『正邪』の剣
第十二章 穢眼
ムーフォニアを抜け西方颯土と南方灼土を別つ大河セテラを渡り、三人は灼熱の地を旅していた。
  ゼルデガルドは宇宙の中心。つまり天体はゼルデガルドを軸として回転している為、四季は無く、それぞれの大陸が季節をあらわしているのである。故に三人が旅する南方灼土は真夏の世界なのだ。
  ウバラと男二人はてんで平気なのだが──元々二人に暑さ寒さの感覚は無い──、普通?)の人間である要は完全にヘバッていた。もう既に南方灼土に入って二十日近くも経過し、クソ暑い昼間とクソ寒い夜間との日較差が、じわじわと要の体力を奪って行くのだ。と言う訳で三人は次の町で二、三日滞在する事になった。
  三人は新年を迎え明るい筈のバルドゥーンに到着したのだが、町の雰囲気は異様なまでに暗かった。怪訝に思いつつも、三人は宿屋を探して町の中を巡っていた。するとようやく一人の中年男に出くわした。男は三人、と言うより風月を──一見、中位魔法使い──見ると、町中に響き渡る大声で魔法使いの来訪を知らせた。途端に町中の扉が開き、三人をある家へと誘った。
  訳も分からず向かった家への道すがら理由を尋ねると、この家の娘が原因不明の意識不明に陥っているのだそうだ。町にいるのは呪い師だけでほとほと困り果てていたらしく、やっと訪れた魔法使いの存在に一同は歓喜していた。
  問題の家に着くと娘の両親が風月に跪かんばかりに哀願する。
「お願い致しますっ。どうか、どうか私共の娘を助けてやって下さい」
「分かりました。私に出来る事ならやってみます。で、お嬢さんはどちらに?」
  風月が謙遜を交えて笑顔で応じると、
「あ、ありがとうございますっ」
夫婦は手を取り合って喜び、三人を少女の部屋へと案内した。
  三人は部屋に入るや、ベッドに寝かされた少女の顔色、いや全身を包む瘴気に息を飲んだ。少女の肌は暗緑色に変色し、今すぐにも死の顎が少女を喰らおうとしていたのだ。
「凄い毒気だな、魔物の血でも飲まされたのかな? 可哀そうに」
  要が風月に早く治療するように促すと、風月は少女の枕元に立ち、固唾を飲んで手を握りあっている夫婦を尻目に、少女の胸元に手を翳した。服を通して毒気がするすると喉元から立ち昇り、風月の掌で暗緑色の球を形作った。少女の肌が南方灼土の民特有の褐色に彩られる。やがて、打ち止めになったのか、毒気の縷は唐突に途切れた。仕上げに拳大程になった毒気を両手でパンッと挟み潰すと、少女がパチッと目を覚ました。
「ナーズィ! 直ったのね? 大丈夫なのね? よかった!」
  夫婦は娘を抱き締め、穏やかな微笑みを浮かべている風月に涙して感謝し、不思議がる娘に事の次第を話した。少女が顔を赤らめて礼を述べると風月は、
「気にしないで下さい。魔法使いとして当然の事をしたまでです。──!?」
「!?」×2
笑顔で応えた―その時、三人は強烈な視線を感じた。視線を投じられた方を見遣ると壁しかなかった。三人とも顔を見合わせたが理由が分かる筈も無く、気を取り直すと要は荷物を肩に担いで、
「じゃあ、私達はこれで…、お大事に」
宿屋に向かう為に二人を連れて部屋を出た。
「お待ち下さいっ、娘の命の恩人に何もお礼をせず、そのままお帰しする訳には行きません! どうか、こちらにご滞在に間は我が家にお泊まり下さい。お願いします」
  ハドスの申し出に要は一応丁重に断る。人の好意に素直な要だから、あくまで一応だ。
「いいえっ、是非ともお願いします」
「そうですよっ、私からもお願いします。だってまだ、ちゃあんとお礼を言ってないんだもの」
「…そうですか? 本当にご迷惑でないなら、お世話になります」
  待ってましたとばかりに、三人はしおらしげに頭を下げて挨拶した。
「勿論ですとも、ではお部屋にご案内しますね。どうぞいらして下さい」
  マイノスの先導に三人が素直について行こうとした時、またあの視線を感じた。
「!」×3
「どうかなさいましたか?」
