彼氏彼女の事情 1
Act.1 青島 俊作
ぽかぽかと陽気のいい日が続いている。
俺の勤務するこの警視庁湾岸署刑事課も、いつにもまして平穏な空気に包まれ、あまりの長閑さに睡魔と闘う気力も萎えそうだ。
今、午後2時を少しまわったばかりである。午前中は傷害が1件―――ネオジオ・ワールドの入場待ちで並んでいた赤の他人同士がちょっと肩が触れただけで押した押さないの言い争いになり、挙句取っ組み合いのケンカをおっぱじめ、止めに入った従業員を殴り飛ばして全治三日の怪我を負わせたのだ―――それから、今の今まで、事件は何一つ起きていない。
世の中、平和なのはいいんだけどさ―――目の前には書類の山、山、山・・・
隣で俺以上に眠そうな顔をしている和久さんと、目が合った。
「青島ァ、刑事というものはだなぁ、書類書きの毎日だって、いっつも言ってるだろうが。まったく、こんなに溜めやがって・・・」
あー・・・気まずいからって、いきなり説教することないっしょ、もう。
多分、不貞腐れた表情になってるに違いない俺の顔を前の席から雪乃さんが覗き込むようにして、慰めてくれた。
「でも青島さん、丁度良かったじゃないですか。何かあっても外に行けないんですから・・・今のうちに全部片付けちゃえば、すっきりしますよ」
はいはい、ごもっとも。
そう・・・実は今、俺は、事件が起きても捜査に出られない―――内勤を命じられているのである。
なんでかって? 話は三日前に溯る。
その日、通報を受けた俺と魚住さんは江葉町のとある居酒屋へと出向いて行った。したたかに酔っ払って店の備品を痛めつけている若い男を取り押さえ、署までご同行願おうとしたその時、そいつが俺の左目に綺麗なストレートパンチをお見舞いしてくれたのだ。尚も暴れているその男を二人がかりでしょっ引いて来たところ、刑事部屋に残っていた皆から同情と憐憫の眼差しを向けられたくらいだから、余程ヒドい顔してたんだろう。取調べを魚住さんに任せて、俺は固く絞った濡れタオルを顔の左半分に当てながら、一足、お先に帰らせてもらった。
翌日―――つまり一昨日の朝、起きた時に左目の瞼が腫れぼったいようなカンジがしたんだけど、前の日のパンチがまだ効いているのかな・・・と思って、気にしなかった。出勤するなり、いつもお気楽な袴田課長に「青島君どうしたの? その顔」と訊かれたので、犯人引っ張ってくる時に殴られたと言ったら目を丸くして妙に納得した顔で、うんうんと頷かれた。そのまま課長の視線の先を辿っていくと、下顎にくっきりと痣をこさえた係長代理の顔が―――あいつ、魚住さんのことも殴ったのか・・・罪状に公務執行妨害、プラス確定だな。
前夜、大暴れした酔払い男のことを知っている人達は、俺と魚住さんを気の毒そうに見遣りそれ以上の事は訊いてこなかったし、この日はトータルで傷害2件に強盗1件と強盗未遂1件、暴行1件―――と強行犯係の人数に対して(真下が非番だったのだ)、結構多い事件数をこなすこととなり、とにかく慌ただしかった。それでも午前中は大して気にならなかった左目が午後になるとさすがに重たくなってきて、俺はとうとう駅前の総合クリニックへと足を向けた。
看てくれたのは若い男の先生で、前の日に殴られた話をしたら眼球検査をざっとしてくれた。
「はやり目の可能性もありますが、今は何とも言えませんねぇ。殴られた腫れが引くのが単に長びいているだけかもしれませんし・・・明日になったらはっきりすると思いますから、もう一度来てください」
チョット頼りない診察だなーとは思ったけど時間が無かったので、消毒液と脱脂綿みたいなものを出してもらってオッケーとしたのが大きな間違いだったと解るのはそれから15時間も後のことだった。
