「まだ恐いか?」 男は肩の上の小さな子供に話しかける。 先程から後を向いたまま今まで自分がいた草原を眺めていた子は、その問い掛けにくるり と向きなおると首を横にふる。 「…ううん。もう恐くないよ。」 「そうか。」 自分などよりはるかに背の高かった枯草の森が、今では足先にさえ触れない。 先程まであんなに怖かったというのに、まるで嘘のように思えてきた。 この大きく強い男の人が、一緒にいてくれるというだけなのに、こんなにも違う。 自分の為に来てくれたのだと思うと、何だかとても嬉しくて、くすくす笑いながら男の頭 にじゃれるようにしがみつく。 小さな掌の感触の愛しさに男の目が柔らかくなる。 「何をすればいいのか解るか?」 男が尋ねると、こくりと頷く。 「あっち。」 迷うことなくまっすぐに指で遥かな枯草の森の一点を指し示す。 男はその先に視線をおくる。 指し示された方角には、何も見えなかった。 ただ枯草のみが延々と広がる世界であったが、それでも幼な子ははっきりと指を向ける。 そう、まるで何かに導かれるようにまっすぐに。 「あっちにいかなくっちゃいけないの。…どうしてか判らないけど。」 「忘れた…と言っていたな。」 男が静かに尋ねると、幼な子はこくりと頷き言う。 「…うん…。とても大事なことだったのに…。どうしても思い出せないの。何があって も絶対忘れちゃいけないことだったのに…!」 消え入りそうな声でぎゅっと唇を噛む。 ここで目を覚ましてからずっと感じていた、どこかに自分は行かなければならないのだと いう強い思いに突き動かされる。 男は小さく笑って、なだめるように子供の髪をくしゃりと手ですくと、再び尋ねる。 「目分の名前も覚えてないのか?」 しばらく考えるかのように考え込むと、情けなさそうな顔でこくりと頷く。 男は少し笑うと、そのうち思い出すさと言うように、ぴしゃりと小さな膝を軽く叩く。 「お兄ちゃんの名前は?」 「俺か…?俺の名前は一輝だ。」 「一輝…。」 少し青ざめた顔で彼の名を呟くと、大きな瞳を見開いたまま硬直する。 まるで何かを思い出そうとするような表情が、やがて失望の色に代わり、幼な子は小さく 溜め息をついた。 「どうした?何か思い出したか?」 「うん…。ひとつだけ。あとは全然だめ。」 がっかりする幼な子に一輝が聞く。 「何を思い出した…?」 「…『聖聞士』。でも何の事かぼく解らない。…お兄ちゃん知ってる?」 「いや…。」 「お兄ちゃん?どうしたの?」 大きな翠の瞳がいぶかしげに、一輝の顔をのぞきこむ。 一輝はそれには答えず、幼子が先程指し示した方向に歩き始めた。 その顔に微かに苦笑めいた、やや自虐的な笑みが浮かんでいる事に、小さな子供は気付か なかった。 この世界にも『夜』という概念があるのか、いくらも歩かないうちに、いつの間にか急速 にあたりが暗くなり、肌寒いくらいになる。 一輝と幼な子は、立ち枯れた大きな樹の根元で夜を過ごすことにした。 自分を降ろすなり、黙々と辺りに散らばっている枯れ木を集め始めた一輝を、幼子は不思 議そうな目で見ていたが、火が起きるときゃあと嬉しそうな声を上げて駆け寄り、焚き火 の前にしゃがみこむと手をかざす。 一晩火を絶やさない程度の薪を集めると、大きくせりだした根の間に座り込んだ一輝が小 さく口許を綻ばせる。 目の前には、先程助けた幼な子が、焚き火の中にしきりにあちこちから拾ってきた小枝を 投げ入れながら、無心に燃えさかる炎を見つめていた。 赤々と照らし出されるその顔の中で、瞳だけがきらきらと炎の色を反射して輝いている。 しばらくその姿を眺めていると、視線に気付いたのか、大きな瞳をくるりと一輝の方に向 けると、にこりと顔中で笑って広すぎる胸に走りよっていく。 一輝はその髪をくしゃと掻き回し、ひょいとかかえあげ組んだ足の上に座らせる。 「火が面白いか?」 「うん。」 一輝の問い掛けに、幼子は素直にこくりとうなずく。 そして少し考えるように大きな瞳をくるりとまわし、ぽんと一輝の胸に自分の頭を甘える ようにすりつける。 「だあれもいないね。」 質問というよりむしろ確認するような口調で、一輝の顔を顎をせいいっぱい上に向け半ぱ のけぞるようにして覗きこむと、言う。 「ああ、そうだな。」 「じゃあ、ぼくとお兄ちゃんだけなんだ。」 「…寂しいか?」 一輝の間いかけに、小さな頭をぶんぶんと左右に振ってにこりと笑う。 「ううん。お兄ちゃんがいるもん。」 「そうか…。」 ぽん、と肩を叩いて一輝が言う。 彼がそれ以上何も言わない事で興味を失ったのか、再び小枝を拾ってきては一輝の膝の上 に座り、焚き火の中に投げ込んでいくという作業を繰り返す。 ぼう、と放りこむたび舞い上がる火の粉に目を輝かせながら。 一輝は静かに目を閉じる。 『お兄ちゃんがいるもん。』 脳裏に先程の声が響く。 ──あれは、いつの事だったろうか…── |