どういう訳か4時頃まで病院内に残ってたみたいなんだよ。で、その後、石川先生と二人でどっかへ行ったんじゃないかって」
「稲村さん、随分詳しいんですね」
好奇心に刺激されて、やや元気を取り戻した のえ が、会話に割り込んできた。
「一昨日の研修で山川のワーカーと一緒になってね、割と仲良くなったのよ。それで、聞けたんだけどさ」
ということは、自分に『しば』の話をしたその日の午後、石川は『しば』を説得しに行ったのだ―――萩原は、心の中だけで(先生、やったね!)と叫んでいた。
「でね、峰先生、石川先生から何か聞いてないかなーと思ってさ・・・前野先生は、知ってたみたいなんだよね。さっき聞いたら、『あ、着任日、決まったんですか?』―――だってさ」
峰の顔が再び沈み込む。
「私は、何も・・・」
「そうか・・・そうだよね―――石川先生も、今までのこと考えたら、大手振って言えることじゃないもんなあ」
頻りと納得している稲村の言葉を聞きながら、萩原も大いに合点していた。そりゃあ、そうだ。天真楼病院へ『しば』の復帰が決まったということは、説得の成功を意味している。しかし、その行為へ多分な私情を交えていた石川当人からすれば、とにかく気恥ずかしくて、結果云々を口にできる筈がないだろうと思われた。
「あーあ、平和なのは、後一週間ってことですね」
のえ の一言に萩原はハッとした。自分の退院日は今月末―――『しば』とすれ違いじゃないか・・・
(ああ〜 見たかったなあ・・・『しば』先生)
一目でいいから石川先生の想い人を拝みたかったと無念がっているお気楽な患者の心中など、全く知らない女医と看護婦とケースワーカーは三人揃って病室を出ていった。その日、眠りこけていた患者と併せて萩原の回診をし損ねたことに、峰が気づいたかどうかは定かでない。退院まであと一日となった長閑な午後のことである。どちらからともなく誘い合い、1階ロビーへ隣接するティールームへやってきた萩原と石川は、一番奥の席で寛いでいた。
天井までガラス張りの店内は冷たい外気をシャットアウトし、冬の柔らかな陽射しだけをその中に閉じ込めていて居心地が良い。よく効いている暖房のせいで冷たいジュース類を頼む客も多いようだが、二人は共に暖かい飲み物を選んだ。
この先生の手術でなければ、自分の右手は二度と使い物にならなくなっていたのかもしれないという事実が、萩原を感謝の気持ちでいっぱいにしていた。滅多にない丁寧さで、深々と頭を下げる。
「先生には、本当にお世話になりました」
「とんでもないですよ! 僕こそ、萩原さんにお世話になってしまって―――」
石川が大真面目にこう返してきたので、当のクランケは目を丸くした。果たして自分が、この優秀な青年医師のどんな役に立ったというのだろう・・・?
