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                   猫のたま次郎(第3部)

 第3部

 たま次郎と喧嘩する
 たま次郎と過ごして二ヶ月が過ぎた。もう気心が知れた仲となり、お互いに相手をことさら意識するようなこともなくなっていた。
 ある日、買い物から帰ってくると、押し入れの中でガサガサという音が聞こえた。戸を開けてみると、たま次郎が爪を研いでいるのが見えた。今まで描き続けてきた鳥の絵の一枚に向かって爪を立てているのではないか。
 僕は頭にカーッと血が上り、思わずたま次郎の首をつかむと、そのまま庭に放り投げた。たま次郎は、僕の尋常ならざる態度に驚いた様子で、そのままどこかへ走り去っていった。
 絵は、ボロボロに紙がはがれ、無惨な姿になっていた。何十枚も描いた中の、僕がもっともよくできたと満足したまさにその傑作が、だいなしになったのだ。こんなことになるくらいなら、猫なんて飼わなければよかったと、少しだけ後悔した。
 その夜、たま次郎は家に戻ってこなかった。
 僕は心配した。僕は自分がしたことを後悔した。たま次郎は、わざと僕の傑作をだいなしにしたわけではない。ちゃんとしまっておかなかった僕が悪いのだ。たま次郎にしてみれば、なぜいきなり庭に放り出されたのか、わからなかったに違いない。たま次郎よ。僕を許して欲しい。どうか早く帰ってきて欲しい。まさかもう、僕の家に戻ってこないつもありではないだろうね。
 僕は、夕食もとらずに床についた。そして僕は息子のことを思い出した。思えば、たま次郎がこの家に来てからというもの、僕は妙に息子のことを思い出すようになった。
 息子は、手のかからない「いい子」だった。いたずらをするでもなく、親のいいつけはよく守り、よく勉学に励み、品行方正だった。僕は息子を叱ったという記憶がない。本当に、手のかからない子だった。
 だが、今となっては、そのことをむしろ寂しく思う。親として、子供に手を焼き、子供のことでめんどうな思いをすることは、ある意味では喜びでもある。
 息子よ。君との間で何かが欠けていたとするならば、たったひとつだけだ。それは、君と僕は喧嘩をしたことがないということだ。僕は君が本気になって僕に文句をいい、ときには僕の胸に体当たりして欲しかったと思う。その言葉の衝撃、君のからだの衝撃を、僕は実感をもって受け止めたかった。僕を困らせて欲しかった。
 僕はたま次郎がだいなしにした鳥の絵を、何の未練もなくゴミ箱に捨てた。

 春の気配
 あくる日の朝、雨戸を開けると、そこにたま次郎がいた。まるで初めて出会ったときのように。そして彼は、いや彼女は、何事もなかったように平然とした顔つきで悠々と家の中に入り、いつものように上座の座布団に座って毛繕いを始めた。
 安堵の気持ちが僕の心に広がった。
 僕は、そんなたま次郎の姿を、絵に描いた。鳥のかわりに、たま次郎のさまざまな姿をかいた。そして、その絵だけは、たま次郎の爪研ぎで傷つけられないように、押入の奥に大切にしまった。
 少しずつ、春の気配が感じられるようになった。
 我が家の庭にも、菜の花の葉がぽつりぽつりと姿を現し始め、たま次郎も縁側で昼寝をするようになった。
 するといつしか、そんなたま次郎の姿を垣根越しに、何人かの子供がのぞいているのに気がついた。学校の行きと帰りに、五、六人の子供たちが「可愛い猫だなあ」「可愛い猫ね」などといいながら、たま次郎においでおいでなどをしている。たま次郎の方は、気が向くと子供たちの方に寄っていって、頭を撫でてもらっている。もっとも、たま次郎にしてみれば、頭を撫でさせてやっているのだと思う。僕には決してそんなお世辞じみたマネはしないくせに、子供たちにはなぜだかサービス精神が旺盛なのだ。子供たちの前では、不思議なくらい可愛い子ぶっているのである。
 僕は子供たちにいった。「庭に入ってきてもいいよ」。すると子供たちは歓声を上げながら庭になだれ込んできた。そしてたま次郎はもみくちゃにされんばかりに、子供たちの腕から腕へと抱かれていった。たま次郎は大人しく、嫌な顔ひとつすることなく、されるがままにされている。子供たちは「可愛い、可愛い」を連発している。
 子供たちは、毎日やってきた。僕の庭には黄色い菜の花がたくさん咲き、午後にはたくさんの子供たちで溢れかえった。たま次郎は子供に抱かれると、子供の頬をペロペロなめた。たま次郎は子供好きなのだろうか。だが、中にはいたずら好きの子供からしっぽをつかまれたりもする。それはたま次郎がもっとも嫌がることだ。いくら子供好きでも嫌なはずだ。なのに、たま次郎は腹を立てる様子がまるでなく、自分のしっぽをもてあそばせている。僕はたま次郎の、そんな寛容さというのか、自分の感情を律するその克己心に、尊敬に似た気持ちを覚えた。
 子供たちは、毎日毎日、入れ替わり立ち替わり、たくさんやってきた。
 中には、親御さんからもたされたのだろうが、自分の畑で取れた野菜だとか、魚だとか、菓子といったものをもってきてくれる子供もいた。僕の肩を叩いてくれたり、家の中を掃除してくれる子供もいた。
 これほどの春らしい春など、もう久しく訪れたことがなかった。毎日が楽しくて仕方がない。子供たちが庭に来てくれる午後が待ち遠しい。孤独だった僕の生活は、もう信じられないくらい変わった。そうしていつしか、息子のことも思い出さなくなっていた。
 たま次郎よ、これほど僕を幸せにしてくれたのは、すべて君のおかげだ。ありがとう、たま次郎よ。君は、神様が僕に授けてくれた贈り物に違いない。
 僕は、子供と遊び疲れたたま次郎に牛乳をやる。たま次郎は舌を使ってぺちゃぺちゃ飲むと、思いきり背中を丸め、その次に腹を床につけるようにして背伸びをする。そして私の横にやってくる。私に背を見せながら、顔を洗い始めるのだ。私は懲りずに同じいたずらをしてみたくなる。よく動くしっぽをつかんでみるのだ。するとたま次郎はすかさず私の方を振り返り、「フーッ!」と音を立てて怒るのである。
 どうして僕には怒るんだい、たま次郎よ。でも、それは僕にとって嬉しくもある。

