風邪  前編




朝、起きた時から喉の調子がヘンだった。
被疑者の取調べ中に咳込んではじめて、青島俊作はそのことに思い当たった。

前の晩から、喉の奥がチリチリと音をたてているような感触があった。痰が引っかかるようになる、少し前の兆候のようだった。(こりゃあ、風邪かな? 署内でも流行ってるし・・・)とは思ったものの、寝酒をひっかけて布団に潜り込んだ時にはそんな思いはどこかに吹き飛んでいた。明日の本庁での報告会のことがチラッと頭を掠めたが、常日頃オーバーワーク気味な身体はあっさりと眠りの中に沈み込んでいった。

「青島くん、どしたの? 声」
たった今書き上げた報告書を小声で読み上げながら確認していた青島は、取調べから戻ってきた恩田すみれに後ろから小突かれた。
「あ、すみれさん。今戻ったの? そんな、ヒドい?」
「んー、朝はそうでもなかったけど、今聞くとカンペキ鼻声よ?」
それを聞きつけた真下正義も寄ってきて、青島の顔色を値踏みするかのように見遣る。
「顔色は特に問題無いみたいですけどねぇ、先輩、熱はないんですか?」
「熱? 熱は―――無いと思うけど・・・どお?」
青島はいきなり真下の右手を取ると自分の額に押し当てた。
「せっ先輩、何するんですかっ?!」
慌てふためいて手を引っ込めようとする真下の右腕を掴んだまま、青島が怪訝そうな声を出す。
「何って・・・自分の手でやったんじゃ、熱あるかどうか解んないじゃない。真下、顔、赤いぞ。お前の方こそ、熱あんじゃないの?」
「き、急に人の手、引張るから・・・もう、ビックリするじゃないですか・・・そういうことなら、そう言ってくれれば・・・」
真下がブツブツ呟いている間にすみれが自分の手を青島の額に当てている。
「そーねぇ、熱は無いみたいだね。で、これから本店行くんでしょ? 時間いいの?」
「あ、いけね」
「今日は課長が風邪だし、今のところ事件無いし、行くんならサッサと行った方がいいよ?」
いつのまにか、和久平八郎も背後に来ていて口を出す。
「そうそう、遅刻でもしたら、また後でどんな嫌みを言われるやら・・・そうでなくても俺ら空き地署のことはよく思われてないんだし、よ」
「はいはい、解りましたって。ここが平和なうちにトンズラさせていただきますよ」
コートを引っ掴んで刑事部屋を出た青島の背後から真下の声が追ってきた。
「先輩!」
「何?」
「あの・・・風邪、気をつけた方がいいですよ。今年の風邪はシツこいって話だし、課長がひいている位ですから」
「あはは、そりゃあ、違いないや」
「本店、報告会だけなんでしょう? 終わったら真っ直ぐに帰って休んでくださいね、絶対」
「?」
青島の訝しげな視線を受けて、真下がとってつけたように続ける。
「あ、ホラ、風邪はひき始めが肝心って言うじゃないですか、ね?」
真下を見つめる青島の瞳がフッと優しさを帯びた。
「真下」
刑事部屋の出入口から45メートル手前に立っている真下の方へと、一・二歩身体を戻す。
「心配してくれて、ありがとよ。でも、お前、本当に顔赤いぞ」
「あっ、ホントに、だっ大丈夫ですよ」
「そっか? ならいいけど。ま、兎に角行ってくるわ。終わったら電話入れっから、後はよろしくなっ!」
「はい、行ってらっしゃい」
コートを肩にかけたまま、玄関に小走りに向かっていく青島の後ろ姿を見送りながら、真下は思っていた。
(ほんっとに、先輩って大きい子供みたいだよなぁ・・・)

