そして翌日。いい加減夜も深けた頃──。
(……なんで違うんだよ)
出来上がったみそ焼きおにぎりを一口食べて、一志は愕然としていた。
裕は早速はじめから聞き出したみたいで、その日の夕方にはメールで銘柄が知らされていた。一志は仕事が引けた後、深夜営業のスーパーに立ち寄って目的の品をゲットし、仕事の疲れもどこへやら、みそ焼きおにぎりを作った訳だが……。
(間違ってねーよな?)
一志はメールの文面と、テーブルの上に置かれた銘柄とを検分する。勿論、まったく一緒である。
裕はご丁寧に作り方まで聞いてくれたらしく、詳細も記されていた。
──と言っても所詮はおにぎり。対した工夫がある訳でもない。
1.手に水をまぶす。
2.適量のご飯を手にとる。
3.形を整える。
4.味噌を塗る。あまり厚く塗らないのがコツ。
5.レンジに網を置き、中火。
6.おにぎりを置く。適度に焼き目をつける。
詳細と言うにはおこがましいレシピである。
(あーもー! 何なんだよ!)
見返しても間違えようの無い手順に一志が臨界に達した。
(面倒くせえ! もう止めだ!)
そのまま不貞寝しようとも思ったが、翌朝母親に小言を言われるのは鬱陶しいのでとりあえず後片付けだけして布団に入る。
だが布団に入っても思い浮かぶのはみそ焼きおにぎりの事ばかり……。いささか健全な男子の思い悩むネタではなさそうだが何故か頭から離れなかった。
(……何が違うんだよ)
不意にはじめの顔が脳裏に浮かぶ。
(あの馬鹿正直な鼻血女に出来て、何だってオレに出来ねーんだよ)
毒づいた所で解決策は得られず、一志は悶々と目を閉じる。
(……明日は午後からM2でレッスンだよな。……寝よ)
やはり疲れているのか、目を閉じれば自然と意識が薄まってくる。その流れに逆らわず、一志は眠りに落ちて行った。◇ ◇ ◇明けて翌日。午前中の仕事を終えて一志はM2で早速レッスンに取り掛かるべく更衣室で着替えていた。
そして着替えてスタジオに向かう途中、前方から何やらふらふらとふら付きながら歩く存在に気がついた。
もう3年近く芸能界の空気を吸いながらも一向に垢抜けないファッション。加えて世界に二つとない、注連縄のような太い真っ黒な三つ編み──。
(あいつ、何ふら付いてやがんだよ)
「おい! 岡野!」
訝しく思って一志は声を掛けた。
「……?」
ゆらぁりと振り替えるはじめ。その顔色の悪さと焦点の合って無さに一志は驚いて駆け寄った。
「お前、体調悪いのかっ!? 顔色最悪だぞ!?」
「え?」
「え? じゃねーよ!」
一志の言葉を反芻したのかはじめは漸く得心が行ったように弱々しく笑った。
「違うの? ただの貧血だから……気にしないで」
「ただのって……お前」
「大丈夫だって、調子乗って400mlも抜いちゃったから……」
「は?」
「喉が渇いたんだけど、ジュース買うのも勿体無くて……」
「お、岡野? お前?」
「ああ、やっぱり……200にしときゃ良かったかも……」
言ってはじめはふぅっと力なく仰け反った。
「おい!」
一志は慌てて抱きとめた。
「!」
見た目よりもずっと軽くてびっくりして、思わず取り落としそうになった。驚きつつもしっかりと抱えなおして、ピタピタと頬を叩く。
「岡野! おい! 聞こえるか!?」
耳元で大声を張り上げてもはじめはピクリとも動かない。
「どうかしたの?」
通りがかった社員が声を掛けた。
「あ、いきなりふらぁって倒れて……」
「ありゃ、そりゃ大変だ。とりあえず医務室連れてってあげなよ。頭は打った?」
問い掛けに首を振れば「んじゃ一先ず安心だ」と安堵した
「多分貧血でしょ? 一休みすりゃ大丈夫だよ。……忙しいなら僕が連れてくけど……って」
男が言い終わるよりも早く、一志ははじめを抱き上げて医務室に走って行った。
「……元気だねぇ」
と呟いた。
(とりあえず社長に連絡しておくか)
男も肩を竦めた後、その場から立ち去ったのだった。 ◇ ◇ ◇ 医務室といっても医者が待機しているわけでもなく、ただ簡易ベッドと救急箱がある程度のものである。
一志はベッドにはじめを下ろす。薄い掛け布団を掛けて、脇に置いてあった椅子に腰を下ろす。
「はぁ───────っ」
そうして漸く安堵の息をついた。はじめの顔色は相変わらず悪いが容態は落ち着いているように見える。別にこのまま放って置いても問題はないのだろうが、なんとなく無責任な感じがして一志はそのまま寝顔を見るとも無しに見ていた。
