Just For Play  3




今や大規模な企業の集中型通信システムとして定着した感のあるPBXダイヤルインには俗に親番号と子番号という二つの区分けが存在する。親番号が実体を持った電話線であるのに対して、子番号の方は架空の電話線ということになる。もちろん子番号で受信することも発信することも可能だが、実はその時にたまたま空いている親番号の回線を使用して通信する仕組みになっているのだ。つまり子番号から発信された場合は何れも使用された親番号の通信履歴しか残らないのである。ましてやPBX交換機で制御している筈の、どの子番号が親番号に接続されたかという記録さえ消去してしまえば、正確な発信ルートを辿ることは不可能に近くなる―――最も、こちらについては、そのような接続記録を取る機能が交換機側にセットされていないことが前もって判っていたので、何ら気にする事は無かったのだが。
問題の時間に官房室のFAXが通信状態であったということに加えて、ほぼ同時刻に親番号を使用してマスコミ五社の番号に発信された記録が残されている事実と、受け取られたFAXの下方に表記されていた発信元番号が長官官房室のものであるという状況証拠から導きだされた結論は一つだったのである。
少し前から、広報室の連中が長官官房室から送信されたらしいというFAXのことで騒いでいるのが判り、中野と内田が着実に任務を成し遂げたことは確認できた。
科学捜査研究所の電子メールと、警備課からのFAX送信と―――ここへ来て、一挙に4ショット目と5ショット目が当たったことは、一倉にとって人選を誤らなかった証明のようなものとなった。
だが、ここで気を抜いてはならないのだ。今までは頭の回転の速い少々生意気なオタクと銀行レース並みの手堅い結果を出す兵隊に、こちらの望んでいる作業を推測させ、または指示を与えて実行させるだけだった。彼らは一々理由なぞ訊きはしなかった。中央の方は一倉が語るまでもなく、事の展開を予想し状況を楽しんでいることだろう。中野と内田の場合、最終的に自分達の元上司の降格が解かれれば、それ以外のことはどうでもいいと思っているに違いない。
しかし、次は直接自分が指示を出す訳ではない。別の人物にある意味全権を委ねるのだ。殊更、慎重に事を運ばなければならない―――
一倉は捜査一課に電話をかけて益本を呼び出し、過去の捜査資料を参考にしたいと告げた。
ものの15分もしないうちに、益本は一抱えもあるバインダーを3組持って現れた。
「忙しいところをすまんな―――そっちの打合せコーナーへ行こう」
狭い別室へ入るなり、益本は情けない顔をした。
「一倉調査官、どうせ持ってこさせるならもっと軽い資料にしてくださいよ。腕が痺れました」
「何、言ってる。あまり軽い資料じゃ、ここに長く居座っていられないだろう? これくらいで、丁度いい」
「あ・・・なるほど、そうですね」
一昨日から突如として火を吹いた警察内部を抉るスキャンダルは広報担当の懸命な押え込みの甲斐あって、なんとか大々的な報道を免れているとはいえ、マスコミの取材申込は殺到し本庁の前にはTVカメラも設置される始末である。夕刻ともなれば、自宅へと急ぐ職員をレポーターが追い掛け回し、何かコメントをとろうと食い下がっているのをこの二日間で嫌というほど見せられてきた。本当なら向けられたマイクを前に、室井の降格は不当だ、処分は差し戻されるべである―――と声を大にして叫びたいのをグッとこらえてきた益本にしてみれば、一倉に呼び出されてみて、何か自分に指示があるに違いないという期待と確信を胸に、この外事課までやって来たのである。
「室井の降格処分の話、凄いことになってるな」
一倉が口を開いた。益本も言葉少なに答える。
「驚きました・・・まさか、あんなメールやFAXが、マスコミに・・・」
「それも、ここ二、三日の間で一斉に、な」
一倉がニヤリと笑った。獲物を追いつめるハンターのような、一分の隙も無いその眼差しに益本は戦慄した―――やはり、後ろで糸を引いているのはこの人か・・・
「で・・・我々捜査一課は、どうすればいいですかね?」
悪魔のように頭の切れる男を前にして、益本は奇妙な興奮が自分を支配しつつあることに驚いていた。まるで確保した被疑者に手錠をかける寸前の、ぞくりとした感触が身体の中に甦ってくる。
