なぜに君は帰らない  裏話




研究設備の扉を躊躇うことなく開けた司馬は、素早く身体を滑り込ませると薄暗い室内を見遣った。電灯のスイッチには触れずに、真っ直ぐ奥へと進む。突き当たりを左に折れた先、更に暗さの増した空間へもう一つ、扉が現れる。『準備室』と書かれたプレートが嵌めこまれている、その扉の把手を静かに回して中へ入ると、暗がりの中で佇んでいる白衣の後ろ姿がうっすらと浮かび上がって見えた。
左手に持っていた鞄をすぐ近くの机の上に置いた後、司馬は脆く儚い印象を受けるその背中へ声をかけた。
「おい、石川―――」
振り向いた顔には、いつも彼から発せられている、曇りのない明るさと真摯な瞳に宿る強い意志とがほとんど感じられない。
司馬は舌打ちしそうになる自分を懸命に抑えて、石川の前まで歩みを進めた。
「よく、ここだ―――って、判ったね」
先程の激昂は何かの間違いだったのか、と思わせるような、静かで穏やかな声が返ってきた。努めて冷静な態度を装いながら、司馬も応えた。
「教えたのは俺、だからな」
「そういえば、そう・・・か」
この研究設備は、表向き、外科部長たっての希望で整えられたという経緯を背景として、天真楼病院の奥まった場所に鎮座しているが、今や誰もそれを思い出せないほどに忘れ去られた場所となって久しかった。それでも、入口付近へ何架も設置されている本棚へは、持ち歩きに適さない分厚い医学書全集や各種医療雑誌のバックナンバー等が大量に納められていて、一種の資料室のような役割も担わされていた。そして、実習用器財やツール類が保管されているキャビネット及び各種薬品庫を施錠してあれば安全管理やセキュリティ面で問題になることも無かろう、との判断からか、通常時は入口に鍵をかけられていなかった。
一人になりたい時に、石川が研究設備奥にあるこの部屋へ足を運ぶようになったのは、割と最近のことだ。
多くの患者に信頼されナース達からの絶大な人気を誇る石川は、常に注目されていて、何かと人に囲まれていることが多い。四六時中誰かと接している状態は、調子の良い時であっても屡々、煩わしさや精神的負荷を感じさせられるものなのだ。そして日頃、人一倍、患者のことを考えて行動する男はいつも自分のことを後回しにしがちで、本人も気付かないうちに少しづつ疲労を溜め込み蓄積させていっているのも明らかだった。
司馬は、石川が時折、職場で見せる表情から、微かな苛立ちと疲れを嗅ぎ取っていた。その、良くない兆候を僅かでも軽減できないかと思案していた際に、忘却の彼方へ沈められた設備が内包する小部屋のことが閃いたのだ。10分、いや 5分でも、独りきりになれれば、昂った神経を休めたり気分を落ち着かせる助けにもなるだろう―――それで「あそこなら、一人になれる」と、準備室の存在を石川に教えたのだった。
しかし、司馬自身は今日の今日まで、この場所へ足を踏み入れたことが無かった。
元々、研究設備を使用するのは、雨の日の喫煙場所としてだけだ。石川へ最奥の部屋の利用を勧めてからも、それは変わらなかった。一服するため研究設備へ足を運んだ際に、彼が奥で休憩している気配を感じることも時々あったが、そもそも一人になる為の空間として提示したのだから、特に関わろうとしなかった。
だが、今日ばかりは、医局を飛び出していった男の全てを気遣う必要性を強く感じた。
瞬間湯沸かし器のような石川でも、数メートル歩けば、まず冷静になろうとするに違いない。ならば、自分が教えた研究設備最奥の準備室へ向かう可能性が高いと確信できたからこそ、司馬は大して迷いもせずにここへやって来たのだ。そして、その勘は正しく、想像していた以上に覇気のない白衣姿が今、こうして司馬を出迎えていた。
咎め立てしているような声音にならないようにと、感情を抑え、問いかける。
「少しは、頭、冷えたか?」
「司馬、君」
自分の名前を呼ぶ弱気な声が、司馬の胸を締め付けそうになる。
「熱、上がってきてんじゃ、ねぇのか?」
こちらへ向き直った石川の正面に立つと、司馬は顔を近づけて自分の額を石川のそれに合わせた。火照りというには熱すぎる肌の表面が、石川の身体に起きている異状を正しく伝えてきた。司馬の意識へ険が混じる。
(やっぱり・・・悪くなってんだろーがッ!!)
