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act.3 ただ求めればいい。何を捨てても…何を失ってでも。 |
真の闇の中、窓辺に置かれたベッドだけが月の光を浴びている。 そして、その上で白い体を絡める二人の姿もはっきりと浮かび上がらせていた。 「あ…ふう…っく…。」 己の精を解き放ち、がっくりと力なく八戒はシーツの海に沈み込む。 胎児のように軽く手足を曲げ、ハアハアと乱れた呼吸に翻弄される。 もうひとりの彼は、口の中に受け止めたものをコクリと喉を鳴らして飲み下すと、 その唇を八戒のそれに重ねる。 舌先に残る彼自身の残滓が気持ち悪くて、八戒は抗議するようにくぐもった声を上げ れば、ようやく解放される。 くすりと笑うと、悪戯めいた視線で力の抜けた八戒の顔を覗きこんでくる。 『綺麗ですよ。欲に塗れた貴方はこんなにも美しい。』 うっとりとした声で囁かれ、八戒は荒い息をつきながらもゆっくりと目を開ける。 『 …ねえ、あの人に告げて?きっとあの人は貴方を受け止めてくれるハズ…。』 優しく髪を梳かれながら、なおも彼はそう囁く。 「あっ…ど…して?」 八戒は、乱れたままの呼吸をなんとか整え声を搾り出すようにして問い掛ける。 声がまだ震えている。 「どう…してこん…なこと…。」 戸惑いながらも髪を梳くその手の主に視線を向ける。 八戒には解らなかった。 ここに、今目の前にいるのがもう一人の「本心」という名の自分だという事はもう解 っていた。例えそれが認めたくないものだとしても。 しかし、そんな自分自身でもある彼が、何故こんな行為をするのだろうか。 自分の中から生み出された「欲望」と言う名のもうひとりの自分が、今更心の奥底か ら何を引きだそうというのだろうか。 そんな声にならない疑問が伝わったのか、彼は彼は蕩けるように笑う。 『だって、僕は…。僕も…。あの人に…。』 愛されたい。声にならない声で囁く。 その応えに、八戒は耐えられないというように再び目を閉じ顔を背ける。 それが、自分の中にある本心だという事に気付きたくなかった。 自覚してしまえば、もう逃れることも目を背けることも出来なくなってしまう。 それが怖かった。 自分の業の深さは、すでに証明済みだ。 もしまた失う事にでもなれば、今度は何をしでかすか自分でも解らない。 以前のように何百、何千の命を奪ってしまうのだろうか。 それとも、自分だけのものにしたくて彼を殺してしまうだろうか。 何よりも信じられないのは自分自身だ。 『ねえ、まだ決心がつきませんか?』 くすくすと喉の奥で転がすように笑いながら、彼は八戒の足に手を掛けてゆっくりと 開いていく。 滑らかな太股に手を滑らせながら、もうひとりの彼は獲物を見つけた猫科の生き物特 有のしなやかな仕草で目を細める。 「欲張り…なんです…ね、結局…僕は…。」 ぼんやりと虚ろな表情で宙を見つめ、されるがままにていた八戒がふいに淡い笑みを 口許に浮かべる。 彼の紅い瞳も…髪も声もその心も、彼を構成するもの全て自分のものにしたい。 そんなどす黒い感情を己の精神の奥底に潜めながら、表面上では何事もないかのように 彼に微笑んで見せる。 彼を…悟浄を失う事がなによりも恐ろしいくせに、それでも求めずにはいられない。 千にものぼる命を奪った色で染め上げたこの両手では、彼に触れることなど出来ないと 知りながらも。 『そう、貴方は、そして僕も…欲張りなんです。』 そんな独り言にも似た呟きに、内股の柔らかな肉を味わうように啄ばみながらもう ひとりの彼がくすりと笑う。 『あの人なしでは生きていけない…。だから、早く、あの人を手に入れて! 』 「…っつ!」 どこか悲痛な叫びと共に、彼は強く吸い上げた。 