ものの15分で料理は全て平らげられ、亮は満足そうにお茶を飲み、はじめは呆然と空になったおひつを見ていた。いつもよりも大量に炊いたというのに空である。
「信じらんない……。7合も炊いたのに……」
「だって、朝メシ食べてなかったから腹減ってたんだよ」
「だからって……。ったく、そのドカ喰いで太らないなんて詐欺だわ」
「はじめちゃんはすぐ身になるからいいよね」
ピキッ……
「いー事ねーよ! このボケ!」
「なんで? いーじゃん、
エネルギー蓄えられて…」
どこまでも真顔な亮を無視してはじめは後片付けに入る。
「また怒ってる」
「怒らせてるのはどいつだよっっ!」
「……オレ?」
「お前しかいねーだろーが! 今、この場にはさ!」
「……ごめんね?」
言って亮はぎゅーっとはじめに抱きつく……と言うかしがみ付く。こうなるとこっちが根負けして折れるまでこのままだから始末に悪い……。
(絶対計算なんだから……!)
と思いつつも、そこまで頭が回る……というかそんな気の利いた芸当が出来無いことも分かっているのではじめは顔を引きつらせながらこう言うのだ。
「もう怒ってないからあっち行ってよ。邪魔なのよ、あんた」
「ウソだ、まだ絶対に怒ってる」
「……しつこいとまた怒るわよ?」
ドスを利かせてそう言うと亮はしぶしぶ「クスン」と鼻を啜って離れてゆく。
これもパターンの1つであった。
「ったく、今日の入りは何時なんですか? 着る物とか台本とかちゃんと用意ししてるんですか?」
少し離れたところ……台所の入り口で突っ立っていた亮は「う〜〜ん」と宙をみた。
「確か○○のラジオ局に直で6時だった筈。ラジオだしその後はM2で新曲の打ち合わせだけだし服はいつもどおりテキトーでいいや」
「そうですか……。出掛ける前に何か軽く食べますか?」
「作ってくれるのっ!?」
「え、ま、まあ必要とあらばですけど」
「いる! 絶対ほしい!」
ハイハイハイと勢い良く手を上げる亮にはじめは「はいはい」と溜息混じりに頷いた。
「あと、今日の上がりは何時ですか?」
「上がり? ん〜〜〜〜打ち合わせ次第だけど多分12時は回ると思うよ?」
「12時……」
「? うん」
がっくりと肩を落とし、再度溜息をつくはじめに亮は小首を傾げた。
「帰ってきたら何か食べるでしょ? 江藤さんのことだから」
「え? え?」
「M2出る時に電話ください。適当に作っておきますから」
「え? どういうこと? もしかしてはじめちゃん、オレが帰るまで待っててくれるのっ?」
「しょうがないでしょっ、さっきも言ったけどあたしまで居なくなったら誰が赤ちゃんの面倒見るのよ!」
「──連れてくつもりだったんだけど……オレ」
ブチッ
「今をときめくトップアイドルが赤ちゃん連れて、周りに何て説明するつもりなのよっっ! この言語能力欠損人間の分際で─────っ!」
「な、何ってありのまんま……」
「言ってどうするのよ! この子は捨て子で可哀想な子だからこれからオレが育てますとでも言う気!?」
「……」
「それで周りが『はいそうですか』と納得するとでも思ってんのっ!? ふざけんじゃないわよ。子育て舐めてんじゃないわよ。今現時点で自分の面倒さえ見れない人間が寝言抜かしてんじゃないわよ!」
そう言い切ってはじめは荒い息のままギラリと亮を睨み付けた。亮はまた自分が失敗したことに気付きシュンと俯いた。
「ごめん。オレ、考えなしだった」
「フンッ……分かりゃーいいのよ。分かりゃあ。とりあえず、この子の親が見つかるまでは私も協力しますから」
「え?」
