悟浄にエスコートされるようにして宿の部屋に入ると、八戒はベッドを椅子代わりに してぽすんと座る。 ──疲れた。── なんだかいつも以上に疲れたような気がする。 町に着くまでの間、皆から注がれる視線と、その意味はちゃんと解っていた。 確かに油断したとはいえ、この状況を招いたのは自分だ。 そう感じた八戒は、せめてこれ以上皆に心配をかけまいと、何でもない、平気だと いうふりを続けるしかなかった。 そんな状態のまま、一昼夜走行し続けたせいか、肉体的な疲労より精神的な疲労の 方が強い気がする。 ふう、と長いため息をつくと、ジープがぱさり…と軽い羽ばたきと共に飼い主である 八戒のその膝の上にちょこんと乗る。 ピィ、と小さく鳴き声をあげると、少し首を傾けて不思議そうに主の顔を見上げる。 動物というのは、主人の状態に対し意外に敏感に反応する。 どこか心配そうなその目つきに八戒は口元を綻ばせると、大丈夫だというように 優しくその首すじをなでてやる。 自分の膝の上で気持ち良さそうに丸くなり、目を閉じたジープを寝つくまで撫でて いると、悟浄がコーヒーを満たしたカップを目の前に差し出す。 『ありがとう、悟浄。』 「・・──・・。」 受け取りながら八戒が礼を言うと、軽く口元で笑って悟浄が何か言う。 何を言っているのか、さすがにまだ言葉は解らないが、これくらいの会話なら雰囲気 で互いに理解できる。 自分の礼に対して、大したことではないと言っているのだろう。 こくり…とカップの中身をひとくち飲むと、たったそれだけ液体が喉を通して全身に 温かさを広げていくのを感じる。 その心地よさに、ふう…とまたため息がひとつ零れ落ちる。 つくづくやっかいな事になったものだ、とまるで他人事のように思ってしまう。 言葉でのやりとりが全く通じない、というのがこれほどまでに大変な事だとは、 正直考えもしなかった。 この街に入ってきたあたりで気づいたのだが、さらにまずい事に、言葉として理解 できないどころか、文字としても認識できない状態になってしまっているようだ。 つまり、今の自分は会話が出来ないどころか。読み書きも出来ないという事になる。 まるでいきなり異国へでも放り出されたような気分に陥ってしまう。 唯一の救いは、三蔵となら会話が成立する事だけだ。 そのため三蔵の側から離れられない。 逐一通訳を頼む三蔵の機嫌は良くないし、悟空は不安そうな顔で自分を見る。 一番辛いのは、三蔵とばかり話をする自分に対し、悟浄が怒りに似た視線で睨んで くる事だった。 自業自得とはいえ、自分のせいで皆の感情が不安定になる事はやはり堪える。 特に悟浄に、いらぬ心配と不快を与えてしまうの事に対しては、考えると落ち込み そうになるので、今は考えないようにするしかなかった。 「ハッカイ?」 名を呼ばれてふと顔を上げれば、悟浄がひどく優しい笑みを浮かべて、大きな手で 八戒の少し冷えた頬に手を当てる。 その温もりが心地よくて、甘えるようにして軽く目を閉じると、ゆっくりと添えられた 手が労るように頬を撫でながら、髪の中へと移動する。 そしてぽすんという音と共に、ふいに悟浄の胸の中に頭を軽く押し付けられた。 『…悟浄?』 上目遣いで腕の持ち主を見上げれば、妙に楽しそうな色をその紅い光彩に浮かべ、 色気のある低い声で耳元で何か囁く。 「…ハッカイ…。」 ぞく、と覚えのある甘い痺れが八戒の背筋を走る。 外はまだ日が傾きかけたばかり。 まさかこんな時間に、ベッドへなだれ込む気じゃないでしょうね、と半ば呆れ、 残り半ばで、たまにはそれでもいいかな、などとぼんやり考えている自分に、 八戒はただ苦笑するしかない。 しかし、悟浄の手は優しく後ろ髪を梳いてくれるだけで、それ以上の事はする様子が ないようだ。