『正邪』の剣
第十六章 解封
そこはかつて経験した事の無い、真の闇が支配する世界だった。常人ならば正気を失うであろう漆黒の闇の中を、要は高ぶる気を押さえて、ひたすら神殿を目指していた。
  神殿は闇に輝く一点の星となって要を導いていたが、例え視覚的な道標が無くとも迷う事は無いだろう。近付く度に高鳴る鼓動と、湧きあがる懐思の念は強く要を引き付けているのだから…。
(キシェル達は大丈夫かな…)
  海上に思いを馳せながら、猛スピードで突っ走る(?)要に、深海魚達は慌てて道を開ける。そして僅かづつだか確実に星は大きくなっている事に気付いた時、何かが煌めいた。
(? 何だありゃ)
  目を凝らしても距離があり過ぎるのか判別がつかない。鏡を創る暇もないので、とりあえず捨て置く事にした。しかし要が進むに連れて、煌めきは数を増し、黒一色に慣れた目を楽しませた。
  唐突に要の動きが止まった。にも拘わらず煌めきは大きくなっていた。
(こっちに向かってる?)
  再び神殿に向かい出すと、間もなく要は煌めきに取り囲まれた。
(ふわぁ〜、すっげー綺麗ェー)
  要がそう評した煌めきは全長十五メートル、幅七メートルはあろうかと言う巨大な青銀色のエイの群れだった。いやエイという形容だけでは充分では無いかもしれない。というのも、その背には鮫のような背鰭が有るし、鞭のようにしなやかな尾鰭も先端部分は鮫のそれに酷似しているからだ。そして、時折覗かせる歯も、いわゆる恐怖の二枚歯だった。
(もしかしてこれが風月の言ってた守護霊獣って奴なのか?)
  銀の乱舞に心を奪われながら風月の説明を思い出していた。
〈お帰りなさいませ、イディア様。我ら守護霊獣は貴方様のお帰りを心からお待ち申し上げておりました〉
  雄大に回遊を続ける霊獣は要を主であると認め、その帰還を喜んだ。
「とりあえず初めまして。ってゆうよりやっぱり…ただいま、の方がいいのかな?」
  強く伝わって来る喜悦の感を受け、要は柔らかく微笑んだが、一刻の猶予も許されない状況を思い出し、慌てて気を引き締めた。
「悪いけど今は呑気に挨拶してる暇は無いんだ。早く神殿に案内してくれ」
〈御意〉
  霊獣一同は素早くその意を介すとくるりと方向変換をし、要を中心に正三角形の隊列を組み神殿を目指した。
  神殿への道すがら、要は前を向いたままで霊獣に問い掛ける。
「今まで何人ぐらいが神力狙ってここに来たんだ?」
〈毎年二人か三人程の愚か者が現れます。が、神殿に到達した者は勿論の事ながら、誰一人としてございません〉
  誰からというでも無く帰って来たその答には誇らしげな響きがあった。
「毎年二人か三人。…て事は合計三万人以上四万五千人未満の人間がここで死んでるのか…。お前さん達も御苦労だったな、年に一回とは言え」
  その数字の多さに舌を巻きながら、要は霊獣に労を犒った。
〈いいえ、大体は取るに足らない雑魚ですし、その程度の輩はここにたどり着く事はございませんでした〉
「どうして?」
〈無明の闇を恐れて引き返すからでございます。実際我らが相手をした数は五十人に満たないでしょう〉
「へー。そん中で梃摺った奴っている?」
〈…七千年程前に時の大賢者が三黒と連れ立って来た折りは少々…〉
  言葉の調子から察すると本当に梃摺る程度だったのだろう。死闘を演じる程の戦いは一度も無かったようだ。
  そうこうしている内に神殿に到着した。真珠質で覆われた神殿は霊獣と同じように、自ら白銀の光を放っていた。
  要が真珠がしきつめられたテラスに降り立つと、守護霊獣は扉の両脇にずらりと等間隔に並んで通路を造った。まるで卒業式に通る花道のようだった。
「んじゃ、行って来る」
  霊獣に見詰められながら要は重そうな扉に触れた。いや、触れる寸前に扉は音も無く左右に開いた。
「!」
  一瞬。本当に一瞬、光が出来た隙間から要の目を射た。一万五千の長きに渡り、飽和状態にまで詰め込まれた光が飛び出したようだ。光は後に残るものでは無く、要は気を取り直して歩を進めた。
「お待ちしておりました、イディア様」
  辺りの空気から溶け出すように守護神獣が現れた。
(風月とそっくりだ。…って当たり前の事を感心してる場合じゃないな)
  そのとおりである。
「御苦労様。…知らないかもしんないけど事態は急を要するんだ」 
「存じております。どうぞこちらに」
  一頭が先導し、残りは要を囲んで歩く。前を見遣ると柩(のような物)が祭壇の上に浮かんでいた。
  中には二十四、五歳の大層な美男子が透明の馬鹿デカイ剣を胸に抱いて、眠りについていた。
