パチパチと火の中で木がはぜる音がする。
岩に背をもたせかかり、何をするでもなくただ一輝は燃える火を見つめている。
彼の足元では、幼な子が一輝の膝を枕にしてすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
時折丸くなった体をぴくりと引きつらせるが、いっこうに目を覚ます気配はない。
いろいろな出釆事が、いっぺんに起きたせいですっかり疲れてしまったのだろう。
ここに着いて、一輝がいつものように火を起こした時には、もうぐっすりと眠ってし
まっていた。
火にあぶられて真っ赤に染まった頼を指先で撫でると、くすぐったいのか軽く身じろ
ぎをして、口許だけが微笑む形に開かれる。
何か楽しい夢でも見ているのであろうか。
ふっと一輝が苦笑を浮かべる。
この世界において、いったい誰が何の夢を見るというのだろうか。
 「……ん…。」
桜色の小さな唇が何かを眩いたが、聞き取れなかった。
かつてない程の優しい目で、一輝は幼な子のもつれた髪を起こさないよう丁寧にほぐ
していたが、ふいに低い声で一言った。
 「──出てきたらどうだ。」
 「ではそうさせてもらおう。」
何もない虚空に消えていくのではないかと思われた言葉は、静かに現れた者に受け止
められた。
 「…その姿はやめろ。」
苦々しい口調でそう言う一輝に、目の前にいる者が椰楡するように口を開く。
 「この姿は気にいらぬか?お前が話しやすいようにとわざわざ形をとって
  やったというのに。」
 「それは俺の弟のものだ。」
はき捨てるように一輝が答える。
そう、目の前にいるこの者の姿は彼の弟、瞬の形をとっていた。
その唇も、目も髪も、彼を構成するもの全て寸分違わず彼の弟のものであったが、
ここにいる者は決して彼の弟ではなかった。

