たったひとつの冴えたやりかた  前編




「あら、またやってる・・・」
さんさんと光が降り注ぐガラス張りのティールームで、たっぷりとクリームの入ったカフェオレをゆっくり味わいながら、大槻沢子は向かいの峰春美に笑顔を向けた。
沢子の悪戯っぽい視線が辿る先を追いかけて、峰が軽く体を捩った。ここからだと見上げる位置になる、吹き抜けの二階には廊下を取り囲むように幾つもの応接室が配されていて、真ん中の階段から一階ロビーへと降りてこられるようになっている。そして、その廊下の一角ではもはやこの天真楼病院の日常と化した、司馬江太郎と石川玄という二人の外科医が人目も憚らず言い争っている様子が見受けられた。
いかんせん距離があるので何を揉めているのかまではさすがに聞き取れないが、思わず眉を顰めた峰とは対照的に、沢子は楽しそうな表情で遠方の二人を見守っている。
「まったく・・・あんなに目立つ場所で、小競り合いすること、無いでしょうに。ホントにもう、大人げないったら」
「あの・・・止めに行った方がよくありません?」
おずおずとコーヒーカップを持ち上げながら、不安げな目で訴えてくる峰に、
「そのうち、おさまるわよ。下手に仲裁に入って、騒ぎを大きくしない方がいいわ」
と沢子はにべも無い。
「でも・・・」
過去に於ける二人の凄まじい確執を知る者だけに、また石川に対する恋愛感情と司馬への不信感が己の中で同列に座しているだけに、峰の心は重く沈み込む。そんな彼女の気持ちを引き立てようと、沢子は殊更に明るい声を出した。
「大丈夫よ、ほっといて。昔から、ケンカするほど・・・って言うでしょ? それに―――」
自分を覗き込んでいた、茶目っ気のある丸い瞳が少し上方に向けられたのを感じて、峰も目線だけを動かした。
「ほら、終わったみたいよ」
共に憮然とした態度で左右に分かれて歩いていく司馬と石川の姿を確認して初めて、漸く人心地がつくのは何も峰に限ったことではない。この病院に勤務している人間もとい入院患者なら誰もが持ち合わせているごく普通の感情だった。
「それじゃ、あたし達も、そろそろ戻ろっか」
自分とはたった一歳しか違わないにもかかわらず、あの二人の争いをいつも静観していられる大人びた目の前の女性に感心しながら、峰は書類の束を引き寄せると、沢子に続いて席を立った。

「最近、随分と仲いいんじゃない?」
誰もいないと思っていた廊下で後ろから声をかけられた司馬は、不機嫌そうに振り返った。
柱の陰から顔を出した沢子が、司馬の前まで歩いてきた。
「何の、ことだ?」
ねめつけるような眼差しも、五年間という交際期間がもたらす実績の前ではさほどの威力を発揮しない。沢子はわざと視線を外すと、言葉を続けた。
「石川先生と司馬くんのこと―――あたしが、気がついていないと思った?」
「どういう、意味だ?」
剣呑な声が沢子の耳に突き刺さった。しかし、それくらいで動じていては、司馬との会話は望めない。彼女は小さく溜息を吐いて上目遣いに司馬を見つめた。
「しらばっくれなくてもいいでしょう。戻ってきてから、あんたたち、よく話すようになったじゃない―――尤も、石川先生の方が大分、歩み寄ってくれてるみたいな感じだけど?」
その言葉の真意を図りかねて、司馬はつっけんどんに答えを返した。
「別に―――そんなんじゃねえよ。あのバカが突っかかってくるだけだ」
「またまた、強がっちゃって・・・ホントは嬉しいクセに」
面白がっているらしい言い方に、司馬はかえって意識を引き締めた。
「おお、コワ―――」
鋭い表情といつもながらの気迫とに対峙して、沢子は(今の発言、マズッたかな・・・)と思った。頭脳明晰な彼女の見立てでは、この二人が積年の憎しみをそこそこ洗い流し、新たな関係を築いているように思えたのだが・・・
だが、厳しく自分を見据えるその眼光の中に、ほんのりと拗ねているような照れが同居していることを沢子は気づいていなかった。
「・・・でも、良かったわね。あんな風に、あんたにぶつかってくれる人が現れて」
いきなり何を言い出すかのと警戒すれば、至極真っ当な解釈を示されて、司馬はなんだか拍子抜けしてしまった。彼女のノーマルなものの見方は、己の心に安堵感をもたらすと同時にちょっとした余裕をも生じさせたほどである。
「オトコに絡まれたって、ウルセえだけだよ。お前なら、いつでも歓迎するぜ?」
(へぇ、面と向かって、お愛想言うようになったとはね・・・)
目の前の元・恋人はからかうような表情で自分を見下ろしているが、今までの司馬の態度や物言いからすればそれは格段の進歩と言っていいだろう。
ふーん、石川先生とのバトルもなかなかいいリハビリになるって訳だ―――
沢子は軽く息を吸い込んでから、快活な声で反撃した。
「冗談、こっちから願い下げよ。あたしじゃなくて、石川先生に一生、面倒見てもらいなさい」
憎まれ口を叩いて踵を返した後ろ姿を暫く見送った後、司馬も反対方向へ歩き出した。
(沢子のやつ、本当に分かってないのか・・・?)
