いったいどのくらい歩いたろうか。 永遠に続くのではないのかと思われた枯れ草の森がいきなり終わる。 ──ここからはいちめんの砂の漠。── 風もここでは拭くのか、ときおり見事な模様を砂の上に描きながら去っていく。 「砂ばっかりだね。」 幼な子が感心したように言う。 初めてみる景色なのだろうか、少し興奮している。 一輝は反応を返す訳でもなく、ひょいと幼な子を抱きかかえると自分の肩に乗せる。 「ぼく歩けるよ。」 「砂の上は足をとられる。」 まるであしでまといだといわんばかりの口調に、幼な子が反発する。 「とられたりしないよっ。」 「そこでおとなしくしていろ。」 一輝の頭にしがみつきながらも口を尖らせ抗議する子に短い言棄で告げる。 「でも歩けるもん。」 なおも言い張る子に、一輝が意地悪気に言う。 「へばっても助けてやらんぞ。」 「へばったりなんかしないよっ。」 半ば意地になって強がる子を地面に降ろしてやる。 幼な子は砂の上に降り立つなり、流れる砂に重心を失いよろけかける。 が、必死にふんぱると、一輝に向かって牽制するようにいーっだっと舌を突き出す。 「ぜーったいへばったりしないよーっだっ!」 そう言い切るなり、くるりと身を翻し走り出した。 一輝の言うとおり足が砂にとられるのか、思うように前にすすまない。 それでもがむしゃらに進もうとしたとたん、ずるりと滑ってもろに顔面からこけた。 勢いあまって半ば砂に埋もれるように倒れた幼な子を、助けようともせず一輝はその 場に立ったまま面白そうにただ見ている。 幼な子は慌てて起き上がると、真っ赤な顔で振り返り、一輝に向かって叫ぶ。 「ぼ、ぼく平気だもんっ!」 「そりゃあよかったな。」 せいいっぱいの自己弁護に、一輝は思わず吹き出してしまう。 くくくっとこみあげる笑いを押さえるかのような素振りに、ますます顔を真っ赤にし て砂を投げつけるが、全く届く気配すらない。 よいしょと立ち上がると荒っぽく砂を払い落とし、再びのしのしという音が聞こえて きそうなくらいの勢いで、砂丘を登っていく。 ゆっくりとその後ろを一輝が歩いていった。 「ついてきちゃダメッ!」 「別についていくつもりなどない。たまたま俺もこっちに用があるだけだ。」 むっとした顔で幼な子が振り返るが、言い返す言葉も思いつかないので、よりいっそ う歩調を早めようとするが、そうしようとすればするほど足に砂がまとわりつき、動 きが鈍くなる。 無茶な歩き方のせいですぐに息が切れてしまい、とうとうその場にへたりこむ。 ゆっくりと一輝は歩みより、数歩手前で立ち止まる。 はあっはあっと荒い息を吐きながらも、最後の意地とばかりにぷいっと一輝の方を向 かないようにそっぽをむく。 「もうへばったか?」 からかうような口調を敏感に感じ取り、何か言おうとするが息が続かない。 一輝はというと、いくらゆっくり来たとはいえ息ひとつ乱していないのが、よけいに 負けたようで腹立たしい。 それでもせめて睨んでやろうかと一輝の顔を見上げたとたん、辣みあがった。 今まで慕っていた人物とはとっさに信じれないくらい、一輝をとりまく空気が激しく 変化していたからだ。 今の彼はまるで…そうまるで初めてあった時のような、大型の猛禽類を思わせた。 幼な子のそんな様子に気付いているのかいないのか、遠くの方にいる何かを睨みつけ るように視線を走らせると、再び幼な子の方を見る。 自然その雰囲気に押され体が緊張するのを感じたが、すぐに何かがこれから起こるの だという事を直感する。 それも恐ろしい何かが。 「ここにいろ。絶対に動くな。」 厳しい声で一輝が言う。 無言でこくりと幼な子が頷く。 それでも落ち着かない様子で、警戒するようにあたりを見渡していたが、突然びくり と震える。 ──何かがいるっ!── いつの問にか、彼らのまわりをとり囲むように次々と何か乗らかい物体が現れる。 いったいどこからこれだけのものが現れたと言うのだろうか。 