『正邪』の剣
第十八章 擦違
「………」
  暗闇の中、ぼやけた彼の目に映るのは輪郭の崩れた白い天蓋。
「?」
  寝ぼけた眼。思考力が鈍っているのか、記憶が曖昧で自分の置かれている状況が理解出来ていないようだ。彼が仄白く輝く手をついき、身を起こそうとした時、
「目が覚めたのか?」
カツカツと足音が近付き、天蓋から垂らされた紗羅の向こう側で立ち止まった。
「気分はどうだ?」
  声の主が紗羅の影から顔を覗かせた。
「イディア…? ここは、私は一体…」
「『正邪』を食らって気を失ったんだ。丸一日眠ってたぞ」
  要は紗羅を柱にくくりつけると、持って来た椅子をベッドの側に置き、浅く腰掛け足を組んだ。
「『正邪』…そうか…。私達は戦って…それから………」
  順を追って蘇る記憶。呟きは最後溜め息で締めくくられた。
「やっぱり私の勝ちだったな」
  意地悪く追い討ちを掛ける要に、ラーズラーシャはそっぽを向いてぶつぶつと文句を言う。
「まさか『正邪』が効かないなど思いもしなかった…」
「―お前には、私が『正邪』の鞘だって事は言ってなかったもんな」
「鞘…? ―何だそれは!? では、どう戦っても私は勝てなかったのではないか」
「だから言ったろ? 歴史は繰り返す、って。──目が覚めたならもう大丈夫だな。そんじゃ、私はこれで…」
  真剣に悔しがるラーズラーシャに、要は自信たっぷりに言い切って立ち上がった。
「? どこに行くのだ?」
  問うラーズラーシャに要は呆れ顔で振り返る。
「どこって、部屋に帰って寝るんだよ。お前は気を失ってたから知らないだろーけど、あの後総ての《復活》やって、それから王宮の侍女の子達が怖がってここに詰めるの嫌がってたから、今までお前に付き添ってたんだぞ? あれから一睡もしてないんだ。いくら私でもヘトヘトだ」
  体力・魔力は神であった間に完全回復していたが、いかんせん、精神力の方はそうもいかず、限界近くまで擦り減っていた。
「それは申し訳無かったな」
  全然、全く申し訳なくなさそうな口調に要は眉根を寄せる。
「今の言霊に取っとけば良かった…」
「それは残念だったな。──そう言えば神力はどうしたのだ?」
「……人としての意識が飲まれそうだったから封印した。この中に」
  そう言って要は下げていた首飾りを外して見せた。鎖は細い白金。だが付いている石は大きなそれは見事な金剛石だった。長さ五センチ程の楕円形の石を透かし見ると中には三センチ程の剣が収まっている。
「神殿の壁に嵌まってたのを使ったんだ。まあまあの出来だろ?」
  頷くラーズラーシャから封印を受け取り、首に下げ直してにっこり微笑む。
「んじゃ、私は帰るからお前ももう少し休むんだぞ。お休み―って、わっ!!」
  踵を返し、扉に向かおうとした要は、いきなり、二の腕をつかまれ引き戻された。突然の事で体勢が崩れてベッドの上に転がり込んでしまった。
「危っ…!」
  怒鳴り声は、少し冷たく、そして少し震えたラーズラーシャの唇によって永遠に封じられた。濡れた唇がそっと離れ、ラーズラーシャは要の胸の中にしがみついた。………いささか男女逆の構図である。
  一方要は要は呆然としており、なすがままになっていたのだ。
(今…何が…。も、もしかして今の…キ… )
  しばらくすると、あまりのショックに急停止した思考回路が回り出し、事実を認識した途端、真っ赤になってラーズラーシャを引き離そうとした。が、ビクともしない。ちなみにマウス・トゥ・マウスのキスは愛情表現過剰気味の両親にもされていたのだが、今とは全く意味合いも度合いも違ったのだ!
