電話機に受話器を押し付ける両腕がブルブルと震えている。受話器を握りしめた両手にポタポタと透明の雫がこぼれ落ちる。
「うっ────!」
堪えきれなくなってはじめはその場に崩れ落ち、声を上げて泣き出した。
甘えたい。甘えたい。甘えたい。
それがはじめの本心だった。だが『違う』と思ったのもはじめの本心だった。
『違う、甘えたいんじゃない!』
そんな気持ちがはじめの言葉を遮っていたのだ。
期限付きとは言え自分から別れを切り出しておいて、甘えたい時だけ甘える。
そんなのフェアじゃない。そんなのあたしじゃない。
はじめは畳の上に仰向けに寝転がった。見慣れた天井を涙で曇った目で見上げている。流れ落ちる涙が耳に伝う不快さにはじめはごろんと俯せになった。それでも涙は止まらない。
ごちゃごちゃした頭の中を色んな言葉が駆けめぐる。亮の言葉。弟たちの言葉。瑞希の言葉。前田の言葉。そして────松織の言葉。
『ちょっと聞くけどさ、岡野サン。この服さ、一体誰が着るって言うの?』
瞬間、はじめの脳裏に閃く物があった。
「……誰が着るの?」
声に出して問うてみる。勿論答えが返るはずもない。
「誰が着るのよ」
それでもはじめはもう一度問うてみた。
「判らない……」
そう自分で答えて、そして判ったのだ。途端はじめは笑い出した。気が済むまで笑って、それからゆっくりと身体を起こした。
「バッカみたい」
はじめはそう評した。
(アンタは一体誰に着て貰いたくて服を作ろうとしたのよ!)
松織はこの事を言っていたのだ。
はじめはただただ課題を仕上げようと服を作ろうと、着る人のいない服を作ろうとしていたのだ。小手先の服。気持ちの籠もらない服。つまらない服。ありきたりな服。あり得ない服。
「ホント、バッカみたい」
言ってはじめは立ち上がり、また再び机に向かい、そして目を閉じる。
「江藤さん」
久しぶりに思い描いた亮の顔。無表情な亮。困った亮。怒っている亮。呆れている亮。悲しんでいる亮。笑っている亮────。
「江藤さんにはどんな服が似合うのかな?」
そう呟いてはじめはもう一度鉛筆を握りしめた。
「岡野さん、来ませんね」
「そうだね〜」
アシスタントの遠江の言葉に松織は飄々と答えた。
「あれから2週間ですよ」
「あっら〜。もうそんなになるの?」
二人とも動く両手のスピードは神業に近くとても雑談をしながらとは思えない。
「もう来なかったらどうします?」
「そんときゃそん時でしょ〜。僕に関係ないし〜」
と相変わらずな松織に遠江は肩を竦めてぼそりと呟いた。
「あれからずっと胃痛めてるくせに」
「うるさいよ。関係ないよ」
不機嫌に眉根を寄せて反論しながらも松織は手を止めない。
「大体松織さんはヒール役に向かないんですよ。一生懸命悪ぶっても胃を痛めるのが関の山じゃないですか」
「………………………………………」
「胃に穴開けて血反吐はく前にキャラ変えた方が良いですよ」
「………………………………………」
憮然としながらも松織は服を縫い上げていく。こっそりとため息を吐こうとしたその時────。
「頼も────っ!」
と勢いよく扉が開かれた。何事かと振り向く松織たちが見たのは鼻息も荒く仁王立ちしたはじめだった。
「岡野サン!?」
まさか来るとは思ってなかった人物が目の前に現れて松織は呆然とはじめを見ていた。そんな松織を睨み付けてはじめは一歩一歩踏みしめて歩み寄る。
「デザイン画……作り直してきました。見てください!」
そう言ってずいっと松織の眼前に茶封筒を突きつけた。
「「………………………………………」」
呆然としたまま受け取ろうとしない松織をはじめはぐっとお腹に力を込めてもう一度言う。
「見てください!!」
その声に我に返った松織は「あ、ああ、はい」と言って受け取った。だが受け取ってからも見てしまうのはデザイン画ではなくはじめの顔だった。はじめの顔色は興奮状態なのか真っ赤で目は爛々と光っていて鬼気迫る物があった。しかし目の下にはくっきりと隈が出来ている。恐らくはかなり入れ込んで出来た作品なのだろう。
松織は僅かに口角を上げながら茶封筒からデザイン画を見た。
「…………」
それらは思った通りの拙いデザイン画だった。そのままではおよそ商品化には至らない作品だった。
(でも……)
と思って松織はデザイン画の陰に隠れて口角を更に上げた。
(でもイメージは湧いてくるな)
チラリとはじめを見ると鼻息も荒く自分を睨み付けている。そして松織はバサッとデザイン画をはじめに突き返すとすぅっと息を吸った。はじめの顔が緊張に強ばる────。
「1ギャフン」
「………………………………………はぁ?」
「だ〜か〜ら〜1ギャフンだってば」
訳が分からずはじめはまじまじと松織の顔を覗き込んだ。松織はフフンと笑う。