まるで、地の底から沸き上がってきたかのようなその物体は、まるで不定形なアメー バーのような動きで、ぶよぶよと赤黒いゼリー状の体を広げたり縮めたりしながら、 一輝達との距離を縮めようとする。 不思議なことに、その物体は動くたびに赤い色は消え、黒い部分が広がっていく。 すでに逃げ場は無くしているのだが、それを気にする様子は全くない。 ただ、押さえ切れない生理的嫌悪感に一輝の眉が寄る。 やがて、その黒く変色した物体はいくつにも分離し、それぞれが形を取り始めた。 あるものは大きな翼を持つ烏のように、そしてあるものは鋭い爪と牙をもつ豹にも似 た姿へと変化する。 しかしどの生物にも共通しているのは、その濡れた血のように紅く輝く目であった。 ──吐き気をもよおすくらい禍々しい紅。── 一輝の背後で幼な子が大きく息を飲む音が間こえる。 彼は、油断なく視線を配りながら軽く舌打ちをする。 この戦い、明らかに不利だった。 グルルル…豹の姿をとった者達が、威嚇するように喉を鳴らす。 何匹かが襲いかかろうとするが、一輝の気迫に押されてか身をかがめ、いつでも攻撃 できる姿勢を保ったまま一輝を睨みつけた。 しかし、一輝は立ちつくした姿勢のまま、特に構える様子はない。 この場に、まるで微かに触れただけでも切れてしまいそうなほど張り詰めた、見えな い糸があるかのような緊張に、一輝が静かに目を閉じた。 その緊張に耐え兼ねてか、バサリと一羽の鳥がその大きな翼を広げたのをきっかけに 戦闘は始まった。 ガアッと大きく牙を向き出し、いっせいに襲いかかった数匹が、一輝のその喉に自ら の牙を突き立てる間もなく、目に見えない壁にでもぷつかったかのように激しくはじ きとばされた。 ギャッと鋭い悲鳴はあげたものの、すぐに体勢を立て直し一輝に向かって攻撃の構え をとるが、今度はさすがに警戒してか、なかなか襲ってくる様子がない。 隙を狙うように一輝を中心にゆっくりとまわり始める。 が、依然として彼は目を閉じ、まるで無防備な姿勢のままである。 空中を真黒く染めた鳥達も、ギャアギャアとただその場で騒ぎ立てるだけでいっこう に襲いかかってはこない。 再び、一輝に向かって数匹の豹が飛び掛かる。 今度はさすがに考えたのか、何匹かはその喉に、何匹かはその腕にという様に扮かれ て攻撃をしかける。 そして空に浮かんでいた数羽が一輝のその目をえぐり出さんとせんばかりに間髪いれ ずに襲いかかる。 ──一輝の目が開かれた。── ギャウンツ! どう、と激しい悲鳴をあげて地面に叩きつけられたのは豹達の方だった。 ガガガガガアァー! うち、一匹が一輝に喉笛を掴まれ、片手で宙吊りにされている。 一輝の喉を噛み切ろうとして逆に捕まれ、ただそこから逃れようと苦しげにあがく。 ゴキリ 何か固いものがへし折れるような嫌な音がしたとたん豹はもがくのをやめた。 不自然に首が曲がったそれを、もとの群れの中に投げ入れたとたん、仲間であったは ずの豹達は一斉にその死骸に群がる。 数秒と経たずに、死骸はかけらすら残さず、獣の腹の中へと消えてしまう。 「ひっ…!」 あまりのおぞましさに幼な子が小さな悲鳴をあげる。 その声に気付いた獣たちが、嬉しそうな咆哮をあげる。 まるでやっと本来の獲物に巡り合ったかのように、今度は一輝にはまるで目もくれな いで幼な子を引き裂こうと襲いかかろうとする。 「ちっ…!」 一輝が小さく舌打ちをした。 身を守るすべをまるで持たぬ幼な子を、庇いながらの戦いだけでも充分不利だったの が、獣の狙いが子に定まった事でより困難な状況に陥ってしまう。 その間にも牙をむく豹を蹴り倒し、鋭い爪で向かってくる鳥を叩き落とす。 手加減を加えている余裕はない。 ここまで敵の数が多い以上、一撃で倒していかなければ自分も幼な子も危なかった。 すぐに彼らの立つ砂漢の砂が、みるみる獣の血で染まりどす黒い色に変わっていく。 今もまた、一輝の激しい蹴りをまともにくらった一匹が、通常とは逆の方向に体を折 り曲げながらふっとぶ。 