55日、曇りのち晴れ  前編




今朝、先に目を覚ましたのは私の方だった。
カーテン越しに早朝特有の白っぽい光が感じられて、室内にうっすらと明るい色が充満し始めている。隣でシーツにくるまったまま軽い寝息を立てている、伸びやかな肢体の持ち主を起こさないようにと、首だけを捩ってサイドボードの上にある置き時計の表示を確認した。しかし、もう一眠りできるかと思っていた身体の怠さとは裏腹に、時刻は既に7時半をまわっており、それが私の意識を覚醒へと導いた。
―――まあ、昨晩遅かったことを考えれば、充分早い時間だな・・・
視線を元に戻し、まるで起きる気配のない、青島の姿に目を遣った。枕の上で柔らかい髪が乱れ、呼吸する度に、聞こえる筈のない微かな衣擦れの音が耳に響くような気がする。無防備で穏やかな青島の寝顔は、起きている時とはまた違った魅力を持っていて、いくら見ていても飽きることがなく、私は一人、昨晩からの出来事を思い出し始めていた。
前日、勤務を終えていったん官舎に戻り私服に着替えると、東銀座の某ホテル内のコーヒーショップで、青島を待った。約束の時刻をゆうに一時間半も超過して現れた相手は右頬にカットバンを貼っていて私を驚かせたが、大した事はないからと言って、いつもながらの人懐こい笑みを見せた。直前まで追っていた被疑者と揉み合い、擦ったのだそうだ。
仕事絡みでの遅刻はどうしても避けられないことなので、待ち合わせた時間通りに相手が来なくてもお互い気にしないように努めている。だが、普段は翌日勤務を控えた状態での逢瀬が殆どであるからして、どちらが何時にやってくるかということには結構神経を尖らせてしまいがちだった。一秒でも多く一緒に過ごしたいという共通の想いだけが、一人待ちわびている方の時間の進み具合を殊更にどんよりと鈍く感じさせることとなり、待たせている方は飛び去るように過ぎてゆく時の後髪を掴み、引き止めようとやたらに足掻く羽目になる。
走ってきた所為で不規則に吐き出される荒い息を少しでも短時間のうちに鎮めようと、目の前に置かれた水を一気に飲み干した青島に、そんなに慌てなくてもいいからと告げてコーヒーを追加オーダーした。その一杯を飲む間だけ青島側の遅刻した事情に耳を傾けた後、会計を済ませて新木場へと向かったのである。途中で深夜も営業しているリカーショップに立ち寄り酒類と肴を買い込むことも忘れなかった。
日付の変わらぬうちに辿り着いた青島の部屋で、少しだけ酒を飲み、久しぶりに肌を重ねて互いの全てを確認する行為に熱中しだしたのは、果たして何時だったのだろうか。いつもなら忘れずにセットする目覚まし時計のボタンをオフに切り替えた青島の指を捉え身体を抱き寄せると、共に肉体の最奥で密かに疼いている熱い快感を遠慮なく曝け出し、二人して思うさまに欲望を絡め貪り合った昨夜は、普段と少しばかり事情が違った。あくる日―――つまり今日だが、青島と私の休日が珍しく重なっていたのである。
恋人同士なら時にはどちらかが相手の非番に合わせて有休を取る画策をすることくらい当たり前だろうが、私達は敢えてそれをしないようにしていた。そうしたいのは山々なのだが、今まで色々問題になるような行動をしてきた二人の周囲は公私共に監視の目が行き届いており、たった一日の逢い引きを優先させて将来を棒に振ったのでは悔やんでも悔やみきれないからだった。
「少し後ろ向きな気、して、ホントは嫌なんスけどね。でも下手に目、付けられても厄介だし―――休みを合わせて一緒に過ごしてるなんてコト、調べが入ったら、俺達の場合、仮に白でも黒に出来る丁度いい口実、与えるようなモンでしょ? そのかわり、堂々とまわってくる非番が偶然重なる分には文句言われる筋合い、無いっすからね」