昨日の朝7時。さすがの俺も鏡を見てビックリした。左目の瞼ぜんたいが赤く腫れ上がっていて、これじゃどう見てもお岩さんの親戚である。おまけに瞬きすると目の周囲の筋肉が引き攣って、痛い。ソッコーで病院へ行こうと思い、保険証を探すが見当たらない。ドコ、やったっけ―――と暫く考えて、思い出した。昨日使って、署の机の抽斗に入れっぱなしのまま帰ってきちゃったんだ・・・だって勤務中の方が、怪我やなんかで病院のお世話になる確率高いもんね、この仕事。仕方がないので、一応、出勤することにした。それに電話でゴチャゴチャ言うよりこの顔、見せた方が、すんなり病院に行かしてくれるだろうと考えたのである。
湾岸署に着くが早いか、まず真下にとっ捕まってしまった。
「先輩!! どうしたんですか、その顔?!」
心配そうに後をくっついて来る真下に、
「おととい殴られた迹、ヒドくなったみたいでさ―――昨日、一応医者行ったんだけど」
と説明してから、自分の席についた。抽斗を開けて一通り中を引っ掻き回すと探し物が比較的早く見つかったので、ホッとする。続いて課長の姿を捜したが、まだ来ていないのか見当たらない。キョロキョロしている最中に通りかかったすみれさんが俺の顔を見て目を剥いた。
「うわぁ、青島くん・・・ちょっと、随分じゃない? その左目」
その声につられて顔を上げた魚住さんが、俺の方を見た。あ、アッチは顎の腫れ、大分引いてる。いいなぁ・・・
魚住さんが怖い顔をして席を立つと、つかつかと傍へやって来た。そしていきなり俺の顎に手をかけ上向かせ、腫れ上がった左瞼をジッと凝視してからこう言ったのである。
「青島君。これ、ものもらいだよ」
「は? ものもらい・・・?」
「ウン、間違いない。この季節、多いからね。そういえば、昨日病院行ったんじゃなかったっけ―――何処の眼科?」
「えっと、お台場総合クリニック・・・」
ひょっとして初めて見るかもしれない、魚住さんの真剣な表情を目の当たりにしてタジタジになりながらも、俺は大人しく答えた。脇で真下が硬直してたみたいだけど、無視無視。
魚住さんはその答えにちょっと顔を顰めて、俺の顔から手を離した。
「―――あそこ、今、眼科はインターン生が診察してるらしいんだよ。まずいトコ、行っちゃったね・・・そうだ、ここからちょっと遠いけど、東雲の臨海眼科に行ってきなさい。今日だったら、高橋先生って優秀な女医さんがいる筈だから」
え、インターンが一人で診察って・・・そんなん、アリ?
「く、詳しいっすね・・・」
「ウチの上の子も、あのクリニックの診察じゃ役に立たなくて、其処の先生に看てもらったの―――丁度、一週間前ね」
あ、ナルホド―――道理で、ね・・・
「課長には言っといてあげるから、今のうちにホラ、行って」
珍しく強気の係長代理に追い立てられて、俺は保険証片手にさっさと刑事部屋を出て玄関へ向かった。
東京テレポート駅から僅か二つ目の東雲駅に降り立って、すぐ視界に入ってくる白地に緑文字の看板が目印の『臨海眼科』の高橋先生は、俺の顔を見るなり「あらまー、可哀相に」を連発した。40歳くらいのきびきびした優しいおばさん(30過ぎの俺が40代の女性にむかって『おばさん』って言うのは、よく考えると失礼かもしれない)で、俺の顔を診察台のような機械に乗せて左目の辺りを固定すると、
「ちょっと痛いかもしれないけど、男なんだから我慢しなさいよ」
と言って腫れ上がった瞼をひっくり返した。
「・・・ッ・・・!!」
ほんっとに、痛い・・・涙、出てきた・・・
先生は診察を続けながら、俺に訊いた。
「これは、ひどいなあ・・・昨日、別の病院に行ったって言ってたよね。其処では切ってくれなかったの?」
「あ・・・はやり目かもしれないから、もう一日様子、見ましょうって・・・」
「ったく、どういう先生よ―――これ、間違いなく麦粒種よ」
へ・・・? バクリュウ・・・?
