6月某日────。はじめは呆然とヒースロー空港に立っていた。
右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても外国人しかいないこの場所にどうしてはじめがいるのかと言うと、それは一通のエアメールから始まった。
「エアメール? 誰よ一体」
はじめは訝しげにその封筒を眇めた。宛先を見ればHajimeOkanoとある。ますます分からない。自分には外国に知人などいやしないのに……。そう思いながら右下にある差出人と思しき文字を追えば……。
「えーと Mi……Misaki、Tachibana……みさき…たちばな。みさき……みさき……みさき………………………。実咲さん!?」
そのエアメールの差出人の名はMisakiTachibana──そうイギリスの歌姫こと立花実咲であった。
「実咲さんが一体なんなの!? って言うかもしかして英語で書かれてたらどうしよう!」
驚いて封を切ってみれば中身は日本語で認められていた。とりあえずホッとして文面を読んでみれば所謂結婚式の招待状だった。
途端はじめの脳裏に彼女のプロデューサー・スタン=ヒューズを思い出した。
「実咲さん……とうとう結婚するんだ……」
はじめはじんわりと暖かい気持ちで読み進めていく。
「えーと何々? 『つきましてははじめちゃんにも結婚式に参列してほしいの。 チケットは同封してるし、宿泊先もばっちり手配してるから身一つで安心してきてね!』 へー実咲さんてば太っ腹ねぇ。一体どこのホテルで結婚式するのかしら? 大体交通費、宿泊費合わせたらご祝儀よりも高く付くじゃない」
はじめは「さすがイギリスの歌姫!」とよいしょしながらチケットをみた。明らかに英語ばかりのチケット。目を凝らしてチケットを読み進めて行くはじめの思考が停止した。そして数分後────。
「ヒ、ヒースロー!?????? ってイギリスのヒースロー!???」
認識した後、はじめは「無理だ……」と思った。
(国内だって満足に出歩いた事も無いのにイギリスなんて冗談じゃないわよ!)
ちなみに岡野家の人間はパスポートだって持ってない。
(大体パスポートの取得にどれだけ掛かるって言うのよ!)
断ろう。とはじめは心に決めた。だけど……。
(こ、断るにもエアメールって幾ら掛かるの!?)
と呆然と落ち込んでいたのだ。
がっくりと膝をついていた時、ジリリリリーン! と電話が鳴り響いた。
「…………………」
はじめはチッと舌打ちして立ち上がった。
「ったく、この家はうかうか落ち込んでもいられないじゃない」
と、それでも声を落ち着けて出た電話の相手は前田であった。
「こんにちは。どうかなさったんですか?」
『いやいや、もしかしてはじめくんの所にも実咲くんからの招待状が届いていないかと思ってね』
「…………………」
明らかにタイミングを計ったかのような前田の電話にはじめは胡散臭さで眉間に皺が寄るのを感じた。
「前田さんも貰ったんですか?」
『まあね。残念なことにスケジュールに調整が取れなくて参列出来ないのだがね』
「はあ、それは残念ですね」
(また何を企んでるんだろう)
と及び腰で受話器を持っていると……。
『はじめ君、私の名代で行ってくれないかね?』
「お断りします」
『…………………必要経費をうちで持つと言ってもダメかね?』
「…………………必要経費?」
『そう、例えばパスポートの申請費とか』
「う」
『例えば空港までの交通費とか』
「う!」
『例えばイギリスでの遊興費』
「は?」
『あ、いや、私の名代なら経費として落とせるからね』
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
『はじめ君、行ってくれるかね?』
悪魔の囁きにはじめの答えは言わずもがなだった────。
そして話は冒頭に戻る。
そしてはじめの傍らには二人の人影があった。
「なあ、亮。実咲が迎えを手配してくれてるんだよな」
「うん、そんな風に手紙に書いてあったよ」
「…………………」
そう、二人とは和田瑞希と江藤亮であった。はじめは横に立つ二人をじっとりとした目で見ていた。前田のスケジュール調整が付かなかったのに日本で一番忙しい芸能人と言っても 過言でない二人のスケジュールが空くはずがない。
