55日、曇りのち晴れ  後編




長らく揺られてきた快速電車から降り立ち、階段を昇って、隣のホームへと足を運ぶ。観光客用の大きな近郊案内図に気を取られている私をそのままにして、青島が
「ちょっと、ここで待っててください」
というなり、駆け出して行った。後を追うのも気が引けて、そのまま案内看板の前で佇んで見上げると、『わたらせ渓谷鉄道周辺観光案内マップ』というタイトルが目に飛び込んできた。
(ああ、この名称は聞いたことがある・・・)
自分達が今いる相老駅はやや町中のようだが、ここから二つ先あたりから渡良瀬川と平行して走り、銅山で有名な足尾町まで行く旧国鉄足尾線を引き継いだ第三セクター鉄道であるという知識だけは私の記憶にもあった。
看板をざっと見渡して、駅名と観光ポイントを頭に叩き込む。この辺りで見る所といったら、寺が数箇所―――七福神巡りができるらしい―――に美術館、足尾銅山観光くらいだろうか。青島が寺社の類に興味を持っているとは思えなかったが、わざわざここまで来たのは、何か目的があってのことのような気がしてならなかった。ホーム後方の階段を駆け下りてきた青島から、わたらせ渓谷鉄道の一日乗車券を手渡されて、そう確信する。
「よかったー、あと15分くらいで、下り電車、来るみたいです。あんま、待たなくて済みそうだ」
なるほど、『出たトコ勝負』と言っていたのは、ここの接続のことだったらしい。
ばさばさと周辺案内図を拡げながら、沿線の見所をチェックしはじめた青島が楽しそうに言った。
「俺ね、一回、この線、乗ってみたかったんスよ」
その科白に私の方が驚いた。
「お前、これに乗るの、初めてなのか?」
「あ・・・はい。正真正銘、初めてっすけど―――何で?」
「いや・・・随分手慣れているから、過去にも来たことがあったのかと思った」
「んー、東武線自体は何回か使ったコト、ありますけどね・・・こっちまで来たのは、ホント、今日が初めてっすよ」
その一言に誰かと来たことがあった訳ではないことを知って、妙に安心する自分が少々情けない気もするが・・・
天上を強い風が流れ、しぶとく繋がっている白雲の塊を少しづつ千切って飛ばそうとしている。厚ぼったかったその嵩はだんだんに減らされつつ、重なり合った灰白色の隙間は強い陽射しを下界へ漏らし始めた。屋根の無いホームが田舎らしさを醸し出し、私達の足許に時折淡く、影を落としている。
程なくやってきた下り電車は、小豆色の二両編成で、普通の電車とあまり変わりがないように思えた。(パンフレットにあった写真とは違うな)と思った私の胸中を正確に探り当てた青島が、ガイドの表紙を指で示しながら言った。
「ホントはこのトロッコ列車ってヤツ、乗ってみたかったんスけどね。チケット、売り切れだって。前売り発売してるらしくて、今日分はもう無いって、言われちゃいました」
「そうか」
そんなに残念そうな顔をしたつもりはないのだが、青島が宥めるような声を出した。
「でも、どっかでコレとすれ違うかもしれないっすよ。俺、見られればいいや」
「そうだな」
多分、当人の方が乗りたかったのだろう。本当に子供みたいだな、と思いつつも、その青島が可愛くてしょうがない自分というのは相当に重症であることに気付いて、苦笑する。
車内は思ったほど混雑はしていなかった。連休最終日ということもあるのだろう、遠方からの観光客というよりは近隣からちょっと散歩がてらに訪れたという向きが多かったように思う。あいにく座ることの出来なかった私達は昇降口の近くに並んで立って、外の景色に目を遣った。
単線である為、停車した駅のうち数箇所で上り列車との待ち合わせに遭遇した。それも、都市部では考えられないような分数の待ち合わせ―――3分や4分ではなく、10分近く停車することさえあるのにも、いい加減慣れてきた。青島も私も停車する度にいったんホームへ降り立ち、外の空気を抱きかかえるように深呼吸した。都会の雑多な喧騒を忘れて、清浄な大気を全身に感じながら、改めて清々しい景観に目を見張った。