一倉が上着の胸ポケットから折りたたまれた紙片を取り出し、益本の前に拡げる。そこには出版社と雑誌名、編集部の担当者の名前が一覧になっていた。
「これは・・・?」
「この前、言ってただろう・・・一課には組織的な人数がいるってな? だから、人海戦術だ」
一倉は益本の目を見据えて続けた。
「一昨日、発信元不明の告発メールとチェーンメールの一種が出回った。そして今日流されたFAXは組織批判だ。これだけだったら、たった一人ででも出来ないことはない。問題は、室井の降格処分に異を唱えている連中が一人や二人じゃないことを上の奴等にどうやって判らせるか、だ」
一倉が自分を初め一課の人間に何をやらせようとしているのか、益本にはだんだん見えてきた。
「一人一社じゃない―――全社だ。しかし、取材には応じるな・・・タレコミだけにしとけ。身元がバレでもしたら、メールやFAXの分までゲロ吐かされかねないからな」
益本は強く頷いた。事が起きてから僅か二日しかたっていないが、身内の犯罪の可能性が高いこの騒ぎのメールの足取りに関しては、既に諦めモードが強くなってきていた。およそ室井とは接点の無さそうな科学捜査研究所のアドレスが使用されていたのは、過去に室井と一緒に仕事したことのあるプロファイラー達に罪を擦りつける為だったんじゃないのかと若手プロファイリング・チームからは噛み付かれた上に、警察内のネットワーク・セキュリティそのものがかなり杜撰なものであることが明るみに出てしまったのだ。以前所轄の刑事に易々と侵入された過去のあるネットワーク・システムへの介入は、少し高度なテクニックを駆使するだけで簡単に内部への門戸を開放してしまうことが、今や周知の事実となってしまったのである。
一倉の言うように、下手に足がつけば身に覚えの無い犯行の自白までもが強要され、スケープゴートにさせられかねないのは、ここ数日の殺気立った庁内の雰囲気で自ずと解ろうかというものだった。
「タレコむ内容は、個人の判断に任せる。あまり統一性があってもヘンだしな。だが、最終目標は例の処分の差し戻しだ。それも、年内になんとかしたい」
「解ります。年明けには定例の人事異動がありますからね、そこでの差し戻しだと一歩遅れを取らされた形になります。でも、年内だったら単に降格を戻されたということで、異動経歴には傷がつきません」
「さすがにそれくらいは、知っている―――か」
二人は顔を見合わせて、うっそりと笑い合った。益本は一応仕事をしているフリのつもりか、手許の分厚い捜査資料を捲り始めた。一倉も残りのバインダーのうちの一つを引き寄せ、いかにも調べ物をしているかのような姿勢をとる。
「人選も、任せる。別に一課の人間じゃなくても構わない―――ただし、絶対にバレるな。自分の警官人生を賭けることになったら本末転倒になっちまう」
「はい、気をつけます」
ただ開かれているだけのページに視線を落としながらの会話が、二人の間で続く。
「それにしても、長官官房室のFAXからとは・・・驚きましたね。一体、どんな方法で?」
「なに、たいしたトリックじゃない。子番号に接続されてるFAXならどこの部署のものでも良かった―――官房室のを使ったのは、ちょっとしたお遊びだ」
その言葉の意味を図りかねて、益本は思わず顔を上げたが、目の前の男は相変わらず読んでもいない書類に向かったままの姿勢を崩さない。
「まあ、強いて言えば―――条件の合う他の部署には必ず一人か二人、室井寄りの人間がいたんだ。そういう部署から発信させれば、そいつらが疑われる可能性がある。だが、長官官房室なら、お上のお膝元だ。ちょっと中を引っ掻き回してやるのもいいだろうさ」
「さすがですね・・・抜かりが無い」
益本は一倉の凄さに圧倒されていた。直属の部下として働いたことはなかったものの、一倉の有能さは元上司の室井と並んでよく知られていることだった。が、ここまで考え尽くしているとは・・・
「で、この後、どうなるんです?」
湧き上がる興奮を懸命に抑えつつも、一倉の鮮やかな手際の虜となった益本はそう訊かずにはいられなかった。
しかし、一倉から発せられた言葉は、限りなく素っ気無いものだった。
「ここから先は知らん方がいい」
言葉を失っている益本に、下を向いたままの一倉が諭すように告げた。
