君をわすれない          
            ――記憶の欠片――



夜船  様



ACT.3

バタバタと刑事課に走ってくる音がする。
コーヒーを飲んでいた恩田すみれと真下正義が、図ったように目を合わせた。出社時間ぎりぎりに走り込んでくる輩は一人しかいない。
「どうしてもっと早く来れないんですかね」
「ホント。毎度の事なんだから気を付けるわよね、普通」
あと五秒。二秒。
「間に合った!」
息を切らしながら刑事課に駆け込んで来た男が自分の席に着くや否や、大きな息を吐いてぐったり机に突っ伏す。毎度の事ながらついついすみれが書類を丸め、ぽかりと頭を叩いて苦情を述べた。これも毎度の日課になっている。
「早く起きればいい。あんたには学習能力がないのね」
「痛いよすみれさん。頭は叩かないでって毎回言ってるじゃない」
「こりゃ失敬」
たいして悪いとも思っていない言い方に、彼はじっとりとすみれの整った顔を見上げた。
文句のひとつでも言おうと口を開いたが、勝気に見せる眉の裏に微妙な心が透けているかのようで、そのまま唇を引き上げて笑顔に変えてみせる。
「もう大丈夫だよ、すみれさん。俺がここに戻って来てから2ヶ月経つし?」
「やっぱりあたしの言ってた事は正解だったわね」
「なに」
「死神だって嫌がる」
そりゃないでしょう……情けなさそうな声を出して彼――青島俊作はくるりと椅子をすみれに向けて、そう訴えた。
「あれから大変だったんだから、俺。頭や体のリハビリやって。結構ああいう事があると計算出来なくなっちゃうんだよね。簡単な計算だって出来なかったし。でもさ、刑事の仕事やすみれさんたちの事は忘れなかった。これって誉めて欲しいよね」
「はいはい、よく出来ました」
そう言って自分の席に着くすみれを見やって、青島はいつもと変わらない彼女なりの思いやりに心が温まる。
気が付いて暫くしてから刑事課の面々が大人数でやって来て、自分の事が判るかと口々に言い募ってきた時には流石に二の句が出なかったが、みんな心配してたのよ――そう言って一番初めに笑ったすみれの鮮やかな笑顔が、青島の後退した脳にくっきりと焼き付いていた。ひとり一人名前を告げながら、それと同時にまるで大波のように付随した感情が湧き出る。そう、固体を認識するための『感情』が顔を見た途端、脳をフル回転させて記憶を手繰り寄せたのだ。
「もう大丈夫。君は賭けに勝ったんだよ、青島君」
大きく頷いて職場復帰を了承した担当医の笑顔に、長かった闘病生活に区切りがついた事を彼は知った。意識が醒めて一ヶ月はろくに口もきけない状態だったが、退院する前には殆ど怪我以前の記憶はあるはずの場所にすんなり収まっていて、病院で二ヶ月、実家へ帰ってから一ヶ月リハビリに通って。
湾岸署に復帰してからも既に二ヶ月が過ぎようとしている。医者は奇跡だと笑ったが、どうやら自分はなんらかの意思を持って生還してきたのだと青島は思っている。
――ただ、その『意思』が判らない。
「青島君、いつまで机に懐いてんのよ。さっさと傷害事件の聞き込み行って来て」
呆れ顔で袴田課長が声をかける。それに「はぁい」と声をかけて真下に目で合図して鞄を肩にかけた。
「行こうか、真下」
刑事課を出ながら青島はふと足を止めて、辺りを見渡した。相変わらず騒々しい廊下に誰かの姿を見たような気がしたのだ。
そんな忘れ物をしたようなつっかえが最近とみに酷くなっている気がする。それを誰かに聞くのは何となく憚られて、言い出せないまま時間だけが過ぎて行く事に、苛立ちにも似た焦燥感が睡眠を青島から奪いつつあった。
――これは何なんだろう。
頭をひとつ振って青島は一階へと階段を下りると既に真下は玄関口で彼を待っていた。
「遅いですよ、先輩」
「悪いねぇ真下君」
へらへらと笑いながら青島が隣に並ぶ。これ見よがしに溜息を付いてみせた真下が、玄関を出た所でそう言えば、と彼を見た。
「和久さん、今月で指導員降りるって言ってましたよ」
「なんで?」
「先輩が完全復活したみたいだから、もう自分はいらないだろうって」
「和久さん、冷たいよね」
ポケットから煙草を出して火をつけた青島が煙たそうに目を細める。怪我が完治してみれば季節はもう冬真っ只中だ。
「俺にはもう少し和久さんいて欲しいよ。まだちょっと不安なんだよね」
「何かあるんですか?まだ」
勢い不安そうに――或いは心配そうに――ちらりと青島を見た真下に
「なんかこう……胸につかえたもんがあるんだよね。それが何なのか判らないから気持ち悪くて。別に先生には太鼓判押されたんだけどな」
「本当の意味で先輩が復帰しないと室井さんが心配しますよ」
大した意味も無くそう呟いた真下に不思議そうな顔で青島が言った言葉は、確かに真下を衝撃の波に叩き込むには充分すぎるほど爆弾発言だった。
「室井さんって――あの人今警察庁でしょう?俺みたいな所轄の刑事にそこまで心配される覚えはないよ?俺達が接触してたのってあの人が管理官だった時だけだろ」
「……せんぱい?」
「お偉い方の接待は署長たちに任せておけばいいじゃない。俺達は俺達の仕事をやる」
胸が高鳴るのを真下はようやく押さえて、青島にとって一番大事だろう言葉を舌にのせる。
「先輩……室井さんとの約束は?」
きょとんとした目で青島が彼を見る。
「室井さんとの約束?キャリアと?する訳ないでしょ、俺たちとは世界が違うじゃない。下で頑張っている俺たちの事を駒ぐらいにしか考えてない奴らと、何を分かり合えるって言うのよ。可笑しな奴だなお前は」
室井との約束がない――真下の血液がすっと落下した。あれ程心を通じ合って理想を共にしていた筈なのに……誰の事を忘れても、室井の事は忘れないだろう。確かに真下はそう信じ込んでいた。それだけの絆が二人にはあった筈なのだ。
「お見舞いに来なかったんですか?室井さん」
「しつこいねぇ、お前も。何で参事官になった室井さんがいち所轄の刑事の見舞いに来るんだよ。時々運転手して一度事件を一緒に解決しただけだろうが」
お前と言いすみれさんと言い、どうしてそんな事を聞くかなぁ。うんざりしたように又煙草に火をつけた青島にそうですねと呟いた真下は、
「煙草、吸いすぎるとすみれさんに言いつけますよ?」
「あ、それだけは止めて。今日のデート、取り止めにされちゃう」
「デート!?」
「なに」
羨ましい?――そう告げて青島は悪戯っ子のような笑顔を見せる。くらくらと真下は頭を抱え込みそうになる自分に叱咤して「ばれました?」と笑って見せる事に成功する。
室井と青島。どこでどう変わってしまったのだろう……二人の関係が。真下はどこかで二人の関係が上司と部下のものではないと思っていた。それ以上に深くもっと違う感情が底にある、絶対無二のものだと。
――知っているんだろうか、室井さん。
これからどうなってしまうんだろうか。
――室井さん。先輩、すみれさんに取られていいんですか?
遠く警察庁の辺りを見詰めて彼は顰め面をした室井の気難しそうな顔を思い浮かべた。