今朝方から石川には微熱があった―――司馬は身をもって、その事実を知っていた。
重ね合わせていた肌から伝わる感触がいつもより熱く感じられて、起床するなり、司馬は石川に体温計を咥えさせた。ギリギリ36度台が示された液晶表示へ眉を顰めた自分に対し、石川は出勤すると言って譲らなかったので(ま、平熱の範囲内だし、な)と司馬が折れたのである。
だが、その結果がコレだ。こいつの使命感と責任感が言うことに、耳を貸すんじゃなかった―――医者としての冷静な判断を敢行すべきだった、と後悔する気持ちがより大きくなり、司馬の心を抉った。
一方、突然、額で熱を計られた石川は、すぐ近くにある整った顔を前にしてどぎまぎしていた。早鐘のように打ち始めた鼓動は、この至近距離で彼を感じてのことなのか、具合の悪さからくるものなのか、判然としない。
「こ、これくらい・・・大丈夫だっ、たら」
石川のそんな狼狽えぶりを全く意に介していないよう振る舞いながらも、司馬の意識は相手の様子を細かくチェックしていた。
おまえに何かあってからじゃ、遅いんだ―――
面と向かって当人へ告げたことなど一度もないが、それは、石川の体調を気遣う度に司馬の中を駆け巡る恐怖が訴えてくる本心だった。
神業と評されるメス捌きで一命を取り留めさせたものの、石川の身体が完全な健康体でなくなったことは、患者本人だけでなく担当医にも大きな懸念材料を抱えさせることとなった。転移があっても早期発見が困難なスキルス胃癌の実情は、常日頃の健康状態をよくよく観察して、些細な異変にも気付けるようにしておくぐらいしか手の打ちようがないのだ。そして『熱がある』という容態は、身体のどこかに正常でない箇所がある、ということに他ならず、それが風邪のような一過性の病から来ているものなのか、もっと他に原因があるのか―――体温の上昇だけを根拠として、真の症候を見極めるのは非常に難しかった。
だからこそ、少しの体調不良であっても、即座に身体を休ませることが必定であった。短期間で回復すればそれで良し、良くならない場合は一刻も早く、何が病変部となって発熱へ至っているのかを突き止め、場合によっては早急に対処しなければならない。
よく、「ちょっとの症状でも大騒ぎして医者にかかる人間の方が、長生きする」と言われる。少し休めば治る風邪如きを「重篤な病だったら困るから」と言い訳して病院へやってくる常連患者が医療現場を逼迫させる一因となっているのは由々しき現実でもあるが、こと、石川の体調に限っては、それ以上の猜疑心で向き合っても全然足りない、と司馬は考えていた。
何しろ切除した病巣はボールマンW型アドバンステージのスキルスで、一般的にも発症原因の不明な難治性の悪性腫瘍だったのである。おそらく未来永劫、無くならないであろう『再発の可能性』という爆弾の取り扱いには一瞬たりとも気を抜けず、これからも引き続き注意を払ってゆかねばならないのだ。
なのに、こいつときたら―――
石川としては、医者でありながら闘病することとなった日常を己の中でどう位置付けるべきか、今だに決めかねているようだった。
自分を戦力の一部として数えてくれている環境に報いたいという奉仕の精神は一年前よりも遙かに強くなり、少しでも多くの患者を診ようと働きづめる傾向がより高くなっている。確かに、あの頃は司馬も里村もおらず、第一外科としては二名欠員の切羽詰まった日々が続いていた。闘病中であるのに酷使して申し訳ないと心の中でだけ手を合わせつつ、病身の石川が弾き出していた働きへは皆が当たり前のようにその戦力をあてにしていた。
だが今は、要員数のみならず第一外科の総合力としても、以前とは比べ物にならないほどに諸々の要素が改善されているのだ。
