平安兄氏絵巻


段の九 憐少女

お兄ちゃん、です。可憐のお話、聞いてくれますか・・・

名は体を表す
その表現が正に当てはまる者は少ない
だがしかし
その表現の通りの少女がいた
その名も”可憐”
周囲も羨むその姿
琴の音色は誰のため
お兄ちゃんの笑顔のため

ここ卿離宮の中庭、兄祥苑では、半年に一回の行幸の宴が行われていた。兄氏が皇位継承権者として父である時の天皇や、高位の貴族や豪族などを歓待し、もてなすと言った、豪華絢爛たる宴と言うのが慣わしの行事である。
しかし華やかなこの行事の裏側では、醜く熾烈な政治的なやり取りが繰り広げられる一面も持っている。内裏の中での表立ったところでは決して出来ない駆け引きが行われ、言わば”影内裏”的な場所でもあった。
そんな中で、兄氏と言えば、自分の政治的パフォーマンスでさえ憂鬱であるのに、こう言った駆け引きが兄氏の気持ちを更にげんなりさせる。

そんな時、兄氏の気持ちを常に和らげるのは、妹の中でも特に礼儀正しく、清楚な可憐であった。兄氏は可憐には済まないと思いつつも、こうした公式の場には常に同席を許していた。可憐の方も、大好きな兄氏の役に立てるのであればと、喜んで出席をするのだった。

「いつも済まないなあ、可憐。」

一通りのご機嫌伺いを済ませた兄氏は、常に側に寄り添い、愛想を振りまいていた可憐に茶を勧めながら詫びる風にして声をかけた。それに対して可憐は、

「ううん、気にしないで、お兄ちゃん。」

と、周囲への愛想とは打って変わった親愛の、尊敬を含んだ表情で兄氏を見上げる。

「お兄ちゃんってやっぱり凄い。」
「え?何が?」
「だって、可憐にはとっても難しいお話を簡単にしているんですもの。」

どうやら政治や、経済の話のようだ。まあ、兄氏に対して年端も無い可憐にとっては無理もない話しである。

「そうか?まあ、可憐もだんだんと分かってくるさ、今は黙って聞いておくだけでも勉強になるものさ。だけど、あんまりお勧めはしないけれどね。」

そう言って、兄氏は可憐に微笑む。可憐はこんな風にさりげなく微笑む兄氏が大好きなのだ。思わずどきりとして可憐は、手持ちの茶碗をくるくると持ち替えながら俯く。

「どうした?可憐。」
「何でもないの。お兄ちゃん。」

不思議そうに可憐の顔を覗き込む兄氏。その顔は可憐の顔のあまりにも近くにあったため、頭を振ろうものなら、兄氏の唇に自らの唇が触れそうなほどである。

(あ〜、お兄ちゃんったらもう・・・可憐、困っちゃう・・・)

可憐の小さな胸は早鐘を打つがごとく高鳴りを打っている。可憐はそれを兄氏に気付かれまいと、必死の抵抗を試みる。

(でも・・・お兄ちゃんともし、接吻なんてしたら・・・可憐、壊れちゃうかも・・・ううん、ダメダメ・・・こんな人がたくさんいるのに、可憐、ふしだらな女の子と思われちゃうかも・・・今日はお兄ちゃんの大切な日。お兄ちゃんに迷惑はかけちゃダメなの。可憐、ガマンガマンです。)

春歌や咲耶のような妄想娘になりかけた可憐だったが、どうやら理性が勝利を勝ち取ったようで、そろそろ宴の主演目とも呼べる琴の演奏時間が近づいている事に気が付いた。

「お兄ちゃん、可憐、これからお琴の演奏に行ってきます。聞いてくださいね、お兄ちゃん。」
「ああ、行っておいで。頑張ってください、可憐。」

兄氏の送り出す笑顔に、今度は別のどきどきが可憐の胸を締め付ける。日頃は平常心で、兄氏の笑顔を思い浮かべながら演奏するのだが、今日は違う。大勢の人の前、ましてや父も見ている、さらには、兄氏に恥をかかせてはならないと言った、緊張感が可憐を取り巻いていた。

(どうしよう・・・震えてきちゃった。本当はお兄ちゃんだけに聞いて欲しいのに・・・)

演奏用の装束に袖を通しながら、可憐は震えていた。他の演奏会でもこんなに緊張する事はないのだが、一度緊張し始めると、不安が頭をもたげ、加速度的に可憐の胸を締め付けてくる。

(このままだったら、お兄ちゃんに恥をかかせちゃう、しっかりしなきゃ。でも、どうしたら収まるの?可憐のどきどき・・・)

気が付くと、すでに演奏台の上に可憐は歩を進めていた。取り敢えずは演奏者の精神統一も必要だろうと、当時の人々は、演者が舞台に上っても、独特の間合いを持って演奏に聞き入る事を常としていた(ほんとか?まあ、そういうことにしておいて欲しい。)ので、可憐の気持ちが治まったら、演奏が開始するだろうと踏んで、固唾を呑んで演奏を待っていた。

しかし、待てど暮らせど演奏は始まらない。可憐の緊張は頂点に達しようとしていた。

「ふむ、仕方あるまい。」

兄氏は愛用の横笛を手にして、可憐のいる舞台へと上った。突然の事に来賓たちは騒然としたが、兄氏は気にも留めない。

「お兄ちゃん!?」

一番驚いているのは舞台の上の可憐である。そんな事も兄氏には埒もないことだった。

「可憐、余が助太刀するよ。落ち着いて、いつもの通りに、いいね、行くよ。」

兄氏はそう可憐に告げると、横笛を構えて演奏を開始した。それは十数小節の前奏の後に琴が付いていくといった構成の曲目で、可憐はその前奏の間に気持ちを切り替え、演奏に入る事に成功していた。

やはり兄氏が近くにいる事がこれほどまでに可憐にとって心強いこととなったかは、計り知れない事であった。

可憐はこの後の演目では完璧な演奏を披露し、来賓たちの喝采を受けた事は言うまでもなく、この日の事は後々の語り草になった。”兄妹の類稀なる名演奏”として。

演奏が終わって、兄氏の元に帰ってきた可憐は深々と頭を下げ、謝る事にした。

「ご免なさい、お兄ちゃん、可憐、緊張して・・・」
「何、そんな事、誰でもあるさ。余だって、皆の前で政を説く時には可憐と一緒さ。緊張して肝を冷やすさ。先ほどの挨拶だって、余は緊張しっぱなしさ。」
「お兄ちゃんも可憐と一緒?」
「ああ。だから気に病むことはない。しかし、いつ聞いても可憐の琴はいい音色だ。とても緊張していたとは思えなかったぞ。」

笑顔で兄氏に頭を撫でられ、緊張が解けた可憐はようやく安心感からいつもの笑顔を取り戻した。

「そうそう、可憐には笑顔が一番。さあ、演奏後の挨拶に回るよ。可憐。」
「はい。お兄ちゃん。」

可憐は再び兄氏の後について、挨拶回りに戻っていった。

後日の話であるが、可憐の演奏に心酔した貴族ら官位を持つものが、自らの娘にも音色と調べを習わせようと、可憐の住まいにひっきりなしに押しかけ、娘の弟子入りを薦められ、いささか辟易したらしい。何でも、中には、可憐を通じて内裏にいる兄氏に取り入ろうとした不埒で下衆な連中もいたようで、兄氏はそちらの対応に頭を悩ませる事になったとの事。

恐ろしや 琴の音色と 影内裏 妹(いも)を口実(みやげ)に 内狙う
あさましきかな 親の目論見


段の九 憐少女 終幕