  突然振り返った三人を訝しげに見ながらマイノスが尋ねた。三人は何でもないと頭を振ると、今度こそ彼女の後について行った。
  彼女が案内したのは二階の二部屋で、置かれている調度品や部屋数を見ると、この家はかなり裕福である事が分かった。
「お食事が出来ましたらお呼びしますね。それまでごゆっくりどうぞ」
  彼女はニッコリ笑ってスカートの裾をすいっと抓んで挨拶し、階下に去って行った。
  彼女の気配が遠のいたのを確認してから、三人は先程の視線について話し合った。
「さっきのアレは何だったんだ? 風月、カーティ、何か心当たりないか?」
  自分よりも多くの知識を持つ(筈の)二人に質問すると、カーティはお手上げと言うように頭を振った。風月の方は形の良い顎に手をやり、しばし思案顔だ。
  顎から手が離れた。が、未だ考えがまとまらないのか、眉根が寄っている。
「考えられる事は二つ。一つは誰かが鏡を使っているのを感じ取ったからか、もう一つは『遠方視』だと思う」
「『とおみ』って何それ」
  知らない単語の説明を求める。
「淨眼の吉児。今では穢眼の兇児と言われる存在が持ってる力の一つだ。でも今、使える者は一人もいない筈なんだ」
「穢眼の兇児って言ったら確か、『視線に力在る者』だったよな。その力は『破壊』で、生まれれば殺されるか、閉じ込められるってゆー、可哀そうな子供とゆーか人達の事だな。でも『遠方視』とかは知らない。──お前、何やってんの?」
  修行期間に詰め込まれた知識を諷じていた要は、カーティの異様な行動に訝しげな視線を投じた。
  彼は耳を塞いであらぬ方向を見ていた。というのも彼にとって『穢眼の兇児』は最も忌まわしい言葉だからなのである。普通の魔物にとっての三大嫌忌はイールディオン(イディア)と魔法使いと『穢眼の兇児』で、人間に与する現在カーティとって、唯一の嫌忌は『穢眼の兇児』なのだ。
「おいっ、俺の前でその言葉は使わないでくれよ。鳥肌が立ってしょうがない」
  吐き捨てるようにそう言うと、袖を捲って腕を見せる。本当に鳥肌が立っていた。
「なら『淨眼の吉児』と言おう。実際、昔はそう呼ばれていたんだし」
  カーティの様子を面白がってはいたが、風月はそう提案した。
「どんな経緯で忌名になったんだ?」
  要はカーティの鳥肌をすりすりと摩りながら質問した。
「それは…、はい?」
  話を中断してノックに応えると扉が開いてナーズィが顔を出した。
「お話中失礼しますね。お食事の用意が出来ましたので、食堂までいらして下さい」
「分かりました、どうもありがとう」
  要はニッコリ笑って礼を言うと、立ち上がり彼女のついて食堂に向かった。
  食卓に並べられた料理の豪華さに、三人は素直に驚嘆した。なんともボンビーな奴等である。これは多額の路銀があるにも拘わらず、庶民暮らしの染み付いた要が財政を握っているからなのだ。
  それは脇においておき、三人は舌鼓を打って総ての料理を平げた。食後は香茶で胃を静めつつ、家人に請われて差し障り無い旅の話等を続けていた。しばらくすると思い出したかのように、要は町外れにある重苦しい雰囲気の塔の事をハドスに尋ねた。到着した時から気になっていたのだ。ハドスは急に表情を曇らせたが、応えない訳にも行かず渋々という体で語りだした。
「あそこには町の…その…兇児が封印というか、閉じ込められているのです。あれが初めて人を殺した時に、旅の魔法使いにお願いして…」
  三人は納得した顔でふんふんと頷き、要は詳しい事情を求めた。ハドスの重々しい説明によると、兇児は三歳の時に母親を殺したのだそうだ。原因はその母親が兇児を殺そうとしたからで、不憫にも母親は兇児を生んだ事でノイローゼになっていたらしい。
  その日、我が子をあやしているかと思うと、いきなり首を絞め始め、結果帰らぬ人になったのだそうだ。
「さあさ、不吉な話はそのくらいにして、もうお休み下さいな」