本庁での報告会は長引いた。
あまり目立たないようにと後ろの方の席に座った青島だったが、風邪を引きかけた身体にはそれが災いした。
大会議室の暖房は全てフル稼動していたが、加湿器は前方の本店からの出席者席付近にしか置かれていない。あれでは、せいぜい前から45列目の席についた出席者しか、恩恵にあずかることは出来ないだろう。効きすぎの暖房は上半身をぼうっとさせるのには充分だが、部屋が広いせいもあり反動で足元はひんやりしている。
(これじゃ、年寄りは堪えるよな・・・和久さん、来させなくて良かった・・・)
元々、報告の対象になった事件は和久と青島が担当したものだった。本庁から報告会の通知が来たとき、二人は互いに出席を譲り合い、兎に角本庁が苦手な和久が青島を拝み倒して今日の出席と相成ったのだった。
(ま、和久さんには何時も世話かけてるし・・・しょうがないよなぁ)
青島は顔を上げて、本店席の一番左側の席に陣取っている室井慎次の様子を盗み見た。
(相変わらず、深い皺作っちゃって。退院してから挨拶に行ったきりだもんなぁ・・・今日、終わってからも一回、ちゃんと挨拶しとかなきゃ・・・)
そんなことをつらつら考えながら前方の顔を見ていたところ、ふいに室井が頭を上げ、青島と目が合った。既に風邪で頭がぼうっとしていた青島は、その途端室井の表情に変化が起きたことを気付く由も無かった。

報告会が終了したのは2230分を回っていた。
約束は約束なので、青島は湾岸署に電話を入れた。
「はいっ、湾岸署っ」
受話器の向こうの声が熱っぽい頭に響く。声の主はあろうことか真下だった。
「あーれー、警部殿? 今日夜勤でしたっけー?」
「先輩、声、ひどくなってるじゃないですか!」
青島は、電話の向こうで喚く真下を制して、言葉を続けた。
「いやぁ、会議室ガンガンに暖房効いてて、それで声がヘンになってるだけだよ。心配すんなって。そっちは?」
「こっちは何にもないですから、いいですか、真っ直ぐ帰って休んでくださいよ!」
「はいはい、解りました。仰せの通りにするよ。じゃあ、直帰しますんで」
公衆電話の列から離れて、頭を振ると身体がフラフラした。
(やべ・・・熱出てきちまったみたいだ・・・)
「大丈夫か?」
青島が顔を上げると、そこにはコートを手にした室井が立っていた。
「あ、室井さん・・・お久しぶりっす」
室井はつかつかとこちらへ歩いてくる。
「顔が赤いぞ。声もへんだし・・・風邪か?」
「のようです・・・ね。署内も流行ってるんで。感染っちゃったみたいです」
何時にも増して深い皺を眉間に刻んだまま、室井が口を開いた。
「・・・送ってやる」
「は・・・?」
「家まで送ってやる、と言ってる」
青島は慌てた。
「じょ、冗談、いいですよっ! 室井さんにそんなことして貰うなんて、とんでもないっ! バレたら後で何て言われるか・・・!」
「心配するな、本庁の車を使うわけじゃない。今日は自分の車で出勤している」
「あ、そうスか・・・」
「具合が悪いなら、遠慮するな。今、車を回してくるから通用口で待っていろ」
「はあ」
(確かにこの身体で家に帰るのシンドイし・・・今日、室井さんとまだなんも話してないし・・・せっかくああ言ってくれてるんだから送ってもらっちゃうか。真下も早く帰れって言ってたし・・・)
青島は一人ごちると一応コートに袖を通して歩き出した。
嫌みなほどに暑かった会議室とはうって変わって、通用口へと向かう廊下は非情なまでに寒々しい。足元から悪寒がぞくぞくと這い上がってくるような感触はやはり風邪の所為か。熱っぽい身体を宥めるかの如く頭を振った瞬間、視界に見覚えのある男が入ってきた。その男、新城賢太郎も青島の姿を認めて立ち止まる。通用口手前の非常階段を降りてきた新城は、口端だけを少し引き上げて薄い笑みを浮かべた。
「おや、これは」
「あ、どうも・・・」
こういう体調の青島にとって新城はあまり顔を見たい相手ではないが、会ってしまったものはしかたがない。
「もう、いいのか?」
「はあ、もう大丈夫です。通常勤務に戻りましたから」
「そうか」
新城の、青島を見つめる瞳が一瞬だけ揺れた。哀れむような、慈しむような不思議な表情がその顔に宿る。
「まあ、せいぜい頑張りたまえ――――室井さんの足を引っ張らないようにな」
青島が弾かれたように顔を上げた。今までの青島に対する新城の態度を考えると、破格なまでに柔らかなもの言いだった。
「新城さん、あの・・・」
青島が言葉を発したその時、1台の車が通用口に廻って来た。新城にはそれが誰のものか解ったらしい。
「噂をすれば・・・だ。これから、室井さんとデートでもするのか?」
「デート・・・って、何スか、それ???」
既に新城はホールに向かって歩き出しており、青島の呟き声だけが誰もいない廊下に響いた。

