『正邪』の剣
第八章 間者
「チクショウッ!」
   ガンッ ガシャンッ ビリビリッ バキッ
  と、破壊的な効果音ばかりが聞こえてくるここは西方颯土の最大都市テレシュレル郊外にあるバディガルの屋敷である。王宮の部屋には戻らず、《道》を通って帰って来たのだ。
  帰ってくるなり机を砕き、椅子を叩き割り、伝来の絵画を破り、花瓶を投げ割る等々、とにかく手当たり次第部屋中を破壊している。召し使い達は既に非難しており、その事がバディガルには余計に腹立たしく思えるのだ。「ミーリー! どこに居る! ミーリーッ」
  バディガルは狂ったようにミーリーと言う名の存在を呼んだ。すると所々凹みのある豪華な扉が開き、十五、六歳の淡い茶色の髪を持つ、なかなか美しい少女が現れた。額を大きな紅玉のサークレットを付けいる。バディガルはその存在を確認すると安堵の表情を浮かべて走り寄った。ミーリーと呼ばれた少女は澄んだ碧色の瞳を熱っぽく、又妖しく潤ませながらバディガルの胸にもたれ掛かり、
「何をお怒りになっていらっしゃるの? バディガル様。貴方様にその様なお顔はお似合いになりませんわよ?」
年齢に合わぬ表情と口調で語った。それと言うのもその実、彼女は娼館の出だったからだ。バディガルは二年前ふらりと出掛けた娼館でミーリーに一目惚れをしてしまい、大金をはたいて彼女を買ったのだ。それ以来彼女はこの屋敷で彼の寵愛をほしいままにしている。
  バディガルは未だ熟し切らないミーリーの胸に顔を埋めて、王宮での一件をかなり脚色を施して語った。ミーリーはおとなしく総ての話を聞き終わると、過剰なまでにいたたまれないという表情をした。バディガルは先程の激情を思い出したのか、興奮して荒い息をついている。
「ねえ、バディガル様。その者達は貴方様の素晴らしさが分からない愚か者なのですわ。貴方様は神々でさえ成し遂げられなかった偉業を成し遂げるお方。イディアなど足元にも及ばない偉人になるお方。小人には大人の大望が理解出来ないもの。その様にお気を揉まれる事などございませんわ」
  ミーリーは己の胸に顔を埋めている男の頭を愛しそうに撫でながら語った。その彼女から漆黒の瘴気が立ち昇り、己の中に吸い込まれている事などバディガルは知る由も無い…。
  不意に面を上げ、ミーリーを食い入るように見詰めて言う。
「そうだよな、俺は選ばれた者なんだよな。…は、ははは、俺は、俺は魔と人を統一するという偉業を成し遂げる為に生まれて来た、選ばれた者なんだよな。そうだ、俺は素晴らしい人間なのだ。魔と人を統べる王となるのだから」
  今の彼の頭の中には自分の足元に総てがひれ伏す、という光景しかなかった。瞳に現れる感情は恍惚と呼ぶべきものでしかなかった。
  突然バディガルはミーリーを抱き上げて寝室へと向かい、ベッドに彼女を降ろす。ミーリーはバディガルと深い接吻を交わすと更に彼の為に言葉を尽くす。
「そうですわ、バディガル様。貴方様は総ての王となられるのだわ。私はそのお手伝いをする為に生まれて来たのだわ。…ああぁ」
  言葉が艶しい吐息に変わった。
「ミーリー。お前さえいれば、いてくれれば俺は何だって出来るんだ…」
  そうしてバディガルは快楽と破滅の底無し沼に溺れ混むのだった。



  漆黒の部屋の中、マリージュは待っていた。目を閉じている彼を照らす明かりは一本の蝋燭のみ。その為整い過ぎた美貌の顔は生命を感じさせない彫像のようだった。
  目が開かれる。同時に部屋の光量が増し、二黒の魔物が現れた。碧の瞳を持つ二黒の割りには美しい少女だ。小振りな体に黒衣を纏い、マリージュの正面に跪く。
「お待たせ致しました、マリージュ様。お申し付けの物をお持ち致しました」
