『ばいばーい。』 『また明日ねーっ。』 地面に伸びた影が、自分の背丈よりはるかに長くなったころ、ひとり、またひとりと誰か が消えていく。 いつの間にか公園の中で、小さな一輝はたった一人でぽつんと立っていた。 今まで一緒に遊んでいた友達は、みな母親が迎えにくると、その場に残った友達に手を振 りながら、それぞれの家へ帰っていった。 ここにいるのは、忘れられたブランコやすべり台の落とす長い影と、ただ立ちつくす男の 子の心がひとつ…。 「ちえっ。」 一輝は小さく舌打ちをする。 行き場のないくやしさと悲しさが、ごちゃまぜになって喉もとまでせりあがってくるのを 無理矢理ぐっと飲み込みただ前方を睨みつける。 ──ひ・と・り・ぽっ・ち── そんな言棄が頭の中で浮かんでは消え、腹立ちまぎれに足元の小石を力一杯蹴飛ばす。 ふいに一輝の手が後ろに軽く引っ張られ、はっとして彼はふりかえると、そこには目分の 頭ふたつぶんくらい小さな弟が所在なげに立っていた。 「おにちゃん。」 「瞬?」 少し不安そうに兄の顔を見上げると、伺うようにして問い掛けてくる。 まだ幼く舌足らずな口調の中にも、自分を心配しているのが解る。 一輝は小さく笑みを浮かべ名を呼ぶと、瞬はその左手に目分の右手を半ば押し込むように して指をきゅっと握る。 「おにちゃん、かえろ。」 その小さな温もりに、なんだかひどく安心する。 そんな兄の様子に、小さな頭を微かにかしげると、 「おにちゃん、さみし?」 「兄ちゃん寂しくなんかないぞ。」 舌足らずな声で尋ねられ、内心思いきりどきっとしながらも、せいいっぱい虚勢をはって 答える。 「瞬…は?」 「ぼくさみしないよ。だっておにちゃんいるもん。」 おそるおそる尋ねる兄に、心から嬉しそうに答える。 一輝が照れ臭そうに人指し指で鼻をこすりながら笑った。 「帰ろうか。」 「うん。」 一一たとえ迎えてくれる家はなくても、帰る場所はあった。 『家』と呼ぶにはあまりにも辛い所だが、それでも無いよりはましかもしれない。 くるりと瞬に背中を向けてしゃがみこむと、 「ほら、瞬。おぶってやるから乗れよ。」 「うんっ!」 おぶさる弟の足をよいしょと脇にかかえあげると、バランスを崩さぬよう気をつけながら 立ち上がる。 「あのね、おにちゃん。お耳かして。」 「ん?なんだよ。」 「ないしょの話。ぜったい誰にもいっちゃいけないんだよ。」 いきなり真剣な弟の口調に、一輝は面食らう。 「でもおにちゃんには教えてあげる。」 「…そっか。」 あまりに真剣そうな口振りにちょっと吹き出しかけたが一輝も、真面目そうな顔を作って 耳をむける。 「あのね…。」 息が耳にかかってくすぐったい。 「ぼくおにちゃんのこといーっちばん好きなんだよ。イチゴのケーキよりずーっとずー っと大好きだよ。」 『ずーっと』の部分にいっぱいに力を込めて瞬が言う。 イチゴのケーキと比べられたのは少し不満だけれども、それでもなんだかきゅっと胸のあ たりが熱くなり、その熱が耳まで昇ってくるようで少し慌てる。 「じゃ、兄ちゃんもとっときの秘密、瞬に教えてやろうかな。」 「なあに?おしえてっ!」 瞬が輿味しんしんの顔で身を乗り出す。 一輝も調子をあわせ、秘密めかして瞬の耳元に口を寄せ声をひそめてそっと囑く。 くすぐったそうに瞬が首をすくめた。 「あのな、俺も瞬のこといっちばん好きなんだぜ。」 ふふふっと嬉しそうに瞬が笑いながら、一輝の背中に頼をこすりつけ、今度は大きく身を 乗り出して聞く。 「どのくらい?ぼくより?」 「あったりまえだ。なんせ俺は瞬の兄ちゃんなんだからなっ。瞬なんかよりずーっと すごいんだぞ!」 ヘヘんと胸をはる一輝に、瞬がぷうと頼を膨らませる。 「でもぼくだっていっぱい好きだもんっ!」 「残念でした。俺は瞬が生まれる前からずっっっとだったんだぞ。」 「でも、でもぼくだって…ぼくだって…」 うまく言い返す言葉が見つからなくて、とうとうぐすぐすと泣きべそをかきだした弟に 一輝が慌ててよしよしと背中をゆするが、早くも瞬は真っ赤な顔でこらえきれずに目をこ すりはじめた。 「しゅっ…瞬…泣くなよ。」 「…な…かないもん…。」 「困ったなあ…。」 鼻をすすりながらもなお強がる弟を背に、なんとかならないかと少し考える素振りをみせ たが、何か思いついたのか、にっと笑うと突然走り出した。 「瞬、しっかりつかまってろよっ!」 びっくりして泣くのも忘れ、慌てて瞬がしがみついてくる。 やがて、兄の背中で風を切る音に目を丸くし大きな声で歓声をあげる。 「おにちゃっ!もっとっ!もっとっ!」 「よおーしっ!いっくぞおー!」 背中で弟がきゃあきゃあ歓声を上げながらしがみついてくる。 背中の温もりが何だかとても嬉しい。 ──瞬がいればなんにもいらないや。── そう、瞬がいれば何があっても大丈夫なような気がして、何があってもどんなことがあっ ても絶対負けないような気がしてくる。 「よつ!」 思いきりはずみをつけ、目の前の大きな石を飛び越えると、瞬が驚いて一輝の首に強くし がみつく。 「瞬、くるしいっ。」 大げさに苦しんで見せながら瞬の腕を掴むと、慌てて瞬が手を離し心配そうに聞く。 「おにちゃん、だいじょうぶ?」 「へーきへーきっ!」 大きく息をつき、背中の弟に笑って見せた。 深呼吸をして荒い息を整えると、一輝が瞬に言う。 「帰ろうか。」 返事の代わりに瞬がとん、と額を背中にもたせかける。 もう一度瞬を抱え直し帰る方向に向いたとたん、背中の重みが急に消えた。 慌てて振りかえると、弟の姿はどこにもなかった。 それどころか、まるでタ日の赤に飲み込まれてしまったかのように、あたりの景色がぼや けていく。 「瞬!」 弟の名を叫びながら歩き出す。 「しゅーん!どこだあー!」返事はない。 ブランコが消えた。 すべり台が消えた。 砂場が、鉄棒が消えた。 一歩踏みだすごとに、まわりの者はどんどんと消えていく。 やがてとうとう何も無くなってしまい、ただ一面の淡いオレンジ色の景色の中で一人 取り残された一輝は走り出した。 「瞬ー!」 孤独と、絶望感のなか、なすすべもなくただ叫ぶ。 ──神サマお願いです、瞬を返して下さい!── ──神サマ! ちぎれそうな心でそう願いながら、とうとう一輝は立ち疎んでしまう。 「しゅーん!」 ことり…と軽く何かが腕にぶつかる感覚に、はっと目を覚ます。 「夢…か…。」 いつの間にか膝の上の幼な子が眠ってしまったのか、一輝の腕に頭をもたせかけるように して眠っていた。 寒くないようにと焚き火の中に数本の薪を放り込むと再び目を閉じた。 |