風邪  後編




「あ!」
青島の声で、室井は起こされた。
「・・・どうした?」
時計を見たおかげで、すっかり目が醒めた青島が、ベッドから上半身を起こしていた。
「室井さん、俺、無断欠勤!」
時刻は、午前11時を廻ろうとしていた。
室井は軽く目を擦ると、枕元に浅く腰掛ける。
「湾岸署には、もう連絡してある。君が今日休めるよう、恩田巡査部長に話した」
「すみれさんに?」
「君がここにいることを知っているのは、彼女だけだ。刑事課長以上には内密にしてもらうよう、頼んである」
「そりゃ、どうも・・・」
後で何を奢らされるんだろうかと青島が考え出したとき、
「まだ、顔が赤いようだが・・・熱は?」
室井の手が額に伸びた。
「ちょっ―――室井さんっ!」
さっき頭の中で再生した記憶を思うと、恥ずかしくて、室井の顔が見られない。
「なぜ、下を向く? 気分、悪いのか?」
そんな青島の様子にはお構いなしに、室井は顎に手をかけて上向かせると自分の顔を正面から近付けてきた。
青島は、思わず目を瞑る。
額に何かが当たった気がして目を開けると、室井の顔がすぐそこにあった。
「・・・後でちゃんと計った方がいいな」
暖かい息が青島の顔にかかる。鼓動が早鐘の如く鳴り出している。
青島の動揺には全く気づいていないらしい室井は、目を閉じると身体を離した。
自分の心臓の音が聞こえたんじゃないかと思いながらも、必死に気持ちを抑えて、今度は青島が聞く。
「室井さん、今日、仕事は?」
「休んだ」
「―――それって、俺の、せいっすよね・・・」
「今は特捜も抱えていないし、休ませてもらった。何か事件が起きれば連絡が来るだろう。家にいればいたでやることも結構あるし、な」
今や室井の顔がまともに見られない青島は、下を向いたまま頭を下げた。
「すいません、俺・・・勤務中だけじゃなく、こんなとこでも、室井さんの足、引っ張って・・・・」
昨夜、新城に言われた事を思い出す―――せいぜい、室井さんの足を引っ張らないようにな―――
室井が大きな目で青島を見据えた。
「私は君に足を引っ張られた、と思った事は無いが」
「でも―――」
青島は室井に口を挟ませないように言葉を続ける。
「俺が事件に関わったせいで、室井さん、立場が悪くなるような目に合わせてんじゃないですか・・・今までに、何度も」
「―――だから、それが私の足を引っ張っているということになるとは思っていない、と言っている」
青島は大きく溜息をついた。
「室井さん」
「何だ」
「室井さんがそう言ってくれるのはありがたいんですけどね、周りはそう思ってないっすよ」
室井は微かに笑って、青島の顔を見る。
「青島」
「何スか」
「なぜ、周りを気にするんだ? 君が私の立場を心配してくれるのは大変嬉しいが、そのせいで君が自由に動けないのでは、私としては不本意だ。それに―――」
室井は青島の目を見つめたまま、言葉を続けた。
「私は、上層部が私をどのような目で見ているかという事や、監視して圧力をかけようとしている事は充分解っているつもりだ。彼らが私の考えを危険思想と見なしている事も、な。だが、私は君との約束は果たす。向こうがそういうつもりなら逆に私も自分の地位や力を最大限に利用させてもらうさ。簡単に潰されはしない」
「室井さん―――」
「それとも、青島―――君から見て、私にはそんなこと出来そうに無いか?」