柔らかな愛撫と、伝わる体温の心地よさに瞼が重くなってくる。 ああ、とふいに八戒は悟る。 どうやら、これはこのまま寝ろ、という事らしい。 言葉が通じない分、態度で示そうと悟浄は考えたようだ。 その「らしさ」にくすりと喉の奥で笑いながら、八戒は遠慮なく甘えることにした。 軽い寝息と共に、自分の腕の中で眠りについた八戒の髪から名残惜しそうに手を 放すと、起こさないようにしてそっとその体をベッドに横たえ、毛布をかける。 不安定な姿勢での睡眠では、疲労が抜けにくいからだ。 笑顔で隠してはいるが、八戒がいつも以上に疲れているのは解っていた。 思ってもみなかった体の変調に加え、悟浄たちの不機嫌をどうやら自分のせいだと 考えているのは薄々感じていた。 が、言葉が通じない今、それは違うのだとどうやって八戒に説明すればいいのか 悟浄には解らなかった。 三蔵に通訳を頼むなどという選択肢は、悟浄の中では最初から排除されている。 ここに来るまで散々考えた結論は、いわゆるボディランゲージだった。 そしてどうせやるなら、徹底的に八戒を甘やかせてやる。 いつだって八戒に触れていたい自分にとって、それで八戒が安心するなら一石二鳥 というやつではないか。 そう腹が決まってしまえば、意外なくらい気持ちが軽くなった。 「…あーっと、そっか。」 無意識のうちに懐の煙草に手を伸ばすが、そこにあるはずのものがない事に気づき、 悟浄は軽く舌打ちをする。 ない、となれば余計に吸いたくなるものだ。 買いに行こうかと腰を浮かしかけたが、それでも八戒の側を離れがたくて悟浄は一瞬 悩んでしまう。 「まぁ、今俺がここですることはないか…。」 今出来ることは、眠りについた八戒を起こさないそうにそっとしておく事だけだ。 ならば、目を覚ますまでに煙草くらい買っておこうと決めた悟浄は、音を立てない ように静かに部屋を出る。 「…なにしてんの?お前。」 呆れたような声で悟浄が廊下に座り込んでいる人物に声を掛ける。 そこには膝を抱えてうつむく悟空の姿があった。 「…なあ悟浄。」 何か言いかけた悟空に、悟浄は静かにしろというように素早く自分の唇に指をあてる。 「今寝ついたとこだ。」 「……。」 小声でそう言いながら視線で扉を示すと、悟空は慌てて口を押さえる。 あっちで聞く、と言うように悟浄がくいっと右手の親指で外への扉を指すと、 悟空は依然として自分の口を押さえたまま、こくりと頷いた。 「で?どうした?」 「あのさあ…悟浄はわかんの?八戒が何言ってるのか。」 買ったばかりの煙草の封を、慣れた手つきで破りながら悟浄がそう尋ねると、悟空は いやに真剣な目つきで聞いてくる。 茶化すのもからかうのもさすがにためらわれるその様子に、悟浄は却って素直に応え られなくなる。 「まあ、なんとなくだけど、な。」 「そっかぁ…。」 視線を煙草に向けるふりをしながらそう応えると、悟空はみるみるうちにしょぼん としたような表情になってしまう。 その様子は、ないはずの子犬のしっぽと耳がしおれていくのが見えるくらいだ。 「…じゃあ、俺だけなんだ。」 「……。」 ぽつりと力なく呟く悟空の姿に、奇妙に罪悪感を覚えてしまうのは何故だろうか。 悟空にとって八戒は、ある意味母性の代役であり、先生みたいな存在だ。 無邪気な笑顔で八戒になつく悟空に多少の嫉妬は覚えるものの、なんとなくまあいいか と思えるのは、悟空の歳に似合わぬ幼さを持ち合わせた性質が解っているからだ。 もっとも、ほえほえとした八戒と悟空の会話を聞いているだけで、脱力してしまうと うのもまた本音だが。 悟浄は、がりがりと自分の頭を掻くと、言葉を探すようにしばらく目をさまよわせた のちぽつりと言う。 