彼氏彼女の事情  2




Act.2  真下 正義

「ふぁ〜〜・・・っと・・・」
思わず大きく欠伸をしそうになって、斜め前方席の雪乃さんから睨まれた。
昨日今日と、のんびりした時間が刑事課中に蔓延している。
午後の穏やかな陽光が南側の窓からたっぷりと射し込んできて、僕の席から向かって左側の方に座っている青島先輩も和久さんもかなり眠そうだ。特に先輩―――左目を眼帯で隠しているせいか、右目がとろんとしているのが余計に強調されて見える。襟元を緩めた気怠げな雰囲気と相俟って、もの凄く色気を感じてしまうのはやっぱり惚れた弱みだろうか。
それにしても、今日は平和だ。午前中に1件、通報があっただけである。
まあ、振り返ってみれば昨日も平和な一日だったのだが―――僕個人は朝一番で青島先輩のヒドく腫れた左目に遭遇して、驚きのあまりオタオタしてしまったっけ。
見るからに瞼が重そうだった先輩としては相当辛いのを我慢してたんだろうけど、魚住さんの前にあんな無防備な顔を晒すなんて―――無事な右目の方だけほんの少し薄目を開けているような感じで、長い睫が被さるように伏せられて。顎を突き出し気味にしているせいで、唇が僅かに開いて―――
せっ、せんぱい・・・その顔、色っぽすぎます―――もう、心臓が止まるかと思うほど、焦っちゃったじゃないですか!
魚住さんの見立てで、多分『ものもらい』だからちゃんとした眼科に行った方がいいということになり、腕の確かな女医さんがいるという『臨海眼科』へ行って帰ってきた青島先輩は大分楽になったみたいで、僕はホッと胸をなで下ろした。
しかし午後には、新たな災難が先輩を待ち受けていた。なんと、袴田課長から内勤を言い渡されてしまったのである。 実際、眼帯をして片目だけの状態で普段と同じように動き回るのは、いくら青島先輩と言えどもシンドいだろう。課長にもそれぐらいの親心はあったと思うが、何よりも溜りまくっている未提出の各種報告書作成の方に重きを置かれたことが、先輩のご機嫌をいたくナナメにした。
課長の剣幕に気圧されて黙ってはいるものの、完全に膨れっ面の青島先輩を強行犯係全員で宥めすかした。
「まあまあ、先輩。課長の言うことも一理ありますから。今のうちに溜まってる報告書、仕上げといた方がいいですよ」
まず僕が、上司として進言する。
「そうですよ。私、青島さんが内勤している間は、大きい事件が起こらないよう、お祈りしててあげます」
と、雪乃さん。その『お祈り』が効いたのか、午後は暴行通報1件だけで済み―――それも起訴取り下げになった。
「眼帯してる間は距離感が掴みにくいし、いつもと同じつもりでも無事な方の目が絶対疲れるからね。無理は禁物だよ」
朝から青島先輩の保護者のようになってしまった魚住係長代理は、多分お子さんの時と同じ、気遣いをする。
「・・・ったく、ガキじゃ、あるめぇし。そんなに、ムクれんじゃねぇ。その眼帯、取れるまでは大人しく書類書きしてろってんだ。いいな? 青島」
最後は和久さんが年長者の貫禄たっぷりに説教し、その場を締めてくれた。
そんな訳で昨日の午後から今日の午前中まで、青島先輩はずっと報告書を書き続けていたのである。
とはいえ人間の集中力には限界があり、昼過ぎの満たされたお腹と暖かな陽射しと通報一つない泰平な午後と―――三拍子揃えば、ウトウトしたくなるのは当然だろう。別に青島先輩に限ったことではなく、強行犯係はおろか刑事課全員総崩れになる寸前、外の廊下の方で声がした。
この席からは刑事部屋の入り口が見渡せる。首だけ捩って廊下の方を見た僕の目に飛び込んできたのは、森下巡査と―――あろうことか、室井さんだった。
「室井参事官がお見えになりましたッ!」
森下巡査が刑事課長席へ駆け込むようにして叫んだのと、袴田課長が椅子から立ちあがって室井さんのいる方へ転がり出たのは殆ど同時だった。そして刑事課の人間全員が顔を上げ、各々の席から警察庁刑事局参事官の姿を目で追った。
「これはこれは。室井参事官、ようこそ湾岸署へ―――お久しぶりですな。今日は、誠にいい天気で・・・」
完全接待モードに切り替わった課長は、室井さんにぺこぺこしながらも、目で署長と副署長に知らせるよう合図を送ったんだろう―――森下巡査が数回頷くと、部屋を飛び出して行った。