「萩原さんにいろいろ言っていただいたお陰で、僕は、自分の気持ちと向き合うことが出来ました」
視線を少し逸らして、石川は照れくさそうにそう告げた。それが何を意味しているか、萩原はたちどころに理解した。
「『しば』先生、のことっすか・・・?」
柔かく微笑んだ石川は、黙って頷いた。優しい表情だな、と萩原は思った。
「ね、石川先生―――その『しば』先生って、明後日からこの病院に戻ってくるんでしょ?」
担当医は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐ笑顔に戻り、なぜそれを知っているのかと萩原に訊ねた。
「・・・前に、稲村さんがそう言ってるの、聞いちゃったんスよね〜 それと―――先生が『しば』先生を説得した、ってのも聞いちゃったんスけど」
元々、司馬の復帰は決まっていたのである。しかし、八ヶ月ぶりに司馬と再会した石川が「天真楼病院へ戻ってこないか?」とはっきり口にしている事実を知った中川は、「貴方が司馬君を説得して連れ戻したことにしますよ」としてしまったのだ。それは「戻ってきた司馬が、また石川と対立するのでは?」という、周囲から当然湧き上がるに違いない懸念をかわそうとしての方便にすぎない。
だから、実際にはそう言われるようなことなど何一つしていないのだが、裏事情を話す訳にもいかないので、石川はごく簡単にこう答えた。
「いえ、そんな―――会って、話を聞いてもらって・・・それだけですよ」
幾分きまり悪げなその様子とは裏腹に、声が華やいでいる。今ここで、日溜りのような暖さを感じているのは、店内に溢れている陽光故ではなく、目の前の先生から滲み出ている幸福感のせいなのだと、萩原は思った。
「ねえ、先生」
言おうかどうかと迷ったが、萩原はやはり口にすることにした。
「せっかくまた、『しば』先生と毎日顔合わせることになるんだから―――これからは、もう少し自分の気持ちに素直になった方が、いいんじゃないんスか?」
その言葉を聞いた石川は困ったように瞬くと、軽く頭を掻いた後、俯いてしまった。耳の付け根が赤味を帯びてきている様からして、上気した頬を隠そうとしての所作であるのは明白だろう。
そんな担当医の仕種を萩原はニヤニヤしながら眺めていたが、たった一つの心残りを思い、溜息を吐いた。
「だけど、残念だなあ」
諦めの悪さそのままにポツリと呟いた一言を石川が耳聡く聞きつけて、顔を上げた。
「何がですか?」
「いや、ね、俺も『しば』先生に会ってみたかったなぁ〜と思って・・・」
石川がちょっと考え込むように眉根を寄せる。
「そうか、すれ違い、か・・・」
様々な情報を得ることには得たのだが、それらから『しば』をイメージすることがどうしても出来ず、どんな女性なのかとうとう判らず終いだった。だからこそ、是非とも会ってみたかったのだが―――
「―――萩原さん」
急に名前を呼ばれた萩原は、慌てて石川を見返した。黒い瞳が僅かに眇められている。
「確か、退院してから一週間後にリハビリの最終確認があるでしょう。萩原さんの場合は指の動きも問題ないですし、殆ど後遺症もないので、それは必要ないかと思っていたんですが」
「必要っす!!」
思わずそう叫んだ萩原を前にして石川は目を丸くしたが、すぐ可笑しそうな顔になった。
「それじゃ、最終診察を受けに来られますか?」
「・・・いいんスか?」
「ええ、もちろんです。それが本当に最後の診療になると思いますが―――そうすればその時、司馬先生に会えるかもしれません・・・」
(やった! 実物が拝めるッ)
真面目な面持ちで頷く担当医を前にしながら、萩原は『しば』なる人物との対面に思いを馳せ、一人、心を躍らせていた。12月も7日になり寒さが一段と厳しさを増す中、萩原は天真楼病院へ一週間ぶりに足を運んだ。
「あら、萩原さん! こんにちは―――今日で最後ですか?」
自分の姿を目敏く見つけた加世が、いち早く声をかけてくる。
「うん、そう。石川先生は?」
「それが・・・さっき外来へいらした患者さんが、ちょっと大変なことになっちゃいまして」
どうやら、緊急オペということになったらしい。
