さよりはタイマーセットしたテレビの音で目覚めた。テレビからは若い女性レポーターの明るい声と元気な笑顔が、視聴者に向けられている。
画面の向こうで、レポーターは朝からハイテンション。はっきりした顔立ちにサラサラの長い髪、とびきりの笑顔。その顔をさよりは高校時代から見てきた。もちろん今は数倍きれいになっているけれど。レポーターはさよりの高校時代の先輩。料理部で足を引っぱりがちだったさよりだが、二学年上の彼女にとても可愛がってもらった。綾香先輩は短大を出て地方局のアナウンサーになり、すぐに朝の番組のレポーターとして起用された。気取りがなく親しみやすく、今や番組に欠かせない存在となっている。
『みなさーん、おはようございまーす。今日は音久町に来ていまーす。ここでは百年前の小学生達が埋めたタイムカプセルが見つかりました。どうやら災害でタイムカプセルを開けることなく時がすぎたようです。タイムカプセルは普通、子供たちが成人したときなどに開けられることが多かったようで、未開封のタイムカプセルが見つかったのはこれがはじめてです。見てくださーい、これ!』
 カメラがズームする。レポーターが手に持つ立方体を映し出す。幾つかの色で分けられた立方体がさらに立方体を構成する。リポーターは立方体を幾つかがちゃがちゃと回転させる。
『それ、なんですか?』スタジオのアナウンサーの訝しげな声が飛び込んできた。
『これは、二十世紀に流行した玩具のひとつでルービックキューブといいまして……』
 テレビをつけっぱなしにしたまま、さよりは洗面所に向かった。久々に仕事に出かけるから、すこし早めに準備するつもりだ。
 顔を洗って鏡を見る。すっきりした表情の自分が映っている。今日はとても清々しい気分。体の調子もいい。今日なら早くレジが打てそうな気がする。
 さよりは保井駅前にある大型スーパー「YASUI」の新入社員。三月半ばに入社し、四月から食品レジ配属になった。

 昨年までは人間がする仕事はおおまかに二種類しかなく、ほとんどの仕事はコンピュータによってなされていた。人間はコンピュータを操作・管理・プログラミングする仕事と、人間にしかできない販売・セールスの仕事のどちらかをしていた。俳優や歌手、スポーツ選手といった娯楽に関する仕事に就く人もいたが、ごく稀であった。工場は機械とコンピュータ、そして“無機物人間”だけで動いていた。
 この世に“無機物人間”が登場したのは数十年前のこと。金属ボディに人工皮膚、人間らしい曖昧さや“ゆらぎ”を持つ頭脳。“無機物人間”は十八歳以上の人間で希望するものが政府の認定を受けて“無機物化”することによって生まれる。新しく無の状態から作りだすことは禁じられているのである。不老不死の無機物人間は、今や人口の約七割を占め、労働者人口が常に一定の割合で確保されるようになった。そのかわり、死と誕生を繰り返す三割の人間達の労働の場は限られるようになった。いつまでも働くことができる無機物人間がいるため、人間の失業率だけでなく、無機物人間の失業率も上がる一方であった。
 ついに昨年、政府は現在の機械中心文明社会を、百年ほど前の機械と人間が均衡を保っていた頃の文明社会に戻すと決定し、今年から実行されることとなった。それにより人間と無機物人間の仕事内容の幅は大きく広がった。鉄道の改札、電話交換、銀行窓口、スーパーのレジなど、人間がすることにより処理速度は落ちるが、人間ゆえの“あたたかさ”を求められるようになった。時間に追われる社会からゆっくりと生活を楽しむ社会へと変容するよう、人々は政府から意識改革を迫られていた。
 終りのある“生”がよいものとされ、政府による無機物人間認定は現在保留されていたが、闇で無機物化は続けられていた。人々の意識改革は容易ではなかった。
 
 さよりは高校を卒業して食品レジの仕事に就いた。政府が新規枠として推奨していたこともあり、就職は容易かった。さよりは大学に行きたかったわけでもなく、特別働くことに熱意があったわけでもなかった。ただ社会の常識に従って漠然と就職した。そんな彼女が壁に突き当たるのは当然のことであった。