いつもきちんとした格好をしている室井さんだが、さすがにこの陽気では暑いとみえて、上着を脱いで手にかけている。それでも襟元はきっちりと詰められジレのボタンは全部嵌められていて、本当にカッコイイ。チラと青島先輩に目をやると、案の定ポカンと口を開けて室井さんの姿に見蕩れているみたいだ。
室井さんはサッと部屋中に目を走らせたのち、とある一箇所を見つめて、その大きな黒い瞳を少しだけ見開いた。視線の行先は辿らずとも判る。室井さんの眼差しの先にあるのは、どうせ、青島先輩の顔に決まってるんだから。
僅かな驚きと大いなる困惑が入り交じった表情が室井さんの顔を蔽った。真っ昼間のこの時間に刑事課の面々が全員着席している光景に明らかに戸惑っているようである。
黙っている室井さんを前にして、愛想笑いを顔中に貼り付けた課長が言い訳するように説明した。
「いやぁ、本日は平和でしてねぇ、午前中に1件通報があっただけでして・・・こんな上天気ですから、犯罪者共も騒ぎを起こすのに気がひけてるんでしょうかねぇ」
「ああ、それで・・・」
室井さんが納得したように小さく溜息を吐いた。気を取り直して袴田課長に向かい、用件を告げる。
「今日は過去の捜査資料を捜しにまいりました。資料室の鍵をお借りしたいのですが」
その時、急に外が騒がしくなったかと思うと、神田署長と秋山副署長の迷コンビが森下巡査を従えての登場となった。
室井さんの眉間に皺がくっきりと刻まれた。その気持ちは僕にも、よ〜〜〜く解る。
「いや〜どうも・・・今日は、いいお天気でございますねぇ」
課長と同じようなことを言いながら、署長が室井さんにすり寄ってきた。
室井さんは諦めたように天井を見上げた。そのままの姿勢で上を睨み付ける。
「こんな日に我が署へお立ち寄りいただけるとは、私共、誠に光栄の至りでして・・・で、本日は如何されましたかな?」
揉み手しながら愛想を振りまく署長に、室井さんは今度ははっきりと大きく溜息を吐いたようだった。そのまま何も言わない多忙な参事官の疲れたような様子をジッと窺っていた副署長が失礼なことを口にした。
「ま、まさか、また青島君が何か・・・?」
この一言に先輩がムッとして顔を上げる。でも、黙ったままだ。
「いえ・・・ただ、資料を捜しにきただけですので、ご心配なく。それより、鍵をお貸しいただけないでしょうか」
三人の接待攻勢からなんとか逃れようと、室井さんも必死である。しかしこれくらいで諦めるようなら、三人まとめて『スリーアミーゴス』なんて仇名、つかないだろう。なんとか接待しようと、なおも署長が食い下がる。
「そういえば、今日はお一人でこちらに?」
「ええ、そうです」
今や室井さんも、うんざりした口調を隠さない。そして、このあと神田署長がとんでもないことを口走ったのだ。 「それでしたら、お帰りの際には是非ウチでお車を出しましょう! ええと―――青島君、キミ、今までにも室井さんの運転手やってるよね? 慣れてるから丁度いいんじゃない? 袴田君、今日刑事課、暇なんでしょ? いいよね?」
「え、俺?」
思いがけない展開に強行犯係の全員と室井さんが固まった。当の青島先輩は一瞬きょとんとしたが、すぐにパァッと嬉しそうに笑顔を綻ばせた。
「あ、はいはい!やります、運転手! こんな天気いいのに、外、出して貰えないから辛くって・・・いいっすね? 課長」
昨日からの一連の事情を知らない神田署長と秋山副署長はニコニコと頷いた。袴田課長までもが危うく頷きそうになっているのを見た僕ら強行犯係一同の脳味噌が徐々に覚醒し、この無分別な提案に全員一致で反対の意を表明した。
「おい、そいつぁ、駄目だ」
「いや、課長、ちょっとまずいでしょう」
「そんな、無茶ですよ!」
「運転なんて、絶対に駄目です!!」
和久さん / 魚住さん / / 雪乃さんが揃って口々に叫んだ。
状況がまるきり呑み込めないままの室井さんはその場に立ち尽くし、せっかくの接待案を潰されそうになった署長と副署長が慌てて僕らの傍に寄ってくる。
「ちょっと、ちょっと、何で青島君、だめなの?」
と署長。
「袴田君、どういうことだね」
副署長も負けていない。