──では、この人物は…?──

 「そう、かつてはな。今は私のものであるが。」
面白そうに瞬であった者が言う。
彼は、人ではなかった。
いや、人である筈がなかった。獣でもなく人でもない。
生きとし生けるもの全てに仮に身分というものがあるとするならば、ここにいる彼は
人などという生き物よりもっと『位』が遥かに上の…。
 「…誰であろうとあれを自由にする力などない。」
パキリと乾いた音を立てて二つに折れた枝を、無造作に火の中に放り込むと、一輝は
なおも言葉を続ける。
 「たとえ、それが冥王であろうとな。」
 「兄であるお前でも、か?」
からかうような口調は依然として変わらない。
一輝は黙って視線を足元の子に戻す。
 「…何しにきた。」
 「理由がなくてはいけぬかな。」
とぼけるような返事に一輝の眉があがる。
そんな一輝を全く無視するように、穏やかな声で冥王が言棄を紡ぎ出す。
 「ここまでこれるとは思わなかったぞ。人間に対する私の認識は、まだ甘かったと
  いえるな。」
半ばこの状況を楽しむかのような口調に、一輝の瞳がけわしくなる。
 「ここに来ればどうなるか、知っているのであろう?」
 「ああ。だいたいは、な。」
 「それでも、と言うわけか。…それほどこの器の主であった者が大事とみえる。」
一輝は無言で、膝の上で眠りを貧っている幼な子の髪をそっと撫でる。
 「何故こんなまわりくどいやり方をする。」
 「さて。」
どうとでもとれる返事に、苛立ったように一輝が初めて目をあげる。
 「そのように殺気を放つと、その子が目を覚ますぞ。それとも、この話聞かせて
  みるか?」
一輝の体の輪郭が微かに白くぼやけていたのが、その一言でかき消される。
 「その幼な子、最後の『自我』のようだな。」
冥王が、一輝の足元で眠っている幼な子を見て言う。
一輝は黙ったままであったが、子の髪を静かに撫でる手が、その事を肯定していた。
 「この器の持ち主であった者の『力』も『記憶』も全て封じたと思っていたが…。
『自我』だけ封印から逃れたようだな。…まあよい。」
くく、と冥王が喉を鳴らす。
 「さすがは私自らが選んだ器の主だけはある。」
幼な子に伸ばされた冥王の手が、途申でふいに止まる。
 「ほう。」
面自いものでもあったかのように冥王がその手を戻す。
もし、先程延ばした手がそれ以上近付いたなら、一輝はたとえその命引き換えにしよ
うとも冥王を倒そうとしたであろう。
今なら躊躇いはない。
何故なら目の前にいるのは彼の弟の姿を写しただけの存在だから。
本当の彼の弟は、今自分の腕の中にあるのだから。
一輝の体からふきこぼれる荒々しい小宇宙を真正面から受けながら、いっこうに動じ
る様子がない。
確かに仮にも神と名乗る以上、一輝ごときの小宇宙など涼しい風程度にもならぬだろ
うが、それ以上に彼の実体のなさはいったい何故なのだろうか…?
 「──虚像…か…。」
一輝が苦々しげにつぶやく。
 「私に会いたければ、その子が案内するだろう。もともとひとつであったものだ。
もとの形に戻ろうとする以上道案内には最適であろう。邪魔はせぬ。」
 「…今までしなかった様な口振りだな。」
一低い声で言棄を吐く一輝に、冥王が答える。
 「私は命じた覚えはない。」
ふ…と笑うように口の両端を持ち上げ、笑みに似た表情を浮かべるが、その表情とは
掛け難れた辛辣な台詞が流れ出る。
 「しかし集団の中で異端と判断されたものは、自然であれ不自然であれ排除される
ものであろう?」
ぴくり…と幼な子を守るように置かれた手が微かに震え再び冥王を睨み付ける。
 「人間の世界では当前の行為だと思っていたが、そうではないのかな。」
 「…俺達は異端者という訳か…。」
苦笑めいた冥王の表情に、一輝の口許が歪む。
 「人の力でどこまでやれるかは解らぬが、座輿としてはなかなか面白い。」
膝の上で幼な子が寝返りをうつ。
何か眩いたように思えたが、起きる気配は無かった。
無感動な目でその様子を見ていた冥王が言う。
 「お前にとって大切だというもの取り戻しに来るがいい。しかしそれまで記憶の
断片に惑わされぬようにすることが出釆るかな?」
ふいに言棄を切り、一輝を見据える。
 「これから先、たとえ記憶の断片といえども決して優しいものではないぞ。お前も
承知のようにな。」
 「何があるのか知っているようだな。」
やっと一輝が重い口を開く。
 「この器の『記憶』を私が封じた以上、全て承知しているつもりだ。」
ふと、冥王の視線が空に向けられる。
星ひとつない暗黒の空に。
 「夜はまだ長い。時間は無限にある。…私にとってはな。ゆるりと来るがいい。」
そう言い残すと、冥王の姿は虚空に消えた。
とたん一輝が大きく息をつく。
無意識のうちに全身に力を入れていたのが解る。
それ程の威圧感があった。
ただ相手はたたずんでいただけだというのに。
 「来るがいい、か…。」
半ば自嘲気味な口調で曝くのと、焚き火の中で燃える木がバチッと大きく弾ける音が
重なる。
 「おにい…ちゃん?どうしたの?」
先程の間にずいぶんと火の勢いが衰えていたのか、幼な子が寒さに目を党ます。
 「何でもない。眠っていろ。」
 「ん…。お兄ちゃんも寝てね。」
 「ああ。」
一輝が薪を放り込むと再び暖かさが戻ってくる。
すぐにまた眠ってしまった幼な子を抱え直し、燃える火をただ眺める。
冥王に指摘されるまでもなく知っていた事だ。
この世界が瞬の精神世界である以上、その中に入った者は否応なく何らかの形で影響
を受けるであろうという事など。
一歩間連えれば先程の獣たちに、異端者として引き裂かれ無となるか、世界を構成す
る精神に取り込まれ、主の『夢』の一部と化し永久にこの世界を彷徨うか…。
現に、彼がここで見てきたものは弟が生まれてからの『記憶』の断片だった。
ただそれが一輝の記憶と混乱していたのは、ひとえにこの世界が破壊されかかってい
る為であったが…。
 「今度は『いつ』を見ることになるのか…。」
一輝は空を見上げた。









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