『正邪』の剣
第十三章 護符
「なぁんで俺がヤローなんかと相乗りしなきゃなんねーんだよ」
  バルドゥーン以後、要に対するキシェルの『お願い』のお陰で、要から風月の前へと座席を移されたカーティは不満たらたらの相で愚痴った。
「いつまでもしつこいな、お前は。厭なら自分で飛べば良いだろ?」
  ボヤくカーティの頭をはたくと、風月は襟首をつかんで放り出そうとした。
「わー! 待てっ、やめろ!」
  慌ててウバラの首にしがみつくカーティを、キシェルが指を指して馬鹿にする。
「うるっさい! 元はと言えばお前がワガママなんぞぬかしやがるから…」
「あたし、わがままなんかいってないもん!」
  鞍から身を乗り出してキシェルが反論すると、同じくカーティも身を乗り出す。
「言った!」
「いってないもん!」
「絶対、言ったっ」
「ぜぇったいにいってないっ」
「いい加減にしろっ。今日中にはパルセドに着くんだから、もう少しの間くらい我慢しろっってんだっ! それにキシェルも一々カーティにちょっかいを出すんじゃないの!」
  延々と続くかと思われた子供の喧嘩は要の一喝で〆られた。最愛の要に叱られた二人はしゅんとしていたが、目が合うとあっかんべーをして、つんっとそっぽを向き合った。どうもキシェルとカーティの精神年齢は近いらしい。
  要は二人の様子に深々と溜め息をつくと、鐙を蹴って速度を速めた。そのせいか昼過ぎには最終目的地・パルセドに到着する事が出来た。
  パルセドはかなり大きな港町で、宿屋も数多く軒を連ねていたが、要は郊外の比較的静かな所に宿を取った。そして休む間もなく、護苻の材料を調達しに出掛けることになった。
  道中における解封に関する風月の説明では、イールディオン神殿はダーヴェリア海溝の水深九千メートルの深海に在るらしい。浅瀬ならいざ知らず、そこに行くには魔法で空気を確保しつつ、泳いで行くより、護苻を使用した方が断然楽なのだそうだ。故に面倒臭がりな要は、材料である真珠と鮫の歯と清浄な海水を求めて、町の中心地へと向かったのだ。
  先ず要が赴いたのは港だった。波止場で網の手入れをしていた漁師に、鮫の歯を四、五本手に入らないかと交渉すると、留守番の漁師が人懐っこい笑顔を浮かべて、
「夕方にも一回来なよ。そしたら取り立ての鮫の歯を頭ごとくれてやるよ」
と言ってくれたので要は素直に頷き、それまでに真珠を購入する事にした。
  元々、南方灼土は貴石鉱脈の宝庫なので、パルセドにも貴石・貴金属の卸、小売屋も軒を連ねているのだ。中でもここパルセドでしか取れない真珠は『女神の涙』と呼ばれ、宝石の中で最も高価なのであった。
  と言う訳で要は『星摘み通り』と呼ばれる宝石店だけの商店街を一時間程軽食用の揚げ魚を食べつつ、ショーウインドを覗いたり、たまには店内に入って物色したりしていた。そして十数軒目入った店の一癖ありそうな店主に声を掛ける。
「すみません、この店で一番上等な真珠を見せて下さい」
「………」
  店主はマヌカンのような三秒チェックを済ませると、すみの棚から小さな箱を取り出し、その中から小指の爪程も無い少し歪な真珠を見せて、
「お客さんなら、これがお似合いかと…」
どっかりと椅子に座り込んだ。
「………」
  要は頬をひくつかせつつ、手を滑らせてミドラ銀貨の詰まった袋を豪快に落とした。その際数枚のミドラ銀貨が散らばった。
「おっと…。それがこの店での最高級品なのか。残念だなぁ、他所の店に当たるとするか」
  言いながら一枚ずつ銀貨を拾って財布に戻すと、踵を返して出口に向かった。
「お、お客様っお待ち下さい! 冗談ですよ冗談。本気になさらないで下さいよ。こちらが本店の最高級の品でございます。どうぞお手に取ってご覧になって下さい」
  大慌てで要を呼び戻し、蹴躓きながら豪華な装丁の箱を示して中身を見せる。細かい意匠の銀で縁どられた、親指大の純白の真珠のブローチが、たくさんの蝋燭の灯を受けて淡く優しい光を放っていた。
  振り返った要はチロリと目を遣る。
「ブローチが欲しい訳じゃないんだ。真珠だけでいいんだ」
  そして再び要が扉へ向かうと、店主はカウンターから飛び出て、要を圧し止どめる。