室井は不敵な笑みを浮かべた。青島は、その顔に思わず見蕩れてしまう。
「いえ、俺―――室井さんの凄さ、忘れてました・・・」
率直な感想を述べた、というところであろう青島の言葉を聞いて、室井が可笑しそう笑った。しかしすぐに真顔になって、言葉を続ける。
「いいか。君は私に迷惑をかけているなどと思うな。君が現場で感じる事は、私も同じように感じると思っている」
青島は少し躊躇っていたが、子供のように口を尖らせて尚も言った。
「でも・・・やっぱ、俺が室井さんに迷惑かけてる事実は変わんないっすよ」
知り合った頃はともかく、今やかけられる迷惑を迷惑だとは思っていない室井は、真剣な面差しの青島を見て苦笑する。
「別に迷惑ではない。まぁ、振り回されているとは思っているが・・・」
「でも、昨日だって・・・」
昨晩の自分の醜態を思うと、顔が熱くなる。青島は火照った顔を室井に見せたくなくて、再び下を向いた。
室井はそんな青島の気持ちを知ってか知らずか、なおも顔を覗きもうとする。
「昨夜は熱があったんだから、いたしかたないだろう? 気にするな。それに、いつも力不足で君を助けてやれないが、昨日はほんの少しそのお返しが出来たかと思っている。仕事の方でも早くそう出来るといいんだが・・・」
その言葉に、青島は自分の顔が赤くなっていることも忘れて顔を上げた。
「室井さん、お返しって・・・そんなこと、俺、どうでもいいんです。俺、前に言いましたよね? 室井さんにはもっともっと上に行って俺達現場の刑事の為に頑張ってもらう、そして俺は現場で頑張る―――って。その約束は大事だし、忘れてもらっちゃ困るんですけど、俺自身はちょっと違うんです」
室井が怪訝な顔をする。
「俺、室井さんと最初に約束した時から心のどっかで思ってました。忙しくて連絡を取り合う事が無くても室井さんは俺とおんなじ考えでいてくれる筈だ、俺の考えを解っていてくれているはずだって。信じているんだからきっと室井さんがこうしてくれる、ああしてくれるだろうって・・・そんな独りよがりが、すみれさん挟んで俺達が対立したあの事件に繋がっちゃったんだって事、今は解ってますけど、あん時は解らなかった。でも、俺、思い出しました。俺、室井さんを信じるって決めてたんだってこと―――上手く言えないスけど」
その時、電話が鳴った。
室井は名残惜しそうな表情を一瞬だけ見せて、隣の部屋へ消えた。
結びの言葉が宙に浮いてしまった青島は、しかしホッとしていた。あのまま言葉を続けていたらとんでもないことを口走ったに違いない―――本能が青島にそう告げる。それが熱のせいではない事は、自分でもちゃんと解っている。
「・・・ああ、解った・・・その資料は、私のところにある・・・」
「いや・・・そちらへ持って行こう・・・」
こちらを気遣ってかなり声を抑えているが、洩れてくる室井の受答えから、会話の内容が現在大泉署に設置されている特捜がらみであることが解った。
あの特別捜査本部は新城が担当していた筈だ―――青島は複雑な気持ちに襲われた。

青島が横になっている部屋へ戻ってきた室井は、眉間にくっきりと皺を寄せていた。
「ちょっと、本庁へ行ってくる」
「何かあったんスか?」
「本庁に詰めている新城が資料を必要としている」
(そんなの、本店のデータベースに入ってんじゃないの?)