「よく見てみろよ。お前にも解るから。」 「えっ?」 何が言いたいのか解らない様子の悟空に、悟浄は苦笑いを浮かべながら再度言う。 「八戒が何を見てるか、何をしようとしてるか。よく観察してみな。 さすがに難しい事までは解らねえが、簡単な手助けくらいにはなるぜ?」 「手助け?俺八戒の役に立つ?」 はじかれたような勢いで確認するように尋ねてくる悟空に、悟浄は少しからかいを 込めて言う。 「まーな、努力しだいってトコね。」 「俺、やる!」 ぐっと拳を握りしめて、まるで宣言するかのように悟空が言う。 いつもなら過剰に反応する、悟浄の揶揄するような口調も耳に入らないようだ。 「サンキュな!悟浄!」 先程までのあの落ち込みようはどこへ言ったのか、満面の笑顔とやる気を全身から みなぎらせ、悟空は駆けていった。 「あーあ。な〜にやってるんでしょうねぇ、俺様。」 ライバル自分から増やしてどーすんの? 赤く燃えるような夕暮れの中、何気なくその後ろ姿が見えなくなるまで目で追った後、 悟浄はがくりと両肩を落としてしまった。 「八戒、これ?これでいい?」 「・・────・・。」 「俺がとるから八戒は座ってて。」 「───・・。」 食事時もあってかにぎわう宿の食堂の中、悟浄に言われた通り八戒の側から離れず じっとその仕草を見つめ続ける悟空の姿がそこにはあった。 八戒が何かをとろうとすれば、急いでそれを取って渡し、率先して空いた皿を脇に 積み上げどけていく。 さらに驚くべき事は、いつもなら一心不乱に食い続けるだけの悟空が、自分が食べる 事よりも八戒の皿に給仕するのに懸命になっている事だ。 「……。」 そんな二人の様子を見るともなしに見ながら、悟浄はため息まじりの煙を吹き出す。 宿に戻った後、目を覚ました八戒に、悟浄は「悟空」と言う名前と自分の目尻を指で 下げる仕草をしてみせれば、ぷっと八戒は小さく吹き出し、了解したというように 首を縦に振った。 簡単なジェスチャーだったが、薄々皆の様子は感じ取っていたらしい八戒には十分 伝わったらしい。 そして食堂で皆と合流して以来、この有り様だ。 ありがたいというより、むしろはっきり言えば迷惑な程のまとわりつきだが、八戒は にこにこと楽しそうに笑って悟空の髪を撫でたり、優しく名前を呼んでいる。 それがまた嬉しいのか、さらに気張って悟空が動く。 「なあ、三蔵。」 「…なんだ。」 悟浄はふたりから目を離さずに、隣にいる三蔵に話しかける。 問い掛けに応えた三蔵はといえば、新聞を広げたまま振り向こうともしない。 「悟空の事、俺、猿だ猿だと言ってたけどあれ訂正するわ。」 互いに視線を合わすことなく悟浄が言えば、新聞から意地でも目を離さないといった 様子の三蔵がぼそりと言う。 「犬、だろう。」 「あたり。」 八戒の視線や指さしで動きまわる悟空の姿は、まるで介護犬のようだと思う。 いや、それよりも飼い主が投げたフリスビーをキャッチしては戻ってくる競技犬に 似ているのかもしれない、と悟浄はため息まじりに思う。 「あと、二日…ねぇ。」 「…意外に長いな…。」 呟くような悟浄の台詞に、三蔵が珍しくも弱音に似た言葉を吐く。 医者があと三 、四日と診断をしてからやっとこれで一日目が終わる。 どんなに早くてもあと二日。 悟浄はいつもより数倍苦く感じるビールを一気に飲み干し、三蔵は深いため息とともに ズキズキと痛むこめかみを押さえた。 |
リレー3回目の結花でした。 前回の終わりで悟空がなんだか可哀想だったので、ちょっとだけ 救済してみました。いえ、本人がよければフリスビー犬だろうが なんだろうがきっといいはず。たぶん。 さて、四回目はLUNAさんです!お買い物編!(笑) |