「きゃあっ!」 「目を閉じてろ!俺がいいと言うまで開けるなっ!」 再び悲鳴をあげる幼な子に一輝が叫ぶ。 慌てて幼な子がぎゅっと目を閉じ、自分の耳を塞ぐ。 小さな体をよりいっそう小さく丸め、この惨状が終わるのをじっと待つ。 その幼な子の体を、鋭い爪や牙で引き裂こうとする鳥や豹を、一輝は次々と倒してい くが、いっこうにその数が減る気配がなかった。 しかし、それよりも先程から胸に沸き上がったある疑問がひっかかっていた。 ──おかしい。── 前に子を襲った鳥にくらべ、確かに今回の敵の数も力も数段上がっているとはいえ、 あまりにもこの現実めいた戦いは一体なんであろうか。 ここにくるまでに何度か戦うことはあったが、大部分の敵は一輝の拳に倒されると、 まるで乾いた泥のように風化し、崩れていった。 しかし、今回の敵は今までのものとは明らかに違う。 体を切れば血が流れ、腹を蹴り込めば内蔵が飛び出す。 ──この違いは何だ…?── 突然、一輝の思考を中断させるような鋭い悲鳴が、後方から間こえる。 「きゃあああ!」 はっとして一輝が振り返ると、そこには幼な子が目を見開き、がくがくと震えている ではないか。 幼な子のすぐ足元には、先程一輝が頭を蹴り砕いた豹の頭蓋の一部が転がっていた。 その上、血と脳漿をまき散らしながら飛び散ったせいであろうか、点々と幼な子の体 中にその飛沫を散らして小さな染みを作っている。 何より、その幼な子の目の前に転がっている頭蓋に残されていた眼窩から、どろりと 眼球が流れ出る。 「ひっ!やっ、やだああ!」 激しい悲鳴をあげながら、ずるずると後ずさっていく。 血走った眼球が自分を睨んでいるようで、恐ろしい。 「おっ…お兄ちゃあ-んっ!やだああーっ!」 「大丈夫だっ!目を閉じていろっ!」 「で…きないよおー!」 あまりの恐怖のためか、目を閉じることさえも出来なくなっていた。 ──これかっ!── 真っ青な顔でがたがたと震える幼な子を庇いながら、一輝が突如目的を理解する。 始めから仕組まれていた事だったのだ。 それに気付かず、まんまと罠にはまった事になるが、ここで自分の鈍さに歯噛みして ももう遅い。 この攻撃が、幼な子の精神を傷つける事に目的をおいていたのなら、その目諭見は成 功したといっていいだろう。 直接、幼な子を害することが出来ぬなら…という事であろうが、そこまでして排除し ようとするのは何故だろうか。 それもこんなまわりくどい方法で。 素早い動作で幼な子を拾い上げると、幼な子がぎゅつとしがみついてきた。 がたがた震える体を押し付けてくる子に、一輝がそっとささやく。 「すまん。」 えっ?と幼な子が聞き返す前に、一輝の人差し指が、軽く彼の額にふれる。 ふっと一輝の指先が淡く光ったかと思うと、かくんと幼な子の首が前のめりに倒れた。 幻魔拳の応用だった。 ただしただ眠らせる為だけの。 小さく寝息をたて始めた幼な子に目をやり、乱れた髪をなでると、一輝の目がぎりぎ りときつくなる。 それにあわせて彼の体から、紅い小宇宙が燃える炎のように沸き立っていく。 グルルルル…ギャギャアッ… これまでの一輝とは違う何かにおされて、何匹かが後ずさっていく。 「早々にカタをつけさせてもらうぞ。」 より激しく燃えあがった小宇宙が、何か大きな鳥の形をとりはじめる。 ──そう彼の守護星座、鳳風の形に…。── その鳳鳳が大きく羽ばたいたかと思うと、爆発的な熱量が一輝を中心に、全てを飲み 込まんばかりにあたり一面に広がっていく。 彼の周辺にいた獣達が自分に何が起こつたかを理解する間もなく、一瞬のちには塵ひ とつ残らず消滅した。 圧倒的な力の前に恐怖し、慌てて逃げようとした他の獣たちも次々に鳳凰の大いなる 翼に飲み込まれていく。 そして…まばたきを数回するかしないかのうちには、もう空を覆う黒い翼も、地に溢 れかえっていた黒い牙も、すでにどこにも見えなかった。 |