「岡野サン、僕にギャフンと言わせるつもりだったんでしょ? だから1ギャフンだよ」
「!」
あの叫びを聞かれていたのかとはじめは顔を赤らめた。でも、信じられないと言う表情ではじめは松織を見上げる。
「あ、あの。このデザインでOK……なんですか?」
「本当は0.0001ギャフン位なんだけどね〜。大まけにまけて小数点繰り上げにしてあげるよ〜。ほら、僕って優しいから〜」
「!」
どこがよ! と心の中で毒づいたがありのままに顔に出ていたのは残念ながらはじめは気付いていなかった。松織とアシスタントが顔を見合ってくすくすと笑いあっていた。
「さてと、用件はそれで終わりでしょ? 見ての通り僕たち忙しいんだからさっさと帰ってね」
どこまでも憎まれ口を聞く松織の横で遠江が松織を指さし、渋面で胃を押さえるジェスチャーとホッと胸を撫で下ろすジェスチャーを繰り返している。それだけでは判らないはじめはポカンとしている。
「遠江ちゃ〜ん。さっさと手ぇ動かしてくれる〜〜〜〜?」
松織は睨みを利かせながら作業に移っていった。肩を竦めて遠江も作業に入る。しばらく呆然としていたはじめだが二人の神業を間近で見て自分の腕が疼きだすのを感じた。一歩一歩下がり入口まで下がると。
「ありがとうございました!」
と最敬礼して部屋を出て行った。
「「………………………………………」」
しばらくの間無言だった二人だがくすくす笑い出す遠江を松織は忌々しげに足蹴にしたのだった。
それからと言うものはじめは一心不乱に服を作り始めた。
気になるのは一つだけ……亮の事である。現金かもしれないが松織にGOサインを貰ったからには後はデザインに忠実に作り上げるだけである。となるとはじめは亮の事が気に掛かりだしたのだ。
弟たちの話によると、あの電話の前まではかなり危険な状況だったらしい。しかし今は何故だか小康状態だという。だが五つ子達はいつ何時危険な状態に陥るか判らないんだから一日も早く亮の元に戻って欲しいと懇願した。
かくしてはじめは自分だって亮に会いたくて堪らないくせに「しょうがないわねぇ」と勿体付けて作業に取り組んでいるわけだ。
そしてはじめが目標に掲げた期限は1週間後のコンサートだった。
……はっきり言って自信はない。でもやる。やると言ったらやる! そう誓ってはじめは不眠不休でミシンに向かっていた。
◇ ◇ ◇ そしてコンサート当日────。
「はじめちゃん、はじめちゃん! ここで待っててね!」
「寝ちゃだめだよ! 我慢してね!」
「でも、嬉しいね! ちゃんとコンサートに間に合っただもの!」
「その分オレ達の食生活は壊滅的だったけどな……」
「でもさ! はじめちゃんその顔江藤さんに見せたら100年の恋も冷めるんじゃないの!?」
「「「「馬鹿なお!!!!」」」」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜うっさいのよ! 立ってるので精一杯なんだからさっさとしなさいよ!」
本当に立っているので精一杯なのか? 見事なパンチ&キックを見せてはじめは五つ子たちを楽屋に送り込んだ。漸く静かになった廊下ではじめは壁に持たれながら疲れ切ったような重いため息を吐いた。
脳裏にはなおとの言葉がリフレインしている。
(やっぱり止めた方がよかったかなぁ……)
確かに今のはじめの顔色は酷い。最悪と言っても過言でないほどだ。はじめはもう一度深いため息を吐いて大きなサングラスを掛けた。
ややすると中から五つ子に担ぎ出された瑞希が姿を現した。
「おい! お前ら! ……ってはじ……」
「「「「「しぃ〜〜〜!」」」」」
はじめを見つけて大声を上げようとした瑞希の口を五つ子達は寄って集って塞ぐと瑞希は心得たように手を挙げて五つ子達を下がらせた。そして中に聞こえないように小声で話し掛ける。
「はじめちゃん、来れたんだ」
「は、はい。……ご迷惑をお掛けしました」
言ってはじめは深々と頭を下げた。
「頭なんか下げないでよ。大体オレこそ何の役にも立てなくて本当にごめん」
瑞希も深く頭を下げた。
「や、止めてください! 瑞希さん!」
慌てるはじめを見て瑞希はクスリと笑って頭を上げた。そして万人を魅了する笑顔で、
「はじめちゃん、本当にお疲れ様。それから亮の為にありがとう」
と心からの感謝を捧げた。
「瑞希さん……!」
「「「「「江藤さんが立ち上がったよ!!」」」」」
二人の世界に入りかけたはじめ達を現実に引き戻したのは五つ子の切羽詰まった声だった。
「やべ! じゃあ、はじめちゃん! また後で!」
「え!?」
言って瑞希は五つ子達を引き連れてどこかに行ってしまった。そして残されたはじめは心の準備をする暇もなく……。
ガン!
と唐突に開いた扉に顔面を強打したのだった……。
つづく