恐らくは亮辺りが前田に頼み事をしたのだろう。つくづく前田はWEに甘いのだから。
「はじめちゃん、お腹空いたの?」
「はぁ?」
不意に亮がはじめの顔を覗き込んだ。瑞希も同じくはじめを見た。見られたはじめは顔を赤らめて首を振った。
「別にお腹なんか空いてないわよ」
「そう? なんか機嫌悪そうだったからお腹空いてるのかと思った」
「〜〜〜〜〜〜」
「ま、まあまあ落ち着いてはじめちゃん。亮も迂闊なこと言うなよな」
瞬間的に怒鳴りつけようとしたはじめだが瑞希の取りなしに渋々ながら怒りを収めたのだった。そして改めて周囲を見遣る。
初めての海外旅行。耳に入ってくるのは紛れもない英語ばかり。中学高校と学んできた英語が役に立つはずもなくはじめは小さくため息をついた。また、はじめは今まで自分の背が低い等とは感じたことは無かったがこうして異国の地に立ってみれば自分が縮んだような錯覚を覚えていた。それは微かな不安であり、怯えでもあった。
「はじめちゃん、大丈夫?」
また亮がはじめの顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫よ」
「……うん、よかった」
言って亮はにっこりと笑ってはじめの手を取った。
「え、江藤さん!?」
「はぐれたら大変だから手繋いでおこうね」
「…………………わかった」
顔を真っ赤にしながら渋々と言う感じではじめは頷いたが隣の瑞希は「熱いねぇ」とニヤニヤ笑っている。そんな時────。
「亮! 瑞希! はじめちゃん!」
紛れもない日本語のイントネーションで名を呼ばれ3人は声のした方に顔を向けた。
「「実咲!」」
「実咲さん!」
「久しぶり〜〜〜!」
「うわ!」
っと声を上げて仰け反ったのは亮だった。実咲がジャンプして飛びついたからだ。驚くはじめと瑞希。しかし亮は実咲を抱えたまま「あぶないよ、実咲」と言うだけだった。
「ごめんごめん! つい懐かしくって」
あははと笑う実咲の後ろで誰かが不愉快そうにゴホンと咳払いをした。
「「「あ」」」
勿論、彼女の婚約者スタン=ヒューズその人である。
「Misaki....」
「Wow, Stan. Were you there?」
つれない実咲の言葉にスタンはガックリと肩を落として泣き崩れた。
「Don't cry! I dislike an annoying person」
実咲の言葉にぐっと涙を堪えたスタンはじっと実咲を見ている。
「ったく、昔の恋人ともゆっくりハグもさせてくれないんだから」
ため息混じりにそう言って実咲は漸く亮から離れた。
英語が分からずポカンとしているはじめと肩を竦めている瑞希。亮は穏やかな笑みを浮かべてスタンと実咲を見ていた。何だかんだ言っても仲良くやっているようなので安心しているみたいだ。
「まあ、とにかく! Welcome to England! And Thank you for coming to our wedding!」
実咲の言葉に瑞希と亮が「You're welcome」と言い、何とかヒアリング出来たはじめは「どういたしまして」と言った。
「実咲さん、おめでとうございます」
「ありがとう、はじめちゃん」
言って実咲ははじめをギュッと抱きしめた。
「み、実咲さん?」
「来てくれてありがとう。本当に嬉しいわ」
「実咲さん……」
「はじめちゃんてばやっぱり亮とくっついたの?」
「はあああ!?」
「どうなのよ亮」
実咲の問い掛けに亮は「てへ」と笑って見せた。それから「ごめんね」と静かな笑顔で謝った。
「ごちそうさま! ……ったく、しょうがないわよね。あたしだって結婚するんだし」
「実咲さん……」
実咲ははじめの肩に顎を預けたまま深々とため息をついた。しかし気を取り直したのか寄りかかっていた身を起こしはじめの顔を覗き込んだ。綺麗な瞳で見つめられてはじめがドギマギと顔を赤らめると実咲はクスリと笑った。そしてチュッとはじめに口付けた。
「「「!!!!!!」」」
「あ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
