たったひとつの冴えたやりかた 後編
「誰・・・だ?」
自室のあるマンションのエントランス前に人影を認めて、石川は目を細めた。外灯が投げかける光線の方角へ左腕を突き出し気味にして腕時計の表示する時刻を確認したが、会合が終了するような時間ではないことだけは確かだった。
「石川先生!」
そこにいたのは峰だった。
「峰君、こんなところで、どうしたんだい? 急患か・・・?」
あまりに間の抜けたその言葉に、峰は笑い出しそうになるのを抑えようと必死に努力した。
「まさか―――急患だったら、まず、ポケベル、呼んでます」
「あ・・・そ、そうだよね・・・」
己の発言が斯様に的外れなものだったか気がついて、石川は顔から火がでるかと思うくらい、恥ずかしくなった。だが、同僚がわざわざ自宅前で自分を待ち伏せる理由にまるで心当たりの無い石川は、首を捻るばかりだった。こういうところは、いったん一つのことに夢中になると他のことには注意が行き届かなくなりがちな、極めて石川らしい気質が窺えるいい例だと言える。とはいえ、仕事以外の用事でこんな夜更けにうら若き女性が訪ねてくるからには、余程の事情があるのだろうということは、いかに鈍感な石川でも何とはなしに感じ取っていた。
相変わらず心ここに在らずという感じの石川が漸く自分の方へ意識を向けたらしいと分かって、峰は再び口を開いた。
「今日の午後、石川先生、元気なかったから・・・心配してたんです。で、様子、見てこいって・・・稲村さんやナースのみんなが・・・」
別に外野から焚き付けられなくても、自分からそうしただろうということを言うつもりはなかった。
「そう・・・みんなに心配かけちゃって・・・駄目だな、僕も」
峰がおずおずと訊ねた。
「やっぱり、司馬先生との『意見の喰い違い』が原因ですか?」
『痴話喧嘩』と言われなかったことが、せめてもの救いだな・・・と石川は溜息をついた。あの後、山村の持参したレントゲン写真を前にして病巣の分析を始めた前野に意見を求められた司馬と石川は、二人だけの密かな会話を諦めて仕事に戻っていた。石川は急患のオペを執刀し、司馬は当初の予定通り、中川外科部長のお供で学会のレセプションに駆り出されたのである。
「いや・・・そんなことないよ。司馬先生との衝突は、いつものことだし・・・」
午後いっぱい、自分が塞ぎ込んでいた理由がまさに司馬との一件に起因していることを口が裂けても言えない石川は、少し俯き加減に視線を落とした。そこで初めて、剥き出しの細い脛が寒そうに震えているのに気がついて、この寒空の下、彼女が自分を待っていたことに思い至り、申し訳なくなって顔を上げた。
「立ち話もなんだから・・・とりあえず、入ってください」
玄関ロビーを抜け、部屋の前まで峰を案内する。急いで鍵を開けると、ばたばたと奥のリビングルームまで行き、暖房のスイッチを入れた。
「・・・お邪魔します」
遠慮がちなのは声色だけで、態度の方はまったく物怖じせずに峰は靴を脱ぎ、石川の部屋へ上がりこんだ。
「散らかってるけど―――あ、その辺に座ってて。今、あったかいコーヒー、淹れるから」
キッチンへ立った石川を峰が追った。
「そんな、お気遣いしないでください。私―――」
「でも、だいぶ長いこと、待たせたんじゃないかい?」
「そ、そんなことないですよ!」
本当は三十分以上前から、あの場所にいた。しかし、一時間だろうが二時間だろうが石川が帰ってくるまで、自分はこの建物の前で待ちつづけていただろうと峰は思った。
コトコトと音がして、馨しい匂いが部屋じゅうに充満した。マグカップになみなみと注がれたコーヒーは峰の身体と心の両方を暖めてくれた。
「おいしい! 稲村さんが淹れたのとは大違い―――」
飲むのにちょっとした努力を要する豆滓だらけの液体を思い出し、石川も苦笑した。
コーヒー一杯分の静かな時間が流れた。ゆっくりと飲み干した最後の一滴が喉を下っていくと、峰は深く息を吸い込み、意を決して話し出した。
「石川先生。これから飲みに、行きません?」
「え?」
いきなり誘われたことに目を白黒させている石川を前にして、峰は急いで言葉を続けた。
「軽く飲んで、そのあと、カラオケにでも・・・稲村さんやのえちゃん達が先に行ってるんです。だから―――」
「ああ、それで、わざわざ誘いに来てくれたのか」
「ええ―――携帯にかけたんですけど、繋がらなくて・・・」
そういえば、いつもなら医局を出た時に電源を入れるのをすっかり忘れていた―――
慌ててスーツの内ポケットから携帯を出して確認する石川を峰は溜息混じりに見つめた。
(本当に、今日は、どうしちゃったんですか?)