もしもその場に誰か他の人間がいたならば、自然と弛んでくる表情を必死で抑えようとしている司馬の、滅多にお目にかかれないその姿が拝めたことだろう。だが、丁度いい具合に無人の廊下は、規則正しい足音を辺りに響かせるだけだった。
(まったく―――心臓に悪いぜ・・・)
司馬は口許に薄く微笑を浮かべると、早足でカンファレンスルームへと向かった。

「石川先生! お疲れ様でした!!」
手術室から出てきた石川に峰が声をかけた。
「ああ、お疲れ様」
そのまま自分と並んで歩き出した峰を視界の隅に認めてはいたが、石川の意識は全く別のことに囚われていた。頭の中を占めていたのは終了した手術や患者についてではなく、ましてや隣にいる彼女のことでもなかった。
彼が考えていたのは、司馬のことだった。
先程、二階の廊下で言い争った記憶が鮮明に蘇る。自分の方が間違っていたとは思わないが、少し言い過ぎたという感は否めない。司馬が一際鋭い視線を投げかけた後、「おまえがそう思うんなら、勝手にしろ」と言い放ち、自分達はあの場で別れた。その後、カンファレンスで対面した時、彼は一度も自分と視線を合わせなかった―――
(また、怒らせたかな・・・)
黙ったままの石川の様子を窺いながら、峰が遠慮がちに切り出した。
「石川先生、何、考えてらっしゃるんですか? 司馬先生のことですか?」
「え・・・」
自分が思い巡らしていたことをすっぱりと言い当てられて、全身に軽い狼狽が走る。短く発せられた石川のその声色から図星だったことを確信した峰が言葉を続けた。
「さっき、見ちゃったんです。吹き抜けのところでお二人が揉めてらしたの・・・」
「そう・・・峰先生には格好悪いところばかり見られているな、僕は」
「で―――何、話していたんですか?」
誤魔化そうと思っていた部分に切り込まれて、石川は少し躊躇した。
「何・・・って―――」
きみのように咄嗟に嘘がつければいいのにと、変なところで司馬を羨みながら、石川は急いで言い訳した。
「落合さんの治療のことでね、ちょっと・・・意見が喰い違って―――」
医療に対する考え方は医者によりけりというところが多分にあり、十人いれば十通りの考え方が存在するともいえる。また、それらの中で唯一の正解というものはなかなかに見極め難い。かといって、単に患者の希望を優先させたり医者の方針を押し付ける訳にもいかず、双方の信頼と理解と努力のもとに、一番望ましい方法を採択して治療にあたるしかないのである。
「落合さんのおじいちゃん・・・って、石川先生が担当でしたよね。ご自分の方から、相談したんですか?」
峰が石川に対して探りを入れるような質問をしたのには訳があった。
ここ天真楼病院では各々が抱えている患者の治療方法について、疑問や提案があれば、カンファレンス席上で議論するのが常であり、それが行われた後には余程のことが無い限り、全ての治療責任は担当医に任されるのが一般的だった。尤も医者同士が個人的に患者の症状について話題にしたり、相談を持ちかけることが禁止されている訳ではない。しかし、カンファレンスルーム以外の場所でそのような話をしていて、それが患者当人の耳に入るかもしれないということを考慮に入れれば、極力避けるべき行為であるのは医療に携わるものとして当然の常識である。
そういう不文律があるにも拘わらず、あのように目立つ場所で石川が自分から司馬へ声をかけ、患者の話題を持ち出したという事実が納得出来ない峰からすれば、真偽のほどを確認したくなって当然の質問だったといえよう。
「うん・・・どうしても、司馬先生の意見を聞いておきたくてね・・・」
しかし、落合老人の治療方針について二人の意見は概ね一致していて、先般もそれはごく普通に交わされた話のとっかかりに過ぎなかったのである。口論の種になった本当の原因が今夜のプライヴェートな約束の所為であるなどと、よもや白状するわけにもいくまい―――