「…………こいつがイールディオンで、前世の私なのか?」
  男を指さし誰にともなく尋ねた。それに対しての守護神獣の答は勿論、応である。
  つまり、要の生来の男っぽさはコレに因っているのだった。
「まあ、いいけどさ」
  頬をポリポリと掻いて呟いてはいるが、今いち釈然としてないようだ。
「にしても何だよ、この剣は。こんなの振るって戦えっての?」
  要がそう言うのも無理は無い。これこそが伝説の神剣・『正邪』であるのだが、その刀身は一メートル四十センチ。柄を合わせると要の身長程にもなった。その刀身の幅も根元で三十センチ、柄から一メートル二十センチの辺りで二十センチ程まで細くなり、そこから先は急激な鈍角をなしていた。そして太く長い血溝には神聖文字で銘と祝福が刻まれている。その見た目の重さは、要が今使用している剣の優に五倍はありそうなのだから。
「大丈夫です。とにかく神力の解封を…。総てはそれからです」
  にっこり笑って神獣達は解封を促す。
  要は深く溜め息をついたが、言っている事は正論なので反論の余地は無い。
「まあ、いいけどさ」
  再び繰り返して柩に手を伸ばす。緊張の為、僅かに震える指が触れた時、眩い光が世界を白く染め上げた。
  光が引いた後には既にイールディオンも剣も消え失せていた。
  要は変化していた。
  銀の髪、銀の爪、そして銀の瞳は正色である白を宿して白銀と化しており、額には真っ白な神紋が戴かれていた。ついでにいい加減綻び薄汚れていた服が、光沢ある白地の長衣に変わっていた。先程までイールディオンが纏っていた服が、そのまま要の体に合わせてサイズがダウンしたようだ。
  また要は外面だけでなく内面も変化していた。瞬時にして要は総てを思い出した。
  世界の成り立ち。自分を創った女神の遺言。命を懸けての凄絶なる戦い。その果てに強く魅かれ合った者の存在を。そして真実の自分が何であるのかを。
「そうか、そうか真実の私は……」
  最後の呟きは声に現れなかった。
  パンッ
  突然要は両頬を挟むように叩いて気合を入れると、拳を握り締め天を仰ぐ。
「……感慨に耽ってる暇なんか無いんだ。私が今すべき事はただ一つなんだから。守護神獣、ついて来い。お前達の力が必要になるかも知れない」
「仰せのままに」
  一人と十頭の姿が唐突に消えた。 



  要が神殿に向かった後の海上では、尚もマリージュへの攻撃が行われていた。駆け付けた十賢者も加わり、それは熾烈なものへと変容して行った。間断無い執拗なる攻撃にマリージュは苦悶の相を呈し、獣のような咆哮を上げていた。そして、一際高い垉哮がマリージュの口から吐き出された時、大爆発が起こった。
「グゥォオオオオオァァアアアア―!」
「うわぁああっ」
「きゃあああ―!」
「や―っ!」
  マリージュを中心として、広域が水蒸気と化した。数瞬の事ではあったが、海にはクレーターが出来ていたのだ。そしてその場にいた全員は咄嗟に障壁を張ったのだが、完全に無傷という訳にはいかず、かなりの傷を負っていた。
「……穢眼の威力を見誤っていたようだ」
  静かな声が響いた。吹き飛んでいた身体は既に再生を終えていた。傷一つ無い黄金律の裸身が星明かりを受けて仄白く輝いている。
  すっと心持ち右手を掲げると、その身は黒衣に包まれた。そしてそのままキシェルを指す。
「そろそろ幕にしよう。先ずは……貴様だ」
「!」
  その声音には圧し殺した怒りは感じられない。本当に静かな声だった。だがそれ故、聞く者は例え難い恐怖を感じ、金縛りを受けた。
「カナメッ、カナメッ、カナメ―ッ!」
  呪縛を振り払ってキシェルは助けを求めた。しかし、望む者が現れる筈も無かった。
「案ずるな。苦痛を与えるような事はしない」
  マリージュが掌を向けた。その手が淡い光りに包まれ、誰もが幼女の死が揺らぎ無いものと確信した時、強大な―マリージュには及ばない―存在が現れた。
「! 生きて…いたのですか」
「コケにされたまんまで死ねるかよ」
「……コケにしたつもりなどありません」
  死んだ筈のラシャの登場にさほど驚いた様子は無く、淡々とした声で簒奪者は答えた。
「王がっ、王が生きて、生きていらっしゃった!」
  次々と呪縛を破り、魔物達が歓声を上げる。そんな中、カーティは緊張の余り気を失いかけ、落下しかけたキシェルを慌てて抱きとめた。
「おいっ、しっかりしろ!」
「あ、あたし、たすかったの?」
「おうよっ! ラシャ様が生きていらっしゃったんだ。見ろよ、もう奴にはお前にかかずらってる暇はねーさ」