 たま次郎いなくなる
 夏休みになり、朝から夕方まで、子供たちはたま次郎に会いにくるようになった。僕の幸せは、いつまでも日が暮れることのないこの季節のように輝き続けた。
 ところが、夏休みが終わってまもなく、秋の風が吹き始める頃、ふっと、たま次郎がいなくなった。
 最初は、すぐに戻ってくるだろうと思っていた。しかし、二日、三日たち、一週間が過ぎた。子供たちも心配して、近所を探し回ってくれたが、たま次郎の姿はどこにも発見されなかった。「ねえ、たま次郎、戻ってきた?」と、学校帰りに子供たちが声をかけてくれた。僕は無言で首を振るだけだった。
 たま次郎よ、いったいどこにいったのだ? 僕は毎日毎日、たま次郎を探して近所を歩き回った。ときには、かなり遠くまで探しにいった。ときどき三毛猫を見かけると、たま次郎ではないかと近寄っていく。だが、どの猫も僕の顔を見るなり逃げ去っていく。
 しだいに僕の庭に来る子供たちの姿も減っていった。二週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。子供たちはいった。「たま次郎、もう戻ってこないんだね・・・」
 僕は、ため息をつきながら、うなづいた。子供たちは黙ってうつむいていた。
 僕にはわかった。もう子供たちは、僕の庭には遊びにきてくれたりなどしないことを。
 ひんやりとした、秋の風が庭のススキを揺らした。
 ああ、たま次郎を囲んで、子供たちが遊びにぎわった春の庭が懐かしい。
 だが、もうたま次郎もいなくなり、子供たちも、この庭から姿を消そうとしている。僕はまた独りで、ここに住むことになる。
 子供たちは、そんな僕の寂しい気持ちを察したのか、同情するような目で僕のことを見つめていた。「さようなら、おじいさん」と子供たちはいった。僕にはよくわかっていた。「おじいさんには気の毒だけど、たま次郎がいないこの家には、もう遊びにはこないよ」ということなのだ。仕方がないことだ。こんな老いぼれじいさんのところに来たって、何も楽しいことはないのだから。
「それじゃね」といって、子供たちは帰ろうとした。
 そのとき、僕はふとひらめくものを感じた。
「ちょっと待ちなさい」。僕は子供たちを庭で待たせ、家に入って、押入の奥から、大切にしまっておいたたま次郎の絵をもってきた。
「さあ、これをあげる。たま次郎だと思って、受け取ってくれたまえ」
 幸い、集まった子供たちの人数分だけの絵があった。子供たちは目を丸くしながらたま次郎の絵を見つめている。僕は別れの言葉をいった。
「それじゃね。いつまでも元気でね。さようなら・・・」
 ところが、子供たちは叫ぶようにいった。
「すごい、これ、おじいさんがかいたの?」
「まるで、生きているみたいだ」「私もこんな絵がかいてみたい」「こんなに上手に絵がかけたらなあ」
 子供たちは興奮している。そして、子供たちは、僕にこうせがんだのだ。
「おじいさん、絵のかきかた、教えてよ・・・」

 僕の子供たち
 冬の風が枯葉を舞い上がらせる季節がやってきた。
 そして、一年前、はじめてたま次郎を庭で見た日がやってきた。
 たま次郎よ、君はどこへ行ってしまったのだろう。君がいなくて寂しい。
 けれども、僕の前には、君が残してくれた、たくさんの子供たちがいる。この小さな部屋の中に、子供たちが絵を習いにやってきてくれる。
 僕は子供たちが、少しずつ成長していくのを見るのが好きだ。僕はそんな子供たちの中に、明るい未来をかいま見るような思いがする。ここにいる子供たちは、すべて僕の息子であり、僕の娘そのものなんだ。
 僕は生きている。僕は、ここに、生きている。
 たま次郎よ、僕は君を、ちょっと借りていただけなんだ。そう思うんだ。神様から借りていただけなんだ。そして借りていたものを、返しただけなんだ。
 僕は息子を借りていたんだ。たま次郎を借り、そしていまは、子供たちを借りている。
 いつだって、だれだって、すべて僕自身の子供として、僕の子供として、愛を注ぐために・・・。

 おわり       

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