そしてしばらく経った頃。「ん……」と小さな呻き声を上げてからはじめは目を開けた。その様子に一志はほっとため息をついた。
「あれ?」
天井を見上げてはじめは瞬きしている。どうもまだぼうっとしているようで、一志はずいっとその顔を覗き込んだ。
「あれ? じゃねーよ。この馬鹿女」
「ぎゃ!」
一瞬にしてはじめは腕を振り上げ、その顔をぶっ叩こうとしがた、その手は敢え無く捕まえられた。
「……あのなぁ、テメェ、恩を仇で反す気かよ!」
「! ……か、一志くん? え? ええ? 何? 何事っ!?」
「テメェが勝手にぶっ倒れたんだろうが!」
怒鳴りつけられてはじめは身を縮こませながら必死に記憶をたどる。
「ええっ? ……って、そう言えばあたし、喉渇いたから献血して……」
「ちょっと待てよ」
「え?」
「お前、今、日本語おかしくなかったか?」
「え?」
はじめはわからず首を傾げた。
「何だって喉渇いたから献血なんだよ!? 喉渇いたら自販機なりコンビニで何か買えばいいだろうが!」
「な、何言ってるのよ! それこそおかしいわよ! 自販機で買えば一本120円、コンビニで買っても安い飲み物で税込み97円! それに引き換え献血すれ ば元手タダで果汁100%、買えば150円はくだらないジュースが手に入るのよ!? そんなの人として献血を選ぶのは当然じゃない!」
「…………………………」
あまりの剣幕と脱力確定の内容に一志は言葉も忘れてはじめを見つめた。
「ひ、人としてって……お前……。それで貧血でぶっ倒れてどうすんだよ……」
「うっ。え、あ、そ、それは……」
「ぶっ倒れて、頭打って、打ち所悪かったりしたらどうすんだよ」
「………」
「……なぁ」
「ご、ごめんなさい」
漸く心配を掛けたのだと思い至ったはじめは大人しく頭を下げた。その様子に一志は深々とため息をついた。
「お前んちってさ、そんなに貧乏なのか?」
「えっ?」
唐突な質問にはじめは目を丸くした。
「あいつらの稼ぎじゃおっつかない位貧乏なのか?」
「……実を言うとそうでもないんだけどね。でもあの子達のお給料はほとんど貯金してるから」
「なんで?」
「なんでって、来年はあの子達受験なのよ? 男として大学くらいは出てないとこの仕事ポシャッた時に潰しが利かないじゃない」
「……」
「かと言って今の状況じゃあの子達に国公立の大学なんて無理っぽいし、となればそこそこの名前があって尚且つお金で入れる私立に限られてくるじゃない。だとしたら5人よっ? 5人! そんなの幾ら切り詰めて貯金しても追いつかないわよ!」
「…………」
「……一志君?」
黙って、それでいて憮然としている一志の表情にはじめは首を傾げた。
「悪かったな、男として大学も通ってなくて」
「……あっ!」
「しかもオレはお前の弟達と違って売れてもねーし?」
「ご、ごめんなさい! あ、あの……」
「いーよ。お前の言うことも最もだからだ」
「一志君……」
「でも、オレはヤなんだよ。お前には言い訳に聞こえるかもしれないけど、逃げ道作るみたいでヤなんだよ。……潰れた時の事なんか考えたくもねぇ」
言って一志ははっとして無理やりいつもの笑みを浮かべる。
「ま、お前には関係ない話だよな」
「一志君……」
「謝んなよ! 謝られる方が惨めなんだからな」
「……」
はじめは俯き、布団を握り締めた。何も言えず、何も出来ずただ俯くことしか出来ないまま、二人の間に沈黙が流れる。
「……なぁ」
「え、え?」
「お前さ、差し入れのバイトしない?」
「さ、差し入れ?」
いきなりの話にはじめはきょとんとした。
「ああ」
「え、あの、どこに? あ、あたしあんまり遠いところには行けないんだけど」
「場所はここ」
言って一志はその場を指差す。
「……ここって、M2?」
「そ」
「差し入れって誰に?」
「オレ」
そして自分を指差す。
「か、ずし君に?」
「みそ焼きおにぎり」
「え?」
一志の話は飛び飛びではじめは少しばかり混乱していた。
「前に一回、みそ焼きおにぎり作ってきただろ、お前」
「う、うん」
「あれから何回か家で作ったんだけど、なんか味が違うんだよな」
「……あっ、もしかして昨日裕君が聞いてきたのって」
「そう、裕はオレの代弁」
はじめは目を丸くして一志を見た。見られた一志は「で?」と尋ねる。
「え、そ、そんなの全然構わないけど」
「OK バイト代は幾らにする?」
「あ、あたしが決めるのぉ!?」
「だってオレ相場知らねーもん」