途中の駅で下車して、遅い昼食をとることにする。人気の無いロータリーを抜けて、通りを挟んだ反対側にある、いかにも食堂という感じの店の暖簾をくぐった。
覚悟はしていたが結構な混雑で、座るまでにも15分近く待たされた。立ったまま壁に貼られている品書きを見ていた青島が、観光パンフレットの沿線図に目を通していた私に囁いた。
「この奥の方の××駅の構内にレストラン、あるみたいなんスけど―――この店でこれだけ混んでるんじゃ、アッチは滅茶苦茶でしょーね・・・」
元々食事が出来るような店が少ないらしいこの界隈では、確かに、それは充分考えられることだった。こういうカンの鋭さは、刑事という職業に対する青島の適性を思わせる。席が空くのを待っている間に注文を訊かれていたおかげで、座ってから程なく料理が運ばれてきた。山で採れたものを中心とした天ぷら定食だったが、素朴な味がして美味しかった。
空腹を満たして駅に戻った私達は、発車ダイヤを確認した。元々、ゆったりと過ごすのが目的だから、電車が何時に来ようが気にしまいと思っても、そこは都会に暮らす人間の悲しさで、ついつい発着時刻を気にしてしまう。
次の電車を待つ間、私はホームの周囲にある植物の名前を順に当てていった。
ブナ、白樺、ミズナラ、山吹、オオバアサガラ、クコ、タラノキ、コシアブラ、山桜、ミヤマイラクサ―――結構、色々な種類があることに驚かされる。
青島が感心したように、目を輝かせた。
「スゴい・・・よく、そんな、スラスラと名前、出てきますね―――俺、全然、分かんないや」
「田舎で育ったからな。樹木や花の名前は知らなくてもどうということはないが、山菜やきのこの類は毒の或無が区別できないと危ないから、生活の知恵みたいなものだろう」
「そういうもんですか」
「ああ。それでも、大分忘れたな―――そこに咲いている花の名前は、ちょっと思い出せない」
「え、あれ、ツツジじゃないんスか?」
「お前な・・・ツツジだって色々種類、あるんだぞ。そこのは忘れたが、あっちに見えるのは、多分ミツバツツジだ」
青島が私の顔を見て、悪戯っぽく言った。
「ツツジって盆栽なんかにもするんでしょ? 室井さん、ウチの和久さんと話、合ったりして」
何を考えて和久指導員の名前を出したのか、今一つ理解できなかったが、楽しそうに笑う青島の顔はいつ見ても私を強く惹きつける。
やっと来た電車に乗り込むと、今度は運良く空席のボックスシートが見つかり、向かい合わせて座ることにした。窓を少し開けると、山間特有の湿り気を含んだ風が入り込んできて、初夏の息吹を充分に感じさせてくれる。
今や完全に山あいのひなびた路線という感を強めた、わたらせ渓谷鉄道は、時に木立の間をすり抜け、時に切り立った崖すれすれの位置を走りながら、更に色濃く縁取られた緑の郷の奥深くへと進んで行く。窓から見える山の頂は新緑の輝きを抱きしめ、白い雲は緩やかなスピードで後方に退いて空の青さは増していく一方だ。
時折潜る小さなトンネルの中でのみ僅かな冷気を感じるものの、上天気ともいえる午後はただ電車にのっているだけでも発汗を促し、窓ガラス越しに私達の肌をも少しづつ焼いている。
車体が揺れ、少し大きなカーブに差しかかったその時、
「あ」
「あった!」
私達は進行方向に『あるもの』を認めて口々に叫んだ。
木立の間から見え隠れする川の上空に両岸を跨ぐようにしてロープが張られており、そこには。
鯉幟―――それも沢山の。
何十匹もの鯉幟が、風を受けて渡良瀬川の上を泳いでいたのだ。
電車はゆっくりスピードを落として、ホームへ滑り込む。
駅に着くが早いか、青島が私の手を引っ張って、河原へと駆け出した。足許の小石に躓かないように気をつけながら、それこそ転がるような勢いで、水際へと走る。今考えると、そんなに慌てなくても、鯉幟は逃げたりしなかっただろうと思うのだが。
