「じゅせんきょう?」 片手に饅頭を持ったまま悟空が聞きなれない単語を発音すれば、お茶を皆の前に置きながら、 宿の主が頷く。 「へえ。この村の外れにある泉は、呪泉卿といって名前の通り呪いがかかっております。」 片田舎特有のなまりを含んだ主の台詞に、悟空は興味津々といった表情を隠す事なく尋ねる。 「呪いって、アヒルになるやつだろ?」 「アヒルになるのもありますが、他にも犬や猫、女性に変化するものもありますよ。」 「そんなに色々種類があるんですか。」 悟空の向かい側でお茶を口に運んでいた八戒が、主の説明に感心したような口調で尋ねれば、 へえ、という肯定の返事が返ってくる。 「三蔵、知ってました?」 「噂ではな。」 煙草を口に銜えたまま、三蔵がそう応える。 こういった呪いがらみの事柄なら、大概寺院にも伝わってくる。 ただあまりにも風変わり…というか、はっきり言ってこんな馬鹿馬鹿しいほどの伝説ともなれば ただの客寄せの歌い文句だとしか思っていなかった。 「か〜!ひでぇ目にあったぜ。」 カチャリ…とドアが開くなり、そんな感想と共に悟浄が元の姿で部屋に入ってきた。 シャワーを浴びたばかりなのか、まだ湿った髪をタオルでがしがしと乱暴に拭きながらそう 言うと、悟浄は八戒の隣の席へどすんと腰を下ろす。 「お客さん、災難だったねぇ。」 「まったくだ。」 「あとしばらくは水に気をつけないといけませんからねぇ。」 主が差し出したお茶を受け取ろうとした悟浄は、その言葉にぴたりと固まってしまう。 残りの三人も、訝しげな視線を主に向ける。 「…は?」 「えっ?」 「ちょっと待て!これで終わりじゃないのか?」 暢気に尋ねかえす悟空と八戒を横目に、バンッ!とテーブルに音高く手を叩き付けながらひき つった顔で悟浄が叫ぶ。 「いえいえ、お湯を浴びればとりあえず元に戻るだけで、きちんと治るには…。」 「治るには?」 「…男溺泉にひたるしか…。」 射殺さんばかりの視線で睨みつけられ、宿の主は半ばすくみ上がりながら小さな声で答えると いきなり悟浄にその胸ぐらを掴み上げられた。 「案内しろよ。今すぐ!」 「そっ、それがですね…。」 至近距離で半ば脅され、ひぃっと悲鳴を上げるまもなく宿の主は必死で答えようとするが、 もつれる舌ではうまく言葉をつづれない。 「なんだ?なんか文句でもあんのか?」 「悟浄、そんな風にしたら失礼ですよ。」 完全にびびってしまった主の様子を見かねた八戒が悟浄をなだめると、ようやく悟浄はその手 を放す。ほうっと安堵の息をつく主に、八戒が代わって尋ねる。 「何か都合でも悪いんですか?」 「あの泉を管理している…揚さんって言うですがね。今いないんですよ。」 座ったままの八戒が、やや見上げるような視線で問い掛けると、もともと人の善い宿の主は 心底気の毒そうな表情で応える。 「いないってどういうことです?」 「裏山で採れた薬草から作った薬を、近隣の村に届けに出たばかりなんですよ。 いつもだとだいたい一週間は戻ってこないんで…。」 観光の目玉らしきものがあるとはいえ、それほど賑わっているとは思えないこんな辺境の村 でまして泉の管理だけでは生活が成り立たないのだろう。 恐らく、その薬の販売がその管理人にとって主な収入減なのは想像が付く。 「管理人さんがいないと困るんですか?」 「泉は大小合わせて百以上ありまして、どれもが何がしかの呪いにかかっているんです。 それを把握しているのは、管理人の揚さんしか…。」 「…はぁ。」 予想だにしないその数に、八戒を先頭に皆ただ絶句してしまう。 