             *

 スーパー「YASUI」の専門店街にある「しろくまクリーニング」は珍しく家族経営の店である。小さな工場が一つ、受付店が二店舗。受付店はそれぞれ大型スーパーの中にあり、「OTOKU」店では工場主の妻が、「YASUI」店では工場主の弟が店長を勤め、三人とわずかな従業員とで切り盛りしていた。
 「YASUI」店の店長は父親譲りの大きな体つきに母親譲りの白い肌をしている。そこから「しろくま」という店名がついたと噂されている。彼はまだ二十六歳なのだが、いつも四十すぎに見られるのをことのほか気にしていた。
 店の得意客はスーパーという場所がら主婦が多い。それに加え、店長のおだやかな笑顔が主婦の信頼を誘うと、巷で評判の店だ。
 四月の妙に寒い日、「しろくまクリーニング・YASUI店」店長である美作大介は、カウンターでぬぼーと突っ立ていた。異常気象もここまで来たかと思わせる四月にして気温四度。しかしスーパーの中は適温が保たれていて快適だ。今日が定休日でなくてよかったと大介はぼんやり考えていた。営業と称して会社を訪問するのはスーパーの定休日だけで、普段は朝から晩までカウンターに立つ。クリーニング店は、店の前を歩くお客さんにクリーニングをすすめたりできる商売ではない、ただ待つのみである。
 もうすぐ十二時になろうかとしていた。平日のこの時間は客足が途絶える時刻であった。店前は人通りも少なく、飲食店以外はどこも暇そうにしていた。
 そんなとき、スーパー売場から甲高い叫び声が聞こえてきた。
 大介はカウンターからちょっと身を乗り出して、スーパー売場のほうを見た。向こうからスーパーの女子社員が血相を変えてこちらに向かって走ってきている。
 彼女だ。
 一生懸命なレジ応対がかわいいと、日頃から思って見ている新入社員の菅野さんだ。はずかしさのあまり大介は店の奥に引きこもろうとした。その時彼女の声が耳に飛び込んできた。
「すみませんっ! これ、急いでクリーニングして下さい。お客様の毛皮にお魚の汁をこぼしてしまったんです」
「は、はい……」
 大介は振り向きざまに毛皮を押し付けられ、耳まで真っ赤にしながら営業スマイルを浮かべた。彼女に伝票を書いてもらっている間に、大介は毛皮を奥に持っていこうと一歩踏み出すと、彼女に袖を引っぱられ、カウンターに引き戻された。
「あのっ、クリーニング、どれくらい時間かかりますか?」
 彼女は必死の形相。よほど急いでいるようだ。
「うちは一日で集めた分を翌日工場でクリーニングしますので、二日は見ていただけないと……」
「なんですってえ!」
 とつぜん菅野さんとはまったく異なる金切り声が、辺りに響いた。
 声の主は菅野さんの真後ろに立っていたが、ずいっとカウンターの前に進み出た。
 濃い紫に金のラメが入ったボディコンシャスなロングドレス。何本も筋が入った首元にはダイヤのネックレス。四十過ぎくらいだろう、年齢の割に体型は保たれているが、ひどい厚化粧で、奇妙な重圧感を醸し出している。そんなスーパーに似合わない格好をしたおばさんが魚を買ってどこへ行くというのだ。
 ドレス姿のおばさんは菅野さんの方に向き直ると、すごい剣幕で怒鳴りつけた。
「どうしてくれるんです、わたくし、このあと一時から仕事上の大事なパーティーに行かなくてはならないんですのよ。足のおぼつかない母がどうしてもというのでここに買物について来たけれど、やっぱり来るんじゃなかったわ。こんな目に合うなんて。他の毛皮を取りに行っていたらとても間に合いませんわ、どうしてくれるの。責任とりなさいよ」
 おばさんに捲し立てられて菅野さんはうつむいたまま黙っている。休む暇なくおばさんは怒鳴り散らす。怒鳴っている時間があれば毛皮を取りに行けばいいのにと、内心思っていた大介であったが、口にはしなかった。逆鱗に触れる可能性が高い。しばらくたっていい案を思いついた大介は、横からおばさんに提案した。
「あのー、レンタルブティックで借りるっていうのはどうでしょう? ここのテナントに入ってますよ」
「あんなセンスのないものを私に着ろというの? 侮辱ですわ」
 助け船どころか逆効果で、大介はすまない気持ちで菅野さんを見た。彼女は首をうなだれ、暗く沈んだ雰囲気を漂わせていた。
 大きなため息をつき、おばさんはもう結構と言った。
「こんなところで言い合っていてもどうにもならないわ。わたくし家まで毛皮を取りに帰ります」
 大介はほっと胸をなで下ろした。が、おばさんの言葉はそこで終わったわけではなかった。
「ただし、パーティに遅れるのは必須。あなた謝りに行ってちょうだい」
 おばさんは菅野さんに向かい、きつい口調で言った。菅野さんはゆっくり顔をあげ、おばさんの顔をまっすぐ見つめた。
「どうしても、行かなくてはだめですか」
 大介にはおばさんの頭の血管がぷつっと切れた音が聞こえたような気がした。
「当然ですわ。あなた自分のしたことをわかってないの?」
 菅野さんは唇を噛みしめ、決意を固めた。
「わかりました。おわびにうかがいます」