「それで、今は別の手術から上がってきた先生が外来担当してるんですけど―――」
「そっか―――石川先生、オペ中かあ・・・本当に今日が最後だから、先生に診て貰いたかったんだけどなあ」
「そうですよね。しかも外来の先生、今月から新しく来た先生ですし―――」
「って、『しば』先生?!」
第一外科へ新しく着任した医師が診察に当っているということを聞いた途端、萩原は加世を問い詰めていた。その勢いに気圧された若い看護婦が、目を白黒させながら一所懸命頷く。
「いいよ、『しば』先生で」
「い、いいんですか・・・?」
「うん、石川先生には後で挨拶するから―――ね?」
本当にいいんですね、と何度も念を押す加世にこれまた何度も強く頷いて、萩原は外来の待合用に設けられた長椅子へ腰を下ろした。「次、萩原さんです」
受診者名を読み上げる加世の声に合わせて診察室へ入った萩原は、仰天した。
座っていたのは若い男の医者だったのである。確かに背は高そうだし、痩せていて、シャープ―――というよりも"厳しい"と表現した方が相応しい外見だった。はっきりした目鼻立ちは浅黒い肌によく映えて、同性から見ても見栄えのする容姿には違いないのだが。
しかし・・・
「・・・こちらへ、どうぞ」
紛れもなく男性のものであるその声が、少々苛ついたように着席を促した。
すっかり混乱してしまった萩原は、やっとの思いで診察室用の丸椅子を引き寄せ、ちょこんと腰掛けた。
目線を少し上げた途端、白衣の胸ポケットに留められた名札が視界へ飛び込んできた。そこには間違いなく"Doctor/外科/司馬江太郎"と表記されている。
「あの・・・司馬、先生です、よね・・・?」
カルテに目を通していた医者が、その声に顔を上げた。突然、刺すような視線を向けられて、怖々口を開いた哀れなクランケはすっかり縮み上がってしまった。
術後経過やリハビリ状況を一通り把握した後、司馬が漸く言葉を唇の端にのせた。
「―――すいませんね、あなたの担当医はオペ中なもんで」
「あ、いえ・・・」
仏頂面のままではあるが声をかけてもらえて初めて、生きた心地がした。萩原は黙って右腕を司馬の前に差し出した。
「痛かったら、言ってください」
一週間前に着任したばかりの外科医は手首のあちこちを指で押さえて、右手各指の動き具合を確認し始めた。始終無言のまま、診察が続く。石川先生は、この先生のどこに惹かれたのだろう―――そんなことを思いながら、萩原は司馬の指が動く先を目で追いかけた。
「もう、大丈夫でしょう」
頭上から無愛想な声が振ってきて、萩原はあたふたと視線を上げた。
「特に痛みもないようですし、神経もちゃんと繋がっていますよ」
「そ、そうですか」
萩原の、今だ放心したような様子を治療に対する不安と受け取ってか、目の前の医者は殊更に言い聞かせるような声音でこう告げた。
「手術をしたのは石川先生ですから。彼の技術なら、問題ありません」
そして、その時―――不機嫌そうな司馬の表情が僅かに緩められたのを萩原の目は決して見逃しなどしなかった。
過去、二人の間に何があったかまでは判らないものの、司馬は心のどこかで石川を認め、信じているに違いないと確信した。一見、怖そうな顔をしているが、この人は石川先生と同じ心を持ったドクターだ―――
直感だった。
天真楼病院の様々な事情こそ何一つ知らないが、それでも石川がなぜ司馬を説得して連れ戻したのか、そして司馬がなぜそれに応じて戻ってきたのか、判るような気がした。
(魂が、共鳴した―――ってカンジかな?)
「司馬先生」
立ち上がった萩原は、次の患者の診察準備をし始めている司馬に呼びかけた。
「・・・なにか?」
返事だけは寄越したものの、カルテから目を上げようともしない医者へ向かって、思ったままを口にする。
「前に、石川先生にも言ったんスけど―――好きな人の前では、素直になった方がいいっすよ。男とか女とかに関係なく、ね」
突然、石川の患者から飛び出た科白は司馬を驚かせ、ほんの一瞬だがその思考を停止させた。
・・・好きな人―――だって? 一体、誰が、誰を好きだっていうんだ?