青島の不思議そうな視線に室井の顰め面が少し緩んだ。
「―――以前勝どき署に特捜を設置したときの強盗殺人事件の資料だ。私が個人的にファイルしておいた捜査資料部分が必要らしい」
「あ、じゃ、俺も―――」
「なんだ?」
「―――帰ります」
「帰るって―――身体は大丈夫か?」
室井の顔が再び曇るのを見て、青島は慌てて自分の顔の前で手を振ってみせた。
「だって、俺、いたら室井さん、鍵、困るでしょ。気分、大分良くなったし、お世話されっぱなしでこのまま帰るのは心苦しいんスけど―――」
青島が全部言い終わらないうちに、体温計が目前に差し出された。
「―――何スか?」
「一応、熱、計ってみろ」
青島はおとなしく体温計を受け取ると、左腋下に挟んだ。
ピッピッピッと音がして、検温が終わったことを知らせる。体温計を取り出した青島は、無言で室井にそれを渡した。
室井の眉間の皺がまた一本増えた。
378分―――ということは、昨夜は38度以上あったのかもしれないな・・・まだ、ここで寝ていろ」
「―――嘘・・・だろ・・・」
「資料を届けたら、私も直ぐに帰ってくる」
「そんな、大丈夫っすよ―――帰れます。室井さんにこれ以上迷惑かけちゃうと、俺、立ち直れなくなりそーだし・・・」
「―――いいから、ここにいろ!」
噛みつくような室井の声に、青島はベッドの上で呆然とした。
室井は青島に背を向けると言葉を続けた。
「昨日の晩から何も食べていないだろう―――さっき、雑炊を作った。今、こっちに持ってくるから、食って薬飲んで大人しくこの部屋で寝ていろ。帰ってきたら、今度こそ本当に家まで送ってやる」
「室井さん・・・」
「頼むから病気の時くらい、俺の言うことを聞け!」
室井が自分のことを"俺"と言い出すと感情が先行することを青島は知っている。逆らえば逆らうほど意固地になることも。それに―――室井が自分のことをこんなに心配してくれるのは、正直言って嬉しい。
「―――判りました。ここでちゃんと室井さんのこと、待ってます」
「そうしてくれ。一応鍵は置いていくから、私が帰ってきたら開けてくれ」
いつもより柔らかい口調でそう言うと、室井は着替える為に腰を上げた。

青島はただ天井を見つめていた。食後に飲んだ薬はまだ効いてこないようで眠気を催さない。室井が資料を持ってここを出ていったのは、今から15分程前―――戻ってくるまでに少なくとも12時間はかかる筈だ。
「私が戻るまでおとなしく寝ていろ。起き上がったりして容態が悪化していたら、今晩帰さないから覚悟しておけ」
出掛けの室井の剣幕に気圧されて、青島はベッドにおとなしく横たわっていた。眠れない頭を占めるのは、さっき自分が室井に言いかけたことと昨晩の醜態ばかりである。やや薄いがしっかりしている胸板や、細く奇麗な指、意外と柔らかかった唇―――思い出すだけで、5度くらい熱が上がりそうだ。
誰かに見られているわけでもないのに、自分の火照った顔を隠したくて、掛け布団を顔の上まで引っ張りあげた。羽毛布団特有の匂いに混じって、微かに別の香りがする。
(室井さんの匂いだ・・・)
懐かしいようなくすぐったいような香りがふわりと青島を取り囲む。昨夜、自分が眠るまで、ずっとこの香りに抱きしめられていた―――Yシャツごしに鼓動を聞きながら、室井の腕の中にいることで安心して眠れた。あの時、頭は確かに熱でぼうっとしていたが、自分が何をしているか解らなかったほど朦朧としていた訳ではない。寧ろ、病気であることを隠れ蓑にしたのだ―――室井に甘えたくて。
時折見せてくれる、いつもより眉間の皺の少ない顔や照れくさそうな笑顔、何かの拍子にフッと口をついて出る秋田弁―――室井のこういった姿を知っている人はどれほどいるのだろう。一緒に杯を重ねて仕事以外の話題が出ても、何処か一線を引いた付合いだった。それは、室井が国家公務員のキャリアで自分が地方公務員のノンキャリアという、この世界ではどうにもならない階級を青島自身がどうしても意識してしまうからだ。もちろん、それは青島の問題であって、室井は案外何とも思っていないのかもしれない。だが、心の奥底までは踏み込ませてくれない何かが室井の側にあるのは事実だ。誰か他の人にはそれを見せているのだろうか―――そう思っただけで、青島は胸が締め付けられるような錯覚に襲われる。
自分よりももっと深く室井の信頼を得ている人間が何処かにいるのかもしれない―――所詮、支店の一刑事では、室井の力になれることなんて、たかが知れている。目指す高みは、理想は同じだけれども、それが相手に自分の全てを曝していい理由にはならない。