  マイノスの言葉に救われた様にハドラは時計を見て席を立ち、
「ああ、もうこんな時間だ。早く休まねば明日に響く。失礼ですが旅のお方達、そろそろ下がらせて頂きます。ナーズィ、お前も早くお休み」
そそくさと食堂を出て行った。ナーズィも素直に返事をし、三人に「お休みなさい」と言って自室に戻って行った。
  要はかなり不満を感じていたが家人のいない食堂に居座る訳にも行かず、二階に戻って行った。その際要は何やら考え事をしていた。カーティは、その整った横顔に不吉な予感を覚え、
「何を考えているのかなぁ?」
控え目に尋ねると、
「何って勿論、その子に会いに行くんだよ」
予想どおりの答にカーティは激しい頭痛に襲われた。
「勿論、会いに行くだけだよね? 連れて帰るなんて事しないよね?」
  カーティの問いにニヤァ〜っと笑い返し、窓から飛び出した。知っての通りここは二階だが要には些事に過ぎなかった。
  絶望的な表情で要の姿を追うカーティに、風月は諦めろというように頭を振った。



(結構新しい造りだな。出来て四年とたってないってとこか…。とゆー事はまだ六、七歳の子供なんだな)
  塔の周囲に張ってある結界を一部解き、鍵を開けて──勿論、魔法でだ──要はまんまと侵入に成功した。
(………カビくせぇ)
  眉根を寄せると右手の人差し指の爪に火を灯す。ぼんやりと辺りが照らされ、左手に階段が見えた。コツコツと響く足音がぶ厚そうな鉄扉の前で止まった。
「だれ?」
  扉を通して刺さるような視線と、幼女の声が投げ掛けられると、要は自分の顔がよく見えるように明かりで照らし、手を振った。
「こんばんわ。君とお話がしたくて来たんだけど、中に入っても…いいかな?」
「あっ…さっきの…。はいってもいいけど、かぎがかかってるからはいれないよっ」
  小さな叫び声の後、視線が途絶えた。それでも要はニコニコ笑っている。
「じゃあ、問題無し。お邪魔します」
  声と共に鍵はカチンッと音を立てて外れ、要は身を滑り込ませた。
  指先に灯る火は炎になり、四方に散って部屋全体を明るく照らし、二人の輪郭をはっきりと現した。
  汗と垢と埃に塗れた髪と体。ボロボロに擦り切れた服。冷たい石畳を素足で踏み締める幼女は赤と青の瞳を油断無く光らせながら要を見詰めていた。
「初めまして。私の名前はカナメ。君のお名前は?」
  要は最上級の笑顔で挨拶し、幼女に近付いた。すると同じ分だけ幼女が後ずさった。
「おにいちゃん、まほうつかいなの? なにしにきたの、あたしをころしにきたの?」
  床と同じ石材で造られた壁にへばり付き、舌ったらずな言葉で幼女は問うた。
「まさかっ、お姉ちゃんはね、ただ君とお話がしたくて来たの。信じてくれる? ──そっかぁ、う〜ん、じゃこうしよう。君に命を預けよう。もしも、お姉ちゃんが嘘ついたら、それを好きにしていいよ」
  頭を振る少女の信用を得る為に、要は命を結晶にし、ついでに色を元に戻す。
  三センチ程の透明な珠はフワリと飛んで幼女の手中に収まった。幼女は珍しそうに、そして少し不信感を抱きながら珠で軽く壁を叩いた。
「いっ! ちょっと、人の命は大切に扱ってちょおだいね」
  膝を付き、胸を抑え、脂汗を垂らす要を見て、少女はとりあえず信用する事にした。
「あたしはキシェル」
「分かった、じゃあキシェルそのカッコじゃ寒いだろ? こっちに来て火に当たりなよ」
  そう言って要が手招きすると、キシェルは心底意外そうに目を丸めた。
「いってもいいの? きもちわるくないの?」
「へ?」 
  聞き返す要にキシェルは上目使いで応える。
「だってごはんもってくるおばちゃんが、いつもいうんだもん。『まったく、いつきてもここはきたないね。すんでるやつとおなじだよ』とか『ああ、きもちわるいから、そばによるんじゃないよ』とか『まったく、なんだってあたしがこんなことしなきゃなんないんだろうね』っていうんだもん。──!」