「いいか―――今、行われていることは、ちょっとしたゲーム―――そう、お遊びだ。それ以上でも、それ以下でもない」
今や、益本は一倉をまじまじと見つめるしかなかった。
「オレ達は、上に反抗している訳じゃない。自分が思っていることをほんの少し、外の人間に意思表示しただけなんだ・・・メールとかFAXとかタレコミとか、色々な手段でな」
冴え冴えとした低い声が、耳から入り込み脳髄へと昇ってくる。まるで、交感神経が徐々に犯されていくようなその感触に、益本は戸惑った。
「一つのショットが次の球に当たって別の方角に転がっていき、その球が更に別の球に当たってその次の曲線を描いていく・・・その結果、上手くすれば室井の処分が差し戻されるかもしれない―――」
そこまで言うと一倉は初めて顔を上げて、冷静な面持ちで益本と対峙した。
「今起こっている事の全貌を知る必要は無い。個人が一つ一つ確実にプレイすることで、球が次々と転がっていく。転がった先がどうなるか知らなければ、仮に公安に問い詰められても答えようが無いし、第一、思惑どおりに転がっていくかどうか判らん―――だから、ゲームなんだ。大いに、楽しもうじゃないか」
益本は黙って今の言葉を反芻した。一人一人が自分に与えられた役を忠実にこなすことで警察内に大きなムーブメントが巻き起こされれば、それはその大きさ故に責任の所在が霧散して個人単位の責めが負わされにくくなる。そのムーブメントの力によって室井の処分をなんとかしようとする一倉の頭脳の優秀さと懐の深さを益本は直に感じたような気がした。何しろ、関わっている人間はもちろん、水面下で室井を支持している人間が誰も処分されないようにと考えられて張り巡らされているトラップへ、既に上層部は片足以上を突っ込んでいるのだ。そして、この計画の不確実な部分をゲームと割り切って捉えている、その潔さにも脱帽せざるをえなかった。
いいでしょう・・・あんたに従いますよ、一倉調査官―――
益本は決意も新たに告げた。
「言われたことを一つも漏らさずにやり遂げてみせるのが、我々捜査一課の誇りとするところです」
「ああ、よく知ってる―――そのリスト、なるべく早く処分しろよ」
6つ目のショットが確実に転がり出したのを確認した一倉は、漸く益本を開放した。

それから一週間のあいだ、各出版社の編集部は複数の現役警察官からのタレコミで相次いだ。
内容は様々だったが大きく共通していたのは、『副総監誘拐事件』の現地本部長の優秀さとそれ故降格処分への痛惜、そして情報提供者が何れも取材に応じたがらないという三点だった。
各編集部は警官達が処分を畏れて取材に応じないことを逆手に取って、ここぞとばかりに警察組織の批判を紙面で繰り広げた。慌てた警察庁・警視庁の広報担当が東西に奔走して、幾つかの雑誌は掲載される前に記事を差し止めることが出来たが、間に合わずに発売されてしまったものもあった。
連日のタレコミ報道をTVや雑誌でざっと確認しながら、一倉は奇妙に静かな興奮が自分の身体の内部から駆け上がってくるのに身を任せていた。本来ならこの巨大な組織に於いて出会うどころかすれ違うことすら無かったかもしれない男達が一倉の本物の手足のように動き、ここまでの騒ぎを起こしてくれた。『室井慎次』という人間の吸引力はこんなにも凄いのかと、改めて思わされる。
『警視副総監誘拐監禁事件の顛末』告発メールから始まったこの騒ぎは、更に一つの大きな世論を巻き起こしつつあった。優秀な人材をつまらぬ命令違反で降格にするような警察組織に未来を任せておけるのか―――という大きな命題のおつりのようなかたちではあったが、不運な降格処分を受けさせられた現地本部長を差し戻して警察は世間にお詫びするべきであるという風潮が拡がり始めていたのである。
今や、これらの意見を無視することが叶わなくなった上層部は連日対策を練ることとなった。その煮え切らない態度に痺れを切らしたマスコミは更に世間を煽り立てて、情報の公開と処分の差し戻しを声高に叫び出していた。幸か不幸か、この他に大事件も起こらず、警察上層部は針のむしろに耐える毎日が続いていた。
最初の告発メールが出回ってから丁度二週間後、上層部とマスコミの間が徐々に膠着状態へと陥りつつあったその時に、今度は一倉が最後のポケットを目指して自ら行動を起こした。