車窓から見えただけでも壮観に思えたが、間近で見上げると尚一層の迫力があった。
「これは、凄いな・・・」
私の隣で、青島が頷いたのが判った。
「前に、雑誌か何かで見た記憶があって、この沿線ってコトだけは覚えてたんスけど。どうせなら、室井さんと一緒に見れたらいいなー・・・って―――」
それで、ここまで来たのか・・・
上空ではためく鯉幟の勇姿は、真っ青な空をバックにして、本当に大海を泳いでいるようである。少しづつ違う形の、その大規模ともいえる数量に圧倒されて、私達は暫し言葉を忘れた。
「これをあんたと見たかった・・・」
青島の呟きが、私の心に沁み込んできた。
「鯉幟って、子供ん頃は東京でも結構見られた気、するんスけどね。今はマンションとか多くなっちゃったでしょ。郊外で、一戸建てがあるよーな所だと、それなりに『生息』してるんでしょーけど・・・それもなんか、覇気が無いって言うのか、埋もれちゃってるってゆーか」
確かに、都会では鯉幟をあまり見かけなくなっている。住宅事情などで、大きなものが立てられなくなっているのだろう。室内には小さなものが飾られているのかもしれないが、戸外に翻る姿を目にすることは滅多になくなった。
「でも、それがこんなに沢山あると―――なんか、嬉しくなりません?」
私の方を見た青島が、鮮やかに笑ってみせた。
「別に理由なんて、無いんスけどね」
そう、理由など要らないのだ。
遠くへ行く電車に乗ることが、なぜかわくわするように。雲一つない大空にその身を躍らせる沢山の鯉幟を見上げて、無性に嬉しくなるように。
何故、青島がここまで私を引っ張ってきたのか、今は判る。
新緑が眩しい山肌と、僅かに湿気を含んだ心地よい風と、微かに聞こえてくるせせらぎの音。
川面にその姿を映す、何十もの鯉幟。
ただ、それを見るためだけに、贅沢ともいえる時間の使い方をして。
だがそれが、私には必要なことだったのだ。
様々に入り組んだ『日常』という名の惰性に骨の髄までしゃぶり取られて身動きが出来なくなる前に、やわらかな輝きを放つ新緑と光る風に包まれながら、心と身体の両方を休ませ、自然の懐に抱かれて。
自分の中で幾重にも鬱屈した負の感情が綺麗に洗い流されて浄化されてゆく。目の前の景色と、ゆるやかに流れる時間と、青島―――お前という存在に、手伝われて。理屈では推し量れない、自然に沸き上がってくる感情に対して、時には素直になることの大切さに気付く。
それは、こんなにゆったりした穏やかな一日の中で、初めて可能になるものなのか。
天からの風を孕んだ鯉幟が、蒼穹ではたはたと音を立てている。
長閑さの中にもしなやかな力強さを感じさせるその姿は、今、私の隣にいる男を思わせて。
青島。
お前はいつも様々な方法で、私に力をくれる。
言葉だったり、態度だったり、行動だったり―――実に沢山のやり方で、私を勇気づけ、支え、助けてくれる。
何とはない小旅行が私の中に与えてくれた新鮮な驚きと感動にも、こんなに心から寛ぎ満ち足りた時をくれるお前が傍にいてくれることにも、ただひたすら感謝せずにはいられなくなる。
私にとって、唯一無二の―――絶対に失ってはならない存在。
お前にとって私といる時間が、私が思っているのと同じくらい大切に感じられるのであればいいのだが。
私達の間をゆるりと影が揺れたような気がして、青島の方へと顔を捩った。同じく気配を感じたらしい瞳が、私の視線を捉えて緩くさざめく。
「たまには、こーいうのも、いいでしょ?」
きらきらと水面に輝く光を受け、花が咲き零れるようにふわりと微笑んだ顔が、一段とあでやかに思えた。その柔らかな表情が、周りの風景と綺麗に調和して、私の心と目頭を共に熱くした。
「こうしていると、何故か気持ちが落ち着くな―――心が洗われる・・・」
頸が痛くなるほどに空を見上げて、幾十もの鯉幟が風に煽られて飛び跳ねるように躍る姿に、吸い込まれそうになる。隣で同じように上空を仰ぎ見はじめた姿が、呑気な声で語りかけてきた。
