『正邪』の剣
第一章 召還
夢の中で要は神だった。
  真っ白な世界。周りにいるのは銀を帯びた不確かなふやけた存在。
『神よ。英雄神よ。今一度我等が世界にお戻り下さい。再び勢いを増した魔物共が貴方様の愛されたこの世界を蝕もうとしています』
  不確かな存在が語る。聞いた事もない言語なのに理解出来る。が、発する事は出来ない。
「わからない、どうすりゃ、どうすりゃいいんだよっ」
  神である事は分かっているのに方法が分からない。その歯痒さ故か、およそ神らしくない物言いで要は聞き返した。
  だが不確かな存在は先に言った事を何度も何度も繰り返すのみ。そして声は回を重ねる度に大きくなってゆく。
  要は耐え切れなくなって耳を押さえてしゃがみこみ、負けずに大声で怒鳴る。
「黙れぇっ!」 

  ペチンッ

(………痛い)
  額の痛みに目を開けると祖母・菅子の顔があった。
「要、早く起きなさい。クラブがあるのでしょう?」
  額をはたく以外はいつものように起こしてくれた。時計の中のスヌーピーの指は7時30分を指していた。
「う───── 、変な夢見ちゃったよ」
と、要は目をこすりながら「よいしょっ」と勢いを付けて起き上がった。
「ばーちゃん、おはよう」
「はい、おはよう。かなりうなされていましたよ、要。大丈夫?」
  心配気に尋ねながら菅子はカーテンと窓を開ける。春の柔らかな朝日と、心地よい新鮮な空気が八畳間の洋室を満たした。今日も一日五月晴れだろう。
「え? あ、あぁ、なんか変な夢だったけど大丈夫だよ。うん、大丈夫」
  まだ動悸は収まっていなかったが要は半分自分自身を安心させる為に繰り返し答えた。深呼吸して伸びをすると首や背骨がポキポキ鳴った。変な夢を見たせいかかなり身体が緊張していたようだ。
  ベッドから出ると要は手早く制服に着替え、バッグにジャージを放り込んだ。今日からはゴールデン・ウィークで部活しかないのだ。
「そう。じゃあ、早く顔を洗ってご飯を食べなさい」
「はぁ〜い」
  要スカートの裾を翻してドタバタと階段を降りていった。そんな要を見て菅子は、
(はあ、もう少し女の子らしくしてくれないかしら。もう十六歳だというのに…)
と、いつもの事ながら思ってしまうのだった。
  そんな祖母の嘆きも知らず、要は、
「おっはよう! じーちゃん」
祖父・米蔵に元気よく挨拶する。先程の夢の話はもう記憶の彼方に飛び去っていた。
「うむ、おはよう。要は今日も元気じゃな」
「はっはっはっ、当然だよ若いんだからさ。ま、じーちゃんも年の割りには元気じゃん。……いっただきま〜す」
「はっはっはっ、わしは日々精進しておるからな。要よ、よく噛んで食べるんじゃぞ」
「分かってるよ、もう小さい子供じゃないんだからさ」
  と言いながらも物凄い勢いで食事を平らげている。やはり『女らしい』という言葉からは程遠い食っぷりである。
「ごちそうさま〜っと。あ〜、急がねーと遅刻だよ。やばいな」
「朝から忙しい奴じゃな」
「本当に。明日はもう少し早く起きるのですよ」
「オッケー、オッケー、まかせてよ。んじゃ、いってきま〜す」
  祖父母の軽いお小言に要も軽く応えてバッグを担ぎ、玄関へと向かった。
「はい、いってらっしゃい」
「車に気を付けるんじゃぞ」
  言った頃にはもう要は自転車を漕ぎ出していた。 
「もう行ってしまいましたね。本当に毎朝、毎朝慌ただしいこと」
「しかし、早いもんで十六年か。大きくなったもんじゃ、今じゃわしよりも大きくなりおった」
  米蔵は懐かしい目をして菅子に語り掛けた。微笑み返す菅子も同じ目をしている。