本来ならここで、中央から聞き出した方法を駆使して架空のメールボックスを作成し、そこから一通だけメールを送信してその返事を待つつもりだった。しかしここへ来て、一倉は自分の身許を不確かにして相手に送信することにメリットが見出せなくなっていた。
当初、一倉はいくら室井の為といえども、自分の立場だけは絶対に護り通すつもりでいた。保身を考えていたというよりも、所詮ゲームのつもりで始めたこんな事でしくじりでもしたら自分が今まで築いてきた地位を失いかねないことに、やはり未練を感じる気持ちの方が強かったのだ。だが、中央や中野や内田、益本以下捜査一課の面々の予想以上の働きとそこから派生した一連の騒ぎがだんだん大きくなっていくにつれて、どうしてもこの勝負に勝ちたいという思いが一倉を支配し始めた。そして黒幕としてではなく、自分も一つの手駒となって最後の仕上げをした方が、相応しいように思えてきた。
別に大勝負を打とうとしている訳ではなかった。ただ、最後のショットは正々堂々と相手に対して決めるべきじゃないかという気持ちが、漠然と一倉の中に湧いてきたに過ぎなかった。
一体、どうしちまったんだ、オレは―――自分の手を汚さないように立ち回るのは得意だった筈だろう?
独りごちてみるが、室井の為、己の思い通りにもしくはそれ以上に動いてくれた多くの善意のことを想うと、自分一人が安全圏に残っているのはやはり躊躇われた。それに、ここで自分が素性を隠さずに堂々と行動したところで、中央を始めとするプレイヤー達と一倉との接点は殆ど無に等しいのだから、何ら問題はない筈である。
ひとつ、やってみるか―――
一倉は、自分のアドレスから吉田警視副総監の個人アドレス宛てに、時間をいただきたいという用件だけを綴った短いメールを送信することにした。

「入りたまえ」
警視庁警視副総監室へ呼ばれたのは初めてだった。一倉は失礼にならない程度に室内に目をやりながら、吉田警視副総監の座っている執務机の方へと足を進めた。
「君が、一倉君か―――所属は警察庁の警備局外事課だね?」
「はい」
「で、私に話したいこととは・・・?」
この、警視庁のナンバー2たる頭脳明晰な人物に持って回った言い方は無用だ。正面突破した方が道が開けるに違いない―――それでも、理論で攻めるべきか、はたまた感情論の方がいいのか、今一つ判断がつきかねた一倉は、とりあえず話の取っ掛かりとして、こう告げた。
「吉田警視副総監に申し上げます。最近マスコミを賑わせているメールやFAXによる一連の告発騒ぎが、足取りは掴めないものの、内部の人間の不満から噴き出したものであることは間違いないかと思われます」
「それはつまり、室井君の降格を差し戻せ―――ということかね?」
やはり、思った通りのキレ者だな―――
吉田副総監は、早くもこちらの要求を正確に読み取ったようだった。その問いには直接答えずに、一倉は自分の考えを主張した。
「室井君のような人材こそが上に行くべきだと、私は考えます」
「彼が優秀な人間であることは聞いている」
室井を評したその一言から吉田副総監自身、今回の降格処分に何か考えるところがあったように感じたのは希望的観測だったのかもしれない。その僅かな光明に縋るようにして、一倉は当たり前の正論を吐いた。
「我々国家公務員採用は警察の制度を整え、作っていかねばならない立場の側の人間であることは重々承知しています。しかし、今の情報社会に於いて現在の制度をそのまま維持するだけでは、大きく遅れを取るかと思われます」
副総監は黙って一倉の言葉の続きを待っている。
「室井君は所轄への命令系統が今だに書類や印鑑によって行われていることや、情報が速やかに伝わらないことが捜査の弊害になっていることを憂えて、過去に研究会でもそれについて言及しています―――その考え方は、歓迎されていないようですが」
続く科白が澱みなく口をついて出たのに一倉は驚いていた。こんな、上層部批判とも取られかねない一言まで付け加えてしまって気は確かか?というなじりが脳の奥の方で叫び声を上げたが、今更どうしようもない。ここまで来たら、なるようになるだけだ―――
「彼は捜査一課管理官だった頃に、担当していた所轄の―――湾岸署の青島刑事と約束をしたそうです。自分は上に行って今の縦割りの警察制度を変えて現場の刑事達が正しいと思うことを出来るようにする、そして青島刑事は現場で頑張ると」