           *

「どうして私に言ってこなかったの」
 菅野さよりが空白の三時間を説明するなり、食品レジ主任の声がバックルームに響き渡った。
「パーティー会場まで往復二時間かかって行って、おわびするのに十五分。上役の電話で用が足りたはずだわ。あなたが勝手なことをしたら、私や他の従業員にも迷惑をかけることになるのよ。お客様の苦情を聞いて自分で対処しかねると思ったら、必ず私に言ってちょうだい。わかった?」
「……は…い」
 さよりは消え入りそうな、ふるえる声をのどからしぼりだした。
「なに、その返事は。ほんとにわかってんの?」
「はいっ」
「じゃ、レジに戻って」
「はい」
 さよりがレジに戻ると、先輩が近くで様子を見ている。わからないことがあったらすぐに聞けるように、ミスを防ぎ、成長の度合いを見計らって独り立ちできるようにチェックしているのだ。
 さよりのレジに客がきた。さよりは慣れない手つきで、商品についているバーコードをPOSレジの光に当て、お金を預かり、おつりを渡す。ただこれだけのことが、うまくできない。三日間連続で多額のレジ誤差、打ち過ぎをだした。
 午後四時をまわるとレジが混雑しはじめる。客の無言の圧力を感じる。「早くしろ」「間違えるな」
 夕方になるとさよりのレジが遅いのを見かねて、先輩がレジに入る。さよりは袋詰めをする。
 こんなとき、さよりはいつも思う。
 機械になりたい。

          *

 仕事が終わって着替えを済ませたさよりが、トイレの個室に入っているときだった。主任と先輩社員の声が聞こえてきた。
「もう、あの子腹たってしょうがないわ」
「あ〜、あの子ですかあ」
「あの子のおかげでウチの店、レジ誤差最下位よ。おまけに商品を通すのも遅いし、今日も客が怒ってたわよ」
「あ〜、もう毎日ですよね」
「そうよ、それでまだ愛想があればいいけどさあ、声は小さいし、陰気くさい顔してるし」
「今日、あの子勝手に店を出ていったんですって?」
「そうよ、無茶言う客に素直に応じてさあ。機転がきかないにもほどがあるわよ。いっそ早く辞めてもらって他の店から誰か来てもらいたいくらいよ」
「それいいですねえ」
 先輩社員と主任はクスクスと笑いあう。
 トイレの個室の中で、さよりは息を殺して二人のやり取りを聞いていた。やがて二人がトイレから出ていった気配を感じて、ようやくさよりは個室から出た。
 涙が出た。