あらゆる意味で制約のついてまわるこの関係を選んでから暫く経った或る日、私達は幾つかの約束事を決めた。本来ならそういう提案は自分の方からするべきだったのを青島の口から告げられた時の驚きと安堵感を思い出す度、私はこうして今、自分の隣にいてくれる大切な存在を決して失うまいと気持ちを引き締める。
俺達の『夢』を叶える為にだけではなく、室井さんと俺が出来るだけ一緒にいられるように―――
青島が提案した各々の『注意事項』はどれも少々我慢を強いられるものの、スキャンダルとして立証されない為には必要不可欠な知恵と常識だろう。決定的な証拠を握られない限り、私達の関係は『親密な友人同士』という言い逃れが常に通用するようにしておかなければならない。決して己の保身でなく、「将来を潰されない為に、共に居る未来を夢見る為に頑張りましょうよ」と青島に言われた時に、自分と同じ覚悟をして想いを受け入れてくれたのだという嬉しさと、年下の彼にそのような気を先に遣わせてしまった己の不甲斐なさに責められながらも、なんとも幸福な気持ちで満たされたのだった。そういう訳で、二人の非番が偶然重なったのは、私達が付き合い出してから、まだ僅かに三回だけである。
普段からオーバーワーク気味の身体を休める為には、このまま一日ごろごろしているというのもそう悪い選択ではない。事実、過去二回は屋内から一歩も出ないで過ごしたのではなかっただろうか。日頃逢える時間が少ないだけに、たまさか一日一緒に居られるとなるとついついお互いを独占したくなり、何処にも出掛けずに恋人の存在だけを感じていたくなるのは、惚れた相手に対する至極当然の生理現象と言えなくもないのだが。
「・・・ん」
刻一刻と増していく明度に背中を押されるようにして、青島が身じろぎした。少し丸めていた背筋をゆっくりと伸ばして、まだ半分寝惚けまなこの、実に幸せそうな顔が私の方に向き直った。
「あ・・・おはよーございます・・・」
「ああ、お早う」
朝の挨拶を交わすが早いか、青島が肌を擦り合わせるようにしてキスを強請った。そっと口付けて、柔らかく満たされるような感触に、共に酔いしれた。
自然と伸びた互いの腕を何一つ身につけていない相手の身体に絡ませつつ、ベッドの中で暫くじっとしていたが、やがて私の耳朶に青島が吐息のような囁きを落とした。
「室井さん・・・いつから起きてたんスか?」
「少し前だ」
私の答えを聞いた途端に、青島の頬が少し膨れた。
「また、人の顔見てたんでしょ―――相変わらず、性格悪いっすよ。起こしてくれりゃ、いいのに」
「気持ちよさそうに寝てたから、自然に目が覚めるまでほっとこうと思ってた」
不服そうな顔のまま緩慢な動作で起き上がると、床に落とされていたバスタオルで腰を被って窓のところまで行った青島は、太陽光を抱きかかえているカーテンをそっと持ち上げて、空模様を覗った。
「予報じゃ、降るよーなコト言ってたけど―――結構、明るいっすね。う〜ん、ナントカ持ちそうかな・・・で、どうします? 今日」
くるりと振り向いたその顔が湛えている穏やかな微笑につられるように、私の表情も緩んでいることだろう。
「そうだな・・・お前は、どうしたいんだ?」
「室井さんは?」
いつも一旦私の希望を聞いてからでないと物事を推し進めようとしない青島に、一々こちらを立てなくても良いものを・・・と思いつつ、その意外に繊細な神経の裏側にある気持ちの暖かさを感じて、和やかな気分になる。
「別に―――何か、したいことがあるなら、遠慮しなくていいぞ」
(お前と一緒に居られるのなら、何をして過ごすのでも構わない)などと、危うく口に出しそうになってしまい、慌てて時計を見遣って誤魔化した。時刻は8時少し前というところである。私の言葉を受けていったん隣の部屋へ消えた青島が何やらごそごそと音を立てていたかと思うと、時刻表を捲りつつ戻ってきた。枕を避けながらベッドの上へ腰を下ろし、片肘をついて軽く上体を起こしている私の顔を覗き込むように視線を絡めてくる。