びくんと八戒の体が震え、シーツを強く握りしめ皴まみれにする。 唇を放せばその白い肌に鮮やかな赤い華が咲き、それが狩る者の嗜虐心を煽る。 「手に入れる…?あの人…悟浄を?」 向けられた彼の言葉を確かめるようにつぶやくと、八戒はゆっくりと目を閉じ微かに 首を横に振る。 「違います…僕があの人のものになりたいんです。そうでしょう?」 くすりと笑って、自分をなおも喰らおうとする彼を見る。 新雪に足跡をつけて遊ぶ無邪気な子供のように、もうひとりの自分は八戒の肌に赤い 印を楽しそうに刻みつけながら応える。 『どっちでもいいですよ。僕は満たされたい。ほら、気持ちいいでしょう? あの人に愛されたら、きっと、もっとイイ…。』 夢見るように呟きながら、八戒の後に指を這わす。 その感触に一瞬脅えの色を見せるが、それを隠すように八戒は目を伏せ強ばったまま の体の力を抜こうとする。 もう何も考えたくなどなかった。 例え一時の快楽であったとしても、今はその中に逃げ込んでしまいたい。 そうでなければ、封じたはずの想いがあふれ出てしまいそうだった。 かつて失ってしまった「想い」は、まだ明確な痛みとなって自分の中に在る。 時に自傷行為へ走ってしまうほどに。 どんなに想っていても、どんなに必要としていても、いつかこの手の中からすり抜け て消えてしまうだろうという恐怖はもう拭えはしない。 今度もしまた失うことになれば…自分は狂うのだろうか。 それとも死を選ぶのだろうか。 「細胞ひとつ残さずに、あの人に束縛されたい…。自由なんて欲しくない… 本当は。」 愛撫に身を任せながら、ぼんやりと宙を見ながら呟く。 それが自分が心から望むことだと解っていた。 失いたくない、一人取り残されたくはない。…もう二度と。 だからこそ、自分の存在全てを束縛して欲しかった。 束縛されて融合して…この「痛み」すら感じなくなってしまいたい。 そんな思考の海に沈んでいく八戒の上に、軽いため息が降りかかる。 『我儘ですね。でも、手を伸ばさなければ、何も手に入らないんですよ?』 少し呆れたような声でその耳もとに囁く。 そして瞼に、頬に、そうしなさいと無言で行動を促すようなキスを落とす。 まるで母親が子供に言い聞かすかように優しい口調と仕草に、八戒は知らずねだるよ うに口を軽く開く。 小さな笑みを浮かべ望むままに口付けを与えながら、彼は新たな刺激に半ば起ち上が りつつある八戒自身に指を這わせる。 「う…ん…んんっ…。」 未だそんな愛撫には羞恥と恐れがあるのか、固く目を閉じ嫌々をするように首を振る が、それ以上の抵抗はしなかった。 徐々に溢れつつある露を指先にたっぷりと絡めると、もうひとりの八戒は奥まった 場所へ徐々に指を埋めていく。 『欲しいものは手を伸ばさないと…ね。』 未知の感覚に、無意識のうちに逃げようとする体を抱き締めることで封じながら、 彼は甘く優しく毒のように耳元に囁く。 「手…?僕の手は…血まみれなのに…?」 埋まっていく指の圧迫に耐えながら、八戒は泣きそうに顔をゆがめた。 煌々と白く輝く月の光に照らされて、世界は光と影が織りなす色だけをもつものへ と変化していた。 白と黒以外の色を拒否した世界の中で、それでももなお紅という色彩を決して失わな い男が、ひとり道を歩いていた。 肩にジャケットを担ぎ、煙草をふかしながら大股で歩く彼の姿は、どこか野生の獣を 思わせるものがあった。 苛々と短くなった煙草を投げ捨てると、靴先で地面へこすりつける。 新しい煙草を取り出すと、慣れた手つきで火をつけ深く吸い込む。 何気なく上げた視線が、天上に輝く月を捉える。 「…でけえ月。」 まるで今すぐにでも落ちてきそうだとふと思い、そんな馬鹿馬鹿しい発想に苦笑いを 浮かべながら煙を吐き出す。 いつものように家を出て、いつものように賭場へと向かった。 