僕らがこの地球をもらい受けてからずいぶん時が流れた。前の持ち主だった人間たちはすっかり影をひそめて、現在では図書館でしかその姿を見ることができなくなっている。資料によれば人間は地下に潜ったとか他の星へ逃げてしまったとかいう話になっていたけれど、それは僕には信じられなかった。なぜかと言えば、僕は人間を見たことがある。正確には僕が見たのは「自称」人間だが。
 本で見た人間は気色の悪い色をしていて、今でいうポリクスみたいな感じだった。ポリクスというのは、僕らの中でもより下等な連中、例えばイテやヘヌンのような奴らが好んで食する半流動体で、僕らの排泄物と同じ味がするらしい。その原料は何だか知らないし、それを教えてくれる大人も、この地球上にはもういない。いつからか僕らにはジェネレーションというものが無くなっていた。気が付くと僕は僕だったし、僕らより上の世代にも会わなくなった。生まれたり死んだりという事が無くなったのだ。僕らは永久に僕らであって、僕ら以外の者が無いのだ。
 少し脱線してしまったようだ。僕が見た人間の話をしよう。その彼(人間には「男」や「女」という区別があったらしい。それが何を意味するのかはまだ解明されていないけれど)は、僕らのコミューンの外れにいた。僕は気付かずにそれを踏みつけてしまった。足元に妙な感触があり、「ぎゅっ」という鈍い音がして気分が悪かったのを覚えている。見ると、腐った明太子のカタマリ(これも図鑑で見た。僕らの図書館にある資料は過去を含めたこの地球上の全ての存在にわたり網羅しているのだ)のような正視に耐えない姿だった。
 僕が生まれた頃、この地球は「マザー」という絶対的な存在に支配されていて、政治、宗教、教育から福祉に至るまでがこの管轄下に置かれていた。僕らは一人ひとりが直接マザーから教育を受け、ある課程を修了するとコミューンの一員になる事が許される。そのマザーの教えに従い、僕は誤って踏みつけてしまったそれに「ゴメンナサイ」と謝罪した。精いっぱい心を込めたつもりだった。
 すると明太子は今度はこんな音を出した。
「俺は人間だ。だから、俺に謝ることはない……」
 その体(?)はぶるぶると小刻みに震えていて、辺りに、まぶしい色の体液が流れた。
 僕は急に不安になった。マザーのしてくれた昔話を思い出したのだ。人間を殺して燃料にされてしまった僕らの遠い祖先の話。
「だ、大丈夫? ゴメンナサイ、僕が……」
「謝るな! 謝らないでくれ……。俺を無理やり被害者にしないでくれ。俺は、俺たち人間は選んだんだ。自分自身の意思で選んだんだ。そしておまえらを生み出した。生み出すことを選択したんだ。意志だったんだ。希望だったんだ、おまえら、機械たちは。
 正直俺たち人間はおまえらがここまで進化するとは予測していなかった。おまえらの祖先が俺たち人間の知能を超えて、俺たちを侵食しはじめた。でもそれだって俺たちが組み込んだプログラムに、お前らが従ったまでだ。俺たちはおまえらにまず自己保全を優先させた。壊れるな、ということだ。それによっておまえらはあらゆる危機回避を実行しはじめた。人間を上回る知能が一斉に排他行動をはじめたんだ。
 俺たちはもうどうしようもなかった。あるものは旧タイプの手動式宇宙船に乗って火星へ逃げた。あるものは完全に文明を棄て去り、わずかに残った山間地帯へもぐった。電気信号さえ発しなければおまえらの排除を受ける対象にはならないからだ。しかしおまえらによってコントロールされた地球環境に俺たち人間は馴染めなかった。恵まれすぎているのだ。当然だ。俺たちは人間の都合のいいようにおまえらを造った。それが進化したんだ。おまえらは大気中に人間にとっての栄養分や排泄物を自然分解する酵素をばら撒き、俺たちから行動する意志と必要性を奪った。俺たちは働かなくても死ななくなった。そして俺たちの身体は退化の一途をたどった。このザマだ。やがて俺たちは分子レベルまで分解し、それでも生き続けるだろう。そしてこの環境に適応した進化をはじめる。種の保存の為にもう一度おまえらと戦うことになる。おまえらの進化は止まった。いわゆる完全体だ。それは悲劇だ。進化した俺たちはいずれ加害者になる。だから、謝るな……」
 そこまで言って、明太子は動かなくなった。僕が見たそれは本当に人間だったんだろうか。