でも。
青島は、室井に対してそうしたい自分に気がついたのは何時だったか、もう思い出せないでいる。
室井と一緒に仕事がしたい、捜査がしたい。今だって、室井の下で働いていると思ってはいるけれど、もっと近くで、直属で働きたい―――もっと、自分を使ってほしい。もっと命令してほしい。もっと―――
大体、最初の出会いからしてあまりにインパクトがありすぎたのだと思う。刑事になって初めて向かった現場で、ロープも潜らせてもらえない自分達所轄を尻目に颯爽と登場した室井の姿に、陶然となったのは事実だ。しかし、その後彼の捜査方針を目の当たりに見て、強烈な不信感が青島を襲った。憧れた分、ショックは倍になった。
(上の人間って、血も涙も無いのかよー)
それでも仕事は仕事―――渋々、室井の運転手を勤めること数回、そのうち、この冷徹非情な指揮官が静謐な理想だけを頼りに孤独な闘いをしているんじゃないか、という気がしてきた。一見、冷たく見えるのは、感情に押し流されるのを怖れてのことじゃないか、とも。最初の事件が解決してからも、度々室井と共に事件を追う羽目になった。そして―――
どうしてかは、わからない。
気がつくと、室井に惹かれている自分がいた―――何時からか、室井の役に立ちたいと思う自分がいた。初めは、名前を覚えてもらったことをいいことに、(捜査情報、もらえないかな・・・)と纏わりついていただけだったのが、やがて特捜が立つ度に室井の姿を目で捜すようになっていた。所轄と組んで仕事をする時の室井は上下の板挟みになっていつも眉根を寄せてばかりだが、自分と目があうと、片方の眉をちょっとあげて周りには判らないように挨拶してくれる。
(本店の管理官から名前覚えてもらって浮かれてるなんざ、俺も結構ミーハーだよなー)
ただ、それだけで嬉しくなってしまうこの気持が何なのか、あの頃は解っていなかった。
室井が辛そうな顔をしていると、自分の心も重くなる。
眉間の皺が1本でも少ないと、自分も何だか嬉しくなる。
(こんな気持ち、室井さんには迷惑に決まってる・・・)
だから。
せめて病気の時くらい、室井が優しくしてくれる時くらい、甘えたかったのだ。

本庁の会議室の一角で、室井は新城と対峙していた。
「お休み中のところをわざわざお出まし頂いて、申し訳ありませんでした。家まで取りに伺いましたものを・・・」
新城が、探るような視線を室井に投げて寄越す。
「構わん」
「風邪だ、と聞きましたが?」
「―――少し、体調が優れないだけだ。今日は特に抱えているものもなかったから、大事をとったまでだ」
新城がくつくつと笑った。
「何が、可笑しい?」
「私はまた、青島から感染されたのかと思いました」
「―――!」
室井の目が怒ったように見開かれたが、新城はそのまま言葉を続けた。
「昨夜、通用口の手前で、貴方を待っている青島を見かけました。声が完全に鼻声でしたから」
「―――熱があったから、送ってやっただけだ」
ぶっきらぼうに言い放つと、早速鞄から資料をファイルしたバインダーを取り出す。
「これは、私が個人的にファイルしていたものだ。役に立つなら使ってくれ」
「今、写しをとります―――その間にコーヒーでも如何ですか?」
一刻も早くこの場を立ち去りたかったが、新城の口から"青島"という名前が出た以上、ここで下手に動かない方がいいだろう―――室井は咄嗟にそう判断した。
「いただこう」
暫くして二人の前にコーヒーカップが置かれた。
それが合図ででもあったかのように、新城の目が挑戦的な色を宿す。
「なぜ、貴方はあの男にそんなにまでして関わるんです? 室井さん、貴方ならいくらでもパートナーを選べる筈だ。もっと御自分を大切にした方がいい。貴方がどんなに青島をかっていても、あいつが貴方の足を引っ張っていることに変わりは無い」
室井は黙って新城の後方にあるボードに視線を泳がせる。事件に関する様々な資料が所狭しと貼り付けられていた。
「貴方ほどの人が、今の危険な立場を理解していない訳ではないでしょう? もっと優秀な人材と組むべきだと言っているんです。青島が、所轄にしては珍しく優秀な刑事であることは、私も認めましょう。だが、所詮所轄は所轄、貴方の微妙な立場を理解させるのは無理と言うものです。貴方には、もっとふさわしい相手がいる筈だ・・・」
暫しの沈黙の後、室井は重い口を開いた。
「それは、忠告してくれているのか?」
「―――警告です」
新城は口端だけで笑った。

本庁を後にした室井は、苦々しい思いでハンドルを握っていた。
(新城、貴様に何が解る―――!)
