そんなこんなで、悟浄が家鴨溺泉に落ちてアヒルと化してから5日目。 先日の怒れる妻の襲撃事件があってから、三蔵と八戒の報復合戦はますます激化の一歩を辿 るかと思われた。 が、意外にもそれから数度の小競り合い…それも今までから考えればほとんど子供だましの ような小さなもの…がいくつか続いたあとぴたりと止まった。 ただ確かに止まりはしたが、それはあくまで表面上のことであって、水面下ではどろどろと 怒りが渦を巻いているのが見えてはいたのだが。 結果、半ば三蔵は引きこもり状態となり、必要以外は部屋から出ようとしなくなり、八戒は 八戒でにこにこといつも以上の笑顔を浮かべてはいた。 三蔵の出不精は今に始まった事ではないし、今回の八戒の怒りの起爆剤は自分…というこの 状況は、それだけ八戒に思われてると考えれば結構嬉しい。 結局悟浄は、まさに一触即発というこの状態で「触らぬ神に祟りなし」もしくは半分「対岸 の火事」気分でのんきに構える事にした。 しかし、ある意味妙な悟りを開いた悟浄とは違って、悟空はそうもいかないようだった。 三蔵の不機嫌全開のオーラと、八戒の絶対零度の笑顔の間にはさまれ、さすがの悟空もとう とう音を上げた。 その結果、食欲が二割ほど減り…とはいっても通常の軽く五人前強なのだが…とりあえず確 かに食欲が落ちはしたのだ。 げんなりと疲れ果てた表情を浮かべ始めた悟空をみかねて、悟浄が悟空を気分転換もかねて 外へと連れ出した。 「あらいらっしゃい。悟浄ちゃん、悟空ちゃん。」 あやうくアヒル料理にされかかった一件以来、すっかり顔馴染みになった例の料理店に入る と、奥からおばちゃんがにこやかに笑いながら声をかけてくる。 なんだかんだあっても、材料(肉?)に拘るだけあって料理は確かに美味いし、店の主人も おばちゃんも気のいい人なので、ちょくちょく食べに来ているのだ。 とはいえ、二十歳もとうに越えた男を「ちゃん」付けするのもいささか…とは思うのだが、 まあ一応命の恩人である相手なので、悟浄は苦笑するだけに留める。 「うーっす、おばちゃんラーメン大盛りふたつね〜。」 「あいよっ。」 悟浄の注文におばちゃんは厨房の主人に注文を繰り返す。 その後ろ姿を何気なく見送った後、悟浄は未だ元気のない悟空を横目にしながら煙草に火を つけ軽く一服する。 「…なあ悟浄。あれいつまで続くんだ?」 あれ、とは説明しなくとも当然現在の三蔵と八戒の状況である。 いつになく弱音をはく悟空に、悟浄はぷはあと盛大に煙を吐き出すとあっさりと言う。 「いつまでって…俺がもとに戻るまでだろう?」 「じゃあとっとと戻れよっ。」 しおれる感じでうなだれていた悟空が、その言葉にがばっと顔を上げると言い放つ。 あまりにもあまりな悟空の台詞に、悟浄はずるっとずりこける。 戻れるくらいなら、こんな事態にはなってないだろうが!とは一切説明などせずに、悟浄は 一発悟空の頭をぽかりと無言で殴りつける。 「いてえ!」 「お前なぁ…。」 呆れた声で悟浄が言えば、悟空は殴られた頭をさすりながら尋ねる。 「でもさぁ…なんかここ数日ヘンだよな。」 「ああ…あれね。」 悟空の主語も目的語もない、かなり解りづらい質問に悟浄は一瞬けげんそうな顔をしたが、 すぐに納得した表情を浮かべる。 あれだけ派手にやりあって…派手というより陰湿なのかもしれないが…が、ここ数日急に静 かになった事を悟空は指摘しているのだ。 「千日手で手詰まりってカンジ?」 「なんだよ、そのセンニチテって。」 苦笑混じりにそう言いながら悟浄が煙草の煙を宙に向かって吐き出せば、悟空がテーブルに つっぷしたまま視線だけを向ける。 「将棋の用語で…ってお前にゃ解らねえか。」 「悪かったなぁ!」 悟空の知識量の限界を、妙に納得したような声で言われれば反射的に声を上げてしまう。 