  カーティはキシェルに対しては珍しく、と言うより初めて全開の笑顔で応えた。キシェルの方も自然に素直に頷いてカーティにしがみつき、一触即発の雰囲気を擁する二人を見遣った。
  そして問題の二人は距離を置いたまま、擦れ違いの会話を続けていた。
「私の邪魔をしないのであれば、命を取るつもりはありません。そこでおとなしく控えていて下さい」
「はい、そーですか、って言うとでも思ったか? 勝手な御託を並べるな。もう俺は決めたんだ。お前は殺す」
「ならば仕方ありません。死んで下さい」
「断るっっ! …お前達! 絶っ対に手を出すなよ! 出したら殺すっ!」
  突如、マリージュの居た空間が弾け、黒光りする漆黒の血が飛び散り、戦いは始まった。マリージュは破裂した肉を撫でて癒し、雷竜を召喚してラシャに投じる。雷竜が咆哮と稲妻を吐き散らしながらラシャに喰らいつく。
「黎明より続く清き時の流れよ 刃となり 牙となりて 我が敵を貫けっ」
  空間が刃となってラシャから放たれ、竜を引き裂いた。ラシャは間断を置かず、ありったけの《呪文》を続けざまに詠唱し、マリージュを攻撃する。要の時と同じように、マリージュは余裕を持って総ての攻撃を受け止めていた。
「駄目だ、全然通じやしない」
  余波を食らわぬように、少し離れた所で戦いを固唾を飲んで見守っていたゲシスは絶望の声を上げる。
「このままでは、王が殺されてしまうわ。やっぱり助勢した方がいいんじゃないの?」
  デーリアがおろおろと仲間に提案するが、男達は先刻釘を指された事に固執していた。誇り高いラシャの事、近付くだけでも消し飛ばされるに決まっているのだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。間もなくマリージュは自滅します」
「えっ?」
  風月が戦いを見詰めたまま呟き、請われるままに理由を述べる。
「器が違うんですよ、魂と言う器が」
「器が?」
  聞き返すライルーンに頷いて、風月は説明を続ける。
「ご存じの通り、魔力は使えば損なわれます。けれども、神力は使う毎に増大するのです。今は多分、神力はマリージュという器に満たない状態でしょう。けれど直に満たされ、溢れる事は間違いありません」
  そしてさらなる超魔術の応酬が繰り返された後、風月の言ったとおりマリージュの神力は暴走を始めた。神紋は裂け、漆黒の血が、力が噴き出した。
「な、何故、何故だ!?」
  マリージュは額から飛び散る血に染まった手を、激しく震える手を、ひどく間抜けな呆然とした顔で見詰めて居た。
  一瞬の隙。それを見逃すラシャではなかった。鋭利な黒銀の爪でマリージュの脇腹を切り裂いたのだ。
「ぐはっ!!」
  先程までなら何ともなかった傷だが、神力が暴走した今、耐え難い激痛に感じられた。そんなマリージュは脇腹を押さえながらラシャを睨みつけた。
「借りはきっちり返したぜ。こいつは利子だ」
「ぐぅわぁああああっ!」
  再度、マリージュの絶叫が絶え間無く繰り返される波音を消し去り、黒衣に包まれた体がぐらりとかしいだ。
  マリージュの背からは黒い血にまみれた手が突き出している。その手に握られているのは、不可視の核だった。
「ラ、ラー…ズラ…シャさ、ま…!」
「言いたい事はそれだけか? じゃあ、これでおしまいだ。消えろ、マリージュ」
  側近でさえ今まで見た事のないようは残忍な笑顔を浮かべ、彼はそれを握り潰した。
「……!!」
  見開かれた瞳に光は無く、呟は声にならず、吹きすさぶ風に飲み込まれてマリージュは塵になった…。
「うわっ」
  しんみりしかけた雰囲気は、ラシャの叫び声で一瞬にして打ち消され、世界は闇の洗礼を受けた。器を無くした神力が真の主の元に戻ったのだ。奇しくも要の解封と時は合いまり、光と闇が交錯が激烈を極めた。雷霆の交錯が鎮まると、ラシャ、いやラーズラーシャは閉じていた目を開いた。金色を、創造色を戴く瞳は先刻のマリージュ同様静かだった。総ての真理を知り尽くし、総てに対する興味を無くした、そんな感情の無い瞳だった。
  だが、その身から放たれる神気が激しい憎悪である事は疑いようも無かった。近寄り難い、というよりも近寄れない程の憎しみがラーズラーシャを中心に渦巻いていた。
「来るか…」
  金の瞳を不気味に輝かせ、ラーズラーシャは遥か海底を見通していた。
  風が止まり、波が消えた。二柱を除く総てのモノが、これから始まる戦いを感じ取って動きを止めた。
「お待ちどー様っ」
  お気楽な声と共に白い集団が現れた。
つづく