昨年末より復帰した司馬と、新たに加わった里村と―――超一流のオペ技術及びスピードを持つ天才外科医と、安定した技術力に適切な判断で場をまとめられる優秀な外科医という、恵まれた人材が加わったのだから、少し自分もペースを落とさせてもらおうと、初めは石川もそう考えていた筈だった。しかし、己を慕ってくる患者から声をかけられ縋られると、どうにもその手を解くことができない。ついつい、診察室で病棟で長時間、医療業務に携わってしまっている。そして、そんな自分の勤務態度が司馬の懸念を加速させていることは、石川もきちんと理解していた。
けれども今日は、どうしても出勤する必要があった。処置対象患者の中に北別府が含まれていたことが、石川の足を今朝、天真楼病院へ向けさせた。
二言目には「癌じゃないよね?」と口に出して、自身の疑心暗鬼をダイレクトにぶつけてくる酒屋の主は、石川にとってはある意味で合わせ鏡のような存在となっていた。
とことん調べてみないと気が済まない性質で、と本人の言う通り、一般患者とは思えない癌知識を詰め込んだ北別府の頭の中は様々な思惑から生じた疑いや不審で膨れ上がっていて、本人は少しでも異変を感じると遠慮なく担当医を呼びつけ、その疑念を取り除いてもらおうとやっきになる。日頃、身体が訴えてくる僅かな不調を埋もれさせ気味な石川だが、北別府のような患者の抱える玉石混交の『不安』と相対することが寧ろ注意喚起にもなるだろうと考えた司馬は、石川と北別府という担当医と担当患者を案外、丁度いい組合せだと捉えていた。
ただし、それは石川の容態に問題がない日常に限ってのことだ。今日のような、体調不良が既に顕在化している場合は、北別府の都合へこいつを付き合わせる訳にはいかない。
司馬の引き締まった顔の輪郭が、尚一層の厳しさを増した。
「―――帰れ」
低く押し殺した声が、石川をねじ伏せようとしていた。その剣幕の裏側に、こちらの身を慮る司馬の心緒が潜んでいることを石川も気付いていない訳ではなかった。己の裡にも既に、躊躇いが生じている。しかし石川の口をついて出てきたのは、譲れない主張を言い募ろうとする科白だった。
「だけど、北別府さんの抜糸が、まだ・・・」
目前の担当医は一向に動じようとせず、至極、冷めた様子で言葉を返してきた。
「それくらい、研修医にやらせろ」
「でも―――」
石川を見つめる眼差しに、明らかな苛立ちの色が混じる。襟元に手をかけた司馬が、身体ごと石川を強く引き寄せた。
「帰れ、ッてんだよ!!! 主治医の言うことが、聞けねーのか?!」
噛みつきそうな勢いで、司馬が石川の唇を塞いだ。その荒々しい挙動とは裏腹に、侵入してきた舌はそっと歯列を割って、優しく石川の口腔内を弄った。甘く柔らかなキスが享福の如くに石川を包み込み、司馬の想いを直截に伝えてくる。ゆるやかな官能は全身を巡り、石川を安堵感で充たしてゆく。
静かに離れた唇は、先刻の暴力的な所作を詫びるかのようだった。
「こ、う・・・」
自分達の部屋の外では決して発しないと決めた筈の名前を、うっかり口走りそうになる。
呼ぶな、とばかりに、司馬が石川の唇へ指をあてた。
「風邪くらい、コッチで引き受けてやる」
人に感染せば治る、ってゆーだろ?と付け加えて見返してきた表情には、いつもの司馬らしい傲慢さと悪戯っぽい輝きが見え隠れしていて、石川の心に不思議な晏如を覚えさせた。
一種の触診といえなくもないこれらの行為で、おそらく自分よりも正確にこちらの容態を把握したに違いない司馬の命令へ従った方がいいのは、歴然としていた。それに石川がここで我を押し通しても、担当医の機嫌を更に損ねるだけだ。そうなれば寧ろ、この後の展開へ悪影響が出かねない。
「夜、来てくれる・・・よね?」