最もな言葉にはじめはうーんと唸る。だが一向に埒のあかない様子に一志が「実費とお前の手間賃でどーなんだよ」と言うとはじめはようやく明るい顔をした。
「おにぎり一個の単価が大体86円だから……」
「じゃあ、単価100円で計算しよーぜ。その方が簡単だし」
「えっ? わ、割高じゃない! 一志君損する事になるのよ!?」
自分であれ他人であれ損得に関しては何故か必至になってしまうはじめに一志は笑いを堪えながら話を続ける。
「コンビニで買うより断然安いだろ?」
「え? あ、それもそうか。あ! でも! 私の手間賃入れたら……」
「買いに行く手間だと思えば楽なもんだ」
事ある毎に簡潔に言い換えされてはじめは戸惑った。しかし──。
(……ん? 何を戸惑う必要があるのよ。落ち着いて考えたらメチャクチャ割の良いバイトじゃない!! どうせM2までの交通費は会社持ちなんだし)
「一志君!」
「な、なんだよ!?」
「手間賃なんだけどこれぐらいでどう?」
と言ってはじめは人差し指を立てた。
「い、一万かよ!?」
「ち、違うわよ! だ、誰がそんな暴利を貪ろうとしてるのよ! 千円に決まってるでしょ! 千円に!!」
「せ、千円?」
素っ頓狂な一志の声と表情にはじめはボリ過ぎたかと不安を隠せないでいた。
「え、や、やっぱり高い?」
「ば、バカ、逆だ」
「え──っ? そうなの!? じゃあ一体幾らくらい見てたのよ!」
「……千円で良いんだろ? 別に幾らでもいーじゃん」
「貰えるもんは幾らでも貰うわよ!」
拳を握りしめて力説するはじめに一志は腹を抱えて笑う。
「おっもしれー奴だな。二千円だよ。オレが見積もってたの」
「え!」
「千円でいいんだろ?」
「……っ」
繰り返す一志に唇を噛むはじめ。
「但し、オレが今から言う条件飲むなら二千円になるぜ?」
「じょ、条件?」
にやにや笑う一志にはじめは少々危機感を覚えて身を引いた。
「な、何させようって言うのよ」
「簡単な事。手間賃は貯金せずお前の小遣いにする事──以上。この条件が飲めるなら二千円だ」
「……一志君!」
そこで漸く一志の心遣いに気づいたはじめは思わず抱きついてしまった。
「うわあ! て、テメェ! 女が気軽に抱きつくな!」
「ご、ごめんなさい! だ、だって一志君があんまり優しいから……」
「や、優しかねーよ! な、何言ってやがるんだよ!」
「照れなくても良いじゃない」
「誰がお前相手に照れるかよ!」
一志がそう怒鳴りつけた時、ココンとノックが響いた。返事を返す間もなく扉は開かれ──。
「江藤さん!?」
「江藤先輩!?」
見事にはじめと一志の声が被った。
「……………………」
亮はそんな二人を一瞥しただけだ。
「意外に元気そうだね? はじめちゃん」
亮の後から瑞希が顔を出す。
「瑞希さん!」
「和田先輩! お疲れ様です!」
大先輩たちの姿を認めて一志は勢いよく立ち上がって頭を下げる。一方二人は頷いて答えてベッドに近寄った。
「前田さんからはじめちゃんが倒れたって聞いて駆けつけたんだけど……元気そうで良かった」
ほっとして瑞希がそう言うとはじめは顔を赤らめて「ご心配お掛けしてすみません」と殊勝げに謝った。
「一志──」
亮が一志を呼びかけた。頬を赤らめ恥じらっているはじめを呆れて見つめていた一志は慌てて亮に向き直った。
「はい。何ですか?」
「トニーが探してたぜ。お前レッスンなんだろ」
「げぇ! ま、マズイ! すみませんっ、オレ失礼します!」
「あ! 一志君! いつから始めればいいの!?」
「また連絡する!」
そう言い残して一志は医務室を後にした。
そして言い様のない沈黙が医務室を満たす。
「……あの?」
耐えきれずにはじめは二人を見上げた。
亮がちろりとはじめを見る。瑞希は溜息混じりにはじめを見る。
「あ、あの?」
「……身体の調子はどう?」
亮はイスに腰掛けてはじめの顔に触れた。瞬時に赤くなるはじめの頬。
「はじめちゃんが倒れたって聞いて心臓止まるかと思った」
「江藤さん……」
二人の様子に肩を竦めて瑞希も医務室を後にする。
「お願いだから、心配させないで……」
言って亮はそぉっと、まるで壊れ物でも扱うかのようにはじめを抱きしめた。
「ごめんなさい」
亮の素直な言葉にはじめを素直に謝った。
「お願いだから、不安にさせないで……」
「ごめんなさい」
そしてはじめもその背に手をまわし、抱きしめる。震えている亮の怯えを癒すように背中をなでる。
真実亮が何に対して怯えているのか。
知る由もなく、はじめはその背を撫で続けた──。
つづく