  毎回毎回、同じ事ばかり言う女の言葉を、キシェルはすっかりと覚えているらしく、声音を真似て詰まる事なく淡々と諷じた。そんなキシェルを要は思わず走り寄って抱き締めていたのだ。
「キシェル、そんな根性悪い人達の言葉を間に受けちゃ駄目だ。聞いてる方が悲しいよ」
  言ってキシェルに頬ずりした。
「だめだよ、あたしにさわったらだめだよ!」
  要の手を振り払うと、キシェルは飛び退ってまじまじと要を見遣った。
「! ごめんなさいっ、ごめんなさいっ! ふくがよごれちゃったよっ。ごめんなさい! おねがいだから、ぶたないでっ!」
  キシェルに触れた要の頬や服は真っ黒になっていた。一度食事係の服を汚した時に思いっきり殴られた事を思い出し、キシェルは真っ青になって謝った。
「え? こんなの気にしなくていいよ。洗えばいいんだし、謝んなくてもいいよ」
「でも、でもあたしがきたないから…」
「お風呂に入れてもらえなかったんだろ? じゃあ、しょうがないよ。誰だってそうなるよ。それにね、大事なのは外身じゃなくて中身なんだ。私には分かるよ、キシェルはの中身はとっても綺麗なんだって」
  あくまで明るく話を振る要に、キシェルは激しく反論する。
「そんなことないっ。あたしは『きょうじ』だもん! 『おやごろし』なんだもん! だからきたないんだもん!」
「キシェルッ!」
  要の怒声に思わず目をつぶり、キシェルは脅えて壁にへばり付いた。そして次にそうっと目を開けた時、信じられないものを見た。
「どうして? どうしてカナメがなくの?」
  キシェルから顔を背けて要は泣いていた。やり場の無い怒りと、やる瀬なさが要の表情を厳しくさせていた。
  慌ててキシェルが走り寄り、要の顔を覗き込む。要は涙を拭って深く息をつくと、キシェルの肩に手を置いた。
「………ごめん、怒鳴ったりして…怖かったろ? ごめん。でもキシェル、お願いだから自分で自分を貶めるような事を言わないで」
  そしてもう一度キシェルを抱き締め、耳元で呟いた。
「キシェル、キシェルさえ良ければだけど、私達と一緒に旅をしないか? もしこのままキシェルを残して行ったら、きっとキシェルもこの町も不幸になるだろう。だから、だから私達と一緒に行こう。一緒に生きよう」
  始めキシェルは言葉の意味が分からずポカンとしていたが、やがて理解すると、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「いいの? ほんとうにいいの? あたしは『あいがんのきょうじ』で『ふきつなこ』なんだよ? あたしがいたらみんなが…」
「キシェル、他の皆なんか関係無い。大事なのはキシェルの気持ちなんだから。それに本当はキシェルみたいな人達はね、『穢眼の兇児』じゃなくて『淨眼の吉児』って言うんだ。皆が知らないだけ。キシェルはその目を自慢していいんだ。……まだ返事を聞いて無いね。キシェルどうする?」
  キシェルは堪え切れずに泣き出した。そして俯いて涙を拭いながら答える。
「い、いっしょ、ひっく、にいく。ずっと、っく、ずっとカナメと、ひぃっく、いっしょにいるぅ」
  要の首にしがみついて、キシェルは今まで溜まり溜まった感情を涙と共に吐き出した。要は嗚咽の止まらない背中を優しく撫でていた。しばらくしてキシェルが泣き止むと、要は涙で腫れ上がった頬を親指で拭い、にっこりと微笑む。
「キシェル、何かして欲しいことはない?」
「え?」
「だってキシェルは今まで我慢のし通しだったろ? だからしたい事とか、して欲しい事とか一杯あると思うんだ。言ってみなよ。私に出来る事なら、なんだってやってあげるから」
  いきなり願いを、と言われても小さなキシェルにはすぐに思い浮かぶ筈も無かった。しばらく腕を組んで悩んだが、願い事は出て来ない。しかし要を見ると唐突に願いが出来た。
「おふろにはいりたい」
「お風呂に?」
  キシェルは何度も頷く。そうキシェルは汚れた要の顔、汚れた要の手、汚れた要の服を見てこのままではいけないと思ったのだ。