  そう言うと少女はどこからともなく黒のビロードに包まれた直径十センチ程の水晶玉を取り出し、マリージュに献上した。マリージュは水晶玉を受け取ると満足そうに微笑む。
「御苦労。もうさがってよい、再び貴奴等の動向を探れ」
  主の素っ気ないでも確かな犒いの言葉に少女は感動に心を震わせる。だが、長居は出来ない。もう既に命は下りているのだから。
「失礼致します…」
  言って少女が姿を消すと、マリージュは水晶玉を覗きこむ。浮き出して来るのはある男の記憶。聞こえて来るのは今後の行動。現れるのは呆れ返った表情をしている銀色の少女。
(ふん、見目はさほど前世と変わらんか。さて、どうしたものか)
  しばしの思考の後、この情報は手を加えずに王に伝える事にした。特に彼の思惑に差し障りは無いと判断したからだ。
  しかしこの判断にはマリージュの希望が含まれていたのだ。故に彼は自分の甘さを思い知らされる事になるのだ。
  マリージュは球を再びビロードに包み、王の居城へと赴いた。
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  彼は鏡を見ていた。映っているのは先刻同様不明瞭な映像なのだが見ずにはいられない。銀色の存在は他にも大勢映ってはいたが、心引かれる存在はやはりたった一人。彼は飽きる事なく鏡を、たった一人を見続けていた。が、来訪者の気配に気付き凝視を中断させる。
  重層な扉が音も無く開く。それが入室許可の証。そして彼が最も信頼を寄せる魔物が入室する。
「ご機嫌麗しゅうございます、我等が王よ。先の者の詳しい映像を入手致し…」
「見せろっ」
  マリージュの言葉を遮ってラシャが催促した。その様子にマリージュは僅かに目を眇め、ラシャは我に帰ってばつが悪そうに言い直す。
「あ、いや、見せてくれ」
  その様子にマリージュは表情を改めたものの、内心では冷や汗を流していた。
(王が貴奴に興味を? もしや好意ではあるまいな)
「あの者に興味でもを持たれましたか?」
  それとなく遠回しに少年の真意を探る。幸いマリージュは少年の信頼を欲しいままにしているのだ。隠し事などされよう筈もなかった。案の定、少年は心の内を素直に話し始める。
「興味、うん、興味なのかな、どうも心が騒ぐんだ。何故だろう? マリージュ、今までこんな事は一度も無かったのに」
(未だご自分の感情に気付いてはおられぬようだ。ならば今しかないな)
  二人が惹かれ合うだろう事はマリージュは最初から見越していたのだが、当の本人が気付いていないのならこれ程の好機は無い。ラシャにそれを気付かせれば、その時点で彼の目論見は潰えてしまうのだ。
「それは多分この者が王の最大の敵である事を無意識に感じられておられるからではないでしょうか。戦いの前は誰でも気が高ぶるものですから」
  マリージュはラシャの意識を恋愛感情から遠ざける。自分の感情を明確に分析仕切れないラシャは思い悩みながらもマリージュの言葉を心に止どめる。人生経験からすれば、自分は彼に遠く及ばない。ラシャはその事を熟知しているのだ。そしてこう思い込む。
(よくは分からないけど、マリージュがそう言うのなら、そうなのかもしれない…)
  と。そして思ったとおりを口にすると、マリージュは満足そうに微笑み、水晶玉を灯に翳す。
「これが王の最大の敵でございます」
  等身大の銀色の少女が水晶玉の上に現れた。ラシャは微動だにせず映像を見上げていた。不意にその頬に涙が流れる。溢れる涙を拭おうともせず、彼は少女を見詰め続け、側近に語りかける。
「マリージュ、心が痛い。痛くてたまらない。どうしてこんな気持ちになるんだっ。こんな悲しい気持ちに」
