『正邪』の剣
序章 創始
  とある屋敷の一室で一人の老人が長い長い生を終えて来世に旅立とうとしていた。その枕元には老翁と若者が詰めている。
『別れの時が……近付いたようじゃ……』
  寝台に身を埋めた老人が嗄れた声で静かに呟いた。生来の線の細さ故か、老いさらばえたその姿故か、性別不明の様相だった。その老人に老翁は小さな笑みを返した。
『何、しばしの間じゃ。のう?』
  そして寝台を挟んで向かい側に佇む青年に同意を求めた。若者はと言うと真面目な顔で頷く。老人も老翁の言葉を理解し頷いた。
『そうじゃな。確かに儂らは来世で再び相目見えるのじゃな。……テセルや、すまぬが白湯を一杯くれぬか? それと子奴にも何か……』
『わ…かりました』
  末期の水を求める老人に、若者はこぼれる涙を見せないように小走りで部屋を出て行った。
  そんな彼を二人は微笑んで見送り、どちらからともなく手を握り合った。
『儂は来世でもお主に迷惑をかける事になるのじゃな』
  余りの申し訳なさに老人の目から涙が一筋流れた。
『運命じゃ。今の儂らに、ただ人である儂らに運命を変える事は出来ん。総ては儂らが人である事を選んだ時に決まったのじゃ。お主が気に病む事ではあるまいて』
  深く皺の刻まれた手で涙を拭ってやりながら老翁は快活に答えた。応えて老人は小さく微笑み、そして大きく咳込んだ。
『! ……ああ、もはや…』
『先に逝って待っておれ。儂も直にゆく』
  最後の接吻を交わして老人は目を閉じた。
  そして半年後。若者に見取られて老翁もこの世を去り、若者は眠りに就いた。



