麻衣が失踪してからいつのまにか1年の月日が流れていた。覚悟の失踪と割り切って麻衣を捜索しようともしないナルを見限ったのか、頻繁に顔を出していたイレギュラーズが訪れなくなってからも1年近くなる。
ここSPRでは静かな、それこそ死んだように静かな時間が流れていた。
麻衣も安原もいない為、たまに訪れる客の応対はナルが行っていた。大切な時間を他愛も無い相談如きに潰されるのは煩わしい事この上なかったが人を雇う気にもなれず現在に至っている。今日もナルは所長室に閉じこもって取り寄せた専門書に目を通していた。
その時何の前触れも無く脳裏に映像が入り込んだ。
(………またか)
ナルが同調と呼ぶ現象に近いそれはかつてジーンとの間に繋がれていたチャットと呼んでいた現象の要素も含んでいる。元来『同調』は対象となる物質の記憶、つまり対象物に纏わる過去の事象を読み取る事をさしているのだが、今起こっている現象は現在進行形の現象をナルに伝えていた。それ故にチャットの要素を含んでいるのである。
だが『同調』は本来ならナルが意識して行われるものであり、『チャット』は相手となるジーンがいなければ行えない筈なのに、それは半年ほど前から突然、そして強制的に始まった。
初めは明暗のみの映像。それが一月二月と時間を経る毎に次第に色が加わっていった。だが物の判別までは付かない映像、そして漠然としていて明確でない意識。問い掛けても返る事の無い応えに送信が成立しているのか、一体自分が誰に同調しているのかも分からない。
それでも最近はかなり視界がはっきりしてきているので、そこが家の中である事が分かった。チャットの相手は日長一日家の中で寝て暮らしているらしく、彼(彼女)が常に見ている静物に関してはそれが何であるか見て取れるようになってきている。だが動く物体に対しては残像しか見て取れない。
恐らくは動体視力に問題が有るのだろうとナルは思う。彼(彼女)の視界に人影が入ることは頻繁に有ったが、忙しなく動いている為相好の区別は付かなかった。ただ女性であるように思われた。
そして今現在ナルの脳裏に映し出される映像に、ナルは初めてチャットの相手が乳児である事を知った。恐らくは授乳中なのであろう、薄らと血管の浮いた豊かな乳房が彼(彼女)の視界一杯に映し出されている。一方的に送り込まれる映像とは言え、覗き見である事に違いない。ナルは即座に回線を切ろうとした。その時乳児の視線が上昇し、母親の顔が映し出された。僅かな逡巡の後ピントが合い、ナルの息が詰まった。
「麻衣!」
思わず立ち上がり声に出していた。急に立ち上がった為勢いに耐え切れず椅子が大きな音を立てて倒れたがそんな事は今のナルには些末でしか無かった。
視界の中の麻衣は実に暖かく微笑みかけている。まるで自分に向けられたかのように思えて酷く胸が痛んだ。視界が揺れて麻衣の肩越しに窓の外が見えた。
背中をとんとん叩かれて乳児はゲホリと空気交じりの母乳を吐き出す。麻衣はそれを確認してから乳児を胸にかき抱き、口元をぬぐってやる。それから立ち上がってゆらゆら緩やかに体を揺らしている。どうやら寝かしつけているようだった。しばらくして視界は黒に覆われ、回線は向こうから遮断された。
回線が切られた後もナルは立ち尽くしていた。鼓動は破鐘の様に速く、机に付いていた手は小刻みに震えていた。
(麻衣が子供を? まさか『あの時』の!?)
チャットが始まり出したのは約六ヶ月前、恐らく子供の目が開いてからと思われる。ナルが言う『あの時』とは逆算すればピッタリ合っていた。
(あの馬鹿!)
