第7話 災だらけ難だらけ2


 「グワッ!?」
三蔵の銃口から逃れようと咄嗟に窓から飛び出したまではいいが、ここが三階だという事を
すっかり失念していた。
普段の彼なら、たかだか三階程度の高さなどどうって事はない。
そう、普通の状態の彼ならば。
 「……!!」
ひゅ〜んという効果音でもつきそうな勢いで落下する状況に、慌てて悟浄は羽根と化した両手
を反射的に上下に動かす。
バサバサと激しい羽音が響くにも関わらず、思ったより落下速度はゆるくはならない。
一瞬、同じ水鳥ならあひるではなく鶴や白鳥の方がなんぼかましだったのでは、と脳裏をよぎ
ったが何を言ってもこの状況は変わらない。
とにかくなんとか態勢だけでも整えようと、必死に羽根をばたつかせているとふいにふわっと
体が軽くなった。おそらく風に乗ったのだろう。
風をもっと捉えようと両の翼を大きく広げると、さらに体は軽くなる。
慎重に翼の角度を測りながら、そのまま滑空するようにして地面に近づいていく。
   
 ──おお!初飛行!──
   
自らの翼で風を切って飛ぶという、一生のうちでそうないだろう経験とその意外な心地よさに
思わず感動しながら、悟浄は着陸態勢を整えようとした。
が、緩やかな弧を描きながら滑空している悟浄の視界に、木の陰で心地よさそうに寝そべって
いる一匹の大型犬の姿がふいに入ってきた。
 「ゲッ!」
このままいけば、確実に追突する。
しかし、空路を変えるなどいう高等技術が初飛行の悟浄に出来るわけもなく。
   
ドゴッ!バサバサ!ギャン!グワァ!ドテッ!
   
派手な効果音の嵐と共に、見事に悟浄は着陸に成功した。
ただし、例の大型犬のわき腹に猛スピードで特攻をかました形でではあったが。
 「…ッガァ…。」
イテテ…と少しくらくらする頭を振りながら、悟浄は身を起こす。
犬をクッション代わりにしたせいか、思ったよりダメージが少なかったのは、不幸中の幸いだ
ろうかと、かすかに残された自分の運の良さに気をよくしながら、よいせっと立ち上がる。
 「……?」
やけに静かな背後に何気なく振り返れば、そこには悟浄に激突された犬が横倒しのまま白目を
むいて口から泡をぶくぶくと吹いているのが見えた。
 「…クワッvv」
よっ世話になったな。おかげで助かったぜ。
とでも言うようにひと声機嫌よく鳴き声をあげると、無情にもそのままくるりと背を向けて
歩き出そうとしたとたん。
 「ウゥウ…グルル…。」
聞き覚えのあるうなり声が、真後ろから聞こえてくる。
そう、間違えようのなくそれは件の犬の唸り声だった。それもかなり攻撃的な声で。
   
  ──やばい、マジやばい。──
   
ここ数年感じたことがないくらいの冷や汗が、だらだらと背中を伝っていくのが解る。
今の悟浄にとって、大型犬はサイズ的にいえばそれこそ巨大な猛獣にしか見えない。
さらに悪いことに、現在のところ彼はその猛獣に対し戦うどころか身を守る術さえ少ない、
ただの可愛い一匹のアヒルさんでしかないのだ。
なにせ蹴りを入れようにも足がない──というか極端に短い──うえに殴り飛ばそうにも肝心
の腕がない──両手は翼と化している──のだから。
  三十六計、逃げるにしかず。
どこかで聞きかじった兵法と己の防衛本能に従って、思わず逃げをうちにかかろうとする足に
悟浄はぐっと力を入れて動きを抑えこむ。
ここで走り出してはいけない。
犬に限らず、肉食系の動物は動くものを反射的に追う習性があるからだ。
咄嗟にそれだけの事を頭の中で確認すると、悟浄はそろりそろりと背後の犬を刺激しないよう
に交互に足を踏みだす。
が、気持ち良く寝ているところを、恐らく生涯初であろうとんでもない方法で叩き起こされ、
不機嫌の極みを体験したかの犬には、そんな悟浄の気遣いなど解ろう筈もなかった。
さらに一歩ずつゆっくりと歩くアヒルのお尻は、かえって左右に大きく振られる形となり、
刺激しないようにと配慮する本人の思惑とは逆に、非常に挑発的な動きとなってしまう。
もはや怒りの頂点をぶっつりと突き抜けた犬は、目の前からトンズラここうとするアヒルに
己の牙を立てようと、全身をバネにして飛びかかっていった。
 「グゥ…ワン!」
 「ガワワアァァァ!」
最初の一撃をかろうじてかわすと、今度こそ悟浄は全力疾走を始める。
たかだか犬一匹に追いかけられ、逃げ出すしかない自分に情けなさを感じつつも、それ以上に
命の方が惜しくてなりふりかまわず必死で悟浄は駆け出す。
 「ワン!ワン!」
 「ギャワワ!」
ジグザグ走行、障害物による妨害、急速なUターン。
ありとあらゆるテクニックで追撃者から逃れようとするが、どうやら彼はせめてひと噛みでも
しないかぎり、諦めるつもりはないようだ。
その上いくら知恵を使っているとはいえ、四つ足で走る犬に対して、慣れない体でなおかつ
陸上走行向きではないアヒルの姿では、その差は縮まるばかりだ。
    
