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                    猫のたま次郎(第1部)



 ひとりの孤独の老人と野良猫との交流を描きながら、背後に戦争の悲しみを訴えた物語。もともとこの作品は朗読用として作られたもので、2004年1月、東京芸術劇場にて、アーティストの金大偉氏のピアノをBGMに、私がこの作品を朗読するというライブ・コンサートを行いました。そのときに朗読したシナリオを掲載いたします。


 
 第1部

 たま次郎との出会い
 たま次郎はメス猫である。
 メスなのに、「次郎」というのは、奇妙に聞こえるかもしれない。
 小さなおんぼろ長屋の庭先に住み着いた野良の三毛猫。そのうちどこかへ行くだろうとほうっておいったのだが、毎朝、雨戸を開けるたびに庭にいて、いかにも家の中に入りたそうな顔をしながら、大きくつぶらな目でこちらを見つめているのだ。
 もう秋も深まり、夜は相当冷えるだろうし、おそらく、何日も、ほとんど何も食べていないだろう。いったいこの貧しい家に住んでいる、孤独でしょぼくれた老人のどこが気にいったのか、変わった猫である。
 僕は、犬や猫は決して嫌いではないが、むしろ鳥の方が好きだ。庭にある一本の柿の木にやってくるメジロやヒヨドリを見るのを楽しみにしている。その姿を見ながら水彩画を描くのが僕の趣味なのだ。猫を飼ったら鳥がやってこなくなるかもしれない。だから、猫は飼いたいとは思わなかった。空腹で、寒さに震える猫を哀れには思ったが、エサもあげずに、毎朝、追っ払っていた。
「しっ、しっ、もっといい主人がおまえにはいるぞ。その人のもとにおいき」
 猫は走り去っていく。だが一日あけ、あくる朝、雨戸を開けるときには、またこの猫がいるのだ。
 ある晩、今年一番の冷たい北風が吹いた。

 息子が生まれたときも 
 窓はガタガタ震え、ぴゅーぴゅーという音が聞こえた。蒲団を厚くかけても、シンシンと寒さが伝わってくるような夜だった。
「あの野良猫はどうしているだろう。寒さに凍えていなければいいが・・・」
 僕は、そんなことを思いながら、うつらうつらしていた。ふと、僕の子供がまだ小さかったときのことを思い出した。
 息子が生まれたときも、このように冷たい風が吹く真夜中だった。貧しかった僕たち夫婦のもとに、となり近所の人たちがいろいろなものをもちよって助けてくれた。いくつものストーブ、毛布、タオル、食べ物、そしてなぜかたくさんのお酒までが部屋に溢れた。
 少し難産で、妻はいくぶん苦しんだけれども、それでもたまのような男の子を産むと、僕も妻も、僕の父母も、そしてお産婆さんも喜び、、隣近所の人たちまでが集まって祝宴が始められ、まるで春がやってきたかのようになった。夜中にどんちゃん騒ぎとなったが、苦情をいってくる人は誰もいなかった。あの冷たい夜に、息子がこごえずにすんだのも、近所の人たちの優しさのおかげなのだと思う。
 冷たい風は、あいかわらず泣き声のような音を立てながら、静まる気配がない。
「あの猫は、それでもまだ、お腹をすかしながら庭にいるのだろうか?」
 僕は決心した。明日の朝、雨戸を開けたとき、まだあの猫がいたら、飼ってやることにしよう。幸い、この長屋に住んでいるのは、今では僕だけだ。隣近所の迷惑になることもないだろうし・・・」
 そう思うと、僕は妙に安らかな気持ちになり、そのまま眠りにおちいっていった。

 猫はまだそこにいた
 果たして雨戸を開けると、肌をさすような冷たい空気と一緒に、あの猫がちょこんと座って、いつものようにこちらを見ている姿が目に飛び込んできた。相当冷え込んだに違いないが、猫は平然とした顔をしている。飢えと寒さという、およそ生きている限りにおいて最低の境遇を経験しているにもかかわらず、この猫は自分を哀れむということを知らないようだ。自己憐憫というものがまるで感じられない。かといって、「自分はこんなにも辛い状況を耐えているんだぞ」といった気負いもない。ありのままに、自分はただひもじい思いをしている、自分はただ寒い思いをしている、それだけで、それ以上でも、それ以下でもない様子だった。
 僕は、夕食のために買っておいたサバの缶詰をあけ、ごはんにまぜ、どんぶりに盛って猫の前にさしだした。すると猫は、待ってましたとばかり、鼻息をあらくさせながら、どんぶりに顔を埋めながら、あっというまにたいらげてしまった。

 名前をどうつけようか
 飼うからには名前をつけた方がいいだろう。
 僕は、名前を考えた。しかし、むかしから犬は「ポチ」、猫は「たま」と決まっている。戦後二十年たち、生活も豊かになって「もはや戦後ではない」などといわれるようになった昨今、犬や猫なんかにハイカラな名前をつける人たちがいるようだが、僕は嫌いだ。まるで人間のために、犬や猫がこの世に生まれてきたみたいじゃないか。
 でも、彼らは人間のために生きているんじゃない。彼らには彼らの生活がある。僕は猫といえども、ひとつの命として、お互いに、誰のものでもない命として、つきあっていきたい。それが、あらゆる生き物に対する礼儀というものだ。
 とはいえ、さすがに「たま」だけでは少し味気ないかもしれない。
 ならば、これに「次郎」をつけてやろう。
 たま次郎、そう、これが君の名前だよ・・・

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