  勿論、要は二つ返事で了承し、キシェルから離れて手首を裂き、《陣》を描く。三メートル弱の召喚用の《魔法陣》だ。
「私もね、野宿の時とか使うんだ。そーゆー時ってホント便利だよ、魔法って」
  完成すると《陣》は清浄な水を湛え、要が火球を放り込むと水は湯になった。水面から暖かな蒸気が立ちのぼっている。
「これはね、魔法で召喚した清めの水で、浸かるだけで汚れが落ちる優れ物の水なんだ。だから服のまま浸かってごらん」
  キシェルはおっかなびっくり足を付け、湯の温かさを実感すると、ドボンッと音を立てて飛び込んだ。
「きゃあっ。とおってもあったかくて、とおってもきもちいいっ。ねえねえ、カナメもいっしょにはいって。てとふくとほっぺがよごれてるから」
  年相応の笑顔で喜ぶキシェルに誘われて、要も湯に浸かる。
「ほら、一度頭のてっぺんまで浸かって、せーのっ」
  掛け声に合わせて二人はドブンと潜った。
「ほーらこんなにキレー…って、えっ  キシェルッ、ぎ、銀色っ。髪が銀色だっ」
  すっかり汚れの取れたキシェルの髪は要と同じ銀だった。驚いて要はキシェルの手を取り、爪と瞳を調べる。爪は銀交じりのピンク色、色違いの瞳もよくよく見ると銀交じり。間違いなく賢者に次ぐ高位の魔法使いだ。
(旅の魔法使いってのがどれ程のもんか知らねーけど、この子が本気でここを出たがったら、あんな結界は意味ないだろうな。……やっぱりこの子を連れて行く事にして正解だったな)
「カナメェ、どうしたの? あたしのかみのけのいろがいけないの?」
  自分を見詰めて黙り込んだ要に不安を感じたキシェルは、髪をつかんで要の顔を覗き込む。
「ううん、なんでもないよ。…キシェル、キシェルは自分が魔法使いだって知ってたの?」
「えぇーっ、あたし、まほうつかいなの?」
  目を見開く様子から察するに、知らなかったのだろう。きっとキシェルの力を恐れた町民達が真実を伏せたに違いない。
「うん、キシェルは魔法使いだよ。これからは私がキシェルに魔法と淨眼の使い方を教えてあげる。キシェル、頑張る気、ある?」
「うん! あたしがんばる。カナメがおしえてくれるならいっぱい、いっぱいがんばる」
  キシェルにすれば魔法使いである事よりも、要の側にいる事の方がよっぽど幸せなのだろう。その気持ちが素直に言葉に現れている。それに気付いた要も苦笑しつつも、
(こんな良い笑顔が見れるならまぁいいか)と思っていた。
「さて、そろそろ帰ろうか。あいつらが心配するといけないからな…」
  要はふわりとキシェルを抱き上げ《陣》から出る。濡れた体が嘘のように乾いた。
「あいつらってだぁれ?」
  湯冷めしないようにマントでくるまれたキシェルが問うた。
「私の仲間だよ。二人ともとってもいい奴だよ。きっとキシェルも好きになるよ」
「……カナメふたりのことがすきなの?」
  要を独り占めしたいキシェルとってはライバルの出現である。
「うん。勿論、キシェルも大好きだよ」
  純粋な笑顔。キシェルは嬉しくなって要の首にしがみついて要と約束する。
「あたし、ふたりとなかよくなるね。カナメがだいすきだから、ふたりもすきになる」
  要はクシャクシャとキシェルの頭を撫で、そして二人は塔を後にした。
  南方灼土では昼間の体力の消費量が激しく、町の者は夜早くに休むので帰り道は誰にも会わなかった。その道すがら二人は色々と話し合っていた。
「明日になったら町長さんに会って、キシェルを正式に引き取らせてもらおう」
  とか、
「『遠方視』はいつ頃出来るようになったんだ?」
とか、
「ずっとずっといっしょにいてね」
とかである。
  そうこうしている内にハドス家に到着し、行きと同じように風を呼んで窓から入った。
  大変なのはそれからだった。風月の方は勿論要のする事に異存は無いのだが、カーティが猛反対したのだ。だが結局、この件は要の鶴の一声で押し切られてしまった。カーティにすれば、惚れた弱みというやつだろう。