「それでしたら取って置きがございます。少々お待ち下さいませ」
  吐き気をもよおす下卑た笑いを浮かべて、店主は店の奥へと消えて行った。
  その間に要は髪と瞳の色を銀に戻した。あの調子では法外な値を付けるに違い無いので、それを防止する為の威しだった。
「こちらでございます。どうでしょうか? きっとお気に召す筈です」
  群青色の天鵞絨の箱に納まったピンポン球大の見事な真珠だった。
「お値段の方はミドラ銀貨六枚とテト銀貨五枚…。かなり格安になっております」
「………」
  予想どおりの法外な値段だった。
  要はフードを取って目に掛かる銀の髪をさりげなくかき揚げながら威しを掛ける。
「店主、魔法使い相手に嘘をつくつもりか? 良い度胸だが戴けないな…。ちゃんとした値段を言った方がいいぞ」
「そんなぁ嘘だなんてとんでもございません。わたくし共は信用商売ですからねぇ」
  だが銀の瞳が発する無言の圧力に、厚いツラの皮から脂汗が滲み出している。そのうちに店主はおろおろと目を泳がせ始めた。
「店主、もう一度だけ言うぞ。この真珠の値段はいくらだ? 次の言葉は言質を取らせてもらうからそのつもりで言うんだな」
  もはや店主は『蛇に睨まれた蟇蛙』状態である。そしてついには観念したのか、俯いてぼそぼそと呟いた。
「……ミドラ銀貨…一枚とテト銀貨三枚、です」
「五倍掛けか。まっ人間正直が一番だよ。はい、ミドラ銀貨一枚とテト銀貨三枚」 
  代金を払うと要は呆然自失状態の店主を残してさっさと店を出て行った。
(夕方まで一時間はあるなぁ。清浄な海水ってのを取ったら、一度宿屋に帰ろっと)
  砂浜で浄めた海水をビンに詰め、菓子屋で買った焼き菓子を土産に、要は一路宿屋へと向かった。
  その途中、人相の悪い輩が三、四人──多分あの店主の差し金だろう──に囲まれ、路地裏に連れ込まれたがやはり要の敵ではなかった。



  約一時間の休憩の後、再度港に向かった要を待っていたのは、この上なく上機嫌な先程の漁師だった。
「よう! にいちゃんっ。待ってたぜぇ。久方ぶりの馬鹿デケェ獲物だ。ほら見ろよっ」
  言った漁師が指さす獲物は、体長十メートルはある巨大な鮫だった。死んで目は濁っていたが、体に刺さった銛の数がその凶暴さを克明に伝えていた。
「すっげぇ、………見てるだけで鳥肌が立ってくる…。こんなに凄いのナマで見たの初めてだ…」
  要は男に間違われた事も気付かない様子で、鮫に見入っていた。
「おいおい、にいちゃんっ。馬鹿みてーに大口開けてねーでよぉ。どーすんだ、頭ごと持ってくかい? それとも、さっき言ってたみてーに歯を四、五本でいーのかい?」
「えっ? あ、ああ、すみません。頭ごとは結構ですから、五本でいいです。五本下さい」
  漁師は「おっしゃぁっ」と答えると腰に提げた鉈を手に取り、その背で歯茎を叩き割った。叩く度に歯が数本、血の弧を描いて宙を飛ぶ。漁師はそれを五本拾い要に手渡し、要は血でぬめった鋭利な牙を、溜め息交じりで眺め入った。
「あっそうだ、何かお礼を…」
  我に返って財布を取り出した要を、漁師は困ったように押し止どめた。
「おいおい、にいちゃん、やめてくれよぉ。こんなもんで礼なんか貰ってちゃ、女神様に顔向け出来ねーよ。気持ちだけありがたーく受け取っとくよ。気持ちだけさ」
  宝石店の店主とはえらい違いである。
「あ、ありがとうございますっ」
「いいってことよ。それよかこの辺は暗くなると物騒だから、早く宿屋に帰んな」
  要はもう一度礼を言って、手を振りながら帰って行った。
  上機嫌で宿屋の階段を上り、要がノックして帰宅を知らせると…。
「ただいまぁ」
「おかえりなさぁ〜い」
「うわっと!」
  声と共にキシェルが宙から降って来た。咄嗟に荷物を放り出して受け止める。
「はぁ〜っ、キシェル、心臓に悪い事は止めてくれよ」
「そんなにびっくりした? びっくりした?」
  無邪気な笑顔を浮かべ、要の顔を覗き込むとキシェルはもう一度浮かんで見せた。
「そりゃあ、もう心臓が止まるかと思ったよ。それにしても、いつの間に浮遊出来るようになったんだ? 凄いじゃないか。さっきまで小石一つも浮かせられなかったのに」