峰はいったん唇を噛むと、気を取り直した。自分では大して石川の力になれないと感じていても、何かしたくてたまらなかった。
「みんな、先生のこと、心配してるんです。気分転換しに、行きませんか?」
落ち込んでいた自分を慰め、力づけようとしてくれている周囲の人達の心遣いを石川はありがたく感じた。しかし、その原因が恋人とのささいな諍いにあるとは、あまりに情けなくて、自分でも呆れてしまう。
「ありがとう、峰君・・・」
しかし、今夜は―――
石川はコートを手に取ると、峰を先に促して、玄関の鍵を閉めた。吐く息が白く大気中に溶け出す、寒い夜になった。
頼み込まれてレセプションへ同行した司馬は、愛弟子が天真楼病院の若きホープとして脚光を浴びている事実をひけらかし自分の指導力と先見の明を暗に自慢するという、中川外科部長の顕示欲を充分に満たしたと己が判断した時点で、会場を辞していた。
足早に歩きながら、自分を待ちわびているであろう、性急な男のことを考えた。今晩の予定については以前からスケジュールを調整して決めていたことだった。だが、相手はあの石川である―――日中言い争ったことで、司馬が約束を反故にするのではないかと、気に病んでいるに違いない。
最寄りの駅から徒歩10分弱、司馬は勝手知ったる手つきでオートロックを解除し、石川の部屋の前まで来ると合鍵を出して鍵穴に差し込んだ。ドアを開けた途端、室内には灯りが点いていないにも拘わらず、暖かい空気が流れてきて司馬を驚かせた。上がり口の電灯スイッチを手探りしたが、三和土に靴は見当たらない。
―――いくらなんでも、朝からヒーター付けっぱなしには、しないだろ・・・
ということは、石川はいったん帰ってきて、再び出かけたことになる。
(せっかく、人が早く抜けてきたのによ・・・どこ行ってんだ)
今までに何度も来ている部屋の間取りは、灯りが無くとも身体が覚えている。司馬は暗い廊下を真っ直ぐに進んで奥のリビングルームへ足を踏み入れた。暖気が一段と増して、冷え切った身体を包み込む。
コートとジャケットを脱ぎ、ソファの背にかける。開け放されたカーテンの傍まで行き、見慣れているといってもいい窓外の風景を眺めた。夜の帷にすっぽりと蔽われた街並みを眼下に確認しながら、司馬は石川の帰りを待った。玄関を開けると、磨き込まれたカーフの黒靴が無造作に脱ぎ捨てられていた。だが、廊下から先は相変らず暗いままである。石川は急いで室内へと駆け込んだ。
「―――司馬君?」
果たしてそこには、窓枠に寄り添うようにして、司馬が佇んでいた。
カーテンを寄せたままになっている窓からは蒼い月の光がやわらかな触手を差し入れ、司馬の全身を愛撫するように包み込み、室内に充満する曖昧な闇からくっきりとその姿を浮き上がらせていた。
石川の声を聞いた司馬は微かに首を傾げた。青白い外の景色を背にして、影のような黒さの中で二つの眼光だけが石川に向けられる。公の場でよくみせる鋭い眼差しはそこには見当たらず、奇妙な暖かさを帯びているようである。
「―――どこかに、行ってたのか?」
静かな声が石川の意識を絡め取った。
「あ、ああ、ちょっと・・・」
宵闇をバックにしているせいからか、普段の傲慢な態度からは想像もつかないほどに儚げな司馬を目の前にして平静でいられるわけがなく、今や石川は完全に言葉を失っていた。ただポカンと突っ立っているだけの自分が、つくづく情けなくなる。
しかし、いつまでもそうしている訳にもいかず、石川は手探りで電灯のスイッチをオンにした。途端に心地よい明るさが室内に充満し、月の光の魔力を駆逐する。だがそれは、あくまでもまわりの景色についてだけであり、司馬当人は魔性ともいえるその魅力を体内にしっかりと留めているかのような不可思議な色の瞳で石川を見つめていた。
闇に慣らされていた所為で、ひととき眩しさに怯み眇められていた眼が普段通りに瞬いて、室内を一瞥した。明るい色のソファの上に薄手のスカーフが無造作に投げ出されていて、司馬の目を惹いた。
どう見ても女物のそれは今日昼間、病院内のどこかで目にした記憶があった。そして、その持ち主を思い出した司馬は自分の心に不愉快な感情が湧き上がってきたことを自覚した。
「これは・・・峰先生のか・・・?」
心臓を射抜かれるかのような冷たい眼差しを正面から向けられて、石川はうろたえた。
「え? あ、ああ・・・」
別に疚しいことは何もしていないのだから堂々としていればいいのもを・・・というのはあくまでも一般論である。どのような状況であっても、下から掬い上げるように目線を絡められると、なぜかその魅力に屈してしまう―――今まで、よくもこの表情を何とも思わずにきたものだと、石川は高鳴る心臓を懸命に抑えようとしていた。