「は・・・実はですね―――」 上二人にはとことん弱い課長は、もう汗をかきはじめている。
「大体、あの眼帯、なによ? 彼、どっか怪我でもしたの?」
一目見れば判る、これだけはっきりした事実に今ごろ気付くところが、ウチのトップらしいと言えばらしいんだけど・・・
「それが、三日前、被疑者を連行してくる際に殴られまして・・・」
課長のその言葉を聞いた室井さんの顔があからさまに曇ったのを僕は見逃さなかったけど、今はそれどころじゃない。
痺れを切らした和久さんがまず吠えた。
「んなこたぁ、どうでもいいんだよ。とにかく眼帯してるってのは、片目でしか物が見れねぇってことだ。そんなんで、運転なんかさせてみろ。危なくって、しょうがねぇ」
魚住さんが理論に裏付けされた解説を付け加える。
「ただでさえ視界が狭くなっているところへ右目だけで全体を見ようとしますからね、左側への注意が散漫になるんですよ。それに遠近感が、普段感じているのと大分違います。普通に歩いてても、足元が結構、狂うもんなんです」
「そうですよ。さっきだって、階段のところでコケてたくらいなんですから」
と、これは僕。
「おい、真下!」
先輩が僕に(余計なコト、言うんじゃねーよ)と右目だけで圧力をかけてくる。
「だって、ホントのことじゃ、ないですか―――そんな状態で運転手やって、もし事故になって室井さんに怪我でもさせたら、署長の栄転、永久に無くなりますね」
先輩にそんな危ない運転をしてもらいたくないというのも本心だけど、例え運転席と後部座席に別れていたにしても、青島先輩と室井さんが車という密室で二人っきりになることの方が、僕には我慢できなかった。
「そうねぇ―――確かにそりゃ、まずいよねぇ」
と署長。大体、先輩の眼帯見たらまず、運転は無理だって思うのがフツーですよ。
「もしも青島君が事故でも起こしたら、我々の責任問題に発展します」
副署長、そんなの当たり前です! あんた達の業務命令でするんですからね。
「とりあえず、そういう事情ですので、彼に運転させるというのはちょっと・・・」
あの〜、課長・・・僕らが反対する前にとっとと止めてくれりゃ、いいでしょう。上司なんだから、それくらいしてくださいよ。
「じゃ、眼帯、取って運転すりゃ、いいんでしょ?」
さっきから一人、蚊帳の外に追いやられていた青島先輩の思いっきり拗ねた声が割り込んできた。
「もー、外、行かせて下さいよ。チョットくらい、いいじゃないスか。報告書書くの、飽きちゃったし・・・」
哀願するように見上げる鳶色の瞳が、僕ら一同に向けられた。青島先輩のその科白から、単に二日間の内勤で欲求不満が溜まっているだけではない、ある想いに気がついて、僕は胸が締め付けられそうになった。
先輩、そんなに室井さんと二人っきりになりたいんですか・・・?
今や部屋にいる全員が、この接待案の落ち着く先を息を潜めて見守ることになってしまった。接待される側の室井さんも場の雰囲気にすっかり圧されてしまい、呆然と僕らを見つめている。
先輩が焦れたように追い討ちをかけた。
「ね、いいでしょ? 室井さん、送り届けたら、真っ直ぐ帰ってきますって」
しかし、その青島先輩のささやかな望みを打ち砕いたのは、雪乃さんだった。
「青島さん! 駄目ったら、駄目です!!」
そういえば、さっき一番真剣な声で反対したのは彼女だったことを思い出す。 眼帯取って運転するなら、いいかも―――と青島先輩の必死のおねだり目線にほだされそうになっていた一同が、声の主を見つめた。皆の視線を受けた雪乃さんは、呆れたように深く溜息を吐いた。
「だって青島さん、鎮痛剤、服用しているじゃないですか。車の運転しちゃ駄目だって眼科の先生に注意されてるって、言ってませんでした?」
雪乃さん―――それ、間違いなくビンゴ・・・
さすがにそれを聞いた途端、僕は先輩が気の毒になってしまった。
が、その同情が必要無かったことは、この後すぐに判明するのである。



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果たして、室井さんはこの窮状を脱することができるのか?!
三番手は、すみれさんにお願いしました。