  要の腕の中に戻ったキシェルを、そっと床に降ろして、ニコニコとその小さな頭を撫でる。気分は完全に父…いや母親だった。
「あのね、あのね、フゲツがね、あたしのなかにはいって『まほうをつかうかんかく』ってゆーのをおしえてくれたの。そしたらね、いろぉんなことができるようになったの。みててね、すごいんだよぉ」
  頬を上気させ得意げに語るキシェルに、要は申し訳なさそうに小さく笑う。
「ごめん、今から護苻を造らなきゃならないんだ。だから造り終わってから、ゆっくり見せてもらうよ。本っ当にごめんね」
  すると小さな頬をぷっくりと膨らませ、キシェルは要の首にしがみつき、駄々をこねる。
「やぁだ! きょうはカナメ、ぜんぜんあそんでくれてないっ。さっきだってすぐに出てっちゃったんだもん! だからヤダッ!」
  要は根気よく説得していたがキシェルが最後の手段、つまり泣き落としに出ると、彼女に対して極甘の要に逆らえる筈がなかった。そして要が吐息をつきながら、「しょうがないなぁ」と言おうとした時、誰かがキシェルを要から引き剥がした。
「このクソガキが、カナメがお前に甘いからって、調子に乗って付け上がってんじゃねーよ。」
  キシェルに対してこの容赦無い物言いをするのはカーティしかいない。ちなみに今の彼は部屋の中にいるので、魔物の姿をとっている。
「はなしてよっ、おろしてよっ!」
  襟首をつかまれて宙づり状態のキシェルは手足をバタつかせて抗議したが、カーティが聞く訳が無かった。カーティはキシェルを目の高さまで持ち上げると、
「バカのお前に言っても分らねーだろーけどな、カナメにはこの世界を救うってゆー、重い重い使命があるんだよ。この旅だってなぁ、その為にやってんだ」
「しってるもん。それにあたしバカじゃないもん」
  馬鹿呼ばわりされたキシェルが不愉快極まりないという様子で反論すると、カーティはキッとしてキシェルを怒鳴りつけた。
「だったらカナメの邪魔するな! いいか? これだけは覚えてろよ。お前が俺の邪魔すんのは全然構わねーさ。けど、カナメの邪魔すんのだけは絶対に許さねー。他の誰が許しても、この俺が許さねーっ!!」
  言って目をまん丸にしているキシェルを床に降ろすと、散らばった荷物を拾い上げ、要に手渡した。
「カナメにも一つ言っておくけど、あんまりキシェルを甘やかすな。いくらこいつの境遇が可哀そうだったからって、子供に弱いからって、ここまで甘やかすのはこいつの為にもよくない。親代わりになって、本気でこいつを育てるつもりなら、躾る為の厳しさも必要だと俺は思う」
「………」
  要は推し量れない程のカーティの真意を受けて、ただ項垂れて聴き入るしかなかった。そこにいるのは、いつもキシェルと同レベルで口喧嘩をしているカーティではなく、経験と分別を持ち合わせた老熟した青年だったのだ。
  しかし、だからと言って、子供に──特にキシェルには──ベタ甘の要がそう簡単に厳しくなれる筈も無く、要の中で新しく得られた真理と、今までの経験からに因る気性が激しく言い争っていた。幾何の時が流れ、開かれた銀の瞳には少し迷いが有ったが、次の瞬間には無理やりに拭い去られていた。
  キシェルの肩に手を置き、目線を同じくすると、静かな口調で諭し付けるように語り出した。
「キシェルの年にはね、まだ難しいだろうけどよく聞いて。人にはね、やらなきゃならない事が必ず有るんだ。そしてそれにはタイミングってものが有って、そいつを逃すと一生後悔し続ける事になるかもしれないんだ。だから聞き分けて、キシェル。今私がやるべき事は、世界を救う為に護苻を造る事なんだ」
「………あたしだってカナメのおじゃまはしたくないもん。こまってるかおもみたくないもん。……フゲツといっしょに、むこうのおへやでまほうのれんしゅうしてる。でもっ、カナメがしなきゃいけないことが、ぜんぶおわったら…」
  色違いの瞳から涙がこぼれ落ちる。キシェルは要の首にしがみつき、要はその小さな背中をポンポンと叩き、
「その時は一日中でもキシェルに付き合うよ」
風月に後の事を頼んだ。
  キシェルは要から離れて、風月に連れられて隣の部屋へ移って行った。カーティはそれを見届けて、伸びをすると、