「ここに、来たのか・・・」
司馬は軽く前髪を掻き上げながら、空いている方の手でスカーフを摘み上げ、石川の目の前に差し出した。石川はそれを受け取ると、大雑把に折り畳んで、自分の鞄の傍に置いた。
「うん・・・さっき、急に来られて、驚いたよ」
どう話しても言い訳にしか聞こえないんだろうな・・・と思いながら、それでもせめて経緯だけは理解してもらおうと、石川は簡単に事情を説明した。司馬はズボンのポケットに両手を入れたまま、壁に凭れ掛かり、黙って話を聞いている。
「・・・で、もう、こんな時間だし―――それで、店まで送ってきたんだ」
石川のその言葉を最後に、暫し沈黙が訪れた。司馬は軽く俯き、表情を見せようとしない。静かに凍り付いた時間が刻一刻と針を進めてゆくにつれて、石川はだんだん不安になってきた。何か言わなければ・・・と唾を飲み込んだその時、
「来ない方が、良かったか・・・?」
僅かに寂寥感を滲ませた声が石川の心にじわりと沁み込んできた。
たまらなくなった石川が司馬の傍らへと進み出て、軽く腕に手をかける。
「何、言ってるんだい」
宥めるように囁いても、まだ顔を上げようとしない司馬の機嫌が芳しいものでないことは、歴然としている。自分としては何一つ責められる謂われは無いのだが、いったんヘソを曲げた司馬の扱いにはとてつもない努力と忍耐が必要であることを経験上、石川もよく心得ていた。
「邪魔、したみたいだからさ?」
下を向いたままの司馬が小さく呟いた。その、思いきり拗ねた声が石川の全身を捉え、甘美な毒のように神経細胞の一つ一つを犯していく。
「司馬君・・・」
そっと、呼びかける。だが、呼ばれた本人は何を思ったか、背筋に力を込めると、石川を押しのけようとした。
「俺、帰るわ―――」
予想外の一言に慌てた石川は、思わず司馬の身体を引き寄せ、自分の腕の中にしっかりと抱き込んでいた。
「駄目だ、帰さない・・・!」
逃げられないようにと片方の手で後頭部を支え、そのまま荒々しく司馬の唇を塞ぐ。息を継ごうと少し口を開いたその隙間から石川が舌を差し入れると、それに応えるかのように司馬の舌が絡みついてきた。
こういう時はどんなに言葉を尽くすよりも、実力行使に出た方がいい―――それが、唯一の賢い方法なのである。
自らは率先して動こうとしない、この意地っ張りな恋人は、石川が強硬手段に出れば存外素直に応じるのだ。思っていることがすぐに顔と行動に出る自分とは正反対の司馬が、どういう時にどんな態度を取るのか、石川にも少しづつ判ってきていた。
司馬の身体から力が抜けていくのを感じて、石川は更に深く口付けた。愛煙家であることを特徴づけるほろ苦い唾液を吸い上げ蹂躙すると、司馬は日頃のひねくれた態度が信じられなくなるくらい大人しく、その身体を石川へ預けてきた。
上気したつややかな表情と微かな身じろぎを自分の腕の中で確認して初めて、石川は司馬の唇を開放した。
「離せ・・・よ・・・」
潤んだ目で自分を睨み付けている顔には、まるで迫力が感じられず、石川は何だか可笑しくなってしまった。司馬に向けている自分の眼差しもきっと甘くとろけそうなものなのだろうと思うと、少し照れくさくなる。
愛おしむように、その頬へ指を這わせ、優しく告げる。
「解っているだろ・・・? 僕の気持ちは・・・」
「・・・口では、何とでも言えるから、な・・・」
視線を逸らして憎らしい口をきくその顔が少し赤くなっているのは、本気で拒否する気が無いからに他ならない。
一段と赤味を増している司馬の耳朶に口付けながら、石川は吐息のような囁きを落とした。
「証拠が欲しいのかい?」
黙り込んだまま自分の左肩に乗せられている頭が、己を託すように重みを増した。抗うつもりは無いが、言葉に詰まっている時の司馬が示す態度のひとつである。石川はそのままの状態で手を伸ばすと、司馬の髪を優しく梳きはじめた。
「ウルセエな―――いい加減、離せったら」
そう言いながらも真っ赤に火照った顔と首筋は、既に言葉と本心とはまるきり逆であることを知らしめている。不満そうに少し尖らせた唇までもが、石川にはたまらなく愛おしく思えた。
もう、抱き合ったままこうしていること自体、石川自身が辛くなってきた。一刻も早く、きみに触れたい―――
「いいよ、司馬君。きみが納得するまで、今夜は―――」
司馬を抱いたまま、そろりと壁づたいに移動する。腕の中の身体は特に逆らいもせず、石川の動きについてくる。