「麦粒種。つまり、ものもらい―――昨日、切っといて貰えれば、こんなにひどくならなかったでしょうに」
魚住さん、ビンゴ―――やっぱ、昨日の若いセンセはバリバリのインターンだったみたいっすね・・・
「今から切るけど、痛かったら痛いって言っていいわよ。今度は」
俺は右目だけで頷き、高橋先生の手に診察台の上の左目を預けた。
時間にしてものの数分のことだったんだろうけれど、あまりの痛みに感覚が麻痺してしまった。
呆然としていると肩をポンポンと叩かれて、手術(っていうんだろうか、コレ)が終わったことを知らされる。その後、膨れ上がった左瞼を覆うようにガーゼを当て、眼帯をしてくれた。
「腫れが引くまで眼帯してた方がいいわよ。前髪、左目にさわると辛いでしょ。瞼中に膿が散らばっちゃってるから、治るのに少しかかるかもしれないなあ。もっと早くに切っていればねぇ―――しょうがないから、ちょっと強い抗生物質、使いましょう。五日分、出しときますからね。それから、点眼液―――目薬ね、これは殺菌用だから、一日五〜六回を目安に使って。暫く膿が出てくるだろうから、さす前に目の中、軽く拭くのよ。あと軟膏もね。瞼の上と内側の切ったとこに塗るの―――こっちは、一日二回」
一気にまくしたてられて、漸くマトモなお医者さんに看てもらっている実感が湧いてきた。一体、昨日の診察、何だったんだよ・・・?
「ところで・・・瞬きすると、まだ痛い?」
先生が、涙目になっている俺の左目を覗き込んだ。
「はい、痛いです・・・」
「そう―――ここまで腫れてるものねー、痛むのも無理ないか・・・」
ちょっと困ったような顔をすると、高橋先生は診察机の上に置いてあったぶ厚い辞書みたいな本を手にとって何か調べはじめた。
「青島さん、薬のアレルギーは特に無いよね? じゃあ、鎮痛剤も出しましょう」
なんか、凄いコトになってしまった。抗生物質に目薬に軟膏、おまけに鎮痛剤・・・
「抗生物質が効き出したら要らなくなると思うけど、今日明日くらいはまだ痛みが引かないかもしれないから・・・よし、三日分処方しといてあげる。飲んでる間は若干眠気を催すからね、運転しちゃ駄目よ。じゃあ、お大事に」
サバサバした女先生にお礼を言って『臨海眼科』を後にしたのはお昼近くなっていた。
海賊の手下よろしく眼帯をした俺が署に戻ると、皆が物珍しいモノでも見るようにわらわらと傍に寄ってきた。高橋先生のテキパキした診察のことを語ると、魚住さんは満足そうに頷き、雪乃さんは係内で作っている電話番号早見一覧に早速『臨海眼科』の番号を転記した。和久さんが魚住さんに「おい、腰痛にいい病院は知らねぇのか?」と縋っている。
―――と、ここまでは、よかったのである。問題はこの後、起きた。
昼食から戻ってきた俺の顔を見た袴田課長が、たばかるように内勤を命じたのだ。
「ちょっと、何でですか? 俺、身体の方は何ともないっすよ?!」
噛み付く俺の視線を避けながら、課長が一応、尤もらしいらしい建前を持ち出す。
「だって青島君、眼帯した顔で尾行とか張り込みとか、目立ってしょうがないでしょ? 聞き込みなんか行ってごらんなさいよ、かえって不審人物に間違われるのが関の山だよ。それよりも」
睨み付けてる俺の右目を正面からしっかり見据えて言われた―――コレぞ本心。
「捜査報告書に残業報告書に領収書の精算―――溜まってんだよ! キミの! この機会にきれいさっぱり、全部出してね!!」
確かに・・・これを言われると、グゥの音も出ない。頭では理解しても不満タラタラな俺の心は、係のみんなからの説得を受けて、渋々各種報告書作成に向けさせられた。そして、今日の午後まで苦手な書類書きに勤しんでいる訳である。
でも、こんなに天気がいいと、机に向かってるのがムナシくなっちゃうんだよなー・・・
どっちみち事件は何も起きてないんだから、俺以外の人達もみんな自分の席で書類書きに準ずるようなコトしてるしかない訳で・・・要するに無茶苦茶ヒマ、なのだ。
後ろですみれさんが伸びをする。
「あ〜あ、外は上天気なのに、屋内で仕事しなきゃいけないなんて、悲しいわねー」
ホント、俺も同感っす。
「きっと海沿いの風、気持ちいいわよぉ・・・あー、こういう日にこそ、デートした〜い」
「あ、彼氏出来た? いつの間に?」
つい、振り向いて訊いてしまった。恨めしそうな目がこっちを見てる。
「普段の生活考えたら、出来る訳ナイでしょ? 誰かイイ男、紹介して」
