平安兄氏絵巻


段の五 春の歌

兄君さまです。今日も張り切ってまいりますわ。

ワタクシの名は春歌
日夜修行に励んでおります
弓に薙刀武道をいろいろ
辛いこともございますのよ
でもワタクシは負けません
え?何故って?
それはもちろん決まっておりますわ
愛しの背の君をお守り申し上げる為ですわ
でも、ワタクシの修行は武道だけじゃございません
今日はとくとご覧あれ。


「ほう、腕を上げたな。春歌。なかなかの踏み込みだったね。」
「そんな・・・まだまだ兄君さまには及びませんわ。」

今日はワタクシの道場に、何と兄君さまが御出でになられて稽古を付けて頂いてますの。

「参りますわよ、兄君さま!やーっ!とぅーっ!」

ワタクシは先房を付けた薙刀を上段に構え、そこから大きく間合いを詰め、兄君さまの面を打つと見せかけて、返し身で胴を薙ぎに行きました。だけど・・・

「甘いな、春歌。」

兄君さまは表情一つ変えずに半歩前に歩を進めると、胴を狙ったワタクシの薙刀の柄を左手で掴んで、ワタクシの喉元に向かって右手に握った木刀の切っ先を向けましたの。

「そんな・・・柄を掴むなんて・・・兄君さまずるい。」
「果たしてそうかな?これがもし軍場なら、どうかな?」

ワタクシは肝を冷やしました。凛とした涼やかな表情の裏に見え隠れする修羅の顔。流石は『無限神灯流』の皆伝者ですわ。

「ははは・・・そう怖い顔をするなよ。春歌、今の返し身、いつ身に付けた?それこそ『紫燕』の形だ。上達したねえ。」
「『紫燕』の形?」

きょとんとしたワタクシは兄君さまに褒められているのに気付いて、少しずつ嬉しさが込み上げてまいりましたの。手首の痛みを我慢して稽古を積んだ甲斐がありましたわ。

「でも、無理をして稽古をしたんじゃないのか?見せてごらん。」

兄君さまはワタクシの左手をそっと握り、しげしげと手首を見ていらっしゃいます。突然、突然ですのよ、兄君さまにお手を握られて・・・大きくて・・・逞しい兄君さまの手が・・・ポッ・・・

「ふん、大丈夫みたいだな。今日はこの辺にしておこう、疲れただろう?春歌。」
「ええ、少し。」
「じゃ、朝餉を済ませよう。今日は一日、春歌に付き合っても良いぞ。」
「本当ですか?兄君さま!」
「ああ、本当さ。だから朝稽古の手合いが出来たのだ。」

ワタクシは驚きました。朝の稽古だけかと思いましたのに、一日すべてをワタクシの為になんて・・・今日は昼から和歌の稽古で式部様のところに・・・

「あ、あの、兄君さま、今日は昼から式部様のところに和歌の稽古に参るのですが・・・」
「そうか・・・和歌かあ。式部とは、和泉の方の所か?面白い!共に参るぞ。春歌。」

え!?兄君さまが和歌の稽古に?それでなくても兄君さまは式部様と共に都の六歌仙に名を連ねるほどの歌の名手。お二方の前ではワタクシの歌など霞んでしまいますわ。

「そうか、久方振りにあ奴の歌も聴けるのか。楽しみだなあ、春歌。今日は楽しい日になりそうだ。」

朝餉を終えた兄君さまとワタクシは、和歌の稽古までの時間、街の散策に出かけましたの。

可愛らしい簪や綺麗な組紐、兄君さまはワタクシに見立てて下さいました。ワタクシはとても嬉しかったのですけれど・・・
兄君さまがお運びになる雅な料亭での美味しいお料理、兄君さまと二人きりのお食事、とても幸せなのですけれど・・・

ワタクシ、どんな歌を詠めばいいのでしょうか・・・

そしてワタクシは兄君さまと式部様のところに来ました。

「やあ、和泉の方、いつも妹がお世話になっており、感謝致します。」
「まあ、兄氏様、今日はどんな風の吹き回しなのでしょう?」
「時には良いでしょう?天下にとどろく和泉の方と、我が妹の歌を嗜もうと思いまして。」
「あらあら御謙遜を。」