どう反応すればいいか判らなかったが、司馬はとりあえず顔を上げてみた。しかし時既に遅く、身軽な患者はとっくにその姿を眩ませてしまっていた。
一方、言いたいことを言って満足した萩原は、その足でナースステーションへ向かった。世話になった皆に一通り挨拶を済ませ、そろそろ帰ろうとしていたその時、幸運にも、緊急オペを終えて戻った石川と顔を合わせることが出来た。
萩原は石川を休憩コーナーの片隅へ引っ張って行き、司馬に診察してもらったことを告白した。
「先生のこと、待ってるつもりだったんスけどね。御本人を間近に見られるチャンスだと思ったもんで、その・・・」
言いにくそうに診察結果を報告する元・患者へ向かい、
「司馬先生がそう言ったんなら、大丈夫ですよ。良かったですね」
元・担当医が笑顔で太鼓判を押す。そしてこの瞬間、二人の間柄は、ドクターとクランケから気のおけない友人同士へと変化した。
「あ、そーだ」
辺りを見回して誰もいないことを確かめた後、萩原は、そっと石川へ耳打ちする。
「―――大丈夫。脈あるよ、司馬先生」
「え?」
怪訝な顔をした石川へ、萩原は大真面目に頷いてみせた。
「だから、両想いってやつ。石川先生、もう、意地張ったりしちゃ、ダメっすよ?」
「あ、あの・・・?」
続ける言葉を失ってその場で固まってしまった石川を一人残し、萩原は上機嫌で歩きはじめる。2階の廊下から吹き抜けのロビーへと降りてゆき、正面玄関から外へ出た。数歩足を進めた後、萩原は建物全体を振り返ってみた。
天真楼病院の威風堂々とした姿が、天を目指す如くに聳えていた。
遠いビルの谷間に日は落ちて、あたりはすっかり暗くなってしまった。街中では、夕刻の喧騒が徐々に夜の賑わいへと移り変わりつつあった。
(司馬先生、ね―――ありゃ、ゼッタイ、素直なタイプじゃないな)
今日初めて目にした司馬の端正な横顔と、一月近く自分の面倒を見てくれた石川の優しい横顔を並べて、空に浮かぶ闇の中へ思い描く。
ふと、白と黒という二色が萩原の意識へ響いた。人の目には全く正反対の色として映るものの、色相に於いて条件を同じくしているそれらは、表向き正反対に感じられても同じ本質を持つあの二人を表現するのに相応しいもののような気がした。
そして、絵の具ならこれら二色を混ぜ灰色を作り出すことが可能でも、彼らは決して馴れ合ったりせず、自分自身で在ろうとしてそれぞれの"色"を貫くに違いなかった。とはいえ、心に有るものが共通であると気づいてしまった以上、互いを無視できぬ石川と司馬は常にその存在を己の意識に刻み込ませ、運命を絡め合って生きてゆくことを余儀なくされるだろう。
(・・・やっぱ前途多難かもなあ、あの二人―――ま、そーゆーのも、後々イイ思い出になったりするんだけどね?)
どこまでも能天気な元・入院患者、萩原慎吾は冬の夜空に向かって一人頷くと、すっかり得心して歩き始めた。同日の夜、医局にて。
萩原が二人に残していった言葉は、決して互いの相手へ明かされることなく、言われた当人の胸奥深くへと仕舞い込まれた。だが、それゆえ各語の持つ意味合いをしかと噛み締めさせられることになり―――その結果、司馬と石川は双方の所作を気にしつつも、共にそっぽを向いたまま、残っている仕事を黙々と片付ける羽目になっていた。(2000/4/12)
へ戻る
実は、この番外編、もっと長かったのです(爆死) 各パートに於ける科白のやり取りをかなり削ったにも拘わらず、ここまでしか縮められない自分が悲しい……
本編(『僕の大切なひとだから』全14話)で書くことの出来なかったナースのみんなと稲村さんと山村先生、チョイ出演だった前野先生や峰先生をシッカリ出したくて頑張ったつもりが―――なんで、こんな話になるんだ(涙) 麻酔科・神尾先生や救急医師・橋本先生の登場も目論んでいたんですけど、これ以上長くしたくなかったので諦めました。あああ、内科の浅野先生(って、役名じゃないっての・笑)にも出て貰いたかったのに〜←ただの天真楼フリーク
当初、石川や司馬の出演は全く考えていなかったのですが、萩原がチョコマカ動き回るのを放っておいたら、二人とも引っ張り出される羽目になりまして←オイコラ!! ほんっと、トラブルメーカーでしたわ、萩原―――アンタ、自分の言った科白がもち得るもう一つの可能性(!)について、絶対、判ってないだろう………
なんだか滅茶苦茶な話になってしまいましたが、筆力不足を笑って許していただけると助かります(苦笑)
尚、この話が生まれるキッカケを作ってくださった井上★律子様へ深く感謝いたします!! どうも、ありがとう。
そして、タイトルはミステリー作家である若竹七海先生のデビュー作から拝借いたしました♪
![]()