              *

 クリーニング事件から二週間の間、さよりは無断欠勤していたが、ようやく今日出勤した。さよりは当然のように主任や係長から厳しく叱られたが、今日の彼女にはそれすらもうれしく感じられた。それよりもさよりは早くレジをしたかった。今日こそ早くミスせずにできる気がするのだ。
「じゃ、売場へ行って」
「はい!」
 さよりは主任の指示に元気よく返事をすると、四階の事務所から階段を駆け下りて一階の食品売場へと向かった。
 今日はゴールデンウィーク最終日、「YASUI」は開店してまもなくだというのに人で混みあっていた。中央広場でヒーローショウが行われ、家族連れがたくさん集まっている。
 食品売場も人が多く、レジには数人の客が並んでいた。新入社員の中には先輩社員のチェックなしにレジをしている人もいた。二週間のブランクは厳しい。
 この二週間レジに触れていなかったさよりだが、速く正確にできるという確かな自信があった。しかし主任がそのことに気づくはずもなく、彼女をレジに入れようとしない。
 カゴ置場に積まれていくカゴを集めて入口に持っていきながら、同僚がレジをしているのを見ていると、さよりは自分の腕を試したくてたまらなくなってくる。
 ついにさよりは行動に出た。持っていたカゴを置いて同僚の元に駆け寄った。
「かわってください!」
「え?」
 突然やってきたさよりに同僚はとまどった。
「かごあつめをやってください」
 さよりは強引にレジに入り込むとさっそく商品を通し始めた。自分が頭に描くイメージ通りに、商品のバーコードをレーザー光に読み込ませることができる。商品をカゴに移し替えるのも整然とすばやくできる。客からの文句はひとつもでない。
 さよりはとてもうれしかった。
 これでわたしをいらないなんておもわないだろう。いなきゃこまるとおもうだろう。
「いらっしゃいませ」
 さよりはとびきりの笑顔で客をむかえる。
 客はすこし驚いたような表情を見せた。しろくまクリーニングとプリントされたエプロンをした体の大きな男だ。
 気にとめず、さよりは商品を通しはじめる。
「あのっ……」
 男は小さな声でさよりに話しかけた。
「げっ……元、現金払いでお願いしますっ」
 大きな体の男はしろくまクリーニングの店長、美作大介である。久々に彼女を見かけて動揺してしまっていた。彼は真っ赤になりながらさよりを見る。思いのほか元気そうで安心した。
 クリーニング事件以来、彼女がレジに姿を見せないので、辞めてしまったのではないかと心配していたのだ。
 それにしても今日の彼女は人が変わったように明るく楽しそうだ。いつのまにこんなにレジがうまくなったのか、とても速く正確だ。
「千九百七十五円になります」
 大介はあわてて財布を取り出し、現金をきっちり渡す。お金を渡した後、大介は勇気をふりしぼってさよりに声をかけた。
「あ、あのっ、あ、あなたはとてもレジが速くて、笑顔が良くて、その、いっ……いいと思います」
 飛び出た声は調子はずれて、思いのほか大きかった。後ろに並んでいる若い娘が思わずぷっと吹き出していた。その後ろの主婦も笑いをこらえている。
「ありがとうございました。またおこしくださいませ」
 レシートを渡しながら、さよりは大介に向けて優しくほほえんだ。
 そのほほえみの中にさっきの言葉のお礼が含まれているような気がして、大介は天に昇るほどうれしい気持ちになった。
「ありがとうございましたっ!」
 大介は大声を張り上げ、ペコリとお辞儀をしてレジを離れた。うれしさのあまり頬がゆるんでなんとも情けない顔になっていた。
「なんて顔してんだよっ」
 ガキの頃からの悪友、長田がにやにや笑ながら歩いてきた。彼は臆面もなく食品レジの方をジロジロと見ている。
「へえ、おまえはああいう娘がタイプかあ」
「見てたのか?」
「顔真っ赤にして、純だね、おまえも」
 くっくと長田は笑った。正直な大介は言葉を失って、ますます顔を赤くした。
「へえー、あの娘ねえ……」
 皮肉な笑みを浮かべて、長田は菅野さんを眺めていた。
「もう、いいから店に行こう」
 大介は長田の肩を掴んでまわれ右させた。
「……じゃ、おまえも無機物化したら?」
「へ?」
 ぼそっと長田が言った言葉が、どうしてこの場この時に出てくるのか大介は理解できなかった。
「そのほうがいいんじゃないの? ま、いつも俺が言っても聞く耳持たないからなあ。しないんだろうけど」
「あたりまえだ。人の魂と体は一セットなんだ。それを分離させたら人間じゃなくなると思ってる」
「ほほぉ、じゃ、いま目の前にいる俺はなんだ? え?」
 長田は数年前に無機物化していた。彼は冷ややかなまなざしで大介の目を見た。
「人間、じゃ、な……い」
 大介は長田からゆっくりと目をそらした。