「ホントはこのまま、うだうだしてたい気もするんスけどね・・・たまにはお日様の下で、健全にデートするのもいいかなー・・・と」
「何処か、行くあてでもあるのか?」
「いや、これから考えようと思って―――でも、ドコがいいかな? 日帰りだから、あんま、遠いと疲れるし。あ・・・」
時刻表を膝の上に乗せたまま、何か思いついたように顔を上げた青島が、私に確認を求めてきた。
「そういや―――今日って、『子供の日』じゃ、ないスか?」
「ああ。それが、どうかしたのか?」
「・・・今でも、あんのかな?・・・アレ」
独り言を呟いている青島に向けた私の訝しげな表情を認めて、悪戯っぽい笑みが返ってくる。今しがた閃いた考えを瞳を輝かせながら反芻しているらしい様子がなんだか微笑ましくて下方から見上げていると、唇を掠め取るようなキスが降ってきた。
「せっかく重なった非番っすからね―――欲張らないで、のんびりしましょーよ」
「外、行きたかったんじゃ、ないのか?」
青島の頭の中に形を成してきている『本日の予定』に全く見当がつかない私は、こう訊き返したが、
「モチロン、出掛けますって―――さ、室井さん。俺、朝飯用意しますから、シャワー、お先、どうぞ」
きちんと畳まれたバスタオルを用意してから私を追い立て出した嬉しそうな笑顔に、(今日は一日、青島に任せてみるのも良いかもな・・・)と思いはじめていた。
交代で軽くシャワーを浴びた後、トーストに半熟卵、プレーンヨーグルトとサラダに昨晩買ってきて食べ損なっていたキウィを切って添えただけの、手間はあまりかからないが栄養的にはそう悪くない朝食を二人で平らげると、青島の部屋を後にした。白いコットンシャツにジーンズ姿の青島は、とても30過ぎには見えず、長めの髪と相俟って何処かの大学生のようである。私の方もチェックのシャツにチノパンというシンプルな服装だったが、お互いの私服というのは見慣れていない分、新鮮な驚きとして目に映った。
チラチラとこちらを見ていた青島が、秘密を打ち明けるように言った。
「なんか―――私服の室井さん、いいっすね。いっつもスーツ姿ばっかだから・・・いや、あれはあれでカッコいいんスけど、今日はその・・・」
それは、こっちの科白だ―――と言う訳にもいかず、周囲に誰もいないのをいいことに、柔らかい髪に手をのばしてくしゃくしゃと掻き回す。明るい色合いの眼が気持ちよさそうに細められるのを見て、ふと、(こいつの前世は間違いなく犬だろうな)と思った。
新木場駅前のロータリーまで来ると、青島は駅構内へは入らずに、真っ直ぐ都営バスの停留所へと向かった。その後ろ姿を黙って見ていた私の表情が余程不審そうだったのだろうか、発着時間を確認して振り向いた顔が、苦笑まじりに溜息をついた。
「も〜、そんな顔しないでくださいよぉ・・・一応、行くトコ、決めてあるんスから」
「そうか」
こいつのことだから、行き当たりばったりということも覚悟はしていたのだが―――そんなことを言おうものなら、いくら青島でも拗ねるくらいでは済まないだろうなと思い、相槌をうつだけに留めた。
「室井さん、俺のコト、ぜんっぜん信用してないでしょ。大丈夫ですって。まあ、出たトコ勝負な部分があるのは認めますけど―――のんびりするのが目的っすからね、ゆっくり行きましょ」
屈託のない笑顔で言われて、漸く私も微笑を返した。
数分待っただけでやって来たバスの行先は『亀戸駅』となっていた。到着時刻が遅れていたのか、私達を乗せるなりすぐさま発車したのには少々驚いたが、青島と二人、貸し切り状態の車中はなかなかに楽しいものだった。
「やっぱ、ゴールデン・ウィークだけ、ありますね。まあ、元々そんなに混むような道じゃないけど、この空き具合はハンパじゃないっすよ」