  マリージュは己の考えの甘さに小さく舌打ちをした。
(前世の結び付きがこれ程強いとは…。やはりお見せするべきではなかったか。だが今となっては言っても仕方ない。気をそらさなければ、戦意を無くされては困る)
  水晶玉をビロードに包み直すと彼はラシャの手を取って長椅子に座らせ、冷水を満たしたグラスを手渡した。涙を拭いそれを一気に飲み干すと、ラシャは天を仰いでフーッと大きな溜め息をつく。髪をかきあげ、マリージュの方に向き直り、微かに笑って呟いた。
「すまない…」
「すまない? それはどういう事でしょうか。よもや我等魔物を見限って、あの小娘に与するとでも?」
「違うっ! そうじゃない、そうじゃ…」
  侮蔑を含んだ物言いに咄嗟に否定する。
「そうじゃないんだ。ただこの言葉が口をついて出て来たんだ」
  親に叱られた子供のように視線をそらし答えた。いや実際ラシャにとってマリージュは親なのだ。今でこそ全く無いが幼い頃には叱られた事もあったのだ。だからラシャはマリージュと二人きりの時は子供に戻る。マリージュも知っている。それ故先のような物言いが出来るのだ。
「失礼しました、出過ぎた真似を…。お許し下さい」
  片膝をつき謝罪するマリージュにラシャは手を差し延べる。
「もういい、大体許すも何もないんだから。それよりも少し疲れたから休む。眠りに就くまで側にいてくれ」
  言葉に表せない不安が心からにじみ出し、一人だと悪夢に囚われそうで眠れない。彼の暗く沈んだ表情はそう物語っていた。
「御心のままに」
  薄く微笑み、マリージュは着替えを手伝う。夜着を着たラシャはベッドに潜り込み目を閉じる。マリージュが奏でるリュートがラシャの心に平安を与える。幾何も無く寝息が聞こえ始めると、マリージュの手からリュートが霧散する。
(『邪』を強化させおく方が良いようだ。このままではあの小娘に骨抜きになられるのがオチだろう。しばらくの間、力は衰えるが背に腹はかえられん)
  複雑な表情を浮かべ、右手をラシャの額に当て目を閉じる。力が、『邪』が掌を通してラシャに流入される。マリージュの額に汗が浮かび、眉根が寄せられ、ようやく手が離された。顔色は最悪だったがその表情は満足そうだった。
(目を覚まされた時が楽しみだ)
  彼は部屋を退出すると食事を運んで来たチャーイに出会した。ワゴンには十数種料理の皿が並べてあった。
  彼女は主君の部屋から出て来たマリージュの顔色の異常さに胡乱気な視線を向ける。だがマリージュは視線には答えず違う言葉を口にする。
「王はただ今お休みになられている。食事なら後にするのだな」
「お休みに? …そう、なら仕方ないわね」
  そう言うと彼女はワゴンを消し──ラシャが食べないのなら魔物には無縁の物だからだ──、くるりと向きを変えて行ってしまう。話をそらされた事を不快に感じながらも問い詰める事はしない。彼女ははっきり言ってこの男が大嫌いなのだ。顔を見るのも、声を聞くのも寒気が走る。そんな彼女をマリージュは呼び止めた。
「王はあの小娘にいたく興味を持たれたぞ」
「!」
  目を見開き立ちすくむ彼女を残してマリージュは薄笑いを浮かべて歩み去った。取り立てて言うべき事ではない。それはラシャに対して忠誠以上の感情を持つチャーイに対する意地悪だったのだ。だが今のチャーイにとってそんな事は些事に過ぎなかった。
(王があの小娘を!? なんて事!)
  彼女が最も憎む相手とは一万五千年前、彼女から彼女の総てとも言える存在を、ラーズラーシャを奪い去ったイールディオン。そして今又、その生まれ変わりに心を魅かれているのだっ!
「許せない、許さないわ…」
  そう呟くと彼女は熱病にうかされたようにフラフラと消えて行った。
つづく