            *

 四月の肌寒い夜。さよりは心地よく眠っていた。
 ふと目を覚ますと、眼鏡をかけ、真っ白な服を着た魔法使いがそばに立っていて、さよりをシンデレラにしてくれるという。
 さよりはうれしくてすぐに頷いた。
 ただし、と魔法使いは言う。
「魔法をかけるのに最初に二週間かかり、次に一週間おきに丸一日通ってもらわなければいけない」
 さよりはシンデレラになりたかったので、その条件をのみ、魔法をかけてもらうことにした。
 とても素敵なシンデレラになることを夢見ている間に、また眠りに落ち、そして五月の気持ちいい朝を迎えた。

            *

「入院したってえ? 父さんが?」
 大介はすっとんきょうな声を受話器に向かって発した。電話の画面では、田舎にいる母親が困った顔をしている。
「で、田舎に帰ってこいってか」
「お父さんも歳なのよ。無機物化してないんだからしょうがないわ」
「でも、すぐに帰れないよ」
「店はお兄ちゃんにまかせたらいいじゃないの」
「でもなあ」
「母さんひとりじゃ大変なのよ。なるべく早く帰ってきてよ」
「わかった、なるべくそうする」
 電話を切って大介がまず考えたのは、菅野さんのことだった。このまま“想い出”になんてしたくない。これはもう想いを伝えるしかなかった。
 大介は立ち上がり、ふんっ、と鼻から息を出し、両足を思いきり踏ん張って、気合いを入れた。
 決行は明日。そう決めて大介は眠れぬ夜を過ごした。

「あのっ、僕、田舎へ帰ることにしたんです」
 スーパーの近くの喫茶店で、席に着くなり大介は菅野さんにそう言った。
 クリーニング屋の仕事が終わってからすぐに、社員通用口で菅野さんを待ち伏せして、お茶に誘ったのである。
 運ばれてきたコーヒーをスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、大介は落ち着きなく辺りを見回して、次の言葉を口にするタイミングを計っていた。
「あのぅ……」
 言いかけて、大介は彼女を見つめる。彼女の視線はまっすぐ大介に注がれている。茶色がかったきれいな眸。
 大介は決心して大きく息を吸い込んだ。
「あの、と、突然なんですけど、ずっとあなたのことが好きでした。ぼ、僕とつきあってくださいませんかっ」
 彼女は一瞬、驚いた表情で大介を見て、目を伏せた。
「ごめんなさい。いまはしごとのことであたまがいっぱいで。すみません」
 その答えを大介は予測しなかったわけではなかった。いちばん彼女らしい断り方。容易に予想がついた。でも良い結果を信じていた。可能性はゼロじゃないと。
 失望した顔になってしまいそうな自分の気持ちを、大介はなんとか押さえ込んで、笑顔を作った。
「じゃ、今度どこかに遊びに行きましょう。他にも誰か誘って」
 彼女がすこしほほえんだのを見て、大介はほっとして言葉を続けた。
「さっそくですけど、今度の定休日はどうですか」
 彼女は首を横に振った。
「じゃ、その次はどうですか」
 また彼女は首を横に振って言った。
「いつも、いかなければいけないところがあって」
 大介はすこし考え込んだ。遠回しに断られているのだろうか。
「僕はさっきも言ったけれど、田舎へ帰ることになったんです。父が病気で。だからもうあなたに会えなくなるんです。だから……」
「やすみをとってつきあってほしいということですか」
 妙に淡々とした口調で、彼女はそう言った。
「え?」
「どうしてもわたしにやすんでほしいのですか」
 大介は彼女の率直な言葉に苦笑した。
「いや、そんなわけじゃ……」
「わたしはれじをしていないとこわいのです。いらなくなりそうなきがするのです」
 彼女はテーブルの上にコーヒー代を置いて立ち上がり、四十五度の角度でお辞儀をした。
「わたしはかえります。さようなら」
 残された大介は、ただ呆然とするばかりで、冷めきったコーヒーを口に運ぶつもりが膝の上にこぼれているのにも気がつかなかった。