と叫び声を上げたのは亮だった。
「実咲! ずるい! オレだってそんなにキスしてないのに!」
「ぶっ! 何よそれ!」
「もう! 離れなよ!」
「あ〜ら、女の友情に水差す気? 心の狭い男は嫌われるのよ?」
「え!?」
予想以上に実咲の言葉に衝撃を受けたのか亮は恐る恐るはじめを見た。そんな亮をはじめて見た実咲は小さく笑うと「嘘よ」と呟いた。
「ま、いっか。亮を虐めるのはこれくらいにしとこうっと」
(((虐めてたんだ……)))
さばさばした様子の実咲にはじめも瑞希も亮ももう何と言っていいのか分からなくなっていた。
「では! 3人を我が家にお連れします! スタン!」
「OK .Hey you, Follow me.」
スタンは頷くとはじめ達を促して歩き出した。空港を出れば待ちかまえていた馬鹿でかい車に乗り込み、一行は実咲とスタンの家に到着した。
「うっわ〜〜〜〜おっきい家!」
ロンドン郊外の小高い丘に二人の家はあった。まだ真新しい家は明後日結婚する二人の新居であった。二人で住むには大きすぎる豪邸にはじめはポカンと大口を開けている。
何てステキな家! なんて思う筈もなく頭を埋め尽くしているのは光熱費や家屋の維持費、固定資産税など金額的なことばかりだった。そんなはじめの耳にどこからか犬の鳴き声が届いた。
「アキラ!」
「ん?」
実咲の呼びかけに亮が返事をした。
「あ、亮じゃないわよ。あたしが呼んだのはあっちのアキラよ」
言って指さす方を見れば大きなアフガンハウンドが一目散に走り寄ってきたのだ。
「あ……」
とはじめは実咲の昔話を思い出したのだ。そうこうしてる内に犬のアキラは実咲にじゃれついて撫でて貰っている。
「アキラ! Sit down. OK. Good boy! 紹介するわね。この子があたしの大切なアキラ」
「同じ名前付けたのかよ」
「いいでしょ?」
呆れ顔の瑞希に実咲は笑顔を返した。
「おめでとう、実咲」
「ありがと、瑞希」
言って二人は握手をした。
「あ、オレも言うの忘れてた。実咲、おめでとう」
「おい、オレは忘れてたんじゃなくてタイミングが掴めなかったんだよ!」
「そうなの?」
不愉快そうに腕を組む瑞希に亮はきょとんと目を丸くした。それを見て実咲がくすくすと笑う。
「相変わらず冷たい人ね。でもありがとう、亮」
なんだか3人の雰囲気が入り込む事が出来ずはじめとスタンは疎外感を感じて、顔を見合わせた。
「こ、Congratulations.」
「Thank you.」
「はじめちゃんもスタンも何してるのよ! 中に入るわよ」
見れば3人は玄関の前に移動して2人を待っていた。はじめとスタンは小さくため息を吐いてから家へと向かっていった。
「はじめちゃんと亮は同じ部屋で良いのよね?」
「はぁ!?」
「うん、いいよ」
「っってアンタ!」
「……ダメなの?」
「な……」
「はいはいはいはい」
しどろもどろになりかけたはじめを尻目に実咲はパンと手を打った。
「一応部屋は三つ用意してるから大丈夫よ。その後でどっちがどっちの部屋に行こうか自由だから好きにして」
「分かった」
「分かるな!」
「はいはいはいはい」
これ以上真っ赤になったら鼻血が出るに違いないと踏んだ瑞希が2人の間に割って入った。
「とりあえず、荷物置いてこようぜ。亮もいいな」
「うん、分かった」
亮が頷いたのを確認してから瑞希ははじめの方に顔を向けた。
「この家さスタジオが在るらしいからオレ達見学させて貰うんだけどはじめちゃんはどうする?」
「あ、あたしは……少し休ませて貰います。良いですか?」
「勿論。9時間も飛行機乗ってきて疲れてない訳ないんだからゆっくりしててよ」
「はい、ありがとうございます」
言ってはじめは逃げるように自分に宛がわれた部屋へと行ってしまったのだった。
「はぁ────」
深いため息をついてはじめはベッドに飛び込んだ。ふかふかのベッドはやんわりとはじめを受け止めたがはじめの重々しい気持ちまでは受け止めてはくれない。
(実咲さん、もしかしてまだ江藤さんの事を……)
空港で真っ先に亮に抱きついた実咲。
(本当に嬉しそうだった……)
恋人の目の前で抱きつかれても顔色一つ変えない亮。