確かに、私達が新木場から乗り込んで以来、通過する停留所には見事なまでに人の姿が無い。湾岸署管内とはまた少し違った雰囲気の空き地や道筋が暫く続いていたが、徐々に倉庫や工場等の建物が多くなり更に集合住宅が立ち現れるに至って、完全な住宅街の中へと突入した。さすがにここまで来ると幾つかの停留所で停車するようになり、乗客の数もそれなりに増えてくる。行儀悪く足を投げ出して一番後部の座席に陣取っていた私達は、車内の混み具合に合わせて席を詰め、身体を寄せ合った。
窓側に追いやられた青島が、互いの身体に挟まれて所在無げな自分の左手を見えない位置で私の右手にそっと重ねてきた。少し首を傾げたまま甘えるような瞳を向けられて、私の心の中にも暖かい気持ちが溢れ出し、重ねられているだけの手の指を開かせしっかり自分の指と絡ませる。混雑しているバスの中、暫し自分達二人だけの感触を確かめ合って愉しんだ。
終点で降りると、キョロキョロ辺りを見回していた青島が「あっ! あれ―――」と叫んで私の腕を取り、走り出した。通りを挟んだ反対側のターミナルに停車していたうちの一台が、どうやらお目当てのバスだったらしい。発進寸前の車体の前に飛び出して既に閉まっていた乗車口を開けさせ、しゃあしゃあと乗り込むと、「止まってくれて、ありがとーございまーす。助かりましたー」と人好きのする笑顔で礼を言ったものだから、初老の運転手も肩を竦めてみせただけだった。こういうところは本当に押しが強いというのか、図太いと言うべきか―――知らず知らずのうちに相手を自分のペースに巻き込んでしまうのには、恐れ入る。なまじ悪意や計算が無いだけに、拘わった人間の殆どが青島という人間に対して(こいつなら、しょうがないか・・・)と諦め、ある種の保護欲を掻き立てられるのはいたしかたないのかもしれないが。
走り出したバスの車内をよろけないように注意しながら、後方へと移動した。二人掛けの席に納まると、青島が私の方に向き直り話し掛けてきた。
「室井さん、都バスになんて、乗るコト、滅多に無いんじゃありません?」
そう言われれば、その通りである。役職上公用車で動く事が殆どであるし、自分の足を使う時にはJRや地下鉄といった電車の類を利用する機会の方が多い。路線バスという、ある意味で、地域に密着した交通機関と自分の日頃の行動との接点は皆無に等しいのだから仕方がないのだろうが、今までそんな事は思ってもみなかった。
「ああ。仕事では、まず利用しないし、プライヴェートでも―――乗らないな」
予想していた筈の私の科白を受けて、青島は窓の外に目を遣りながら言葉を続けた。
「まあ俺だって、普段都バスに乗る機会なんか、無いっすけどね。移動手段としちゃ、あんま早くも、正確でもないし。でも、俺、バスって結構、好きなんスよ。この路線は大通りしか通んないみたいだけど、中にはとんでもない細い道、通ったりするヤツ、あるんスよね。ホントに人ん家の軒先、掠めて行くような―――町並み、見てるのも楽しいし、そこで生活してる人達の日常も見えるみたいで、面白いっすよ」
青島の言う事は、私にも何となく判るような気がした。人と接することにあまり垣根を設けようとしない、青島らしい嗜好だとも思った。階級差の激しい警察機構の中で、彼のような、市民と同じ目線で物事を見られる警官をいつまでも『所轄』や『派出所』という名の現場に留めておくのではなく、もっと様々な部署へと登用するべきだろう。そういう人事が可能になった時、警察は初めて『権力の犬』ではなくなり本当の意味で『市民の生活を護る組織』となり得るのかもしれない。
私達を乗せたバスは隅田川を渡り、浅草雷門の前で止まった。
浅草寺の巨大な提灯を前にして、上空を振り仰ぐ。天気としてはやや曇りというところだろうか。つい先程までは、どんよりした雲の様子がまだ重たいものに感じられたが、時間が経つにつれて、徐々に白々とした色合いへと変化しつつある。このままいけば、晴れるだろう。