それきりきまり悪げにしている石川が、如何にしてこの追及を切り抜けようかと、ああでもないこうでもないと泥縄を練っていることなど思いもよらない峰は、隣の男がなかなか次の科白を吐き出さないのにいよいよ焦れて、日頃から燻っていた大きな疑問を正面からぶつけてきた。
「なんか―――石川先生、変ったんじゃないですか? 司馬先生が戻ってきてから」
「え?」
これには、石川も反応せざるを得なかった。
「だって、お二人でよく話すようになったから―――」
「あ、ああ、そうかなあ・・・」
すっとぼけてみせるが、心の内壁を冷や汗が伝っていくのが、はっきりと感じられた。
三ヶ月前、乗り気でない司馬を強引に説得して天真楼へ連れ戻した石川の行動は、外科は当然のこと、内科や麻酔科、放射線科などの各医局を驚かせたばかりか古参の患者達をも震え上がらせたものだった。だが、当の司馬はおそるおそる自分を迎え入れた古巣の人間達に対して、相変わらず冷徹な態度をとりながらもただの無愛想な一外科医となっていて、関係者一同を大層驚かせた。表面的な態度は以前と変らぬものの、傍若無人な振舞いが格段に減ったことは、何も知らない人々に「やっぱり、外の水、飲んだのが大きかったのかね」と言わしめたくらいである。
しかしその部分については、司馬自身にそういう変化が起きたというより、石川の行為に依るところが大きかったことを知る者は誰一人いなかった。
人は誰しも、多かれ少なかれ他人と自分とを比較して、日々生活しているものである。自分以外の存在とどう対峙するかで、生き様に対する考え方が決まってくるとも言えよう。それが生活態度や言葉遣いという形で、表面に出てくるに過ぎないのだ。だから、心の中の他人は、ある意味で己の生き方を映し出す鏡のような存在でもある。
憧れにせよ憎しみにせよ、自分が強く惹きつけられる人物だからこそ、意識し気に留めるようになる。そしていつの間にかその人物を心の中に住まわせるようになるのである。
司馬と石川の場合も、元々の価値観や倫理観が異なるだけで、本来ならそれほど激しく憎み合う間柄ではなかった筈だった。ただ、出会ったタイミングがあまりに悪すぎたとしか、言いようがなかった。
周囲からはあらゆる意味で正反対な二人だと言われ続けてきたが、共に優秀な外科医である。自分とあいつは住む世界が違うとばかり思っていたが、案外、根本的な部分ではそう変わらないのかもしれない―――まず、司馬の方がそれに気づいた。
だが、過去に起きた不運極まりない出来事とそれに付随した諸々の思惑が複雑怪奇に絡み合い、およそ想像したこともなかった千々の感情が繊細な神経を蝕み狂わせ始めたあの時から、世の中の全てに見切りをつけ、斜に構えて生きていた男は、それを石川にうまく説明する手立てを思いつけなかった。
言葉を尽くして、誤解を解こうとすればするほど、泥沼に嵌っていくような気がした。それに、人生の暗黒面にあまり免疫の無い石川が、いろいろな辛酸を舐めさせられてきた自分の心理を理解できるかどうかについては、甚だ心許ないところであり、大きな疑問でもあった。
だからこそ、司馬は黙って去ったのだった。
本当なら、石川が完治するまでは天真楼病院に留まっていたかった。しかし、潔くそこを離れて、自分にも石川にも時間を与えることが、未来に繋がりそうな気がした。それに、あれだけ強烈な闘いを繰り返した仲である―――もしも、自分のことを解ってくれなくても、また別の意味で一生忘れられることは無いだろう。良くも悪くも、司馬が植え付けた印象は石川の中に大きな迹を残したのだ。
そして、司馬のささやかな期待は実を結び、石川との関係は予想以上のものとなって返ってきたのである。
だが、それは石川の側に大きな戸惑いを与えることになった。なまじ単純で一本気なだけに、一度こうと決めたら全身全霊を傾けてのめり込む性格が、石川の司馬に対する想いを大きく変えさせた。