「そうか・・・そんな約束を・・・」
副総監の瞳が何か懐かしいものを思い出しているかのように眇められたのを一倉の鋭い眼差しは見逃さなかった。理由はまるで判らないが、もしかしたら―――そう囁いた本能に従って、一倉は静かに感情を迸らせた。
「副総監の事件を解決に導いた二人がそういう絆で結ばれていたことをお知らせしたくて、参りました」
正面きって訴えている今の自分が、まるで室井のような正攻法をとっていることにふと気づいて、こそばゆかった。
吉田警視副総監の瞳が、突き動かされるかのように揺らめいた。
「一倉君、君の言いたいことは理解した―――私も出来るだけのことをしよう」
「ありがとうございます」
一倉は一礼すると、副総監室を後にした。
これで全ての球は収まるべきポケットへと収まった。達成感と脱力感が己の身体を同時に支配する。
今の会見に確かな手応えを感じながらも、一抹の不安が拭いきれないのは、この一連の騒ぎに警察庁と警視庁の対立意識がどのように絡んでくるかが全く読めないからに他ならない。
警察庁に籍を置く室井の降格を警視庁からの横槍で差し戻すことが出来るだろうか?
だが、マスコミの追及も無視出来なくなっている今、警視庁ナンバー2の発言はとてつもない影響力を及ぼすに違いない―――何よりも吉田警視副総監は事件の被害者本人なのだから。
この後の展開は神のみぞ知る―――か。
室井よ、許せ―――オレに出来るのは、ここまでだ。
いつになく清々しい気持ちを全身で抱きしめるようにして、一倉は職場へと戻っていった。

それから三日間が経過した。
マスコミの警察バッシングはまだ続いていたが、相変わらず協議しているらしい上層部を除いて、下々の者達は本来の職務に忙殺されていった。ただでさえ忙しい年の瀬に、今や周囲の雑音に惑わされる余裕も無く、皆、自分の担当業務を黙々とこなし続けるしかなかった。
そして、室井は吉田警視副総監から呼び出しを受けた。

「一倉か―――室井だ。話がある。手間は取らせない」
やはりきたか・・・受話器を持つ手が興奮して少しく震えているのをまるで他人事のように感じながら、一倉は室井の指定してきた刑事局の会議室へと向かった。
のろのろとドアノブを廻して中へ入ると、手前のパイプチェアに既に腰掛けていた室井が目だけで部屋の奥を指した。一倉は特に逆らおうともせず、促されるままに室井の正面へ腰を下ろした。真っ直ぐなその視線を受けずとも、彼が何故自分を呼び出したのかは見当がついていた。
「さっき、警視副総監室へ呼ばれた」
「ほう、何でまた?」
白々しく受け答えする一倉を室井の大きな瞳が見据えた。
「私の降格処分が無かったことになるそうだ―――参事官に戻る」
「そりゃあ、目出度いじゃないか。よかったな」
「副総監に言われたんだ。いい同期の友人を持っているな、と」
「おいおい、室井。オマエの同期はオレだけじゃ無いだろう?」
「一倉!」
自分の目を見ようともせず、当たり障りのない相槌だけを返す一倉に痺れを切らした室井が小さく叫んだ。
「吉田副総監は気づいておられる―――メールもFAXも出版社への煽動も、こう一斉に起こる筈がない」
漸く一倉がゆるゆると視線を戻した。照れくさそうな、それでいて満足げな顔に室井の目が釘付けになった。
「偶然さ―――だたの、偶然だ。大体、オレ一人で出来ることじゃない。皆が勝手にやったことだ。それで、いいじゃないか」
「一倉―――危ない橋を渡らせたな・・・骨折りに感謝する」
どこまでも真面目に頭を下げる室井に、一倉は笑い出しそうになる自分を抑えるのが精一杯だった。
「礼なんか言うな―――オレも、オマエの『理想』とやらの実現を見てみたくなった」
室井がびっくりしたように顔を上げ、目を見開いた。その夜のような黒目にしっかりと自分の視線を絡ませて、一倉はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「なあ、室井・・・オマエに期待しているのは現場の刑事だけじゃない。オレ達みたいな組織の奴隷の中にも、オマエのことを信じている奴は沢山、いるんだ」
心底驚いているような深い色の瞳が、一倉をノックアウトした。
おい、室井―――オマエ、本当に青島しか見てないんじゃ、ないだろうな?
