一同が再会を果たした日から早いもので二ヶ月が経っていた。前日ディビス夫妻や女史こと森まどかも来日し、いよいよ明日ナルと麻衣の結婚式が執り行われることになった。
そして今、麻衣は綾子と真佐子、そしてまどかと女ばかりで軽い酒宴に興じていた。場所は綾子の家なので皆くつろいでいる。
「はあ、とうとう明日かぁ〜。この二ヶ月ってあっ! ってゆーまに過ぎちゃったね」
麻衣の言葉に綾子が頷いた。
「まあ、あんたやることいっぱいあったしね。どう? 結婚前からナルと暮らしてなくて正解だったでしょ?」
「うん、それは綾子の言うとおりにして正解だった」
そう、麻衣は東京に引っ越してからずっと綾子の家に居候していたのだ。思い返せば再会の日から色々とあったものだ。
あの後、皆は近くのホテルに泊まることになったのだが滝川はナルも強制連行したのだ。勿論ナルは不機嫌の極みであったが滝川が「お前が泊まるなら俺も泊まる!」と言い出ししょうがなく着替えて家を出たのだった。
そしてマンションから離れたところで滝川はナルを殴ったのだそうだ。やはり一発殴っておかなければ腹の虫が治まらないと言ったところだろうか。
翌日右頬を腫らしたナルを見て半狂乱になった麻衣だがリンから、
「わざと殴られた様でもありました。……恐らく谷山さんが失踪されたことに関してナルも責任を感じていたのでしょう」
と言われたのだ。だが麻衣があれは自分が独断でした事だと言うと。
「谷山さんが言うに言えない状況を作ったのは恐らくナルなのでしょう。気安く物事を話し掛けられる雰囲気も持ち合わせていないですしね。 ……谷山さんが気にする必要はありません。要はナルのプライドの問題なんです。好きにさせてあげなさい」
それでも麻衣はやはり自責の念を感じた。だが、ナルは相変わらずだし、滝川も依然となんら変わりなくナルと接している。そこら辺が男同士でしか分かり合えないものなのかと少し寂しく思いながらも納得したのだった。
だが問題はそれだけではなかった。綾子が結婚式まで麻衣と優人を居候させると言いだしたからだ。これには勿論ナルは大反対だった。しかし綾子がそれで引くわけがない。
「あんた、麻衣の顔を見てごらんなさいよ! かわいそうに目の下にクマをこさえてるじゃない! それに手! こんなに荒れてるのよ! 女にとって結婚式は一生に一度の晴れ舞台! それをこんな疲れた状態で迎えさせようっての?! あんた鬼?! それとも悪魔?! あんたがどう喚こうと麻衣は式まで預かってエステに通わせるからね!」
一息で言い切って綾子はゼイゼイと肩で息をする。
「……結婚したらそれこそ自分の時間なんて持てなくなるじゃない。赤ん坊だけじゃなくてあんたの面倒も見なきゃならないのよ? それまでのんびりさせてあげてもいいじゃない」
一転して落ち着いた調子でそう言われるとナルは苦虫を噛み潰したように押し黙った。陰で綾子がニヤリと笑ったのは言うまでもないだろう。だが当の麻衣は勿体ないと固辞していたのだが、皆から今まで心配掛けたお詫びに黙って従えと言われ、「いいのかなぁ?」と思いつつお金で買えるこの世の極楽を味わったのだ。
その為に今の麻衣はお肌ピカピカ、ツルツルで優人に負けぬ珠の肌となっていた。爪もこの上なく綺麗に磨かれ、つい二ヶ月前までのささくれ立っていた指が嘘のようだ。優人の世話も綾子と真佐子と滝川、それに安原が代わる代わる(熾烈な争奪戦が行われていたようだ)やっており、実質何もする事が無くなってしまった麻衣は幾分太ってしまった程だ。まあ、元が痩せていたため丁度良い肉付きになった事は間違いない。
優人も新しい場所にも臆することなく日々健やかで、怖いぐらいの幸せを麻衣は感じていた。元来苦労性なのかついついいらぬ先のことまで考えて不安を覚えることもあったが、文字通り未だ来ぬ『未来』に思いを馳せても詮無い事。
本当は誰にも未来というものは無いのかも知れない。だた『今』が積み重なって出来る『過去』があるけなのかもしれない。
ならば『今』を精一杯生きよう。そう思い麻衣は日々を過ごしている。
「どうしましたの?」
押し黙った麻衣に真佐子が尋ねた。
「ん〜〜、いよいよ明日かぁって思ってね」
「準備万端で結構ですわ。……ナルが言うように性急にしてましたらこうゆったりとは行かなかったでしょうね」
「ま、そこら辺は麻衣ちゃんがこれから手綱を引いて御していけばいいんじゃない?」
まどかの言葉に麻衣は「出来るかなぁ?」と不安げに眉根を寄せた。
「大丈夫大丈夫。実のところ麻衣ちゃん上手いことナルを扱ってるし」
「そうそう、何だかんだ言ったってナルあんたに弱いのよ。端で見てりゃ判るわよ」
「……当事者には分かんないもの?」
「何かあったらわたくし達を呼び出せば良いですわ。無条件でとはいかないけれど、麻衣の味方になってあげますから」
「宜しくお願いします」
麻衣は三人に向かって深々と頭を下げた。