 一週間後、「しろくまクリーニング・YASUI店」は新しい雇われ店長を迎え、大介は多くの主婦らに惜しまれながら、田舎へ帰っていった。

              *

 さよりがレジ業務に復帰して二週間が過ぎた。処理速度はいっそう速くなり、五年勤務のベテラン社員を追い越さんばかりであった。
 以前はことあるごとに主任に叱られていたさよりだが、近頃はレジ処理の正確さと速さの点で誉められることが多かった。しかしレジ処理が速くてもそれ以外のことに気が回らない欠点があった。
 さよりはただ商品を早く通すだけ。求めているのはスピード。はやく、速く、もっと速く、とても、すごく、とびきり速く。
 ただ、それだけ。
 
 夕方四時をまわった。さよりは一日の中でこれからの時間がいちばん好きだ。いよいよレジが忙しくなりはじめる。手を休める暇がないくらいレジが混みあうのが、さよりは好きだ。自分が想像した通りのスピードで、レジ間違いは限りなくゼロに近く、商品を通すことができる。さよりはこれ以上はないというほどの満足感を得られる。ずっとこのままでいたい。しかし、七時を過ぎると客足は途絶えてしまう。
 さよりにとって仕事が終わることは、解放ではなかった。仕事がすべて、レジ操作がすべて。
 さよりが必要とされているのはいつしか会社だけになっていた。親しい友人もいない。親しくしていたレポーターの綾香先輩とも連絡をとらなくなっていた。

                *

 料理クラブの帰りにさよりと先輩の綾香はよく喫茶店に立ち寄った。表通りから少しはずれた小路にある喫茶店は、紅茶とケーキがおいしくて、さらに高校生でも通えるくらい安かった。さよりは綾香とここに立ち寄ってよもやま話をするのが大好きだった。でも、それももうあとわずか。綾香は高校三年生なので秋から本格的な受験勉強を始めるため、こんなふうに立ち寄ることもできなくなってしまう。
 喫茶店に立ち寄るのも今日が最後と綾香先輩に告げられて、さよりは寂しい気持ちでいっぱいになっていた。
「さよりの将来の夢って、どんなの」
 唐突に綾香は話を切り出した。
 私はね、と綾香はサラサラの長い髪が前に落ちてくるのを払いのけながら話しはじめた。初夏の陽射しが窓から差し込んで、綾香の髪を金色に見せた。
「私はキャスターになりたいの。いろんな知識をもって、ニュースを的確に伝えたい。ただ、ニュースを読むだけじゃなく、その場を臨場感をもって伝えたいの」
 夢を語る綾香の目はきらきらと輝いていて、さよりにはまぶしかった。しっかりしていて落ち着いていて、やさしい綾香先輩ならきっと夢はかなう。さよりはとてもうらやましかった。さよりには夢なんてなかった。何をするにも不器用で綾香先輩の世話になってばかりの自分が、なれるものなんてあるはずないと思っていた。
 カップの中の琥珀色をした紅茶を、じっと見つめながらさよりはつぶやいた。
「夢なんてない。なれるものなんて、ないよ」

               *

 日曜日の午前十一時。「YASUI」の食品レジはとても混雑していた。レジの社員もパートも忙しすぎて不機嫌になって幾分か乱雑にレジをこなしているのに、さよりだけはいつもの通り、淡々と速く正確にレジ処理を行っていた。
「ちょっと!」
 さよりのレジに横から初老の男がやってきた。
「しばらくおまちくださいませ」
 さよりはそう言って、今通しているカゴの中の商品をすべて通し終えてから、先ほどの男に向き直った。
 男は握り締めいていたレシートをさよりに突き出し、詰め寄った。
「さっき、おつりもろてへんのや。一円やそこらやったらかまへんけど、七千円や。大金や。もらえへんかったら、わし困るがな」
 さよりは記憶を探る。七千円のおつりに覚えがあった。
「おわたししたようにおもいますが」
「もろてへんのや、ほら、あらへんやろが」
 男は財布の中身を見せた。何も入っていなかった。
 さよりの頭の奥から“お客様は神様”という言葉が浮かび上がってきた。神様には逆らえない。神様の言うことにまちがいはない。
「もうしわけございませんでした」
 マニュアル通りにさよりはお詫びをして、おつりを差しだした。おつりをもらった瞬間、男はにやっと笑い、すぐにその場を立ち去った。