つい機嫌を伺うような口調になってしまった自分を見つめる眼差しが、小さく瞬いた。至近距離にある鳶色の瞳からは、先程までの剣呑さはきれいに払拭されていたが、こちらの要望を受諾してくれるかどうかまでは、まだ判らない。思わず唾を飲み込んだ石川の耳へ、存外、柔らかな声音が響いた。
「おまえが、今すぐ帰るってんなら・・・考えないでも、ない」
「判った―――きみの、言うとおりにする、から」
目の前にある司馬の頬を両手で包み込むように挟んで、次は石川から口付ける。お返しとばかりにその舌が妖しく蠢くと素早く司馬の舌を絡め取って口腔を嬲り、狼藉の限りを尽くす。少し前の穏やかで暖かいキスとは異なり、ぞくぞくするような痺れが互いの背筋から腰へと響きはじめる。
さすがにこれ以上続けたら、まずい―――漸く、石川は司馬の唇を解放した。
「早く、帰れ」
司馬の声に微かな照れが混じり、甘く濡れた響きを帯びる。石川は両腕を司馬の身体へ廻すと、強く抱きしめた。耳朶へ口付けるようにして、囁く。
「うん・・・後は、頼むから―――抜糸、やってもらって、いい?」
背中に廻された手が、石川の後頭部まで上がってきて、緩くあやすように撫でた。耳許で、今度は司馬が石川へ囁く。
「峰先生、か?」
「ん―――頼んでくれる、かい?」
「・・・わかった」
暫くの間、黙って石川の髪を梳いていた司馬の指が、耳の後ろから首筋へと這い下りて、肩の上を軽く叩いた。それを合図に、抱き合っていた二つの身体がゆっくりと離れた。司馬が持ち込んでいた鞄を手渡すと、石川も白衣を脱ぎそれを司馬へ預けた。二人の短い逢瀬が終わる。
促されて先に研究設備から出た石川は、背後で小さく扉が閉まる音を確認した後、玄関へ向けて歩き出した。角を曲がるところまでついてきていた足音が止まったことに気付いたが、そのまま真っ直ぐ歩き続ける。正面には玄関口が見えていて、あの角からこちらを見ていれば其処を出ていくその瞬間を目に収めることが可能だった。司馬がそうして自分を見守っているであろうと、石川は確信していた。
正面玄関を出たところで、今歩いてきた方角を振り返った石川が、遠く廊下の奥に司馬の立ち姿を認めた。いかんせん、かなりの距離があるので細かい様子までは判別できないものの、互いが限りなく優しい表情をしているのは間違いなかった。自分をあらある意味で案じてくれるたったひとりの特別な存在へ笑顔を向けた後、踵を返した石川はやっと家路へついた。

(2022/10/15)


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まさかの、病院内で××―――という展開になりましたが、最初に降ってきた科白がこの部分だったので……またもや二人に書かされた、というカンジです(爆)
石川が再び発病するかもしれない、という恐怖心は、司馬の方が強いのではないでしょうか。
本放送では、術後の肺梗塞で石川は亡くなってしまいますが(号泣)、あの時の司馬からは、「おまえの命が消えてゆくのを、許す訳にはいかない!!」という激しい憤りを感じられるんですね。それはそのまま、石川を助けられなかった自分への怒りでもあり、医局でネームプレートを握り潰した行為に通ずるのだと思いますが。
故に、本放送であの二人が死ななかったとしたら、司馬の中には「石川を失いたくない」という強い感情が生じるような気がします。ウチの司馬の場合、一回、危篤になった石川を取り返した形ですので、尚更でしょうね。それで「相変わらず口と態度は悪いけれども、石川のことが心配で心配でたまらない司馬」という話になりました。
まあ、北別府さんを一種の試験紙(?)みたいに見ているのが、司馬の根性悪なところですが(苦笑)
もちろん石川の病状は、ただの風邪です。
同夜、司馬相手に一汗かいて、全快したことでしょう(笑)<ばきッッッ ←司馬と石川から全力で蹴られた音