「ホントは鯉幟、あるかどうか、自信無かったんスけどね―――何しろ、写真見たの、大分前だから。影もカタチも無かったら、どーしよーかと・・・」
その如何にも青島らしい科白に吹き出しそうになり、必死で抑えたが―――間に合わず、くぐもった音を喉で詰まらせた私に、拗ねた表情を見せた青島が恨みがましく言った。
「あ、ひでーや・・・どーせ、俺のやることだから、行き当たりばったりだと思ってたんでしょ?」
「い、いや―――それは・・・」
「・・・ま、いいっすけどね」
それでも5月の風を受けて揺らめく、ごく淡く、たおやかに微笑んだその顔が、少し照れくさそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。
「室井さんが楽しかったんなら、良かったっすよ―――俺としては。 ここまで、来た甲斐、ありました」
「ああ。お前のお陰だ―――ありがとう」
「やだなー、別に礼、言われる筋合いじゃ、無いですって。俺だって、見たかったんだから―――山ほどの、鯉幟」
顔を見合わせて笑い合い、私達は駅の方へと引き返し始めた。
そのまま内緒話をするように、青島が小さな声で話しかけてくる。
「ね、室井さん。温泉、入っていきません?」
「温泉・・・って、この近くに、あるのか?」
「近くも何も、ソコのホーム内に立ち寄り湯、あるんスけど―――あっ、コレはちゃんと前もって、ここにあること、調べてあったんスからねッ」
弁解よろしく大声を出した顔を横目に見て一旦歩みを止めた私は、青島の背中を軽く叩きながら「分かった、分かった」という風に頷き、宥めた。
「室井さ〜ん、ホントなんスから」
信じてくださいってば―――と、こちらの目線に高さを合わせながらまだ言い募る青島に向かって、笑いかけた。
「別に、そんなのは、どっちでもいいことだろう」
青島がきょとんして、目を見開く。
「時間に縛られずにゆっくり出来て、昼飯も美味かったし、自然も満喫した。更に、これから温泉にも浸かる―――計画のうちだろうが偶然の結果だろうが、上等の休日になったんだから、これで良かったんじゃないのか?」
「ホントに、そう思ってくれてます・・・?」
「ああ」
まだ不安そうに、私の様子を窺う瞳を見据え、声を潜めて告白する。
―――大体俺は、お前が傍にいてくれるだけで、嬉しいんだ・・・
青島の顔に赤みが差してきたのを視界の隅に認めて、私は先に歩き出した。
「あ―――温泉入ったら、俺、背中、流しますね・・・って、チョット、室井さん、聞いてんスかー?」
後ろから追いかけてくる声が、幸せそうに聞こえるのは、己の自惚れではないと信じたい。身体ごと振返ると、私はわざと顰めつらしい顔を作り、言葉を返した。
「・・・大声、出すな。ちゃんと、聞こえてる―――分かったから、早く、来い」
「はいっ」
嬉しそうな返事をしてこちらへと駆け寄ってくる姿が、眩しく輝いて見えて、私は思わず目を眇めていた。

(1999/5/11)


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しかし、長い…もう、どうして長い話しか書けないんだ、自分…(泣)
本当は、駅構内の温泉『せせらぎの湯』に浸かって、二人で背中の流しっこ(笑)するところまで、書きたかったんだけど…あまりの字数に、諦めました。室井さんが駅構内の植物の名前を次々に当てていく箇所は、元々はきのこに対する蘊蓄を語らせるつもりだったんですが(意外と、詳しそうですよね)、これ以上話を長くしたくなくてこちらもカットする羽目に…
実は、わたらせ渓谷鉄道に乗ったのは一年前の
GW(悲しい…)なので、とにかく思い出に頼ってます。細かい間違いは、許してください。今年は花見どころかGWもロクに休めず、またもや二人に旅行してもらいました(泣)