  一見、仲の良い祖父母と孫だが、実は血がつながっていないのだ。生まれてまだ一時間と経っていないであろう赤子の要は十六年前の冬にこの家の前に捨てられていた。冬なのに産着一枚で、菅子が見付けた時は凍死寸前だったそうだ。
  身元を示す物は何も無く、強いて言えば産着が見た事も無い素地という事だけだった。
  息子夫婦に先立たれ、寂しく暮らしていた二人は要を引き取り、孫として育てて来たのである。
  この事は要も知っている。と言うのも変に隠して後で深く傷付くよりも良い、との米蔵の考えだった。
  当の要はさすがにショックだったようだが生来のあっさりした性格と、
「両親揃ってたって幸せとは限んないもんな」
との考え方が役立って、あまり深く落ち込まずに済み、今に至るという訳だ。
  また死にかけだったと言うのが嘘なくらい要は文字どおりすくすくと成長していった。
  まず容貌はと言うとかなりの美形である。しかしその日本人離れした、と言うより丸っきり北欧系統の容貌は『少女の美』よりも『少年の美』である。体格もふくよかさは無く、やや筋肉質な細みの体も少年らしさに拍車を掛けている。身長百七十三センチメートルという仲々の長身で、体重も筋肉質なせいか六十五キログラムとしっかりしたものがあり、言葉使いも先程のとおり少女らしくない。菅子に一度諌められたのだが直らなかった。
  菅子も──徒労に終わるのだが──「いつかは…」願っているのだ。
  さておき、その頃要は幼なじみの清子と合流し、清子がついて来れる程度のスピードでとばしていた。 
「今日も良い天気だなぁ。せっかくのG・Wだってのに、薄暗い体育館にこもってボールの追っ掛けなんか、いくら試合が近いからって冗談じゃねーよなぁ。クラブ自体は好きだけど…、やっぱやだよな。そう思わねー? 清子」
  要はどうにか並んで走っている清子に話し掛けたが、清子の方はついて行くのに精一杯だった。
  傾斜角度二十度の坂を上っているのだ。要の様に余裕をかましてしゃべるなど、一般少女の清子に出来る筈も無い。瀕死の様相の清子に要は「ファイト」と言って空を見上げると、二人を追い掛けるように西の方からどんどん黒い雲が流れて来るのに気が付いた。どうやら一雨来そうだ。『所により雷雨になるでしょう』という感じでもあった。
「清子、悪いけどちょっと急ぐぞ。雨が降ってきそうだ」
「う…うん」
  清子は泣きそうな、でも雨に濡れるよるマシという感じで歯を食いしばり更に力を入れて漕ぎはじめた。が、無情にも一、二分後には雨が降りだしたのだ。
「えいっ、ちくしょう! もう少しだってのに…。清子、雨宿りするか? 後少しだけどさ」
  漕ぎながら後ろを振り返って聞いてみる。
「い…いい、このまま、行っちゃおう。だ…だって、もう、びしょ濡れ、だもん」
「そう? んじゃ、も少しがんばるか」
  手を伸ばして清子の肩をポンと叩き、笑って更に加速した要が閃光に包まれた。
「きゃあっ!」
  清子は思わず叫び声を上げ転倒してしまった。その際、彼女の目は強烈な光の為に一時的だが視力を失っていた。
「いったぁ──。か、要っ! 大丈夫!?っ」
  清子は大声で要を呼んだ。だが返事は返らない。
(もしかして……、気絶してんのかしら?)
  清子はそう思い、要がいた辺りを手探りで探してみる。自転車に触れた。しかし側に要はいない。清子はもどかしげに目をしばたかせるが視力はボンヤリとも戻らない。
「どこにいるのよっ要! 返事しなさいよっ要ってば!」
  だが、やはり返事は返らない。
  実際、要はそこにはいなかった。いや、そこと言うよりも地球上のどこにもいなかったのだ…。
  この日から要の行方は杳として知れない。
つづく