  人一人と人外の存在百数人の命以外を感じさせない村……いや、村であった場所で一人は髪も瞳も爪も闇に彩られた異様に美しい百数人の存在に囲まれ、見下ろされていた。
  一人は銀の髪、銀の瞳、銀の爪という稀有な……と言うよりも、一万五千年の太古から確認すらされていない存在であった。その存在故に彼女の生またれ村は魔物の襲来を受けたのだ。瓦礫からは煙が未だ燻っており、その上に彼女は無造作に放り出されている。普通なら居心地の悪さに泣きわめく筈だが、彼女はスヤスヤ眠っている。眠りの魔法でもかけれたのだろうか?
  そんな彼女を尻目に、波一つない髪を膝まで伸ばしている一人の魔物が他を粛静する。強大であればある程美しさを増すという魔物の性質からすると、彼こそがこの中で一位に立っているようだ。
  彼は氷のような無表情で宣する。
『これを封印し、異世界へ転送する』
  同時にどよめきが起こった。彼の意見に賛成の意を示したのはたったの五人だけ。
『封印した上で殺せば良いではないか。 封印したものなど恐れるに足りんわ。皆もそうであろう』
  一人の意見を皮切りに他の存在が反意の声を上げる。
『いくらこれの力が我らを凌駕すると言っても所栓は赤子。使う術も知らぬ力など……先の言うとおり恐れるに足りぬ』
『そうよ、あたし達が総攻撃を掛ければ、例えイディアといっても一溜もないわよ』
『不安の芽は早い内に摘んでしまった方が良いのではないか。それこそが我らが王の御為になる事だ』
  一位の魔物は反論された事にさして気を害したふうもなく、それらの声を黙って聴いていた。
『ならば貴公等だけでやるが良い。我等は加わらぬよ。貴公等はイディアの真の力を知らぬ故言えるのだ』
  侮辱を孕んだ言葉に殺気立つ皆を鎮めて彼は話を続ける。
『落ち着け。これは我等が王と対をなす者。自らに危険が及べば必ずや封印を破り貴公等を消滅させるだろう。我等とて貴公等と同じ、出来る事ならばこれを消してしまいたい。だが我等の封印が通用するのかも分からぬのに、そのような危険を冒すつもりはない。ならばやはり、異世界に転送するのが一番の得策』
  他の者は水を打ったように鎮まり、彼の意見の賛同した。するしかなかった。
  彼は静かに、そして高らかに宣言する。
『始めようではないか。我等が王の為、そして我等魔物の為に…』
  皆術に集中し始める。皆が同じ唱和を繰り返す。謳うように高く低く。
  しばらくすると一人、二人と倒れ消えてゆく。だが効果は現れない。
  十人、二十人と倒れ消えてゆく。銀の髪が茶色に染まり始める。
  六十人、七十人と倒れ消えてゆく。銀の爪が肌色に変わってゆく。
  そして、百人目が倒れ消えてゆく時、瞼の下の銀の瞳は薄茶色に変わっていった。 
  百人目にして完全に封印を掛ける事が出来たのだ。
  残ったのは彼の意に賛同した五人だけ、つまり消えていった百人よりも上位に位置する魔物達しか残らなかった。
『なんてことなのっ!! たった一人を封印するのにあたし達が……三黒が百人も消滅してしまうなんて…!』
  緩やかな波毛の美少女が苦しげにこめかみを押さえながら呻いた。
『これじゃあ、消滅なんて夢のまた夢じゃねーか。俺ぁもうほとんど力は残ってねーぞ。出来て転送するのに力を貸すくらいだぜ』
  魔物には珍しく髪を短く刈った美青年が壁にもたれながら、スヤスヤ眠る赤子を睨み付けた。
『私もだ。しばらくの休養だけでは取り返せん。……よほど精のある物を喰わねばならんな。しかし、残ったのはラーズラーシャ様がお創りになった者だけか』
  腰までの髪を背の半ばで一つにまとめた美しい青年が、立っているのも辛そうに目を閉じながら言った。
『疲れたわ〜。もう、お肌に悪い事ってしたくないにっ。仕方ないとは言え、本当にもうっ。さっさと転送しちゃいましょうよっ』
  波打つ豊かな髪を振り乱して美女が怒鳴っている。見たところ先の三人よりも力があるのか、さほど苦しげな所は見られない。
『まったくだね、忌ま忌ましいったらありゃしない。マリージュ、デーリアの言う通りだよ。チャーイ、ゲシス、ライルーン少し君達の力を貰うよ』
  青年と呼ぶには少し年足らぬ美少年が少しふらつきながらも三人に近寄り、返事も聞かずに三人の力を奪い取ってしまった。
『おいっ! 気ぃ付けろよなぁっ!! もう少しで消滅するとこだったじゃねーかっ!!』
  ゲシスと呼ばれた青年が噛み付かんばかりに文句を並び立てる。少年の方はと言うと光の球を片手に完全無視を決め込み、一位の魔物…彼がマリージュと呼んだ青年に向かって、
『早く始めようよ。ほら、デーリアもこっちに』
言って、勝手に術に入る。ゲシスは舌打ちしながらも邪魔する事はなかった。他の二人も憎々しげな視線を少年に投じるに止どまった。
  デーリアと呼ばれた美女はというと、
『せっかちな子ねぇ』
呆れながらも術に入る。
  マリージュは他の存在と違い、全くと言っていい程疲れを見せていなかったが、やはり少年―ガシェルの性急さには苦笑を禁じ得なかった。 
『そうだな。グズグズしていると、魔法使いどもが緩んだ結界を破って現れるやもしれぬ。では始めよう。これで我等の第一の目標は遂げられるのだ』
  そして彼も術に入る。
  眠れる赤子の下に半径五メートル程の《魔法陣》が現れる。術は高まり、赤子は光りに包まれる。

   一瞬の閃光

  そこにはもう赤子の姿はなかった。

   更に、一瞬の閃光

  総ての存在が消えた。
  そしてこれより総てが始まる…。
つづく