目だけで「こっちです」と方向を指し示す後姿に張り付くようにして人込みを掻き分け、横断歩道を渡り東武浅草駅の構内に足を踏み入れる。鬼怒川や日光への玄関口となる駅だけに多くの人間でごった返していた。既に行く先を確認したらしい青島が素早く二人分の切符を購入し、意外に高い驛舎内の天井を見上げていた私の袖口を引っ張った。
腕時計にチラリと目を遣り、時刻を確認する。1020分―――部屋を出てきたのが9時過ぎくらいだから、待ち時間や停留所までの移動分を差し引いても合計1時間近く、路線バスに揺られていたことになる。いくら新木場からダイレクトにここまで来る方法が無いといっても、電車を乗り換えて来た方が早く到着できたのでは・・・と思ったのは私だけのようで、青島の方には特に気にしている素振は見受けられなかった。
改札を抜け、右側のホームに停車していた電車に乗り込んだ。窓からの陽射しに暖められたシートに並んで腰を下ろすと、私は先程からずっと気になっていることを訊ねた。
「で、何処へ行くんだ?」
二系統の都営バスを乗り継いでやってきた場所が浅草だったことから、てっきりこの界隈でぶらぶらするのかと思いきや、目的地は別にあるらしい。青島は何か考えるようにちょっとだけ顔を顰めたが、すぐに悪戯小僧のような眼差しで笑いかけてきた。
「まあまあ。着いてからのお楽しみってコトにしときません? まだ、道中、長いっすから」
「長いって、一体どれくらい乗るんだ?」
尋問するような私の口調に、青島の表情が一瞬怯んだ。(しまった)と思うよりも早く、目の前の男はくすくすと笑い出し、私はどんな顔をしていいものか戸惑ってしまった。
「正確なトコロは、俺も判んないっすけどね、2時間半位じゃないかな」
「そんなに、乗るのか・・・」
ここから2時間半もかかるような場所が一体どういう所なのか、私にはまるで当たりがつけられない。察しのいい青島が、譲歩するように告げた。
「そっか。室井さん、コッチの路線ってあんま詳しくないみたいっすね。じゃ、ちょっとだけ、教えたげます。この電車、快速なんだけどコレで『相老』ってトコまで行く予定なんスよ」
「『あいおい』?」
「って言っても、まだ分かんないっすよね。桐生市―――群馬県です」
「??」
(余計、分からなくなったぞ?)という顔をした私を青島が面白そうに見ている。しかし、快速でもそんなに時間がかかるなら、在来線しか無い筈がないだろうという気がして、私は青島に問い質した。
「その『相老』駅まで、特急とか急行とか、運転されてないのか?」
「え・・・? ああ、特急、ありますけどね―――室井さん、カリカリしちゃ、駄目だってば・・・たまには時間に縛られないで、ゆっくり電車に乗るのも、いいもんスよ」
鳶色の瞳が(まったくもー、しょーがないな〜)というように、眇められた。
路線バスの時といい、この各駅停車に毛が生えた程度の快速電車といい、日頃一分一秒をも管理された多忙な生活を送っている私にとっては、信じられないような時間の無駄遣いのように思わされてしまうのだが、考えてみればプライヴェートで青島と一緒に行動している時くらい、『時』に束縛されたくないと常々感じていた筈だった。
青島が僅かに心配そうな顔で、私に探りを入れる。
「あ、もしかして、あんま長く電車乗ってるの、苦手だったりして―――それだったら、特急に変更・・・」
腰を浮かせかけた青島の腕を掴み、自分の傍に引き戻した。
「大丈夫だ。昔、田舎から東京に出てきた時は、秋田空港も新幹線も無かったんだからな・・・長時間乗っているのは、平気だし―――嫌いじゃない」
「ホントっすか? そんなら、いいんですけど」
にこにこと嬉しそうな顔をされて、その意味が解らずに黙っていると、青島が少し照れたように話し始めた。
「特急で行ってもいいんスけどね、なんか、こーいうフツーの電車に二人で乗るのも、いいかもなーって思って・・・特急とかだと如何にも『行楽』ってカンジで構えちゃったりするけど、コレなら毎日の生活の延長みたいで気負わなくて済むし。それに、2時間半って長そーだけど、話、してたらスグ着いちゃうと思いません?」