(あ、いや、江藤さんは常識の範疇から外れてるからなぁ)
「はぁ────」
もう一度深くため息を吐いたとき、窓の外からアキラの吠える声が聞こえた。
「…………………」
はじめはムクリと起き上がると窓に近寄った。窓の外を見ればアキラがどこかの窓に向かって吼えている。
「…………………」
しばし逡巡した後、はじめは部屋を出て、それからアキラがいるであろう庭に出た。少し歩き回ればアキラは日当たりの良い石畳で伏せていた。
「こんにちは」
少し距離を保ったままはじめは怖ず怖ずと話し掛けた。するとアキラは顔を上げてはじめを見た。ゆるゆるを尾を振る様子にはじめは勇気を出して近づいた。アキラはずっとはじめの顔を見ている。すぐ傍まで近づいてしゃがみ込み、恐る恐る手を伸ばした。アキラが大人しくしていることに力を得て首筋を撫でてみた。
(柔らかい……)
その温かさと柔らかさにはじめは何度も何度も撫でていた。
どれ位の時間が経っただろうか? アキラは身体を起こしてはじめにすり寄った。思った以上に人懐こいようではじめは思い切ってその身体に腕を回してみる。
(実咲さんが言ってたみたいにふかふかだ)
実咲がいつも亮を思って抱きしめていたであろうアキラ。
実咲がいつも亮と思って話し掛けていたであろうアキラ。
「ねえ、アキラ」
アキラはじっとはじめに抱きしめられている。
「…………………アキラは私よりも実咲さんが好き?」
「好きじゃないよ」
「そう……。って! ええ!?」
突然返ってきた言葉にはじめは身を起こして背後をみた。
そこには亮が呆れた顔で立っていた。
「い、いつからそこに!?」
「今さっき」
「い…………………」
途端にはじめの顔が真っ赤になった。
「あ、あたしは! 犬のアキラに実咲さんの事が好きなのか聞いたの! 江藤さんじゃないわよ! だ、大体あたしが江藤さんを名前で呼ぶわけ無いでしょ!!!!」
「…………………なんで?」
「は?」
「なんで俺の名前呼ぶわけ無いの?」
亮は不思議そうに首を傾げた。
「う……」
「なんで?」
「ん、なんでもよ!」
「でも変じゃない?」
「何がよ!」
「だってはじめちゃん、瑞希のことは名前で呼ぶじゃん」
「う!」
痛いところをつかれてはじめは思わずアキラを抱く腕に力を込めてしまった。途端にアキラは嫌がってはじめの腕からすり抜けて亮の方へといってしまった。
「あ……」
何だか味方を失ってしまったような感じがしてはじめは非常に心細くなってしまった。亮はアキラをよしよしと撫でながらはじめを見つめた。
「はじめちゃん」
「……何よ」
「オレのこと名前で呼んでみる気無い?」
「無い」
「何で?」
「何でも!」
「…………………」
言い切られて亮はしょんぼりとアキラを抱きしめた。
「アキラ……やっぱりはじめちゃんはオレより瑞希の事が好きなのかな?」
「な!?」
「だって……」
「そんなわけ無いでしょ!」
「そうなの?」
「当たり前じゃない!」
「だったら……。呼んでよ。オレの名前」
「!!!」
亮の表情はとっても静かでただ純粋に名前を呼んで欲しいらしい。少しでもはじめをからかってみようなどと言う雰囲気があるならはじめも強く突っぱねる事も出来るのだろうがとても真面目に見つめられてかわすことなど出来そうもなかった。
じっと見つめ合ったまま長い時間が過ぎた。その間もはじめは唇をパクパクと動かして何かを言おうとしている。亮はただじっと待っている。
それからはじめは俯いた。
「……」
その様子に亮が諦め掛けたとき……。
「亮さん……」
と小さな囁きが亮の耳に届いた。
驚いて目を見開く亮と俯いたまま耳まで真っ赤になっているはじめ。
「はじめちゃん……」
亮が手を伸ばそうとした時────。
「やっぱり無理────!!!!」
言ってはじめは家の中に駆け込んでしまった。
「…………………」
取り残された亮はしばし呆然としていたがベロンと顔を舐められてアキラと向き合った。
くすくす笑うとアキラを抱きしめふかふかの首筋に顔を埋めた。
「……はじめちゃんも『江藤さん』になったらオレのこと『亮さん』って呼んでくれるのかな?」
亮の問い掛けにアキラはワン! と大きく吼えたのだった。
おわり