「大丈夫か?」
正面を睨んだまま、運転席の室井が青島に声をかけた。
「ええ、まあ・・・すんません」
「謝ることはない。今年の風邪はしつこいらしい」
「はは、真下にも言われました」
車は晴海通りを南下して清澄通りへ入ろうとしていた。
「新木場だったな。この時間は空いているから直ぐに着く。眠っていろ。着いたら起こしてやる」
「そんな・・・俺、大丈夫ですよ、起きてられます」
「何を莫迦なこと言っている、具合が悪いんだろう?」
「だって、室井さんに家まで送ってもらってるってだけでも恐縮モンなのに、助手席で寝るなんて、とんでもない!」
「そういう問題ではないだろう。寝ていろ」
「第一、俺、今日まだ室井さんと全然話してないっすよ」
その時、運転席から室井の左手が青島の額にのびた。
「?! む、室井さん? 運転中に危ないっすよっ」
「信号待ちだ」
確かに、月島小学校前交差点の信号は赤になっている。信号が青に変わる寸前に青島から手を離した室井が呆れたように言った。
「何が、大丈夫だ。熱があるじゃないか。いいから寝ていろ、青島」
その言葉に「心配」の二文字を感じてしまった青島は、もう室井に逆らうことは出来ず、助手席でおとなしく目を瞑った。

月島小の脇道を入り、住宅街を制限速度ギリギリで走行する。あとひとつ角を曲がれば日本ユニシス本社脇の道に出る筈だ。そこから豊洲−辰巳−新木場と、後は一直線に走るだけである。時計は23時を廻ろうかというところだ。さほど時間はかかるまい。
石川島播磨重工本社脇にさしかかったところで前方に明るい光が溢れ出した。
それも。
自分達が嫌というほど馴染んでいる、あの、赤くくるくると廻る光りが幾つもひしめしている。
(事故か・・・? よりにもよってこんな時に・・・)
室井は思わず顔を顰めた。
隣で大人しくしている青島を見遣る。
(迂回した方がよさそうだな・・・それにしても、あそこの信号までは行かないと・・・)
その時、前方から走ってくる捜査員らしき人物に気がついて、室井は運転席側のパワーウィンドウを下げた。
「事故ですか?」
内ポケットから手帳を出すのも気がひけて、一般人を装う。
「ええ――――トラックから投げ出された積み荷が散らばってるんで、ちょっとこの道は暫く無理かと。どちらへ?」
「新木場方面へ行きたいんですが・・・」
「新木場、ですか」
捜査員はちょっと考えて頭を掻いた。
「確か、三ツ目通りが夜間工事で通行止めになってますね。住宅街を縫っていけば行けるとは思いますが・・・あ、と、大変大回りになりますが、レインボーブリッジを渡って台場を経由してもらうのが一番確実かと・・・」
これでは、ここから引き返して、わざわざ湾岸署の前を経由しなければ青島の家まで辿り着けないかもしれない、ということか。
室井はもう一度隣を見遣る。心なしか青島の顔がさっきより赤くなったように思える。助手席の方に身を捩った時、青島の息がかなり荒くなっていることに気がついた。再度、青島の額に手をやる。先程とは比べ物にならないくらい、熱い。
「わかりました。とりあえず、引き返します」
捜査員の先導にしたがって、室井は車をターンさせた。
ここから大回りして新木場へ向かうより、警察庁の官舎、もとい自分の部屋へ向かった方が早い。
(兎に角、身体を早く横にしてやった方がいいだろう。買い置きの風邪薬もまだあった筈だ・・・)
苦しそうな青島の顔を視界の片隅に留めたまま、室井はハンドルを切った。