確かに、青島と一緒にいる時には、時計の針の進み具合がやたらと早く感じられるのは事実である。
「そっか―――そうだな」
「大体、のんびり行きましょ―――って、言ったでしょ? 俺」
浅く座り直した青島の満足そうな微笑につられて、私も小さく笑い返した。
そこそこ乗客が詰め込まれた電車がホームから滑り出した。駅を出てすぐに大きなカーブにさしかかるため、まだスピードはそれ程出ていない。隅田川にかかった鉄橋をゆっくりと這うように進んで行く中、青島は上半身だけ捩って顔を窓につけるようにしながら外の景色を見ている。その瞳が子供のように楽しそうな輝きを帯びているのがあまりに彼らしくて、何故か私は嬉しくなっていた。
「お前は、車で移動する方が好きかと思っていたが・・・」
私の独り言のような呟きに、振り返った顔が爽やかな笑顔を湛えて答えた。
「あ、車も好きですよ。そっか、次、非番が重なったら、ドライブしましょっか。それも楽しそーですしね―――ってゆーか、俺、乗り物、何でも好きなんスよ。どっか遠くへ行ける、って思うと、それだけでワクワクしちゃって・・・」
そういえば、本庁のヘリコプターにも乗りたがっていたな・・・こいつは。
「・・・子供と変わらんな、お前は」
「どーせ、ね」
庶民の足である在来線のゆったりしたスピードと小声で交わす何気ない会話に、自分の気持ちがどんどん穏やかに凪いでゆくのは何ゆえだろうか。車体から伝わってくる軽やかな振動が寄せては返す波のように一定のリズムを繰り返し、余裕の無い毎日の中で私の内部に蓄積されてしまった膿や垢を少しづつ洗い流してくれるようである。特に会話を続けようとしなくても、窓から眺める景色や昇降客達の様子や吊広告の内容など話題の糸口には事欠かないのも、在来線ならではの特徴か―――確かに、特急では、こうはいかなかったかもしれぬ。
風薫る爽やかな景色の中に溶け込むが如く走り行く電車の中で、会話の流れに任せて語り合い、時には黙ったまま窓外を眺めて。
たまには、こういう長閑さもいいものだ―――
駅に停車する度に、乗り込んでくる人数に対して降りて行く人の数が上回っていくのが、時間の経過を物語っている。このまま終点まで行くのは一体何人いるのだろう―――などと考えていた矢先、聞き覚えのある地名がアナウンスされ、同名のターミナル駅に到着したようだった。特急電車の通過待ちで、数分停車するらしい。
暫くすると何処かの高校生らしい一団がどやどやと乗り込んで来て、閑散としていた車両内の雰囲気を一変させてしまった。大きなスポーツバッグを足元に置いたまま我が物顔で座席を占領し、巫山戯合っている連中を見ていても、今の私は苛ついたりしないのが不思議だった。これも、辺りを漂うゆったりとした時間のせいだろうか。
青島が私の耳元に口を寄せ、小声で話しかけてきた。
「体育会系だろーとは思うんスけど・・・何部、ですかね?」
銘々が持っている荷物の大きさからでは判別がつかない上、体格的にも実に様々な取り揃えの一団に私達の好奇心は暫く刺激され続けたが、僅か三駅先で彼らも降りて行った。
その後ろ姿を見ながら、青島が今度は私の方に興味の矛先を向けてきた。
「ね、室井さんって、どんな高校生だったんスか?」
「どんな・・・って、普通だったと思うが・・・」
「そうだッ、話してくださいよ。俺、興味あるなー」
それだったら私だって、お前の学生時代の話は是非とも聞きたいぞ・・・
そんな風にして始まったお互いの知らない過去の話は尽きることなく、気がつくと電車は相老駅に到着していた。



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すいません…例によって、また長いです。たった1日の出来事なのに…(泣)
どうか、次も読んでください。本当に申し訳ありません…