・・・だろーな、やっぱり。それにしても、これ以上机に向かってたら本当に眠っちゃいそ・・・気分転換、必要だよね。ヤケクソ半分お愛想半分の科白がポロリと口をついて出た。
「いるじゃない、ここに一人。そだ、すみれさん、今晩デートしない? このままいけば今日、定時で上がれそうだし」
「あのね、青島くん。あたし、デートは恋人とするんじゃなきゃ、ヤなの」
形の良い、透明感のある瞳がキッと下方から掬い上げるようにして、俺の心を見透かす如くに射すくめる。
すみれさんの視線に(心にも無いコト、口にすんじゃないわよ)と言われたようで、ドキリとした。
そう―――俺が本当にデートしたい相手は別にいる。
大体、今日みたいに平和でお天気が良くて、目の前の仕事にもすっかり飽き飽きしちゃって―――この状態で好きな人のことを考えるな、って方が無理だ。もう、俺の頭の中には、室井さんのことしか思い浮かんでこない。
そういえば、何日逢ってないんだろ―――室井さんと・・・
所轄から見れば、雲の上にいるようなあの人が忙しいのは解ってる。尤も俺達支店の人間だって、次から次へと湧いて出てくる我らが空き地署管内の事件の数々に引っ張り回されている毎日の方が圧倒的に多い。たまたまこの二日間が平和なだけであって―――
でも、どんなに忙しい時でも、心のどっかが、いつも室井さんのことを考えている。今何してるのかな、とか、何処にいるのかな、とか、俺のことチョットは思い出してくれる時間あるのかな、とか・・・
よく、忙しさを理由にして逢えないとか電話する時間も無いとか言い訳する奴がいるけど、それは相手のことをそこまで好きじゃないからじゃないだろうか。まあ、昔は俺もエラそーなコト言えた義理じゃ無かったっけ・・・営業をやっていた頃付き合ってた彼女には、しょっ中それで文句言われてたし。
でも本当に惚れた相手だったら、どんなに忙しくても毎日顔を見たいし、それが駄目なら声だけでも聞きたい。一日に最低でも一回は電話する時間ぐらい捻り出す努力をする筈だ―――通話時間はそんなに取れないにしても。
室井さんを好きになって、大切に思うようになって、俺には解ったことがある。そりゃ、事件の真っ只中に飛び込んでいって抵抗する被疑者を押え込んでいるその瞬間には、他の事なんか考えられないし目の前の職務遂行だけに集中している。だけどそうじゃない時は、俺の中にいつも室井さんがいて―――室井さんのことを考えているというよりも、あらゆる瞬間に俺の中であの人が顔を出すって言えばいいんだろうか―――それくらい、俺にとって室井さんの存在が大きく、切り離せないものになってしまったということだ。
付き合い出してまだそんなに経った訳じゃないから、いつ室井さんに逢っても新しい発見があって新鮮な気持ちになる。俺の知らなかったあの人を知る度にどんどんその魅力に惹きつけられていく。逢って声を聞いて、手を触れてキスして・・・俺の指が室井さんを抱きしめ、室井さんの手が俺を捕らえる感触の一つ一つを思い出す度に、身体の奥の何処かが熱く切なく痺れて心臓がドキドキと高鳴り、一人で焦ってしまうことさえある。
忙しくて逢える間隔が空いても、室井さんのことを考えている時間が俺に力を与えてくれる。あんたのことを想う僅かな時間があるだけで、俺は自分の中のどこかよく分からないトコロがあったかくなって幸せになれる。
だから、こんな長閑な午後は、室井さんと一緒にいたい―――心地よい海からの風を肌に感じながら、なんにも考えないで二人、ただ肩を寄せ合っていられれば、それだけでいいのに。
一応、毎日電話で声を聞いてはいるんだけど(でも、時間帯が合わないから留守電のメッセージをお互いに吹き込んで、それを聞くばっかだ)、やっぱ、直接、逢いたいよ・・・
その時、刑事部屋の外の方で耳慣れた二つの声が何か言い争いながら、こちらに近付いてくるのが聞こえてきた。一人は森下君で、今日、午後から立ち番していた筈だ。そしてもう一人―――まさか、この声は・・・?
「いや、自分で借りに行けますから・・・結構です、お構いなく」
困っているような・・・と言うよりも、面倒をかけるのは申し訳ないという感じのその声は、今、俺が一番逢いたくてたまらない人―――間違いなく、室井さんのものだった。
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ふって沸いた暇な時間を持て余す強行犯係の面々(笑)
次の語り手は、真下くんです。
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