  そしてその夜、キシェルは久方ぶりに人肌を感じながら安眠を手に入れたのだった。



  翌日のバルドゥーンは、一人の女性の悲鳴で俄かに騒めきたった。その女性とはキシェルの食事を運ぶ宿屋の女将である。
「兇児が、兇児がいなくなった!」
  その言葉に村人は大混乱に陥った。誰もが兇児に対する今までの仕打ちを思い起こし、穢眼の威力を恐怖した。
「えらい慌てぶりだ。さてと、私は今から町長に話し合いに行くから。風月、服屋に行ってキシェルに何か着る物と、食糧買って来て。カーティは荷物をまとめておいて。落ち合う場所はさっき言ったとおりだから」
  そう言って要は腰掛けて居た窓枠から降りるとマントを引っ掛け、フードをすっぽりと被って扉に向かう。
「カナメェ、だいじょうぶかな?」
  キシェルが不安そうな声でポツリと呟いた。「任せなさい。なんてったって私には切り札が有るんだから。おとなしく待っててよ」
  俯くキシェルに髪をワシャワシャと掻き乱すと、艶やかな笑顔を残して出掛けて行った。慌てまくっているハドス家の使用人にどうにか町長の家を教えてもらい、訪ねると町長も町民同様慌てまくっていたが、要がキシェルを連れ出したと知ると、烈火のごとく怒り出した。当然だ。
「あんた、なんて事をしでかしたんだ! とっととあの兇児を塔に戻してくれっ!」
  青筋を浮かべ、机に叩きつけた拳をぶるぶる震わす町長とは対照的に、要は極めて冷静だった。
「お断りします」
「なっ!!」
「単刀直入に言います。あの子を引き取らせて下さい。それを許可して頂く為にここに来たんです」
  あまりの突飛な話に町長の感情は怒りを通り越して呆れに転じていた。
「あ、あんた自分の言ってる意味が分かってるのか? ありゃ、普通のお子をじゃねぇ。『穢眼の兇児』だ。悪い事は言わねーよ。あれの力が暴走する前に塔に閉じ込めてくれ。儂にはあれを外の世界に出すなんて、恐ろしい事はとてもじゃないが出来ねー」
「その点は大丈夫です。安心して下さって結構です。ですから…」
「ですからじゃねー! ぐだぐだ言わずに兇児を塔に連れてってくれ」
  聞く耳持たぬという体でつっぱねる町長に要は小さく舌打ちし、最後の切り札を出す。つまり、イディアの威光を借りるのだ。
「町長さん、私は実は魔法使いなんですよ。それもかなり高位の。結構目立つんで普段は色を変えて旅してるんです。今から色を戻しますから、それを見てから結論を出して下さい」
「いくら高位の魔法使いだって言ってもねぇ」
  ツンとそっぽを向いていたが、要が仄かな光りに包まれると微かに興味を引かれたのか要の方に目を向けた。
「あ、あ、あんた、いや貴女様はイディア様!! そ、そ、そんなまさか、ほ、本物ぉ!?」
  要は無表情に頷く。
「ええ、なんでしたら王宮の賢者に確認を取って頂いても結構ですよ。でもその際は他言無用にお願いします」
「いえ、そんなイディア様を疑うなんて、とんでもありません。きょ、兇児の事はイディア様のお好きなように」
  仕方がないとは言え、イディアの名を使った事に要はかなり不機嫌だった。席を立つと色を直してマントを羽織る。
「許可して頂いて本当にありがとうございました。ついでで申し訳無いですが、私がキシェルを引き取った事を町民達に公表して下さい。あっ、私の正体は伏せておいて下さい。それから、何を言っても町民達は厭がるでしょうから、私達は今から町を出ます」
「何故ですか? 我が町にイディア様がおいでになった事を知れば、厭がる筈ありません」
  町中どころか近隣にも言いたくてたまらないのか、心底残念そうに不平を述べた。
「私は魔物に嫌われていますからね。私がここにいたと魔物に知れたら、腹いせに襲いに来るかもしれませんよ?」
  淡々とした口調の説明の内容に脅えて、町長は決して口外しないと誓い、それを見届けて要は仲間が待つ場所へと向かった。
つづく