ナルはジャケットを手に取ると乱暴にドアを開いた。丁度お茶を片手に資料室に向かおうとしていたリンに出くわした。ナルは「留守を頼む」とだけ言うとリンの返事も、何処に行くのかと言う問い掛けにも答えず事務所を後にした。先程視えた映像で麻衣の大体の居場所は分かっていた。土地を指し示す文字が映されていたからだ。かつてはジーンを探し求めて日本中を旅したナルである。大体といえども場所が分かってしまえば後はどうにでもなる問題であった。そして4時間後、ナルは麻衣が住む市の駅に到着した。
(さてと………)
小さく息を吐いてからナルは車中でしたためたメモ書きに目を移す。
・窓の左手、遠くに山(三山ほど連なっている)があり、その手前には工場と思しき煙突が多数。
・窓の中央、学校らしき建物が2棟。
・窓の右手、すぐ近くに銭湯の煙突。
・銭湯と学校の間に高架有り。住宅地の中だけに一般道と思われる。
・家の構造は恐らく1DK。隣近所の屋根が全く見えなかった事から4階以上のマンションに住んでいるものと思われる。
メモと先程買い求めた地図を片手にナルは落ち着いて地図を広げられる場所を探す。取り敢えずナルは駅を出てロータリーの周囲を見回した。比較的拓けた街のようで大型のショッピングセンターやら全国的な銀行等がそこそこ建っている。
もしかしたら麻衣もここに買い物に来るかも知れない、などと思ってナルはショッピングセンターの入り口の前にあるベンチに腰を下ろした。
地図と人混みを交互に見つつ、ナルは該当する地域に印を付けていく。1時間もすると絞り込みも終わりナルは一息ついて人混みを見つめた。麻衣と似た女性を見る度に心拍数が跳ね上がる。それを何度繰り返した頃だろうか。ナルの拍動を停止させるような存在が現れた。
一年ぶりの再会。正面に座る麻衣を、ナルは 言葉も無いままに見つめていた。
少し痩せてはいたが顔はあまり変わっていない。ただカートの中の子供を見詰める瞳は限りなく柔らかく暖かで母性というものを感じさせた。
偶然見つけ、捕まえた少女は、……否、少女であった女性は鳶色の瞳を真円にしてナルを見詰めた。
「……久しぶり!」
拍子抜けにも笑顔でそう言われ、ナルは思わず「ああ……」と言葉すくなげに返してしまった
「立ち話もなんだし、お茶でも飲もうか?」
問い掛けたもののナルの返事も聞かずに麻衣はカートを押して近くの喫茶店に入った。仕方なくナルも麻衣の後に続く。
子供の為を思ってか、日当たりの良い暖かな窓際の席に就いた二人は、注文を伝えて互いの顔をじっと見詰めていた。
一方は暖かく、一方は冷静を装って。
「元気そうだね」
カートを前後に揺らしながら静かに麻衣が呟いた。
「……」
怪訝そうに眉根を寄せるナルに麻衣は小さく笑ってみせた。
「結構心配してたんだよ? なにせナルは不摂生が服着て歩いているような人なんだもん。周りがあれこれ世話を焼かなきゃご飯も食べない、睡眠もとらない…。でもとにかく安心したよ」
(そんな心配するくらいなら側にいて世話をやけばいいだろう……)
思わず口からこぼれそうになる言葉は飲み込んだ。言葉を惜しんでいる訳でもないが、自分の心のうちを現してしまう言葉は物心付いたころから飲み込んでしまう癖がついてしまっていたのだ。もちろん悪口雑言は除外されるが……。
とにかく素直に心のうちを吐き出せるようなら、恐らく今とは違う状況になっていただろう。
「ま、あそこには世話好きな人間が大勢いるしね」
あたし一人いなくたって大丈夫
言外に匂わせる麻衣にナルは久しくあっていない世話好き達の顔を思い出す。
「……ぼーさん達なら去年以来疎遠になっている」
「えっ……!?」
「元々喫茶店代わりにうちに来ていたような連中だ。目当てのものが無くなれば足が途絶えるのも当然だろう」
「ナル……本気で言ってるの? 本気でぼーさん達が喫茶店代わりの為だけに来てたとでも思ってるの!?」
「……」
「……ナル!」
「おかげで仕事が捗る」
ナルの言葉に麻衣が息を呑んだ。言った本人も内心臍を噛む。麻衣がいなくなって良かったと言っているも同然の言葉だ。
「……そんな話をしに来たんじゃない」
一つため息を吐いてからナルは切り出した。視線の先にはガラガラを振り回している赤ん坊がいる。いつも彼(着ている服はは淡い水色のTシャツにジーンズ、白と藍色のストライプの帽子を被っているので恐らく男児のなのだろう。)の視線で物を見ていたのだから当然ナルは彼の顔を知らなかった。少しウェーブの掛かった漆黒の髪と大きな瞳。配色から見れば間違いなく父親似であった。
「どうして僕に知らせなかった?」
「………知らせる必要があると思えなかったから」
「何故。どうしてそう思う」
「だってこれはあたし一人の問題だと思ったから」