「え? って何よ」
「親を探すの?」
さも意外そうに問う亮にはじめは(何言ってんだこの馬鹿は?)と心の底から思った。
「あ、当たり前でしょ?」
「なんで当たり前なのさ」
「もしかしたら後悔してるかもしれないじゃない」
「……後悔……?」
思いがけない言葉に亮は目を丸くした。はじめは腕を組んで「そうよ」と言う。
「……何で、そう思うの」
「── あの子きっと大切に育てられてたと思う。着てるものは清潔だったし、丸々と太ってたし……。子供が邪魔で捨てたんだとしたらあんな風に良い状態じゃないと思う」
「……」
「思い余って手放したんだとした今頃きっと後悔してると思う。だって雪の降ってる公園のベンチに捨てられてたんでしょ? 愛情持って育てた子を捨てるにし ろ、そんな下手すりゃ一時間と経たないうちに死んじゃう場所に捨てるなんてありえないと思わない? しかも人通りの少ない時間帯に。変じゃない!」
「……」
「そーゆー訳よ。判った?」
亮は暫く押し黙っていた。はじめの言葉に納得出来るもののやはり釈然としないものがあるらしい。だがそんな亮の機微などはじめの知った事ではない。ぐいっと顔を近づけ睨みを利かる。
「わかったのっ!?」
「……はい」
「よろしい」
満足げに頷き、亮の頭をよしよしと撫でて、はじめは洗い物を始める。撫でられた亮は殊の外嬉しかったらしく途端にくすくすと笑い出す。
「……なんなのよ、いきなり。気持ち悪い」
本当に気持ちが悪かったのかはじめは洗い物の手を止めて亮を見た。
「え、だって、今日帰ってきたらはじめちゃんが居るんだって思ったら嬉しくて」
「……は? な、な……」
はじめは慌てて視線を洗い物に戻した。勿論耳まで真っ赤になっている。
「ず、随分安い幸せね。あ、あたしごときで嬉しくなるなんて!」
「そうかな? 誰がいてくれてもそれなりに嬉しいけど、はじめちゃんなら比べ物にならないくらい嬉しいよ? オレ」
「え?」
「はじめちゃんや瑞希には当たり前すぎて判らないかもしれないけど、凄く嬉しいものだよ? 『おかえりなさい』って言ってもらうのって」
「……うん」
「しかもそれが自分の大切な人だったら嬉しくて顔もにやけるって」
本当に嬉しそうに言う亮にはじめも漸く暖かい笑みを向けた。
「ほら、はじめちゃんだって瑞希が出迎えてくれたら嬉しいでしょ?」
「──へっ?」
「あれ? 嬉しくないの?」
「そ、そりゃ、それなりに嬉しいけど、何だって瑞希さんが出てくるのよ」
「だってはじめちゃんの一番は瑞希じゃん」
きょとんと、そして至極当たり前のように吐き出された残酷な言葉にはじめは目の前が真っ白になった気がした。
「な…によ、それ」
「何って…」
「あんたは!」
はじめは泡まみれの手で亮の胸倉を掴みあげた。
「あんたは! なんであたしが
ここに居るのかまるでわかってないのっ!?」
「はじ……っ」
言葉が詰まるほど強くはじめは亮の薄い胸に拳を叩きつける。
「あんたは! あたしが同情かなんかであんたと付き合ってるとでも思ってるのっ!?」
「は、じめちゃ……」
「そんなのっ、あんたが世界で一番好きだからに決まってんでしょーがっっ!」
「!」
「何だってっ……、何だってこんな事イチイチ言わなきゃ判んないのよ……!」
叩きつけていた拳は力を失ってだらりと下に下ろされ、俯いたはじめの目からは止め処なく涙が零れ落ちる。
「触らないでよ!」
恐る恐る頬に触れた手をはじめは勢い良く払いのけた。でも亮は諦めず何度も触れようとする。
「触るなって言ってるでしょっ!」
「ごめん、無理」