 ──こんにゃろぉ!──
    
スカッ
    
怒りに任せ、咄嗟に呼び出した錫杖を握ろうとした悟浄の手はむなしく宙をかく。
さもあらん。錫杖を握れる手など今はどこにもないのだから。
主の支えを失った錫杖は、無情にも地球の重力にしたがって後方へとゆっくり落下していく。
それを視界の端に捉えながら、万策尽きたか!?という思いと共に、さああ…と全身の血が一気
に足下に向かって落ちていくのが聞こえた瞬間。
    
ガコン!ギャウン!
    
鈍い音と共に背後から犬の悲鳴が聞こえてくる。
キキキッと急ブレーキをかけて止まった悟浄が慌てて振り返ると、そこには錫杖の三日月の
部分を頭に乗せたまま硬直する犬の姿があった。
どうやら、落下した錫杖はそのまま犬の脳天を直撃したらしい。
 「キャイン!キャイン!」
あまりの痛さに、尻尾を後ろ足の間に挟み込むようにして逃げ出した犬の後ろ姿を目で追いな
がら、悟浄はてこてこと愛用の錫杖の側へと歩み寄る。
柄の部分をクチバシでくわえ、妖力を集中してもとの場所へと収める。
 「ハアア…。」
と安堵のため息をつきながら、悟浄はぺたりとその場に沈み込んだ。
     
     
     
赤みを帯び始めた太陽の光が、部屋の中で新聞を手に座っている三蔵の影を、長く細く床に
伸ばしていく。
日が落ち始めている事に気付いた三蔵が、静かで落ち着いたこの空間を満喫するように、懐か
ら取りだした煙草に火をつけると、ゆっくりと煙をくゆらせる。
一本吸い終わるくらいの時間は残されていると思っていたが、煙草を半分まで灰に変えた辺り
でどたどたと賑やかな足音が階段を駆け登ってくるのが聞こえた。
 「たっだいま〜!」
 「ただいま帰り……。」
両手に荷物を抱えたまま元気よく声を上げる悟空の背後から、同じく荷物を抱え挨拶をしよう
とした八戒の台詞が途中で消えた。
そのまま口をきつく引き締めたまま、無言でつかつかと部屋の中央に置かれたテーブルの側に
歩み寄ると、どん!と乱暴に手にした食料等が入った紙袋を置く。
そして、鋭い目つきでざっと部屋の中に視線を走らせる。
     
僅かな風にふわふわと舞い上がり、夕日を浴びて赤く色づく数枚の羽根。
床と壁に残された、周辺を焦がしながら何かが深くめり込んだような…銃痕。
浴室の前に無造作に置かれた、悟浄の服。
     
それだけ確認した八戒の全身から、ゆらりと冷気が沸き上がる。
その様子に、ドアの前に突っ立ったままの悟空が、反射的にびくりと身をすくませてしまう。
何が原因かは正確に解らないが、何が起こって現在どういう状況なのかは簡単に推測できる。
三蔵を問い詰めたい気持ちもあったが、それ以上に今は悟浄の事が心配だ。
 「…三蔵。あとでゆっくりとこの理由を聞かせてもらいますからね。」
床で踊る羽根を見つめたまま元凶である三蔵に視線を合わせることなく、八戒は静かすぎる程
静かな声で一言そう言い放つと、くるりと踵を返し部屋から飛び出して行った。
そんな八戒の後ろ姿を見送った悟空が、安堵感からふうっと肩の力を抜くと、両手にいっぱい
抱えた荷物を同じくテーブルの上に置きながら三蔵に尋ねる。
 「なんか八戒、すっげえ怒ってたみたいだけど…なんで?」
 「…ふん。」
暢気な悟空の問い掛けに対し、三蔵は苛立たしげに眉間の皴を増やすと、乱暴に手にした新聞
をテーブルの上に投げ捨てた。


「犬(か猫)に追いかけられるアヒルの悟浄」というのは
実はケイさんからのリクエストだったりします。
ええ、悟浄の不幸はもう私だけの責任じゃあ〜りませんので、
そこんとこよろしくです。(笑)
犬とアヒルの追っかけっこは、イメージとして「トムとジェリー」
あたりを思い浮かべてもらえれば…って、もう知らない年代も
いたりするんでしょうか;(-_-;)

実はまだ悟浄の不幸はこれだけじゃなかったりしたり…。
そう。次回最大の不幸が彼を待ち受けています。
そしてそれより怖いのは八戒さんの怒りの方かも。


【第6話】  【第8話】

悟浄1/2