突き放すような物言いにナルは麻衣を睨み付ける。
「『あの時』、僕が無かったことにしようと言ったからか?」
麻衣の肩がピクリと震えた。その様子にナルは深々とため息を吐いた。
「馬鹿者」
『あの時』ああ言ったのは勿論責任逃れからではない。心底後悔している麻衣を見て言った、言いたくもない言葉。
「時と場合を考えろ。二親揃っているのなら一緒に暮らす方がいいに決まっているだろう」
ぶっきらぼうな物言いだがナルは内心喜んでいた。名実共に麻衣を自分の側に置ける理由が出来たのだから。だが麻衣はそんなナルの心中を知ってか知らずか首を横に振った。
「ねぇ、ナル」
「何だ?」
「あたしね、今とっても幸せなの」
「………」
「この子がいてくれるだけで、世界中に感謝したくなるくらい幸せなの」
「………」
「あたし今の幸せを壊したくない。だから……ナルは必要ないの」
きっぱりとした麻衣の言葉にナルは頭を殴られた気がした。だがその表情に何ら変化は見られない。
「ナルが一緒に暮らそうって言ってくれたの凄く嬉しいけど、あたしは大丈夫だから。あたし一人ででもこの子を育てて行けるから」
「………」
「ナル?」
「………生計は?」
「え?」
「生計はどうやって立てて居るんだ」
ナルの言葉に麻衣は小さく笑みを返した。
「拝み屋」
「は?」
「最初のうちはSPRで貯めたお金でマンション借りてたの。あたし全然悪阻がなかったから妊娠期間中に家で出来るような仕事を始めようと勉強してたんだ。でも八ヶ月に入った頃かな、偶然そう言う場面に出会しちゃって咄嗟に九字切ってその場を納めちゃったらさぁ、なぁんか口コミでその手の仕事が来るようになっちゃったのよ。お陰で結構潤った生活してるんだよ?」
ケラケラと笑う麻衣にナルは苦虫を噛み潰したような表情をする。確かに麻衣はSPRでのバイト期間中に滝川から拝み屋としてのノウハウを叩き込まれていた。お墨付きも貰って充分一人でもやっていけるだけの技量と経験は持ち合わせていた。だがしかし今は状況が違うではないか。母一人子一人の状況で麻衣に万が一のことがあったらどうするつもりなんだ。ナルがそう言うと麻衣はニッコリと微笑んだ。
「勿論あたしはナルと違って自分の力量弁えてるんで危険を省みないなんてお馬鹿な真似は致しません。あたしの経験上やばいと思った仕事は断固として断っております」
「だがこの手の仕事に危険は付き物だ。麻衣が敢えてその危険を冒す必要がどこにある」
「分かってる。でもねナル。絶対に安全な場所なんてこの世のどこにもないんだよ? こうしてたって車が突っ込んできたら一環の終わりだしね」
「麻衣!」
取り合おうとしない麻衣にナルは声を荒げた。麻衣は失言とばかりに肩を竦めてから真顔で子供を抱き上げる。
「……ユウトを、この子を遺して絶対に死ねないよ」
「………」
麻衣はユウトの頬にキスをして頬ずりする。その様子を見てナルがぽつりと呟いた。
「……ユウトという名前なのか」
「え? ああ、うん、そうだよ。『優しい人』って書いてユウトって読むの」
麻衣がテーブルの上に書いて見せた字を見てナルは大きなショックを受けた。
優秀の『ゆう』に人類の『じん』。音を繋げればジーンに似た名前になる。そして『優しい人』という意味。子供の名前が、麻衣が心の底から愛しているのは、側にいて欲しいと求めているのは自分では無くジーンであると知らしめているではないか。
やり切れない想いでナルが窓の外に顔を向けた時、店の仕掛け時計の中の人形が踊り出した。時間を見ると四時になっていた。
「うわ、もうこんな時間だ。あたし帰らなきゃ洗濯物干したまんまだよ」
言って麻衣は優人をカートに戻し席を立った。はっとして顔を向けるナルに麻衣は実に暖かな笑みを返す。
「ナル元気でね」
「………ああ」
「今度は手紙書くから。音沙汰無かったらナルも心配でしょう?」
コクリと頷くナルに麻衣はもう一度柔らかな笑みを見せた。伝票に手を伸ばす麻衣をとどめてナルが無表情に言う。
「置いていけ」
「……ご馳走様です。ナルはまだ帰らないの?」
「ああ」
「そう、じゃあねナル。バイバイ!」
一年前と同じ言葉にナルは小さく頷いた。やがてカランと扉を開けて麻衣は店から姿を消した。またしても一人取り残されたナルは身体をずらしてコツリと窓ガラスに頭を当てた。偏光シールを貼っている為、鏡面性を増したガラスにくっきりと自分の顔が映っている。こんな顔など見たくもないと思って目を背けると聞き覚えのある声が頭に響いた。
(ナルって相変わらずバカなんだから)
はっとしてナルは窓ガラスを見た。自分の顔でありながら自分では無い者が映し出されていた。
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