確かに今彼が口にした単語の意味は解らないのだが、素直にそれを認めるには相手が悪い。 「まあ聞け。」 珍しくそれ以上茶化さずに悟浄は側にあった水差しをコップに傾ける。 表面張力が崩れる限界までなみなみと水を注がれたコップを悟浄は視線で示し言う。 「つまりだな、今のあいつらってこんな感じな訳よ。」 「…ぎりぎりいっぱいって事?」 「そぉ。」 わずかな振動でもぷるんと揺れる水をじっと見つめながら、悟空は確認するようにそう呟く と、悟浄は噂の二人を反射的に脳裏に浮かべる。 ちなみに千日手とは将棋の用語で、双方とも他の手をさすと不利になるので、同じ手順を堂 々巡りのように繰り返してしまう…という意味で。 つまり簡単に言えば、双方手詰まりなのだ。 「で、何だよさっきのセンニチテって。」 ふと思い出したのか、再度悟空がそう尋ねてくる。 会話が一周して戻ってきたような感覚に、悟浄は思わず深く煙草を吸い込むことで脱力感を 最小限に抑える。 「…悟空、お前敵と戦う時、次に相手がどうでるか…な〜んて考えたりしないだろ?」 「うっ…うん。」 一瞬頭を使っていないと馬鹿にしているのか、と疑うような視線を悟空は悟浄に向けたが、 ま、俺もそうなんだけどな…という呟きを聞き、悟空は素直に頷く。 悟浄はそんな悟空をちらりと一瞥すると、吸い込んだ煙草の煙を空中に吹きかけながら、 さらに言葉を続ける。 「でもな、三蔵と…特に八戒の場合は違うわけよ。なんとなく解るだろ?」 「解る。すっごく。」 悟空がぶんぶんと首を縦に振って同意する。 悟空も悟浄も、相手の動きを読んでいない…と言うわけでは決してない。 ただ、二人とも戦闘に関してはほとんど呼吸をするのと同じ感覚でできるせいか、無意識の うちに相手の次の行動を読みはするが、それ以上ではない。 というか、それ以上読むことを必要とするような相手に未だ出会ったことがない…というの もあるかも知れないが。 しかし、三蔵と八戒はそんな二人とはまた微妙に違う戦い方をする。 三蔵の場合、普段使う武器が弾数を把握する必要がある拳銃だという事もあるだろう。 遠距離からもダメージを与えられる銃は、武器として確かに優れている。 しかし、逆に装填された弾丸がなくなればただの鉄の塊だ。 補填する間の僅かな時間が、生死の境になる。 大技である魔戒天浄も発動すれば無敵の威力だが、それまでが無防備になるという使い勝手 がいいようで悪いものだ。 一方八戒の場合は…これは性格そのもの…と言ったほうがいいのかもしれない。 あと隻眼であるせいで、視界の一部が完全には捕らえられない事も要因のひとつだろう。 無意識のうちに、それらを補うために相手の動きを先の先まで読むのだ。 「でな。そうやって相手の二手三手先を読む奴が二人対戦したらどうなるって思う?」 「…うっわあ、ヤな戦い…。」 促されて反射的に想像した悟空が、露骨に嫌そうな顔をする。 悟浄もまた、悟空が何を思ったのか想像がつくという表情で苦笑する。 「こういう時ってのは、先に動いたほうが負けになるそうだぜ。」 本当かどうかは定かではないが、コンピューター同士でチェスの対戦をさせた場合、最初の 一手を打った方が、これから打つすべての手を読まれて負けになるとかならないとか。 「で、千日手で手詰まりなんだ…。」 「そういうコト。」 乾いた笑いを二人同時に浮かべて、また同時に盛大にため息をつく。 確かに直接的にはふたりとも被害はないかも知れないが、とにかく今の状況は異様に疲れる 事には変わりがない。 こんな事なら、雑魚数十匹ひとりで相手するほうがまだマシだと思ってしまう。 「まぁ二人とも別にこの水をこぼしたいって思ってる訳じゃないんだな、これが。」 「……。」 