兄君さま、式部様とあんなに親しくお話に・・・ワタクシちょっぴり悔しい・・・でも・・・この雰囲気は・・・

ワタクシ、分かるんです。互いに交わされる牽制する様な気迫を・・・同じ道を究めようとする者同志に共鳴する独特な気を・・・これはまさに真剣勝負・・・

お部屋に通されたワタクシ達は式部様のお立てになるお茶を頂き、文机のある稽古場に向かいます。

式部様を先頭に、兄君さま、ワタクシの順で稽古場までの廊下を進んで行きます。あら?兄君さまも式部様も玄関先よりも気が練り上げられていましたの。

「おや?どうした?春歌、怯えたような顔をして。」
「な、何でもございませんわ。兄君さま。」

途中で声をかけて下さった兄君さまに、ワタクシは気丈に振舞いました。本当はお二方の錬気に気圧されまいと必死なのですけれど・・・

稽古場に着いたワタクシ達は、上座に式部様、下座にワタクシ、その中間に壁を背にして兄君さまが着席しました。

硯に水を差し、墨を磨り、精神を研ぎ澄ませて行きます。集中力を高め、周囲の気配と自らを融合させて呼吸を整えます。ふと兄君さまを見ると、背筋をピンと伸ばし、静かに目を閉じて更に気を高めているようです。そのりりしいお姿、素敵です・・・そして自然に閉じられたその口元にワタクシのこの唇を重ねることが出来たら・・・・ぽっ

あらいけません。ワタクシったら・・・兄君さまに見とれてしまいましたわ。集中集中・・・今日は兄君さまが一緒なのです。決して粗相をしてはなりません、改めて気を引き締めて硯に向かいます。

「くすくす・・・」

あら?式部様が笑った?どうして?・・・

「それでは始めましょうか。お題は”思い”、季語は”春”。」

墨がすり終わった頃合いを見計らって式部様はお題と季語を発表します。ワタクシはそれに従い歌を詠んでゆきます。けれど、今日に限って、よい歌が浮かびません。どうしたものでしょう・・・

「春歌姫、いつもの”思い”は如何なされました?」
「は。はあ・・・」
「いつもの”思い”とな?」

式部様のお言葉に筆を止めてしまったワタクシに、兄君さままで輪をかけたように・・・困りましたわ・・・

「どれ、余もひとつ、捻って見よう。と・・・生憎筆を持ち合わせておらぬ。」
「ワタクシのをお使いくださいませ、兄君さま。」
「お、おう、すまぬな。」

兄君さまはワタクシから筆をお取りになると、短冊を数枚手に取り、さらさらと筆を走らせます。

暫しの時間が過ぎると、兄君さまは筆を置きました。

「よし、出来た。」

そして兄君さまは出来上がった歌をお詠みになられました。

一つは国を治める指導者としての雄雄しい歌。
一つは武を究めんとする修行者としての歌。
一つは文を究めんとする探求者としての歌。
一つは家族を第一に思う兄としての歌。
最後の歌はワタクシに対する男としての歌。

最後の歌を聞いたとき、ワタクシの胸は高鳴りました。ワタクシのことを一人の女性として思っていただいていたのです。

「春歌姫、兄氏様のこの歌、何と自然な響きなのでしょう、式部は感服いたしました。さあ、春歌姫、これに返せぬとあらば、歌人として、否、女将としての恥となりましょう。」

ワタクシは式部様のお言葉に、兄君さまの想いに応えるため、筆と短冊を取り、そして渾身の一首を詠み上げました。

「うむ、天晴れ天晴れ。見事な返歌だ。春歌、よい歌が詠めたなあ。感心感心。」

兄君さまは満面の笑顔をワタクシに下さいました。

「さあ、本日はこの辺にしておきましょうか。」

和歌の稽古が終わりました。式部様はワタクシに耳打ちをなさいました。

「春歌姫、本当に良い兄君様をお持ちですね。この式部、羨ましく思いますよ。隙あらば、兄君様を奪いに参ります。兄君様への想いが誠ならば、兄君様をお守りになられませ。」

と。そ、それって・・・式部様はワタクシの恋敵!?

ワタクシ、決めましたわ。例え相手が式部様であろうと、歌の技も磨いて、必ずや兄君さまをお守りすることを、そしていつの日か、兄君さまと永久の契りを結ぶことを・・・

ワタクシは兄君さまとの帰り道、夕日に向かって固く誓いました。


背の君を 守る手立ては 数あれど つかぬ所に そは潜む
師と崇めしの 業の手にけり


段の五 春の歌 終幕。