青島でなければ、自分は駄目なのだ。あの男でなければ。
いつからこんな気持ちを抱くようになったのか、室井自身、定かでない。
出会ってから間もなく、青島は室井の心臓を打ち抜いた―――その熱い正義感と一途な性格で。
青島の強さが、眩しさが、自分の原動力になると知ったあの時から、室井にとって彼はただの部下ではなくなった。だからこそ、無心に懐いてくる青島に対して、一歩引いて接するようにした。至近距離で付き合えば、青島に流されそうになる自分が怖かったのだ。そして、その想いが青島本人に知られることも。青島が湾岸署に復帰した後はお互い多忙で顔を合わせる機会が減ったが、心が通じていれば離れていても信じてやっていけると思っていた。それがただの綺麗事でしか無いことを主席監察官だったときに嫌というほど思い知らされる羽目になったのだが。
言葉を交わさなければ駄目だ。
離れていたら駄目だ。
正反対に近い立場にいる以上、離れれば離れるほど、互いの存在が日常の雑務の中に埋もれていってしまう。そして共有している理想までが、互いの都合のいいように捻じ曲げられてしまうような気がする。最もそれは自分の側だけの問題なのかもしれない。青島は、本能に近い、自身のルールに背くことはしないだろうから。
新城の言いたいことは良く解る。あんなことを言わせない為にも一刻も早く上にあがらねばならない―――が、自分が上に辿り着くまでの間、現場は黙って耐えていろというのは無理な相談だ。何より、青島が大人しくしている筈が無いだろうが。
偉くなって正しい事が出来るようになったその時に、自分の傍らに青島がいなければ何の意味もない。
(何としてでも青島を手放したくない―――というのは、俺のエゴでしかないのか・・・?)
理想を同じくする大切な同志として、自分達は一つの固い約束で結びついている。
―――室井さん、俺達だけは無駄だと思っても、信じた事をやりましょうよ。
あの時の約束は、青島がいてこその約束なのだ。だが、約束だけではない、別の感情を自分が持て余していることも事実だ。
車が警察庁官舎の一角にさしかかった時、室井は何かにつけて自分にライバル心を剥き出しにする新城を思った。
自分を出し抜くことばかり考えている男だと思っていたが、あれは本心から相手を心配した言い方だった。
(どういう心境の変化か・・・な・・・)
薄く笑みを浮かべて、室井は大きくハンドルを切った。

玄関チャイムの音に、うつらうつらしていた青島は目を開けた。
(室井さん、帰ってきたんだ・・・意外と早かったな・・・)
ベッドからのっそりと起上がり、出掛けに着替えさせられたパジャマ姿のまま、ドアの鍵を開ける。
相変わらず険しい顔の室井に一瞬たじろいだが、このまま黙っているのも間抜けな気がして、青島は小声で
「―――お帰りなさい・・・」
と言った。
「あ、ああ、ただいま」
何か考え事でもしていたのか、声が上ずっている。
そのまま、気まずい空気がその場を支配する。
暫くして、沈黙を破ったのは室井の方だった。
「具合はどうだ?」
「大分良くなりました。熱もギリギリ37度まで下がったし」
「そうか―――良かった・・・」
室井が微かに溜息をついたような気がして、青島は首を傾げた。
「―――室井さん? 本店で何か、あったんスか?」
室井は青島の視線を避けながら、着替える為に奥の部屋へ移動する。青島も仕方なく、さっきまでいた部屋に戻ってベッドに腰掛けた。
隣の部屋から声だけがする。
「青島。昨日、新城に会ったのか?」
「? え? ああ、室井さん待ってる時に、ちょこっと・・・」
「何か、言われたのか?」
「は?」
「―――あいつに、何か、言われたんじゃないのか?」
室井の声が少し苛立ちを含んだ。
「何かって・・・ああ、そういえば、『室井さんの足を引っ張らないように、頑張るんだな』って・・・」
「そうか・・・」
ゆっくりと息を吐くと、室井はベッドのある部屋へと戻った。青島の正面に胡座をかいて腰を落ち着ける。
「室井さん・・・? 新城さんと何かあったんスか?」
心配そうにこちらを伺う青島の目を真っ直ぐに捉えて、室井は口を開く。
「―――俺達、二人のことを心配していた」