唐突に湧き上がってきた疑問に、一倉は頭を殴られたようなショックを受けた。それでも、その一途で真摯な瞳が相変わらず清く穢れが無いことに安堵した一倉は、今はこれ以上の話はするまいと心に決めた。
「そのこと、忘れるな」
「ああ―――解った」
自分の先に立って会議室のドアを開けるその後ろ姿を見つめながら、一倉は漠然と思っていた。
なあ、室井―――オマエの事が気になってしょうがないってのは、どういう感情なんだろうな?
オマエの中の静かに燃える白く眩しい正義の炎が強大な権力に捻じ伏せられて無理矢理消されることを憂えて、汚れた小細工を弄することを真剣に思い悩むその生真面目さに歯がゆさを感じて。
だが「オマエの事が心配だ」と言ったら、大きなお世話だと迷惑そうな顔をするんだろう?
オレだけじゃなく、共に働いた仲間達の多くを惹きつけてやまないその誠実で信頼のおける人柄は、これからも多くの人間を吸引していくんだろうな。
オレはとんでもない同期を持ったのかも、しれん。
同期として、警察官僚を目指すライバルとして―――いや、多分そんな当たり前の理由ではなく、もっと奥の深いものに根差しているらしい感情を呼び覚まされてしまった一倉は戸惑っていた。そして、ただの友人以上には考えたことのなかった室井という存在に、これからどう対処していけば良いのか、後には真剣に悩むことになるのである。
1998年、暮れも押し迫ったある日の出来事だった。

(1999/4/18)


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宣戦布告』の中で真下くんが語っていた、『室井さんが参事官に返り咲いた経緯』の話を読みたいとのリクエストを頂いたので書いてみました。「絶対、一倉さんが噛んでいますよね?」という強い(?)ご要望にお応えしたつもりですが、ミコ様高石優希様KAORI、こんなものでよろしかったでしょうか…???
いや〜、書き始め当初は楽しかったんですよ、ホント。オヤジ好き(爆)の自分としては、もっといっぱい(オヤジを)登場させるつもりだったんだけど…最初の案では科研も三人全員出すつもりだったし、一課の捜査員も益本刑事だけじゃなくて最低二人は…と思ってました。極めつけは、大林中隊長と某刑事局長の出演も予定していた(爆) でも結局、細かい手口を描写している段階で飽きがきて、この長さに落ち着いたってカンジです。それにラブシーンが書けなくて、欲求不満になったので(爆) 青島くんは全然出てこないし、室井さんも最後の方でチョットだけしか出せなかったし…それにしても、一倉さんが、あそこまで大活躍(笑)してくれるとは思わなくて、もー、ビックリ。
ところで、内部告発…本当にあるそうです。某省に勤務する友人から聞きました。
格好いい一倉さんを書くつもりが、みんなが室井さんを愛してる!(爆)になったのは何故?

−お断り−
アドレス不明メールとポーリング機能については説明、端折ってますので、ご了承ください。
あと、諸々の警察内部事情に関しては、すべて作者の妄想ですので悪しからず(笑)