「ちょと、何なのよ」
青島と聞き込みに行っていた真下が、帰ってくるや否やすみれを空いている取調室に引っ張って来たのに、腕を振り払って彼女が仁王立ちで腕を組んだ。
「聞き込みから帰ってきた途端なに?」
「知ってるんですよね、すみれさんは」
「だからなに」
忙しいんだから早くして。まっすぐ見詰めるすみれにうろたえながらも、真下は口を開く。
「先輩――室井さんとの約束忘れてます。室井さんをただのキャリアだって」
「それがなんなのよ!」
すみれの怒りが爆発する。
「判ってる。あれは青島君じゃない――記憶ぶっ飛んでるし、室井さんとの約束だって覚えちゃいない。あの約束は青島君の刑事としての核をつくるもんだって言いたいんでしょ」
「……はい」
「何で覚えてないかあたしは知らない。でも青島君が頑張ってるんなら見てるしかないじゃない。悔しいけど……ふたりの問題はふたりにしか解決出来ない」
もう良いんなら行くわよ。そう言って踵を返したすみれに、真下がぽそりと呟いた。
「先輩には室井さんが必要なんです……それと同じに室井さんだって先輩がいるから頑張っているんですよね。室井さんは知っているんでしょうか」
「あんな馬鹿放っておけばいい」
吐き捨てるように言うと、すみれはふんと鼻を鳴らす。
「あたしはちゃんと言った。青島君の意識が戻ったから会いに行ってって。なのにあいつは行かなかった。あんたも聞いたでしょ?青島君から」
「聞きました」
「なんで会いに行かなかったかなんて知らないけど、行かなかったからこうなった。それは室井さんの責任であたしたちがどうこう言うことじゃない――それでたとえ室井さんがどんなに後悔したってね」
きゅっと唇を噛んですみれは下を向いた。
「あたしがストーカーされた時、青島君は自分が解決しなきゃいけないんだって言ってた。ならこれは青島君と室井さんとで解決しなきゃならない事じゃない。あたしに出来る事は最近調子の悪い青島君のフォローする事だけよ」
「あ……じゃ、今日のデートって」
ぽんと真下が手を叩く。
「気分転換も必要でしょ。これだけ心配してやってんだから美味しいもの奢ってもらわなきゃ」
行くからね、もう。そう言って本当に取調室からすみれが出て行き、後には情けない表情の真下が残される。
どうして青島が室井の事を忘れるなんて事態が起きるのだろう。それに、何故自分達はこうふたりの事に振り回されるんだろうか。割り込めないと焦るのは自分だけではないと、真下はようやく気がつく事が出来た。
すみれが出て行った扉を振りかえり、もう一度溜息をつく。それからドアを開けて自分の席に戻って行った。