暫しの沈黙の後、青島が言葉を発した。
「・・・―――新城さんが?」
「ああ―――」
「ホントに?」
「少なくとも、俺にはそう聞こえた」
「あちこちで特捜抱えて、いろんな所轄とやりあって―――少しは考え、改めたんスかね?」
確かに、昨夜の新城の態度は、以前のそれに比べると格段に柔らかくなっていたように思える。
「それはどうかな」
新城がそんなに簡単に自身の信念を曲げるとは思えないが、副総監誘拐事件以来、彼の中で何かが変化したらしいことは、室井にも思い当たる節がある。自分や青島に対する態度が随分と友好的になったからだ。だが、根本的な考え方が変わっていないことは、先程の本庁会議室でのやりとりからも窺える。
室井は、いったん青島から視線を外すと目を瞑った。
「さっき、新城に言われた―――もっとふさわしいパートナーを選べ、と」
何度目かの沈黙が訪れた。
青島の顔が強張った―――喉がカラカラに渇いて、口が上手く動かない。でも何か、言わなきゃ―――引き攣る舌を無理に動かして、言葉を紡ぎ出す。
「―――そりゃ、そうっすよ。新城さんの言ってる事、当たってます。だからさっきから言ってるじゃないスか、俺じゃ、室井さんの足を引っ張ることしか―――」
青島の声が震える。自分では解っているつもりでも、他人に、それも新城に『お前では駄目だ』と指摘されたことを室井の口から告げられて、鼻の奥がツンと痛みを訴える。泣きそうな目を見られたくなくて、顔を伏せた。
室井は閉じていた目を開けると、右膝を立てて腰を浮かせた。自分と目を合わせようとしない青島の顎に手をかけて上向かせ、顔を近付けて噛み付くように叫ぶ。
「青島!! 何故、俺から目を逸らす?!」
青島の目が一瞬驚愕したように見開かれた。
「室井さん・・・俺、は・・・」
先程の激昂とはうって変わった、静かだが毅然とした口調で室井が青島を遮った。
「約束しただろう、俺は上に行く、お前は現場で頑張るって―――俺はお前と一緒に、信じたことに向かって、理想に向かって行きたいんだ。大体、お前がいなければ、俺だけ上にいって何になる? 俺にとって現場の刑事とは、お前一人なんだぞ。俺達はこれからも立場の違う職場で色々な人間に揉まれてやっていかなければならないんだからな。だが、離れていて、理想だけを強く持ち続けられるほど、人間は強くないんだ」
青島は、慎重に言葉を選びながらもひたむきに訴える室井の顔から目を外せないでいる。漆黒の大きな瞳に呑み込まれそうだ。
「現場で事件に対峙しているお前に比べると、こっちは机上だけの論理に躍らされがちだ。お偉方は現行を良しとして、考えを改める気なぞ無いからな。あまりに壁が厚いんで、やはり駄目なのかと弱気になることがある。それでも、お前が下で頑張っていると思えばこそ、俺がもっと上に行かなければと踏ん張る気力が湧いてくる。お前といることで、俺は強くいられる。なぁ、青島・・・俺達は離れていたら駄目なんだ―――」
室井はそこまで言って言葉を切った。
「室井さん・・・」
泣きそうな瞳で見つめられて、室井は内心慌てていた―――いつも自分が青島に力づけられ、助けられることばかりだった。だが、今の青島はどうだ―――風邪で多少体調が悪いにしても、不安と心細さに苛まれている。どうにかしていつもの笑顔を取り戻させてやりたいと思うが、どうすればいいのか皆目見当がつかない―――青島の涙声に触発されて本心を紡ぎだした時に覚悟を決めたつもりだったが、このまま気持をぶつけて良いものかどうか、躊躇いがじわじわと室井の決意を蝕んでゆく。これから自分が言う事は、不安定な状態の青島を更に追いつめてしまうかもしれない。だが、室井自身、もう自分の気持を止めることは出来なかった。
「お前が俺の指揮下にいた偶然に感謝している。だが、俺がお前を必要とするのは、お前が刑事だからじゃない。お前がお前でしかないから、だ。多分―――」
室井は自分自身を奮い立たせる為に軽く瞼を閉じた。ゆっくりと目を開け、意を決して言葉を続ける。
「青島、俺から離れるな。俺はお前が、好きだ―――」

視界の中の室井が揺れたような気がした。
オレハオマエガ、スキダ―――
今のは、本当に室井が自分に向かって言ったんだろうか?