 翌日さよりのレジにマイナス七千円ちょうどの誤差が発生した。
 出勤してきたばかりのさよりを、主任は事務所に連れていき、まず聞いた。
「七千円の心当たりはないの」
「ありません」
 さよりは即座に断言した。
 その態度に主任はムッとして、パソコン画面を指で叩いた。
「なにかミスをしているかもしれないでしょ。これで探してみてちょうだい」
 さよりはキーボードにも触れずに言う。
「まちがいはありません」
 主任は驚いてさよりを見た。無表情。どこを見ているのかわからないような目をしている。
「実際に誤差は出ているのよ。自分はミスしていないなんて、よく言えるわね」
 主任の声はしだいに大きく荒いものになってきていた。
「おつりの渡し過ぎとか、あるでしょう? 七千円のおつりのところを見てみなさいよ」
 再び主任はパソコン画面を指で叩いた。
 キーボードに触れることなく、さよりは自分の記憶から七千円のおつりを渡したときのことを引き出してみる。七千円のおつりは二度あった。
「めろん、ふたつをおかいあげで、さんぜんえん。いちまんえんをおあずかりして、おつりは、ななせんえん」
淡々と喋るさよりを、すこしおかしいと主任は思いはじめていた。
「しばらくあとに、ななせんえんのおつりをもらってないといわれ、おわたしした」
 あまりに淡々と喋るので、主任はさよりの言葉を聞き流してしまうところであったが、
自分の中で繰り返して、ハッとした。
「なんでっ! なんでそこできちんと確かめないの」
 直立不動、無表情を保ったまま、さよりは答える。
「なぜなら、“おきゃくさまはかみさま”だから、さからってはいけないのです」
「どうしてそんなことするの? 悪い客だっているんだから、客の言葉を鵜のみにしちゃだめだってことくらい、わかるでしょう?」
 さよりと話していると主任は頭が変になりそうだった。基本的な考えから著しくずれている。常識など微塵もない。以前からこうであっただろうか? 主任は以前のさよりを思い出そうとしたが思い出せなかった。おとなしくて動作の遅い新入社員という認識しかなかった。 
「もう、れじにはいっていいでしょうか」
 さよりは無表情に主任に尋ねる。その目は光を受けて茶色いガラス玉のようにつるんとしていた。
 主任はこれまでの菅野さよりのことを振り返ってみた。無断欠勤の後、急にレジ処理が速くなっておかしいとは思っていた。レジをしているときは素晴らしい笑顔だが、レジをやめると急に無表情になると感じたのはいつからだっただろうか。最初から機転がきかない娘ではあったが、これほどまでだっただろうか。
 無断欠勤以後、明らかに彼女は変化している。
 即座に主任は携帯電話を取り出し、フロア長に彼女のことを伝えた。フロア長から緊急連絡網を介して、会社上層部の人間に彼女のことが伝えられた。
 何も知らないさよりは承諾も得ずに、食品売場へ行き、レジで商品を通しはじめる。
 はやく、はやく、もっとはやく、とても、すごく、とびきりはやく。
 ピッピッピッピッ、ピピピピピピピピピピ……
 商品をレーザー光に通すときの音。そのリズム。一定の速度で鳴る音。
 これこそがわたし。わたしのすべて。いいおと。りずむ。わたし。いる。実行。実行中。