「んじゃ、あー言った手前、俺も邪魔になるといけないから、町ん中でもぶらついてくるよ」
容姿はそのまま、色だけを変えてカーティは出口へ向かう。
「──カーティ、ありがとう。見直したよ」
「どう致しまして。どっちかって言うと見直すよりも、惚れ直してほしいな」
  振り返り、照れたようにはにかんで手を振ると、口笛を吹きながら出掛けて行った。
  一人になった要は二度、三度大きく息をつくと護苻を造り始めた。



  闇が統べる城の中で、六人の魔物がテーブルについていた。一人を除いて、皆近付く戦いに気が高揚しているようだ。
「もう、そろそろ遊び回ってる奴らをパルセドに集めた方がいいんじゃないの」
「そうだな、何と言っても闇月まであと二日しかねーしな」
  組んだ手に頤を預けているデーリアの言葉にゲシスが同意する。
「私達、当日はどうするの? 前に決めた通り足止めに徹すれば良いのかしら?」
  チャーイの呟きにガシェルが答える。
「足止めって言っても、僕達の力がイディアに通用するのかは分からないけどね。それに僕達が王の解封にお供する必要は無いだろう。王がお望みになれば別だけど…。もしそうだとしても、お供するのはマリージュだね」
  五人は嫉妬と羨望の眼差しで一位の魔物を見た。魔物は力に憧れる存在である。特に六人はラーズラーシャに直に創られた魔物達の生き残り故に、他の魔物達よりも王に対する敬愛の念が桁外れ強いのだ。
  そして敬愛の対象である王の信頼をほしいままにしているマリージュは、『当然』と言った表情で別段誇らしげに振る舞うでもなく、淡々としていた。というのも彼は元々、ラーズラーシャの右腕として創られたからだ。
「イディアらの動向は? 何か変わった所は無いのか?」
  相変わらず黙したままのマリージュを無視して、ライルーンが誰にとも無く問い掛けた。
「昨日、鏡で見てたらイディアは三黒の使い魔に『穢眼の兇児』まで仲間に連れてたよ。見ただけだけどその三黒は僕達、もしかしたらマリージュに匹敵するかも知れない。それに兇児の方は魔力まで持ってるし…。賢者共に次ぐ高位の魔法使いだよ」
  ガシェルの言葉と共にテーブルの中央に五十センチ程の人影が現れた。男二人、女(?)一人、子供一人、言わずと知れた要達だ。
「…はっきし言って今回は分が悪いぜ。十六年間に誕生した三黒はたった五十二人、俺らを合わせても五十八人。向こうは王と同等の力を持つイディアと守護神獣と魔力を持った『穢眼の兇児』、それにマリージュと対を張る使い魔、正に少数精鋭ってやつだな」
  ゲシスがテーブルの上で動き回る四人を睨みつけて、そう吐き捨てた。
「だからなんなのよ。しっぽ巻いて逃げるってゆうの? 好きにすればいいわ。気弱な奴が一人でもいれば全体の士気にかかわるもの。…ふんっ、それにしても情けないわね。死ぬのが怖いなんて」
  侮蔑を孕んだ視線を向け、チャーイが馬鹿にする。他の四人も同じような視線だ。
「勘違いすんなよ。俺が怖いと思う事はただ一つ。王がお勝ちになった時に、俺がお側に居ないかもしれないって事だけだ。確かに王の為に死ぬのは名誉な事だが、俺は死にたくねー。ずっと、ずっとそれこそ、この世界の命が果てるまで俺は王のお側に仕えていたい。―…万が一にでも、王が今度もイディアにお負けになったら死んでも構わねーよ。もう一万五千年も眠って待つつもりは無いからな…。それはお前らも同じなんじゃねーのか?」
  珍しく真面目に己の胸の内を明かすゲシスに、五人とも意外そうな表情を浮かべて居た。だが、彼の言ってる事が五人に共通する思いである事は明らかだった。
「……驚いたわ。あんたがそんなに真面目なのって、本当に久し振りだもの」
  チャーイは素直に感心しているようだ。神妙な雰囲気が場に流れ、それを吹き飛ばすかの様にガシェルがクスクス笑い出す。
「なぁんか珍しいよね、って言うより初めてじゃない? 僕達がこんな話をするなんてさ。いつもだったら、あの駒がどーのこーのと事務的な話しか交わさないんだもの」
「そうだな、いつもなら相手の揚げ足を取ったりとか、無視したりとかだからな」
「たまには良いんじゃないの? たまには」
  ライルーンに続いてデーリアがふんわりと微笑む。神妙な空気もふんわりと和らいだ。