寝室まで辿り着くと、石川はそっとベッドに司馬を押し倒した。上方からキスの雨をふらせるように、何度も繰り返し口付けていると、司馬の腕が伸びて石川の身体を引き寄せた。
ここから先は、大人のお話(笑)ですので、裏ぺえじに置いてあります。
読んでみたいという方は、大変お手数ですが管理人までメールにてご連絡ください。
追って、裏URLをお知らせいたします。
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時刻は午前六時を少しまわったあたりだろうか。
早朝特有の白っぽい光がカーテン越しに室内へと潜り込んできていた。司馬は軽く目を擦り、隣で静かに寝息を立てている石川を起こさないようにそろりと身体を捩った。途端に下半身へ鈍い痛みが走り、全身が一挙に覚醒した。
「・・・痛ッ―――」
思わず発した呻き声を聞きつけて、石川が薄く目を開けた。少し寝ぼけた状態のその表情を司馬は気に入っていたが、一つにはそれが自分しか見ることのない石川の素顔だからであった。
まだ焦点の定まらない視線が己を探して彷徨う様を愛おしげに見守っていた司馬だが、石川がきちんと目覚めた途端、ぶっきらぼうに言い捨てた。
「ったく・・・朝、早いんだから、少しは加減しろよな」
「・・・ゴメン、その・・・」
ばつの悪げに頭を掻く石川に、照れとも恥じらいともつかぬ苦笑が向けられた。その表情もまた、司馬が石川にだけしか見せない、ごく貴重なものだった。
軽く顎を突き出してお早うのキスを強請られた石川は、そっと腕を回して司馬を抱きよせた。見た目よりもぷっくりしていて柔らかいその感触は、いくら貪っても飽き足らない。つい深く口付けてしまい、朝から司馬の機嫌を損ねそうになってしまう。
「・・・おいッ・・・昨日、さんざん人のコト・・・っといて・・・」
すっかり呼吸を乱された司馬が、潤んだ瞳で小さく睨んだ。その濡れたような鳶色の眼の暖かさに、石川は自分の中が幸福感で満たされていくのを感じずにはいられなかった。
司馬がいくら怒ったフリをしても本気でないことくらい、その様子を見ていれば一目瞭然である。少し膨れた頬を包み込むように手を添えながら、石川は優しく、しかし大真面目に告白した。
「だって、きみが悪いんだ・・・僕をあんなに、夢中にさせるから・・・」
司馬はその言葉を聞くと諦めたように微笑み、溜息を吐いた。
「・・・莫迦・・・」
小さく呟いて、今度は司馬が自分の方から口付けた。ゆっくりと味わうように舌を絡ませ、なかなか石川を解放しようとしない。身体にまわされていた手が、褐色の肌を名残惜しげに愛撫する。そこから派生するゆるやかな官能は、どこか遠くに置き去られてしまった長閑さを司馬に思わせていた。
窓の外ではいつも通りの寒い一日が始まりかけていたが、司馬も石川も出勤ギリギリまで互いの温もりから離れようとせず、その余韻に浸っていた。(1999/7/22)
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ちょっと、なんで、こんな話になったんでしょお―――???
途中から峰先生が勝手に動き出すわ司馬先生も拗ねまくるわで、話が意外な方向へ転がっていった結果、これってただのバカップルじゃん(!)ということに………もう、なぜ、どおしてえー??というカンジです(泣)
大体、プロットはたわいないのに、書き出したら長くなるのは、なんで…? あああ、動くんじゃない、峰と司馬ーーー!!
せっかくネタ提供してくれたのに…紫苑くん、こんな話でごめん…ごめんよお!!!!!
どうも、私の場合、この二人については『拗ねる司馬と、それをオタオタしながら甘やかす石川』という構図しか、思い浮かんでこないようです。格好いい話を書きたい!という野望(?)はあるんですが、多分、無理でしょうね。本当に、『野望』のままで終わりそうだ(大爆笑)
石川先生が歯の浮くような科白を吐いてますが、これはたまたま見ていたドラマに悪役(?)で出演していた石黒賢さんのイメージが強かったからかもしれません。
ところで、タイトルはJ・ティプトリー・ジュニアのかの有名なSF中篇から頂きましたが、原作は本当に涙無しでは読めない心揺さぶられる素晴らしい名作であることを、念のため書き添えておきます。
それをこんな、おバカな話に使ってしまって、ごめんなさい〜〜〜!!!
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