最近調子が悪い。
夢見が悪いのと、何か忘れ物をしたような気がするのにそれが判らない。毎夜焦りの中で目が醒めそれからが寝付かれないのだ。
頭の中に誰かがいて、思い出せとせっつく。何を思い出せと言うのかと聞くと、それは自分で思い出さないとどうしようもないと言う。
「あれは誰だろう……」
焦りの中で影が手を差し伸べて何かを囁く。それは力強く優しいもので、その腕の温かさに青島は安堵感と切ない想いに全身を燃え上がらせる。微かに鼻を擽る整髪料の香りとまっすぐ見詰める強い瞳と。
――あれは誰だ。
その事を考えると胸が痛くなるほど愛しい。俺はここにいるのに、何故あんたは来ないんだ。もう全て捨ててしまったのか?それだけの関係だったのか、俺たちは。必ずこうして手を携えていこうと誓ったんじゃないのか。
――俺が、か?それとも……
頭が痛い。誰かあれはなんなのか教えてくれ。あんたは誰だ。いったいなんで俺の心を掻き回す。
「青島さん……?」
心配そうな声に顔を上げると雪乃がコーヒーを持って立っていた。それに笑顔を見せて「大丈夫」と頷くと、ほっと雪乃の顔が安心に彩られる。
「例の傷害事ですが、被害者が亡くなったので殺人事件に切り替わるそうです」
「なに、じゃ本部が?」
「はい。また新城管理官がいらっしゃいますね」
「うえ……俺あの人苦手」
そう言って頭をくしゃりとした青島が、ふと上を見上げる。
そう言えば昔に誰かにそう言って笑われた事がなかっただろうか。確か、無駄な事をするとか何とか言われて電話で笑ったような気が……。
「そう言えば室井さんにもそう言ってましたよね」
何気なく笑った雪乃の言葉に、青島はまた室井だと首を捻る。誰も彼も「室井」「室井」と自分の顔を見ればそう言うのだ。だが彼にはそこまで仲の良い付き合いをした記憶がない。
担当医には記憶回路が壊れてなくて良かったとお墨付きを貰った筈なのに。室井とこの焦燥感となにか関係でもあるのだろうか――雲の上の存在である室井と。それに真下の言った『約束』がいつまでも意識の中から出て行ってはくれない。
「雪乃さん、コーヒー有難うね」
カップを掲げて見せた青島はまた既視感に目を細める。
解決しなければ前へと進めない。このままでは駄目なのだ、きっと自分は。
「行こっか、雪乃さん」
前髪を上げて青島は椅子から立ち上がった。

−2000/5/6 UP−




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