「続きは戦いが終わってからにするのだな。今はそのように和やかに過ごす時では無い筈だ。闇月は我ら三黒でイディアを狙えば良い。後は人海戦術で足止めるなり、何なりすればいい」
  和んだ空気も感情も瞬間冷却され、六人は無言で立ち上がると、結果報告にラシャの元へと向かった。
  入室の許可が下った六人は、大きなソファのクッションに顔を埋めているラシャの前に跪いて、一人づつ挨拶をする。
  続いてマリージュが端的に戦いの手順について説明したが、ラシャはけだるそうに六人に目を遣るだけだった。
「王、いかがなされましたか? お顔の色が優れませんが…」
  ラシャに対して抜群の目敏さを持つチャーイだけでなく、五人共が気付くような憔悴ぶりだった。
「何でもない…少し頭がぼうっとするだけだ。気にする程の事じゃない」
「ですが…」
「気にするな」
  近寄って治癒を行おうとするチャーイを圧し止どめて、ラシャは座り直しクッションを抱え込み、脳裏に掛かる霧を払うかのようにぶんぶんと頭を降る。
(邪気を移し過ぎたか。それで精神が不安定になられたのだろうな…)
  マリージュの考えるとおりだった。マリージュは己が回復する毎に邪気を移していたのだ。故に、イディアに対する本能に近い『正』の感情と、マリージュが移した邪気に拠る敵への『邪』の感情が交錯している為、現在のラシャの精神状態はかなり不安定だった。 
  乱れた髪を掻き上げ、疲れによる大きな溜め息をつくとマリージュを指さした。
「解封について何の知識も無い俺一人では心もとないな…。マリージュ、お前ついて来い」
「!」×5
「…御意」
  最初から分かっていた事にせよ、マリージュは優越ではない安堵の微笑みを浮かべた。こうならなければ困る事情が彼には有るのだから…。
「もう下がれ。それと火急の時以外、十四日の夜まで誰も来るな」
「御意」
  挨拶をして退出すると五人は各々私室に帰って行った。勿論、その際にマリージュに対する皮肉を忘れる事は無かった。
  マリージュは一人仕事の残りを済ませていた。つまり、使い魔を除く全魔物に対する告知だ。長い廊下を歩き、幾段もの階段を降り、無数に並ぶ扉の内の一つの前で立ち止まった。中は十畳程の部屋で、燃え尽きる事のない蝋燭で造られた特殊な《魔法陣》で占められていた。ふわりと身を浮かせて《陣》の中央に足を踏み射れると、朗々たる声でパルセドへの集合を命令する。
  《陣》が蝋燭の明かり以上に輝いたのを確認して、彼は元来た道を戻り、門から己の居城へと戻って行った。



「!」×2
  尋常でない《気》を感じて、風月とカーティが顔を見合わせた。
「何だぁ? えらく邪気が集まって来てやがるぜ。……どーするフゲツ。カナメ…、起こす…か?」
  カーティの問い掛けに、風月は気が進まないと言う体で頭を振った。と言うのも、護苻を完成させる為に丸二日半、完徹を強いられた要から十四日の夕方まで起こすな、と言う厳命が下っているのだ。
「止めとこう。カナメが言った時間までまだ一日ある。下手に起こせば、十連発の往復ビンタを食らってしまう。…とりあえず、俺達でここと、近隣の町や村に結界張っておこう」
  昏々と眠る要と、同じく隣に潜り込んで惰眠を貪っているキシェルを見遣って、二人は南方灼土では珍しい豪雨の中へ窓から飛んで行った。勿論、表の通りに人通りが無い事を確認した上での行動である。
「それにしても凄ぇ雨だな。カナメが一声掛けりゃ、パッとやむんだろうけどなぁ」
  駆け足で結界を施しながらの会話である。当然の事ながら、彼らの体は一滴も濡れていなかった。
「今のところ、水の精霊だけが影響を受けて狂ってるけど、そのうち、いろんな精霊が狂い出すぞ。その辺も気を付けなきゃな」
  風月はそう答えると、見える筈も無い神殿を透かし見るように目を細める。
  そしてその言葉の通り、雨脚は更に強くなり、各地で火の手が上がり、地が揺れ、風が猛り狂うと言う惨事が起こった。
  精霊の声を聞き取る事の叶わない普通の人々も漠然とだが、これから始まるであろう大いなる者達の戦いを感じ取っていた。
  かくして、世界中の魔法使いにとって大忙しの夜は更けて行った。
つづく