第6話 災だらけ難だらけ1


 「はあ…。」
清々しいほどの青空が広がる昼下がり、ため息ひとつ落しながら悟浄は村の中を歩いていた。
どこで水がかかるか解らないので、正直なところあまり出歩きたくはなかった。
が、愛飲している煙草が切れた段階で耐えきれなくなり、こうして買いに出てきたのだ。
煙草も含め、食料品などを買いだしに出た八戒とその荷物持ちの悟空の帰りを、宿で大人しく
待てばいいだけなのだが、その「待つ」という行為自体が今の精神状態では辛い。
 「まあ、水なんてそうそうかぶるもんじゃねえか。」
最初はおっかなびっくり歩いていたのだが、何事もなく進むうちにだんだん余裕が出てきたの
か少し気分が浮上してきた悟浄は、さっさと買うものを買ってしまおうと足を速める。
 「ん?」
そんな悟浄の視界の上から何かがゆっくりと降りてくるのが見えた。
青空を透かしながら降りてくる、大小様々な透明な球体は…。
 「シャボン玉?」
何気なしに呟く悟浄の目の前に、ふわふわと風に流されながらシャボン玉が落ちてくる。
ふと上を見上げれば、今立っている家の二階のベランダから、黄色いスカートらしきものが
ちらちらと見え隠れする。
そして、きゃっきゃと楽しげに笑う小さな子供の声が絶えるたび、いくつかのシャボン玉が
ベランダから空へと飛び立っていく。
 「……。」
あまりにも楽しそうなその様子につられ、何とはなしに目の前でふわふわ漂う虹色の球体を
指でつつけば、パンと弾けて消える。
せっかく彼女が作ったものを壊すのもなんだな、と降りかかるように落ちてくるシャボン玉を
よけようと、一歩前へ踏み出した瞬間…。
  バシャ!
肩に走る軽い衝撃と小さな水音のあと、視界が急激に変わる。
えらく近くなった地面を見つめたままぼう然と固まっていると、上から小さな女の子の泣き声
が聞こえてくる。
 「あ〜ん!シャボン玉落っことした〜!」
 「……。」
泣きだした女の子と、それをあやすような母親の声を遥か頭上に聞きながら、悟浄は自分のす
ぐ右わきに落ちている可愛らしい子供用の小さなピンクのコップと、そこから零れている原液
とを恨みがましそうに眺める。
     
  ──落っことしたのはシャボン玉じゃなくてシャボン玉の原液だぜ、お嬢ちゃん。──
     
確認しなくとも、その原液をかぶったせいでまたもやアヒルと化してしまった事は解る。
ちょっとしたアクシデントであり…そう普段なら…小さな子供相手で…それも今泣きじゃくっ
ている…この状況では怒ることも怒鳴ることもできず。
悟浄は、ため息とともにそっとツッコミを入れてみた。
     
     
     