つまりあの見渡す限りの泉全てが、何らかの呪いを持った泉で、どの泉が目的の男溺泉なの かは管理人以外は解らないということで。 そもそも、ご丁寧に片っ端から泉で何かがおぼれ死んだとでも言うのだろうか。 考えればうそ寒い気分にしかならない。 それはともかく、どうやら導かれる結論は、その揚という人が薬草を売り終えて再びこの村 に戻ってくるのを待つというのが妥当な選択で。 …というかそれしかないのが問題なのだろうが。 「困りましたねぇ。」 「……。」 あまり困った風ではない口調で八戒が暢気に呟き、三蔵が心底嫌そうに眉間に皴を寄せる。 「その管理人が行きそうな村はどこだよっ!」 「まあまあ、落ち着いて悟浄。」 ぷつんと堪忍袋の緒が切れた悟浄は、またも声を荒げながら掴みかかろうとするが、それを 察した八戒が苦笑を浮かべながら、同じくまた宥めるようにその肩を軽く押さえる。 「落ち着いてられるか!」 「仕方ないじゃないですか。一週間ここにいればすむ話でしょう?」 その一週間が問題なのだと心の底から悟浄は叫びたかったが、叫んでどうにかなるような問題 でもない事など解りきっているので、口をつぐむしかない。 「いいですよね、三蔵。」 受け入れたくないが受け入れざるを得ない事実を前に、がっくりと両肩から力を抜いた悟浄から 三蔵へ視線を向け、にっこりと完璧な笑顔を八戒が作ってみせる。 そんな八戒の有無を言わせぬ微笑みに、三蔵は不機嫌を絵に書いたような顔つきで新聞を広げ ながら答える。 「勝手にしろ。」 この先、水を被ればたちまちアヒルと化す滑稽なシロモノを連れて旅をするくらいなら、一週 間ここで滞在していたほうがマシだと判断した三蔵は、あっさりと許可をする。 捨てていく、という選択肢もない訳ではなかったが、それをすればこの食えない笑顔を浮かべ る男が少なくとも確実にジープを出さない事も簡単に推測できた。 面倒かつ不毛な言い合いをするくらいなら、さっさと承諾するに限る。 「俺もここならいてもいいなあ。メシがうまいし。」 最後の饅頭を名残惜しそうに口の中に放り込みながら、悟空も賛同する。 悟浄の身の上に降りかかった災厄よりも、自分たちが泊まる宿の食事が上手いかどうかの方が どうやら彼にとっては重要な事のようだ。 「という訳です。」 「…あのな…。」 に〜っこりとこれ以上ないくらいの笑顔のまま、当事者である悟浄を置いてさっさと話を まとめてしまった八戒に、悟浄はもはや何も言い返すことも出来ずにただ絶句してしまう。 「俺は一週間このまんまかよ。」 「水かぶらなきゃいいんだろ?簡単じゃん。」 もうどうにでもなれ、と言わんばかりの態度で悟浄がテーブルの上に顎を乗せて呟くと、 あっけらからんとした声で、悟空が応える。 「でもさあ。」 「なんです?悟空。」 急に考え込みながら疑問の声を上げた悟空に、八戒は軽く小首を傾げて先を促す。 悟空は胸の前で腕を組むと、そんな彼に視線を向けて言う。 「アヒルって泳げるんだよな?」 「泳げますね。」 まるで小学生が先生に質問するかのような悟空の問い掛けに、八戒はこれまた保父さんの ように優しく頷く。 「なんで溺れたんだろう?」 「ああ、そういえば…。」 はた、と根本的な問題に行き当たり、八戒も初めて気付いた様子で首を傾げる。 確かに、そもそも泳ぎの達者な…というよりそうでないと死活問題に関わるはずの生き物 が何故溺れたのだろうか。 「不思議ですね。」 「だろ?」 「きっと泳ぎが下手だったんですよ。」 「そっかぁ。」 ほのぼのとした先生と生徒な会話に、そんな問題じゃないとツッコミを入れかけたのは あとの残り二人であった。 |