 大介は保井へ向かう電車の中で窓の外を眺め、考えていた。
 あの時、喫茶店での彼女はどうかしていたんだ。今日はきっと笑ってくれる。そんなに簡単に諦めきれない。
 田舎で大介は両親を支えながら農業をしていたものの、さよりのことを思うと身が入らず、思い立って保井へ行くことを決意したのだった。
 保井駅からスーパー「YASUI」へは徒歩二分。電車が駅のホームにつき、扉が開いた瞬間に、大介は飛び降り、一目散にスーパーへと駆け出した。
 一階の正面玄関からすぐに食品売場が見える。レジにいる彼女を見つけた。
 すこし小柄でふわふわパーマの髪を後ろでひとつに結び、とびきりの笑顔で一生懸命レジをしている、健気な女の子。
 大介は彼女のレジに向かって更にスピードを上げて走る。
 と、そのとき。
 数人の警備員が西口玄関から現れ、さよりのレジに駆けつけ、商品を通し続ける彼女を後ろから羽交い締めにした。彼女は警備員の肩に担がれながらも、腕を動かし続けていた。右手から左手へリレーするように、商品を通す動作を続けていた。
 彼女を担いだ警備員は、通路を通って通用口へ向かう。周囲の客達が遠巻きに眺めていた。小さくなっていくその姿を、周囲の人達と同じくそのまま遠巻きに見送りそうになっていることに気づいた大介は、あわてて後を追った。
 しかし大介の行く手をレジの女主任が両手を広げて遮った。
「そちらは関係者以外立ち入り禁止です」
「でも、菅野さんがっ」
「彼女、機械なんですよ」
「え?」
 大介は立ち止まって女主任の顔を見た。
「なん、ですか?」
 今、耳にしたことを大介は無意識に頭の中から追いだそうとしていた。聞き違いだと思いたかった。
 レジ主任は繰り返す。
「菅野さよりは機械なの。さきほど、様子が変だと気づいた私が会社上層部へ通達し、上層部が闇で機械化を行っている組織に照会をかけてわかったの」
「そんな、いつ、いつ彼女は……」
「二週間無断欠勤していた間に機械化手術を受けていたみたいね。彼女、素敵な無機物人間だったのに、ただの無機物になってしまった。自ら志願して機械になるなんて、愚かね」
「どうして? どうしてっ!」
 再び大介は警備員が彼女を連れていったほうへ向かおうとした。しかし女主任がとても女とは思えない力で、大介の行く手を阻んでいた。
「レジ応対に機械は不要です。私達に必要なのは有能な人間。不老不死、優れた応用力、すこしの欠点を持ちあわせた無機物人間こそが、必要なのです。菅野さよりはなんて愚かなの。ただひとつのことしかできない機械になりたいなんて。そんないらないものは捨てなくちゃ。そうでしょう?」
 もうこれ以上、大介は堪え切れなかった。拳に力を込め、女主任めがけて思いきり振りかぶった。鈍い痛みが腕を突き抜ける。
 主任は無機物人間だったのか。それも魂の腐った。
 なんとか主任の腕を逃れて通用口を通り、彼女の姿を探して駆け出した。
 通ったことのない暗い通路に入っていく。前方で靴音が響いている。角を曲ると菅野さんを担いだ警備員が角を曲ろうとしていた。大介は全速力で後を追う。
 あるドアの前で警備員が立ち止まり、中に入っていった。大介は必死で後を追う。ドアには大型廃棄物と書かれたプレートがかけてあった。
 重く厚いドアを開けると、警備員が肩から菅野さんを無造作に降ろし、目の前にある扉を開け、扉の中の暗い空間へ彼女を放り投げた。
 金属がぶつかる大きな音がした。
 その音を聞いてもまだ信じられなかった。信じたくなかった。
 警備員が何事もなかったかのように踵を返し立ち去っていく。大介はドアに隠れて警備員の足音が小さくなっていくのを聞いていた。
「イラッシャイマセ、アリガトウゴザイマシタ」
 暗い空間から彼女の声が聞こえる。
 わずかな光に照らされて彼女が見える。ひっきりなしに動く腕、つくられた笑顔。
 彼女が幸せそうに思えた。
 開け放たれていた扉を大介はゆっくりと閉めた。
 暗い空間に流れ込んでいたこちら側の光が、しだいに闇に消されていった。