Ghost Hunt

水ノ中ノ火
#2
 良い天気だった。人混みの中、ベビーカーを操りながら麻衣はいつも通り道玄坂を行く。
 いつもこの時間だ。主婦である麻衣は家事をこなしてから家を出る。掃除、洗濯、晩ご飯の下拵え。買い物は週末にナルを巻き込んで大量に買い込む為日々は必要なかったが、特売があれば生来の清貧暮らしが身に染みているのか出勤途中に買ってしまう。
 何にしろそれら全てを午前中、しかもなるべく早めに終わらせなければならない為(遅いとナルの機嫌が悪くなるのだ)、麻衣の朝は早く夜は遅い。
 時々慎吾ママが来てくれないものか、と思わないでもないが、それも麻衣が感じる幸せの一つであった。
 この繰り返しが1年前に結婚してからの麻衣の日常であった。
 多少形を変えたとしても終わる事のないものだと思っていた。

「失礼、谷山…麻衣さんですね?」
「は? あ、はい」
 事務所まで後少し。それ程の距離で麻衣は一人の女性に声を掛けられ立ち止まった。
 身なりの良い女性である。年の頃は40を越えるか越えないか位で、あまりブランドものに興味のない麻衣でも名前ぐらいは知っている有名ブランドの服、アクセサリーを全身に纏っている。
 麻衣は記憶を掘り返すが、このような女性は知り合いにない。怪訝そうな麻衣の表情を読んだのか女性は、作り物めいた笑みを浮かべる。
「あら、失礼いたしました。わたくし、十和田 柳子と申します」
「十和田……さん? あ、えーともしかして」 
 十和田と言う言葉には聞き覚えがある。半年ほど前に受けた依頼人の名前だ。奇妙な現象が頻繁に起こるから徹底的に調査して欲しいと、金に糸目は付けないからと、ごり押しした人物。そう言った時点でかなりナルの印象を悪くしており、いつも通り「当方は営利目的で調査いたしておりませんのでお引き取り下さい」とツンドラ気候に匹敵しそうな冷たい視線を受けていた。だが相手も切羽詰まっているのか一向に引こうとせず大声で叫き出す始末。声に驚いた優人が泣き出し、収集が着かなくなりしょうがなく、しょうがなくだ、依頼を受けたわけだ。
 だが渋々ながらの予備調査の結果、人為的なモノは見当たらず本調査に入った訳だ。期間は一週間ほど。基本通りベースを組んで泊まり込みでデータを採取していた。原因は怨霊、主人のあくどい事業の犠牲者が怨霊となって祟っていたのだ。滝川が主人を守り真佐子が説得に励み、主人に土下座させて(ナルがさせたらしい)漸く浄化が成功したとの事だったが……。
 あれからまた何かあったのだろうか? ナルの調べによると買っている恨みの数は両手で足りない程らしいから、もしかしたらまた依頼なのかもしれない。
 麻衣は営業スマイルを浮かべて彼女を事務所へと先導しようとした。
「また何か有りましたか? 詳しいお話は事務所でお聞きしますのでどうぞ……」
「あら、違いますわ。我が家は平穏無事です」
「え? あ、そうなんですか。すみません早合点しちゃって」
「いいえ、お気になさらずに…。今日はあなたにお話があって参りましたの」
 口の端だけを引き上げた微笑みに麻衣は知らず悪寒を感じながら首を傾げた。
「立ち話もなんですし、そちらの喫茶店でも入りません事?」
「あ、はい」
 麻衣はベビーカーを操って柳子の後を付いてゆく。柳子はベビーカーで眠る優人を見てにっこり微笑んだ。
「ご主人にそっくりね。坊や。とっても愛らしいわ」
「あ、ありがとうございます」
 言っている間に二人は近くの喫茶店に入り、席に着いた。二人ともコーヒーを頼み麻衣は探るように柳子を見た。
「この人一体何しに来たんだろう」
「えっ?」
「顔に書いてますわ」
「す、すみません」
 顔を赤らめて俯いた麻衣を柳子は目を眇めて見た。嘲りにも似た表情だ。だが、麻衣が顔を上げる寸前に微笑みを浮かべる。
「あの、どういったご用件でしょうか?」
「あら、性急ね」
「す、すみません。ただ、連絡を入れていなかったもので遅くなると所長の機嫌が悪くなってしまうんです」
「所長ってご主人の事よね? ……愛されているのねぇ、ご主人に」
 含みのある物言いにもだが、言われた内容にも戸惑って麻衣は口を濁した。
「え! あ、愛ってその、あの……」
「まあ、知らぬは本人ばかり……かしら?」
「は?」
「ほらご存じないでしょ?」
「あ、あの、何が」
「苛つくわ、何にも知らないくせに世界中で一番幸せそうな顔をして」
「! あ、あの! 一体何なんですか?!」
 例え相手がお客であろうとも、初対面の人間にここまで言われる筋合いは無い。麻衣は両目に力を込めて柳子を見据えた。
「あら、ごめんなさい。こういう事なのよ」
 言って柳子はバッグから数枚の写真を取り出し、麻衣に手渡した。受け取った麻衣は恐る恐るそれらを見る。
「! これ……!」
「ご覧の通りあなたのご主人よ」
 勝ち誇った顔で柳子は背もたれにゆったりと凭れ掛かり、既に蒼白となっていた麻衣の顔を見つめた。
 震える麻衣の手の中には数枚の写真。ナルと目の前の女性がキスをしていた。その他と言えば遠目ながら二人がホテルへと入っていく写真が数枚と、同じく遠目で抱き合う二人の写真が1枚。
「嘘、こんなの絶対に嘘だ!」
「過酷な真実を知らないでいる事は幸せよね」
「信じない! 止めて!」
「現実をご覧なさいな。あれだけの男があなた如きで満足してると思ってるの?」
「止めて! 聞きたくない!」
「あなたとは別れたいんですって」
「!」
 麻衣の中で何かが壊れた。縋るような目で柳子をみた。お願いだから嘘だと言ってほしい、そんな目で麻衣は柳子を見た。
「残念ながら全部本当」
 くすくす嗤って柳子は立ち上がり伝票を手に取った。もう既に麻衣は何の反応も示せない。
「その写真は記念に差し上げますわ」
 踵を返すと柳子は優雅な足取りで店を後にした。
 残された麻衣は何時までも写真を手にしたまま身じろぎ一つしなかった。
 一体どれ程の時間が経ったのだろう。優人の泣き声で我に返った麻衣は、必死に笑顔を作って優人を泣きやませた。そしておぼつかない足取りで店をでる。
 雲を踏んでいるような感覚。妙に周囲の風景が足早に通り過ぎてゆく。現実に取り残されたように麻衣はフラフラと歩く。
 そしてブルーグレイの扉の前にたった。
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