それとも、とうとう熱で空耳が聞こえるようになってしまったんだろうか?
青島の目から涙が零れた。
室井の指が頬に伸びて、そっと拭ってくれる。
「―――室井さん、おれ・・・」
涙声になりながらも言葉を続けようとしたが、そのままベッドから床に滑り落ちて、室井の正面に座りこんでしまった。
なんとか息を整え、切れ切れに答える。
「俺も、室井さんが、好き、です―――」
室井が腕を廻して、青島を抱きしめた。青島はされるがままに身体を任せている。腕の中の存在は、こんなにも頼りなかったのかと思うくらいに弱々しい。ゆっくりと青島の背中を撫でる。青島は室井の左肩に顔を埋めたまま、手を背中に廻してきた。青島の腕に少し力がこもり、互いに固く抱き合う。午後の柔らかな陽の光がカーテンごしに二人を照らしている。
暫く無言でそうしていたが、青島が再び口を開いた。
「俺―――俺だって、室井さんとずっと一緒にやっていきたいっすよ・・・そりゃ、同じ職場で働くことはもう無いかもしれないけど、今だって、俺の上司は室井さんだ、って勝手に思ってますもん―――だって、初めてなんスよ。俺、自分でこんなに信じたい人にめぐり逢ったの・・・俺にとって、たった一人のひとなんだよ、あんたは―――だから、俺、あんたの足枷にはなりたくない。だけど・・・」
心の底から絞り出すような声―――室井は青島の顔を自分の肩から外して、覗き込む。
泣いた所為か、目が赤い。だが、その瞳から心細そうな表情は消え、真剣な光を湛えている。
「室井さん、いつも一人で眉間に皺、貼り付けて、何でもかんでも抱え込んで、頑張っちゃって・・・俺、俺じゃ、室井さんの力になれないって判ってても、俺に出来ることだったら―――俺で役に立つことなら、何でもしてあげたい・・・俺、それくらい、あんたに惚れてるんだから・・・」
青島の真摯な告白を聞いた室井の中で何かが吹っ切れた。
「青島―――」
そのまま青島の頬を両手で包み込むように抱くと、室井はゆっくりと口付けた。
軽く、唇に触れるだけのキス。
一度では飽き足らず、二度三度と口付けを繰り返す。青島の吐息が次第に熱く、荒くなっていく。
室井が歯列を割って舌を差し入れ、青島のそれを絡め取るとおずおずと反応が返ってきた。後頭部と肩に手を廻し、更に深く口付ける。舌が互いの口内を蹂躪し、次第に快感が体の中をうねり熱を帯びてゆく。
正直なところ、室井はここまで青島が反応を返してくるとは思っていなかった。男同士でキスを交わすのはもちろん初めてだが、二人ともまるで抵抗無くこの事実を受け入れてしまっていることに少し驚く。一頻り熱く官能的な時を共有して、やっと二つの影か離れた。
耳の付け根まで真っ赤になった青島が、室井にだけ聞き取れるような小声で呟く。
「室井さん、なんで、こんな、キス上手いんだよ・・・? 俺、腰砕けそう・・・」
自分で言っておきながら、恥ずかしさが込み上げてきた青島は、室井の肩口に顔を埋める。少し長めの柔らかい髪を優しく梳きながら、室井は青島の身体を離そうとしない。
「風邪、大丈夫か?」
「室井さんこそ」
「?」
「今ので、俺の風邪、感染っちゃったかもしれませんよ?」
「構わん―――もしも感染ったら、君に看病してもらう」
「そりゃ、いいですけど―――」
青島が室井の腕の中でくすぐったそうに笑いを洩らした。その赤く染まった耳朶に口付けするように囁く。