いつものようにカモを引っかけ、カードで勝ち金を稼いでいた。 これもまたいつものように美女をはべらせ、酒をのみ、気が向けば好みの女とそのま まベッドへと向かうつもりだった。 だが今日は大勝ちしているのにも関わらず、早々に切り上げ悟浄は賭場を後にした。 訳の解らない苛立ちと共に。 「…ったく、何だっていうんだろうな。」 悟浄はそんな感情を持て余し、わざと口にして呟いてみる。 闇夜の中では他に見るものがないせいか、月から視線を外すことなく煙草を吸う。 脳裏を掠めるのは、出がけに見た八戒の笑顔だった。 まるで仮面のように張り付いた、形だけの笑みを。 悟浄は、ふいに銜えていた煙草を乱暴に投げ捨てると、荒々しい動作でそれを靴先で 踏みにじる。 瞬間的に沸き上がった怒りを抑えるように。 「チクショウ…!」 何にたいしてか解らない罵りを地面にぶつける。 あんな笑みを向けられたのは、数ヶ月ぶりだった。 そう、死にかけていた彼が目覚めてすぐに見せた笑みがそれで。 「八戒」と名を変え、再び一緒に暮らすようになってから、決して自分に対し向けら れることのなかった…全てを拒むかのような、笑み。 雨の夜、壊れかけた時にでさえ見せなかった笑みを、今自分に向けるのだ。 失った者だけを見つめ過去に捕らわれるだけでなく、徐々にだが確実に自分のいるこ の現実へと返ってこようとする彼の強さに魅せられた。 少しずつ、ほんの少しずつではあったが、彼の心が自分に向けて開きつつあるのは 解っていた。 上辺だけでなく、本心から笑みを浮かべてくれるのが、ただ嬉しかった。 それなのに、ほんの数日前から急にその笑顔が変わった。 それはまるで、自分までも拒否されたかのようで。 「ちっ。」 無意識のうちに頬の傷を指で探っている自分に気付き、悟浄は忌々しげに舌打ちを するとまた歩き出す。 求めても求めても手に入らないものがあった。 それでも欲しくて、盲目的に追い求めて…何もかも壊してしまった。 だから何も求めなくなった。 何も欲しいと思わなくなった。 しかしそうやって生きてきた自分の内側に、またも迎え入れてしまった者がいる。 そしてそんな彼に対し、まるで昔の自分のようにがむしゃらに何かを求めようとして いる事も自覚していた。 何を求めているか、それは自分にもまだ解らなかったが。 だが、執着しているのは事実で。 昔そうだったように今また失うことを恐れ、下手に近寄れず。 とかといって、すっぱりと諦められるほどつきあいは浅くない。 どうすればいいのか、何がしたいのか。 はっきりしているのは傷つけたくない、失いたくない。 そんな気持ちだけで。 こんな自分を持て余し、賭場や一夜限りの女の所へ逃げ込んでいたが、いざ八戒の方 から拒絶の意志を向けられれば、純粋な怒りだけが怒濤のように沸き上がってくる。 持ち慣れないいろいろな感情が渦を巻き、実のところ悟浄は混乱しかけていた。 それでも、逃げてばかりいても埒が明かないと腹をくくって、たどり着いた家のドア を開ける。 とたん、悟浄の片眉が訝しげに上がる。 真夜中過ぎの家の中は闇と静寂に包まれていた。 それは見慣れた光景でありながら、同時にそうではなかった。 いつもなら、起きて自分の帰りを待っている彼の姿があった。 遅くなるから先に寝ていろと言っても、僅かな苦笑とともに首を振った彼の…八戒の 姿がそこにはなかったのだ。 「寝ちまったのかぁ?」 沸き上がる不安を抑えるかのように、軽い口調で誤魔化しながら悟浄は八戒の部屋へ と足を運ぶ。 ドアのノブに手をかけようとして、一瞬悟浄は眉を潜めると見えない筈の扉の向こう へ鋭い視線を走らせる。 「八戒?いるのか?」 煙草を燻らせながら扉を開け、悟浄は部屋の中の光景に呆然と立ち尽くした。 |