少しの間忘れ去られていたコップの水に視線を向け、半ば呆れ残り半分で疲労を覚えながら 悟浄が極めて軽い口調で言えば、悟空はがっくりとうなだれる。 そう、三蔵も八戒も別に相手と命がけのやり取りをしたいとまでは思っていないのだ。 何せ現状がどうであれ、原因は悟浄にかかった例の呪いのせいだ。 これで殺し合ったら、そりゃ双方浮かばれないだろうと悟浄は思う。 というか、三蔵も八戒も結局のところ相手を嫌っている訳では決してない。 むしろ八戒は命の恩人である三蔵を尊敬しているのだ。 一種の信仰…というのに近いのかも知れないが、いつも一歩引いた位置で三蔵をサポートし きちんと立てている。 三蔵もまた、ああいう性格ではある為、決してそうは言わないが八戒には一目置いている。 でなければああも無造作に八戒にカードを預けたりしないだろうし、何だかんだ言っても 八戒の意見は大体において受け入れられている。 そういった事をちゃんと知っている悟浄としては、被害の大きさや手口の悪どさといった物 さえ無視すれば、二人の小競り合いは一種のコミュニケーションに見えなくもない。 その無視した部分が、実は大問題であることはさておいて。 ──あ、な〜んか面白くないカモ。── どうやら思考がヤバい方向に傾き始めた悟浄は、急いでそんな考えを振り払うように手にし た煙草を灰皿に強く押し付ける。 「あきらめろ。俺らじゃどうにもなんねえって。」 「でもよぉ。」 悟浄の『俺はイチ抜けたし、匙もダースで遠投したぞ』的発言に、そこまで居直りきれない 悟空はなおも食い下がる。 「そろそろ血の雨でもマジ降るんじゃないかって俺思ってたんだけど。」 「…降るだろうな、このままあと数日いけば…。」 いやに真剣な瞳で悟空がそう言えば、悟浄は煙草を取り出すしぐさで視線をそらしながら、 だるそうに答える。 いわば今は『台風の目』状態なだけだと言える状況で。 三蔵も八戒も実のところ、かなり気が短い。 互いに互いの起爆スイッチを握った状態での膠着状態は、ちょっとしたショックで誤爆しか ねない。いやこの場合残りの二人も確実に巻き添えを食らうだろうから、誘爆といった方が 正しいのかも知れないが。 件の泉の管理者とやらが戻ってくるまで、希望的観測であと数日。 その数日の間、この張りつめきったコップの水のような緊張感がどこまで続くかなど、考え たくもない。 とはいえ、待つしかないのもまた真実で。 悟空はその場に突っ伏し、悟浄は新しい煙草を口に銜えるが火をつける気力もなく椅子に もたれかかる。 「はいよ、ラーメンふたつあがりだよっ!」 そんなよどんだ空気を切り開くように、明るく元気なおばちゃんの声が響き渡る。 それと同時にラーメンがうまそうな匂いを、これでもかといわんばかりにあたりに振りまき ながら二人の目の前に置かれる。 「おやなんだい二人とも。これから葬式でもあるって顔つきだねぇ。」 「まあ…ちょっとそんなカンジかもな…。」 果たして葬儀を出すほうになるのか、出してもらうほうになるのか。 実のところかなり微妙なラインなのだが。 ひきつった笑顔で悟浄がそう答えれば、へえともふうんともとれない頷きをしておばちゃん がその場を立ち去ろうとする。 が、数歩歩いたとたん、何かを思い出したようにぽん!と大きく胸の前で手を打ち鳴らすと 再びテーブルまで戻ってくる。 「ああそうだ、揚さん明日の昼には戻ってくるって連絡があったんよ。」 「えっ!ほんと!?」 忘れるところだったわ〜とケラケラ明るく笑うおばちゃんにつられて、ぱああっとそれこそ 雲間から太陽が現れたかのように悟空も満面の笑顔になる。 「よかったねぇ、悟空ちゃん。」 「うん!おばちゃんチャーハンとギョウザも追加な!」 いきなり食欲の戻った悟空に、悟浄は呆れ半分感心半分のため息をひとつついた。 |