「青島、夕飯、何が食べたい?」
「夕飯って・・・もう、そんな時間かぁ―――あ、ひょっとして室井さん、作ってくれるんスか?」
「まだ、熱っぽいみたいだしな、外に食べに行くより、ここの方がいいだろう?」
室井のその一言から二通りの意味を読み取って、青島はまた顔を埋めてしまう。その頭に軽く手を添えたまま室井が続ける。
「まぁ、あんまり凝ったものは作れないが」
「んー、何かあったかいもんがいいなぁ・・・あ、きりたんぽ鍋!」
青島が嬉しそうに言う。
「きりたんぽ鍋って・・・お前・・・」
「だって、俺、まだご馳走になってないですもん―――室井さん、忘れちゃったんスか? 一番最初に俺、誘ってくれた時に『きりたんぽでも食おう』って言ったの」
そういえば、本庁の階段で青島と別れる時に言ったような・・・気が、する・・・
「―――よく、そんなこと覚えてたな」
「いや、あの頃、ホントに楽しみにしてたんですから」
青島の無邪気な物言いに、今度は室井が忍び笑いを洩らす。
「そうだな。鍋なら身体が暖まるし、材料もあるしな・・・」
「やったっ! 決まりっすね―――なっ、室井さん・・・」
室井の手が顎にかけられ、青島の唇をもう一度塞いだ。さっきに比べればやや軽目のキスだが、それでも身体の奥からぞくぞくするような感触が這い上がってくるのは否めない。
潤んだ目で自分を見つめる青島に理性を吸い取られそうになりながら、室井は囁くように告げる。
「鍋の支度する間、ベッドに入っていろ」
青島は何か言いたそうに顔をあげたが、すぐに恥ずかしそうに微笑んで頷いた。
腕の中の感触を名残惜しげに掛け布団の中に押し込めると、室井は青島に背を向けてキッチンに立った。
「あの、室井さん・・・」
声が追いかけてくる。
「何だ?」
室井は顔だけを捩って応えた。
青島は掛け布団を引っ張り上げ、顔を半分だけ出した状態で室井を見上げていた。その瞳は幸せそうに濡れている。
「その・・・今晩、も、泊ってって、いいスか?」
「ああ―――」
やっと、互いの想いが通じたのだ―――例え、病気じゃなかったとしても帰す気はない。
「今夜は、ここにいてくれ」
室井の瞳にも今までにない優しい色が宿る。眉間の皺が完全になくなった穏やかな室井の顔を視界の隅に認めると、青島は満ち足りた気持ちで目を瞑った。

(1999/2/25)


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風邪の部分に関しては、実体験が元になっています。インフルエンザを侮ってはなりませぬ……
ところで、本庁で『報告会』なるものが存在するのかどうか、私は知りません。でも、どうしても「風邪でフラフラの青島くんが本店で室井さんに会って家に送ってもらうことになるが、事故に阻まれて室井さん家で看病してもらう」というシチュエーションにしたかったので。
ちなみに、地元の私の経験では、三つ目通りが夜間工事等で通行止めになることはまず無いのですが、この道空いてると新木場に抜けられちゃうんで、塞いでみました。
しかし豊洲交差点の付近って、実は両方向とも
4車線づつ、あるんですよね。つまり、計8車線………ここを全部塞ぐ交通事故って、どーいう事故だ(爆)
全体的にただ長いだけの話。まあ、仲間内以外の人前(ネット上)に晒した初めての駄文ということで、ごカンベンを(苦笑)