「離れろよっ! おいっ、おいってばっ!」
「……この世界にお前を感じた時からずっとこうしたかったのだ…」
  要の動きが止まった。半分は諦め、もう半分は今の言葉の内容に気を取られた事。
「殺そうとしたのは誰だっけ?」
  背中に回った腕がギクリ。
「あ、あれはマリージュに裏切られて自棄になっていたのと、イディアの事を憎悪しているチャーイが同化したのと、神格を得たら性業が『邪』に統一されたのと…」
  あたふたと言い訳をするラーズラーシャを心の中で楽しみながら、冷たく突っぱねる。
「ふーん」
「あ、あのチャーイは側近の中で一番…その、なんと言えば…」
  不意に不思議な安心感が要の中に広がった。次いで睡魔が怒涛のように押し寄せる。
「少し待ってくれ、…と。わっ」
  要がラーズラーシャ押し倒した。とは語弊で、ただ単に眠り込んでしまったのだ。
(ね、眠っている…? ………そう言えば疲れたと言っていたな)
  かなり拍子抜けであったが、自分に掛かる要の重さと、服を通して伝わってくる暖かさにラーズラーシャはこの上ない安堵を覚えて目を閉じた。
(不思議なくらいに心地よいな。………前世は私が無性で、今生は同性か。しかし今生でも子が望めぬとは真に残念だ。……だが―まあいいか。共にいる事こそが私の望みなのだから)
  恐ろしい事を考えながらラーズラーシャは暫くのあいだ要を感じ、そして昔のようにその胸の中に潜り込んだ。 そしてしばし懐かしの寝顔を盗み見る。
(少し性格が変わったか? でも、それが一万五千年前のイールディオンの願いだったのだから善しとしよう)
  額と瞼と頬、そしてもう一度唇に口付けて横になり目を閉じた。
  眠りに落ちたラーズラーシャのその顔は明るい未来を信じて暖かく柔らかな微笑みを浮かべている。しかしながら、要の中にあるラーズラーシャに対する感情は純粋な好意以外の何物でもなく、彼が要の事を同性と思っている以上要の激怒を買うであろう事は必至であり、彼が望む未来、つまり要が彼を愛人と認めるまでには、かなりの年月を要する事を彼は知らない……。



「ふ、う…ふぁ〜あっと」
  豪快なあくびが要の口から漏れたのは朝昼夕方を過ぎ、再び星が瞬いてからしばらく経った頃だった。つまり要は二四時間眠り続けたのだ。
(よく寝たなぁ〜)
  身を起こし、伸びをすると眠り過ぎて鈍った体がギシギシと悲鳴を上げる。
「よく眠れて良かったな」
  部屋の隅から不機嫌な声が投げ掛けられた。見遣るとラーズラーシャがソファに跏をかいて大きなクッションを抱き締めて要を見据えていた。
「? どうしたんだ?」
「どうもしないっ」
  明らかに不機嫌な顔でラーズラーシャそっぽを向いた。
  彼の不機嫌の原因は二つ。一つは王宮の者達の彼に対する反応。暇潰しに王宮内の散策に出た彼は、会う人会う人に逃げられる。そのくせ遠くの方からこっそりと覗き見ているのだから始末に悪い。ちなみにラーズラーシャは元が創魔神故に、三柱中一番人気が無いのだ。
  そしてもう一つは要にあった。実はあの後、彼は自ら創り出したベッドで眠らされる羽目になったのだ。それもこれも要の寝相の悪さ故だった。初めに顔を殴られ、腹を蹴られ、最終的にはベッドから蹴り落とされた。かくして要は障害物(?)のいなくなったベッドを独り占めし、大の字になって安眠を貪り、一方ラーズラーシャは一人寂しく眠りについたのであった。しかし要はいつも起きる直前にはキチンと布団を被って真っすぐ眠っているし、いつも一緒に眠っているキシェルは小さいが故に被害にあった事がないので、自分の寝相の悪さを知らない。故に真実が分かる筈も無く、頭の回りに?マークを飛ばしていた。が、はっきり言わないラーズラーシャの態度が気にいらないのか、
「なんか引っ掛かる言い方するなぁ。言いたい事があるならさ、はっきり言えよっ。―こらっ、ラーズラーシャ! こっちに来い!」