「着いたぞ」
朦朧としている青島に肩を貸して、自分の部屋へと上げた。
真っ先にしたことは、暖房のスイッチを入れることだった。
抱きかかえるように立たせたまま、青島のコートと上着を脱がせ、ネクタイを外してやる。その後は・・・と考えて、室井は少し躊躇った。
既に青島は意識をどこかに飛ばしてしまっているようである。このまま寝かせてやりたいが、それだとYシャツとズボンが皺だらけになってしまう。
(ええい、ままよ・・・)
青島をベッドに横たえると仰向けにさせ、Yシャツのボタンに手をかけた。袖口のボタンもちゃんと外して脱がせる。左手の時計も外してやった。ベルトに手を伸ばしジッパーを下ろすと、なんとかズボンを脱がせた。靴下を取りTシャツと下着だけになったところで、布団の中に入らせようと青島の肩に手をあてて押しやる。Tシャツごしにも肩がひんやりと冷たいのがはっきりと判る。
「んっ・・・」
青島が身じろぎした。
呼吸が荒い。
室井は眉間に深い皺を刻んだまま、青島の額に三たび手をあてた。
身体はこんなに冷たいのに額の発する熱は室井の手を焼くかのようだった。
もう一度肩に手をかける。冷え切った体は震えを伴いだした。
「青島」
小さく呼んでみるが、返事は無い。
震える肩を抱きかかえるようにして、再度布団の中へ身体を押し込もうとした。
その時、青島が室井の腕を掴んだ。いやいやするように頭を振り、室井にしがみつく。
「青島、あおしま。大丈夫か?」
相変わらず返事は無いが、苦しそうな瞳が室井を見上ている。
虚ろなその眼が室井の姿を認めたのか、かろうじて聞き取れる程度の掠れた声が唇から発せられた。
「・・・むろ・・い、さん・・・?」
「苦しいのか?」
青島は室井にしがみついたまま、呟いた。
「・・・寒い・・・」
青島に抱きつかれたまま、そっとベッドの枕元に腰を下ろす。
肩を抱いていた右手を青島の身体に廻し、左手で掛け布団を引き上げた。上から覗き込むと青島の顔は長い睫が伏せられ、赤みを帯びた褐色の肌がYシャツごしに熱を室井の身体に伝える。
「・・・寒、いで・・す・・・むろい・・・さん・・・」
青島の身体の震えが大きくなったような気がした。
眼下で揺れる柔らかな髪に口付けるように囁く。
「しっかりしろ。今、薬を取ってくる」
しかし、青島は室井を離そうとしなかった。
「イヤ、だ・・・ここに・・・いて、ください・・・」
室井は黙って青島の身体に廻している腕に力を込めた。

どれくらいそうしていただろうか。
腕の中の青島が咳込んだ。
「大丈夫か?!」
青島は喉を手にやり、苦しそうに頭を振る。
そのまま上体を仰け反らせるようにして、激しく咳込みはじめた。
(さっきまで、咳はしていなかったが・・・何か気管支につかえたか?)
室井は右手で青島の肩を抱き直すと、左手で背中をさすった。
咳は一向に止まない。
喉を両手で庇うようにして尚も咳をしている。
だんだん、咳の間隔が短く、激しくなっている。
「ちょっと、待ってろ!」
台所へ走ると、コップに水をついで青島の元に戻った。
「青島、水だ。飲めるか?」
いったんは手を伸ばしたものの、咳で震える手では水の入っているコップを持つのは難しい。
何度かコップを取ろうとして、青島はその度に咳込んだ。
室井は咄嗟に自分の口に水を含むと、青島の顔を両手で抱え込むようにして押え込んだ。
そのまま口付けて、ゆっくりと水を流し込む。
青島の喉仏が上下して、今の水を嚥下したのを確認した。
「青島」
室井が声をかけるのと同時に、青島が激しく咳込んだ。
「大丈夫か?」
目を白黒させているが、咳は止まったようだ。
「・・・すんません・・・」
大分経ってから、青島が一言だけポツリと呟いた。
その声に頷くと室井は立ち上がって棚から救急箱を取り上げ、中身を改めて風邪薬を出した。
「薬、飲めるか? 市販薬だが、何も飲まないよりはいいだろう」
青島は黙って室井からコップを受け取ると、差し出されたカプセルを飲み込んだ。空のコップを返す手がまだ震えている。
「・・・すいません・・・迷惑かけて・・・」
布団を直してから、室井は出来るだけ優しい声音で言った。
「いいから、眠れ。そのうち、薬が効いてくる」
ベッド脇に屈み込んでいた身体を起こし、流しに行こうと向きを変えた時、青島の弱々しい声がした。
「むろい・・・さん・・・」
振返ると今にも泣き出しそうな瞳が視界に飛び込んできて、室井はその場に釘付けになってしまった。
「どこ、行くんスか・・・」
「・・・流しにコップを置きに行くだけだ。どうした?」
青島は心持ち上体を起こした。
室井はコップを手にしたままベッドの枕元に浅く腰掛ける。肩を抱くと青島の手が背中に廻され、そのまま自分の火照った顔を室井の胸板に押し付けてきた。
「青島・・・」
「・・・すいません・・・少し・・・こう、させて・・・ください・・・」
青島は目を伏せたままじっとしがみついている。
室井は青島の耳元に囁いた。
「解った。君が眠るまで、こうしていよう・・・」