そう言い切るなり亮は強く、強くはじめを抱きしめた。勿論はじめは逃れようともがくが本気を出した亮の力に敵う筈もない。
「離してよ。あんたなんか、あんたなんか大ッ嫌いよ……!」
亮は答えず更に腕に力を込めた。
「……なんなのよ、一体……」
徐々に力を抜いて行くはじめの耳元で亮は「オレ…もう、死んでもいいよ」と呟いた。
「はぁ?」
「どうしよう……。嬉しすぎて死ぬかも知れない……。オレ」
「な…な…何を突然」
不意に戒めが解け、怪訝に思ったはじめが顔を上げるとうっとりするような綺麗な顔が間近にあった。
(……キレーな顔)
と思わず見とれている間に唇が重なった。
でもそれはとても微かで、ほんのりと暖かみを感じた時には離れていた。
「江…と……」
再び唇が重ねられた。
今度のはさっきとは違う……いや、今までとも違うものだった。強く強く押し当てられ、幾度も幾度も啄まれて……。
(な…な…な…)
あまりの事にはじめの頭が真っ白になる。堅く固まった身体に唇。だが亮はお構いなしに唇を寄せる。
堅く引き結んでいた唇が息苦しさに堪えきれず緩むと亮は待ちかねていたようにそろりと舌を挿れる。
「!!!」
「わわっ」
絡められた艶めかしい感触にはじめの意識が一気に覚醒し、渾身の力を込めて亮を突き飛ばした。この不意打ちに流石の亮もバランスを崩して尻餅を衝いた。
一方はじめはこれでもかと言うくらい顔を真っ赤にさせて口をパクパクさせている。
「ああああ、あんた…いいい一体何を……」
「何って…ディー…」
「言うなボケッ!」
「ぶぶ──っ! なんだよそれー。聞いたのはじめちゃんじゃないか」
吹き出してそう言う亮はいつも通りの亮で、つい今し方の名残などどこにも見当たらない。
「あ」
言って体重を感じさせない軽い動作で起き上がった。
「ななな、何よっ!」
はじめは飛び上がって後ずさったが、それは狭い台所のこと。すぐさま壁で行く手を遮られ、縋り付くような格好になっている。その間にも亮は間近に来ていた。
(いや〜! もうやめて〜っ! これ以上は身体が保たない〜〜〜〜〜)
と身を固くして目を閉じた時、柔らかな布地が鼻に押し当てられた。
(へ?)
驚いて目を開けば亮は「セーフ」と小さく笑った。
「へ?」
「鼻血だよ、はじめちゃん。服に落ちなくて良かったね」
「は……な……ぢ……?」
「うん、そう、鼻血。こう両方からタラ〜っと……」
ご丁寧に振りを見せる亮。
フシュ───ッ
「…………………………」
「はじめちゃんっ!?」
ガクンと崩れ落ちた身体を亮はなんとか抱き留めた。
「はじめちゃんっ! はじめちゃんっ!?」
す── す── す──
と、卒倒したにも拘わらず規則正しい寝息が聞こえ、亮はホッと息をついた。暫く鼻を押さえておき、鼻血が止まった事を確認してから亮ははじめをそぉっと抱き上げ、寝室へと運ぶ。
薄暗い寝室で赤ん坊はまだまだぐっすりと眠っていて、亮はその隣にそっとはじめを横たわらせた。
す── す── す──
眠気を誘う寝息に亮は眉根を寄せて複雑な表情をする。
(──今寝たら、絶対起きられないよな……。ちぇ)
小さく口を尖らせると亮ははじめの傍らに手を突いて顔を寄せる。
額に、瞼に、頬に、そばかすに次々とキスを落としていく。
(これで我慢するから怒らないでね)
最後に唇を重ねて、ちゃっかり舌まで挿れて堪能した後、赤ん坊にすりすりと頬摺りして、それから亮は部屋を出て行った。
──次にはじめが目覚めた時には既に亮は出掛けた後で、とっぷりと日も暮れた頃だった……。
つづく