  ペタペタペタ…ズルズルズル…ペタ…ズル…ペタ…ズル…ペタペタ…
静かな部屋の中で聞こえてくる奇妙な音に、三蔵の眉間の皴がひとつ増える。
それが何かが移動する音と、それと共に布が引きずられていく音が重なったものだという事は
わざわざ見て確かめるまでもなく解っている。
先ほどから視界をよぎる白いものを無視するように、手の中にある新聞を読んでいたのだが、
音だけはどうしても聞こえてくる。
その単調な音に苛々を深めた三蔵は、不機嫌そのままにバサリと乱暴に新聞を下ろすと、音の
主を睨め付ける。
 「うるせえ。」
 「ガッ。」
怒鳴りつけられるよりもある意味怖い三蔵の低い声音に対し、同じくらい不機嫌そうな鳥の鳴
き声が返ってきた。
視線の先には、アヒルと化した悟浄がいた。
その足下にはいつも彼が着ている服が乱雑に置いてある。
そして、彼が立っている場所は風呂場の扉の前で。
簡単に状況を説明すれば、先ほどの異音は悟浄が着替えの服を引きずる音で。
アヒルの姿のまま宿に戻った悟浄は、とっとと風呂に入るべく準備を進めていたのだ。
しかし、着替えの服はなんとか自分で用意できたのだが、肝心の風呂場の扉だけは今の自分で
は開けることが出来ない。
なにせ今は手ではなく翼なのだから。
 「グワッ。」
早く開けろよ、と言わんばかりの悟浄の態度に、三蔵の目つきが剣呑な光を帯びる。
人間の、それも高僧である三蔵にしてみれば、たかだかアヒルに命令されるいわれなどない。
たとえそれが悟浄だとして…いや、悟浄だからますますそうなのかもしれないが。
だいたい、こんなヘンピな村で一週間も予定外の足止めをくらうことになったのは、全てこの
目の前にいるアヒルのせいだ。
ただでさえ毎日のように続くザコ妖怪の襲撃のおかげで、思うように西へと進む事ができない
というのに、さらにこんな馬鹿げた事件を巻き起こすとは。
そう。三蔵の思考の中に、これが予測不可能な事故だったという認識などどこにもない。
そんな事をつらつらと考えているうちに、三蔵の機嫌はどん底を突き破る。
 「……。」
これ以上面倒を起こす前に、いっそこのままここで片づけてしまおうかと、三蔵は無言で懐か
らカチャリと銃を取りだせば、悟浄はげっと言いたそうな視線を一瞬向ける。
悟浄にしてみれば、今回一番災難を被ったのは三蔵ではなく自分だと言いたい。
なにせこんな情けない姿になるなんて、いったい誰が想像しただろうか。
が、とりあえず今はこんな姿の状態から解放されたい一心で、悟浄はもう一度…今度は少し
懇願する口調で可愛いらしく首を傾け頼んでみる。
 「ガアァ?」
しかし、所詮は鳥の鳴き声。
そんな微妙なニュアンスなど、人間である三蔵に解るはずなどなく。
……まあ、理解する気もないだろうが。
  ガウン!
 「グワアア!」
さらに一本眉間の皴が増えたと同時に、一発の銃声とアヒルの悲鳴が室内に響きわたり、無数
の羽毛がふわふわと舞い散る。
壁には焦げた小さな穴がひとつ開き。
そのすぐ横で、アヒルが一羽冷や汗をだらだらと流しながらつったっていた。
 「チッ。」
外したか、と言わんばかりの態度で舌打ちをすると、再度銃を構えてくる。
     
  ──うわっ目がマジだよ三蔵さま!──
     
いつも以上に目の据わった三蔵の様子に、我が身の危険を察知した悟浄は、向けられたままの
銃口から逃れようとじりじりと動き出す。
本来の姿ならともかく、このアヒルの姿でどこまでの事ができるかなんて知るはずもない。
当たり前だが、距離感も運動能力もいつもの時とは大きく違うのだ。
間違って三蔵に撃ち殺されてアヒルの姿のままオシマイになりました、な〜んていう人生の終
わり方だけは絶対にしたくない。
 「動くな。一撃でしとめてやる。」
 「ガアア!」
その無情な台詞と共に、三蔵が撃鉄にゆっくりと指をかける。
冗談じゃねえぞ!と一声叫びながら、悟浄は慌てて外への唯一の脱出口である窓へとバサバサ
としきりに羽ばたかせながら向かう。
その足下にもう一発銃弾を撃ち込めば、その羽ばたきはいっそう激しくなり、まるで煙幕のよ
うに無数の羽毛を部屋の中にまき散らす。
そして、そのままの勢いで悟浄は窓から飛び出していった。
 「…ふん、静かになったな。」
ようやく訪れた静寂に、三蔵は再び眼鏡をかけなおすと、新聞を拾い上げた。
   
   


さて、これから悟浄にとって最大の災難が待っていたりします。
どんな災難か…。可哀想な悟浄に合掌。(-人-)
   
   
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