漸く眠りに落ちた青島から、室井はそっと自分の身体を引き剥がした。
青島のコートとスーツ、Yシャツをハンガーにかけ、自分もネクタイを外した。楽な服装に着替え、リビングのソファに自分が眠る為の準備を一応設える。だが、市販薬を飲ませただけの青島の容態がいつ悪化するか分からないことを考えると、毛布をかぶってベッド脇で仮眠をとることになるだろうと漠然と思う室井だった。
今年のインフルエンザを甘く見てはいけない。報道発表では既に25人の死亡者を数えている。体格としては見るからに頑丈そうな青島だが、昨年暮れに被疑者の母親に刺されて負傷している。あの時、自分が確保の命令を下すのを躊躇したばかりに―――犯人に姿を見られ、結果として青島は刺されたのだ。職場には完全復帰したとはいえ、体力が元通りになっているかどうか怪しいものだ。
(そうでなくても、こいつは無茶をする・・・困っている人を見かけると、多少自分が無理をしてでも助けに走る・・・)
座布団を持ってきてベッド脇に腰を落ち着けると、室井は青島の枕元に屈み込んだ。
薬が効いてきたのか呼吸は大分落ち着いてきたようだが、熱はまだ下がる気配がない。
時々苦しそうに寝返りをうっている姿を窺いながら、室井は洗面器に水を張り、手拭いをひたした。額に浮かぶ汗を丁寧に拭う。顔に比べると、身体の方は殆ど汗をかいていないようだ。
(寝汗を殆どかいていない、ということは・・・暫く熱が下がらないかもしれないな・・・)
室井の眉間の皺が一際、深くなった。
自分に全幅の信頼を寄せてくれるたった一人の男。
一緒に暴走して査問委員会にかけられた後、本庁の階段で言葉を交わした時のことを室井は思い出す。自分を見上げた無邪気な笑顔から、差し出された信頼を受け取った時のことを。
―――俺、頑張れます。自分とおんなじ気持ちの人が上にいてくれるんですから。
しかし後に、信頼されているという気持ちの上に胡座をかいていた自分が取った行動を考えると未だ背筋が寒くなる。青島なら自分の立場を解ってくれる筈だ―――などと甘えた考えに正面から浴びせられたあの一言。
―――これは、俺達への裏切りです!
所轄が憤るのも無理は無い。現場の捜査員が少しでもやりやすくなるようにとどれほど願っても、現在の警察機構はそれを簡単に許してくれはしない。だが、自分達は共にその厚い壁に穴を穿とうと約束したのではなかったか。
ともすれば流されがちな自分に比べると、青島は頑固なまでに自分の中の法律を曲げない。いつも彼が傍にいたなら、自分ももっと確固としていられる…などと思うこと自体がやはり甘えなのだろう。でもそうしたくて、彼を捜査一課に呼ぼうとしたした時のことが思い出させられる。あの時、見事に自分の期待を裏切って目の前の被害者を助けた青島―――事件に大きいも小さいも無い、と言い切られた時の衝撃を思うと室井は今でも胸が熱くなる。
本庁と所轄が同じ目線で捜査ができるようにするべきだと切に思うようになったのは、あの頃からだろうか。
(だが、それは建て前だ・・・)
自分が共に捜査をしたいのは青島ただ一人だということを室井はとうの昔に気がついていた。
今まで、これほどまでに自分の心をかき乱した人間はいない―――
「・・・むろ・・い、さん・・・」
その時、青島の渇いた唇から自分の名前が洩れた。弱々しく掠れた声は室井の身体中の血を逆流させた。
昨年、交通規制を敷いた中を後部座席の様子を振り向くことも許されずに、ひたすら祈りながらハンドルを握っていた記憶がまざまざと甦る。
かけがえのないこの男を危うく失うところだったのだ。それも自分のミスで。
室井は、いつの間にか掛け布団から出ていた青島の左手を自分の両手で包み込むように抱き、額を押し付ける。
現場から病院へ向かうまでの車の中で経験したあんな思いはもう、沢山だ―――――!