「でも、ま、夫婦喧嘩は犬も喰わないって言うし〜、見てる方が楽しいって時もあるしね〜」
「うっ、そんな事言わないでよ!」
「はいはい、お姉さんは何時だって麻衣の味方よ」
まるで棒読みの綾子に麻衣はぶうっと脹れて見せた。
「そう言えば麻衣ちゃん、結婚してもSPRで働くって本当?」
「え? ああ、はい、って言ってもお茶くみに逆戻りなんですけどね。家でじっとしてるのって性に合わないし、ナルも現場に行かないなら構わないって言ってくれたから……」
「で、事務所にベビーベッド置いた訳ね」
くすくす笑うまどかに麻衣も苦笑した。勿論ナルは大反対したが結局圧倒的な多数決により決まったのだった。唯一の味方と思われたリンですら賛成派に付いたのだから孤立無援とは当にこの事だろう。故に現在の事務所はそこはかとなく乳臭かったりする。
「で、新婚旅行はイギリスなの?」
「はい、でも旅行って言うより出張って感じです。ナルは資料整理にSPRに籠もるつもりみたいだし、両親の相手をしてやってくれって言われちゃったんです」
「相変わらずお馬鹿ね、ナルって……」
「ま、こんなもんでしょう」
多くは望みません。そんな麻衣に3人は柔らかく微笑んだ。
「さてと、明日は結構早いのよね。せっかくエステ行って、万全の状態に持ってったっていうのに、前日に夜更かしして台無しにするのもなんだわね」
「ではお開きにしましょうか? 麻衣ちゃん、色々思うことも有るだろうけどゆっくり休んでね」
「麻衣、子供ではありませんし、緊張して眠れなかった……なんて事は無いように」
三者三様の言いように麻衣は苦笑して「はぁい」と応えた。それそれが敷かれた布団に潜り込むと綾子は「消すわよぉ」と声をかけ、皆の返事を聞いてから灯りを消した。
明けて翌日。天気は見事に晴れた。既に全ての支度は整い、後は本番を待つのみだった。
そして花嫁方の控え室では純白のウェディングドレスを纏った麻衣に、付き添いの綾子と真佐子、父親役の滝川の姿があった。もう既に滝川の目は潤んでおり、今まで幾度と無く麻衣の涙を誘い、その度に化粧が落ちる! と綾子に蹴り出されていたのだ。しかしいい年をした大人が何時までも泣いているのは外聞も悪いのであまり物を考えぬよう、あまり麻衣を見ぬように心がけていた。
何時までも手元に置いておきたかった。今でさえ時が止まれば言いと思う。ナルが信用出来ない訳でもないが、……いや、やはり信用出来ない気持ちが今は強い。多分相手がどんな男であってもそうなのだろう。理屈で判っていてもどうしようもなかった。だが、この世で麻衣を幸せに出来るはナルだけなのだろう。なぜなら麻衣が彼を選んだからだ。滝川がナルを認めたのは『ナルだから』ではない。『麻衣が選んだ男』だからである。
滝川が鬱々としていようがいまいが、時は無常にながれる。控えめなノックオンがし、安原が姿を現した。
「皆さんそろそろ時間ですよ。渋谷さんは準備万端でスタンバってます」
「はい」
麻衣が裾に気を配りながら立ち上がり、眩しそうに目を細めて安原は麻衣をみた。
「なんか、『卒業』みたいに攫っていきたくなる風情ですね」
「ナルを敵に回す勇気があるんならやってみたら? 安原青年」
「ははは、世界中を敵に回した方が気は楽ですね」
綾子の言葉に軽口で応えて安原は滝川を見た。先ほど滝川は安原を断罪者でもみるような目つきでみていたのだ。近寄り小声で話し掛ける。
「渋谷さんを敵に回す勇気はお有りですか」
「……ねえよ。ドチクショウ!」
「その意気です。まあ、後で自棄酒でも自棄麻雀でも自棄パチンコでも自棄カラオケでも気が済むまでつき合いますよ。ま、式の間は空元気で乗り切ってくださいね」
「いい度胸だな青年」
「おめでたい日ですからね。無礼講でお願いします」
「全部お前の奢りだからな。……くそ! 損な役回りだぜ」
滝川はパンッと自分の頬を挟み打ち、気合いを入れると、
「っしゃあ! 気合い入れて行くぜ、麻衣!」
「……ぼーさん、ライブじゃないんだからさ」
頬を引きつらせる麻衣に左手を差し出して滝川が嘯く。
「一世一代の晴れ舞台にゃ違いないだろが? さ、行くぜ」
「うん。……ありがとうね。ぼーさん」
麻衣は差し出された手を取って頭を下げた。そして残る3人を見回し、再度頭を下げた。
「みんなもありがとう。あたし……」
「それ以上言うと破戒僧が泣き出すわよ」
「そうですわ。そして麻衣も貰い泣きして崩れた化粧で晴れ舞台を踏むの」
「そぉれは花嫁としていただけませんねぇ。ね? 滝川さん?」
「お、おうよ! ま、俺たちゃいつでも麻衣の味方だ。今更だがナルの性格に愛想が尽きたらさ、速攻で別れろ、なんて言わねーからよ、一呼吸置きに帰って来い。お前は一人じゃないんだって事だけ覚えといてくれ」
「はい」
声と細い肩を小刻みに震わせながら麻衣は頷いた。 |
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