あれ以来、今まで通り司馬に接しようと思っても、己のストレートな性質はなかなかそれを許してくれない。
その場に第三者がいる時はまだいいのだが、二人っきりになろうものなら、途端に甘く切ない夜の記憶が蘇ってきて、心臓を締め上げ鼓動を早まらせる。その結果、ついつい不必要なまでにつっかかるような物言いになってしまい、それが他人の目から見れば『日常的な揉め事』という認識にとって代わられているのだった。
今までどんな女性と付き合っていた時でも、ここまで公私混同することは無かったのに―――と思うと、今更ながらに司馬の魅力に溺れている自分を自覚させられる。
彼を抱いたあの夜から、この感情が決して気の迷いではないことを石川は確信した。現実肯定主義者の自分としては、これも運命なのだろうと思っただけだった。
ただ不安なのは、司馬が自分のことをそこまで同様に想ってくれているのかということだった。二人っきりの時にはそれは確かなものとして感じることができるのだが、日頃の態度からではとてもそうは思えないのである。しかし、それは恋という感情が己を盲いた状態にしているだけに他ならないことを石川が理解するのは、まだ大分先のことだったのだが。
何か考え込むように難しい顔をしている石川を横目で見ながら、峰は溜息を吐いた。以前は自分が沈んだ様子を見せればすぐに気づいてくれた筈の、優しい石川はどこへいってしまったのだろうと思わずにはいられない。
もちろん、石川の方では患者や医師仲間に分け隔てなく接しているつもりであり、また多くの人間がその誠意と気配りに満足していた。だが、恋する女性としては、相手の僅かな変化をも敏感に感じ取るものである。
しかし、峰のその熱い想いも、石川の心が完全に司馬に奪われてしまっているという、一番有り得そうもない事実を嗅ぎ付けることはさすがにできないでいた。

ナースステーションの前で看護婦達に呼び止められた峰と別れて石川が医局に戻ってみると、そこでは司馬が一人でカルテの整理をしていた。ドアが開いた気配に視線だけを送って寄越したが、入室者の姿を一瞥した途端に元の姿勢に戻る。だが、それは自分を拒絶しようとしてではなく、ただの虚勢であることが、もう石川にも判っている。
ゆっくりと足を進め、手許の書類上に影を落とさないよう気をつけて傍らへ立った。
「司馬君」
顔を上げもせず、低い声が答えた。
「何だ」
「さっきは、僕が言い過ぎた」
「そう」
少しうなだれた自分の言葉を受けて答える声にも、特に棘は感じられない。
「済まなかった・・・怒ってるかい?」
「―――ぜんぜん」
今や、二人の間ではごく当たり前のやりとりになったが、もしもこのような光景を目にした人間がいたなら、何か間違った夢でも見ているのかと、目を疑いたくなることだろう。更にその後の会話を続けて聞いていれば、己の頬を思い切り抓り上げる者も出てくるに違いない。
なぜなら、やっと胸をなで下ろしたという感じで、石川が司馬にこう告げたからである。
「今晩、逢えるだろう?」
「―――レセプションが終われば、な」
人の悪げに口の端だけを引上げた司馬は石川の顔を値踏みするかのように見上げている。
「・・・それは、解った・・・で、鍵は―――」
「―――持ってるよ?」
その時、ばたばたと足音がして、医局の扉が音を立てた。
「よかった! いましたよ、司馬先生も石川先生も、ここに―――」
二人揃って顔を上げ、声のする方へ振り返ると、そこには山村を連れた前野の姿があった。



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すいません…なんか、ヘンなところで切っていますが、字数の関係でこうなってしまいました…(泣)
とにかく、次を読んでください。本当に申し訳ありません…