午前730分。
時々は眠ったが殆ど一晩中起きていた室井は、青島の額に手を当て、まだ熱があることを確認した。
今日が非番でなくとも、この身体で勤務は無理だろう。本人が電話で欠勤を伝えられる状態でない以上、湾岸署には室井が連絡することになりそうだ。だが、所轄の巡査部長が警察庁の参事官に看病をさせたとなると、明日以降の青島の立場が思いやられる。特に湾岸署神田署長以下副署長及び刑事課長三名に知られたらやっかいなことこの上ない。最も青島本人は室井に気兼ねすることはあっても、周囲の雑音には気がつかないかもしれないが。
(どうやったら、騒ぎを起こさないで青島を欠勤させられるかな・・・)
室井は電話機を前に腕組みをした。

目が覚めた青島の視界に一番最初に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。
(あれ・・・?)
そのまま視線を下方に移すと、室井が微かな寝息を立ててベッドに凭れ掛かるようにして眠っていた。
(そっか、ここ、室井さんちだ・・・あのカーテン、見覚えがある・・・)
今までにも数回、この部屋に来た事がある。湾岸署から外されて交番勤務に戻っていた時に、初めて仕事以外で連絡を貰い、食事を共にして一緒に飲んだ。湾岸署に戻してもらってからもその関係は続き、私用で会う度に、立場の違う二人の話は尽きず、終電を逃して泊めて貰ったことが何回かあった。だが昨年秋の放火殺人未遂犯逃走事件が起きてからは室井をそれまで通り信じられないような思いが先行して、こちらからは自発的に連絡を取らなかった。気まずいのは室井も同じだったのだろう、それまで時々あったプライヴェートな連絡は無に等しくなっていった。
信じているんだからと甘えて、室井の苦しい立場をちっとも理解しようとせず、自分の思う事だけを主張しようとしていた、あの頃。
―――俺達、もう、信じてやってけないんスか?!
黙っている室井に執拗に食い下がった子供じみた行動が、思い出される。自分の取った行動はただの駄々っ子と変わらない―――副総監誘拐事件の最中にそれに気がついた時、青島の中から今までのわだかまりがすうっと無くなった。
―――室井さん、命令してくれ! 俺はあんたの命令をきく!!
室井の現在の地位や立場を考えると、本庁上層部と所轄の板挟みになって思うように行動が取れず歯噛みをすることが、自分の意志に反して所轄に冷たく当たらねばならぬことが、これからも沢山あるだろう。
だけど、自分は室井を信じている。これからも、ただ、信じていく。
それで、いいじゃないか。
そのことを病院に運ばれる車の中で、確信した。
室井に自分の気持ちをもう一度ちゃんと口にして伝えたいと思っていたが、入院中は「見舞いに来る暇なんかあったら、1コでも上に行ってもらわなきゃ」と病院に来させなかった。だから久しぶりに本店からお呼びがかかった昨日、実は密かに期待してたのだ―――終わったら、話す時間、あるかなぁ・・・なんて。
それが。
「確か、室井さん、送ってくれるって言って・・・」
清澄通りを車で走っていたところまでは記憶がある。その後は・・・
顔だけを動かして隣の部屋の方を見ると、自分の来ていたコートやスーツ、おまけにYシャツまでがちゃんとハンガーに掛けられている。
「・・・てことは、俺、室井さんに脱がしてもらっちゃったってことか・・・やば・・・これって、迷惑かけすぎだよな・・・」
その後の記憶を辿って朧げながら昨晩の記憶を全て取り戻した青島は、自分の顔が火照っているのは熱のせいだけでは無い事に気がついていた。室井に縋りつき暫く離れなかった上に、水まで口移しで飲ませてもらったことを完全に思い出したのだ。考えるだけで、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。いっそ深酒して記憶が飛んでいたのなら、どんなにか良かっただろう。
(も〜俺って、サイテー・・・)
天井を見上げたまま大きな溜息をついた時、なにか後頭部に当たったような気がして、青島は顔だけを後方に捩った。
いつも嵌めているスイス・アーミーが枕元に置かれていた。
(コレまで、外してくれたんだ・・・室井さんて、結構気がつく・・・)
その時。
青島の目はその長針と短針の位置に釘付けになった。



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すいません…まだまだ続きます。やたらに長いです。ホントに全シリーズ回想状態(泣)
とにかく、次を読んでください。本当に申し訳ありません…