  バンバンッとベッドを叩いて、ラーズラーシャを呼び付けた。ラーズラーシャは最初ツンとつっぱねていたが、要が頬を膨らませて睨みつけると不承不承と言う体でベッドに腰を降ろした。が、やはり不機嫌な顔でそっぽを向いた。
(何だ? この不機嫌さは…。何かしたっけな)
  この不機嫌さに要はふと不安を覚え、ある仮定を思い付いた。自分が気付いていないだけで、何かまずい事をしてしまったのではないか、と。ほぼ的を獲たその考えはどんどん要の中で膨らみ、それ以外考えられなくなった。
「ごめんっ!」
「え?」
「だから、ごめん!」
  いきなりの謝罪にラーズラーシャは目を丸めたが、うろんげに眉を寄せ、
「………お前、自分が何の為に謝っているのかを理解しているのか?」
と問うた。
「………分からないけど、多分何かしたんだろ? だからそんなに怒ってるんだろ? だってお前は理由も無しに怒るような奴じゃなかったから」
「………」
「ラーズラーシャ? 私は何を…」
  自分の答に俯き無言になったラーズラーシャにさらなる不安を覚え、要は怖ず怖ずと尋ねた。するとラーズラーシャは小さく肩を震わせて笑いだし、要にしがみつき、
「忘れた」
と答えた。
「お前の顔見てたら忘れてしまった。もう思い出す必要も無いだろう、そのような事など」
「だけど…」
「………そんなに詫びたいのなら」
「詫びたいのなら?」
  顔を除き込む要に再びしがみつき、
「接吻てくれ。お前の方からまだ接吻て貰ってない。瞼と、頬と、額と、そして唇に接吻てくれ」
キスを強請った。
「え……って。ええぇっ!?」
(冗談っ!!)
  にしてしまいたかったが、当のラーズラーシャは目を閉じて待ちかまえていたのだ。
(マジかよ………)
  要は脂汗をだらだら流して固まっていた。だが、腹を括ると瞼と、頬と、額にキスをした。
「唇には?」
  目を閉じたまま催促をするラーズラーシャ。
「うっ、分かってるよっ」
  要はそう言い捨てると、両手でラーズラーシャの頬を挟み込んでそっと唇と重ね合わせた。
「! わっ」
  不意に支えを失ったかのようにラーズラーシャが仰向けに倒れ込んだ。つられた要も、ラーズラーシャにのし掛かるように倒れ込み、咄嗟に肘を付いて身体を支えた。驚きを隠せない要をラーズラーシャは潤んだ熱っぽい瞳で見つめる。
  思わず鼓動が高まった要だが、
(………こーゆー場合って、普通男が上なんじゃないのか?)
物凄く納得しきれないように眉根を寄せていた。
  そんな要の心中を知らないラーズラーシャだが、要の怪訝そうな表情に小首を傾げて起き上がった。
「どうした?」
「………う〜ん、普通さこーゆー時って……、男がリードするモンじゃないの?」
  との言葉にラーズラーシャは更に首を捻った。
「それはそうだが……。気にする事もないだろう。男同士なんだし、どちらが上か下かなんて」
    バキィッ!!
  瞬間、見事なまでのスクリューアッパーがラーズラーシャの顎に叩き込まれた!
「…………………」
「…………………」
  顎を押さえて呆然自失状態のラーズラーシャの沈黙と、怒りに体を震わせ、ラーズラーシャを睨みつける要の沈黙とが白々と流れていった。
  しばし意味合いの違う視線が絡み合っていたが、ようやく要が怒鳴りつけようと口を開きかけた時、ラーズラーシャは目を見開いたまま、煙の如く姿を掻き消した。



  翌日から三日間、世界を上げての祭が行われた。この世界に来た時から要は目的を果たし次第、地球世界に帰ると言っていたのだが、国王からの懇願により祭が終わるまではこの世界に滞在する事になった。
  盛大なパレードが繰り広げられた。華やかな衣装を纏って踊り狂う若者達。滅多に無い稼ぎ時と精を出す香具師や大道芸人達。王宮から無料で振る舞われた酒や料理をたらふく食らって眠りこけるホームレス等々。それらの波を掻き分けて、身を窶したキシェル達は一生涯に有るか無いかの狂乱を楽しんだ。しかし要はあの怒りが収まらず、心の底から楽しむ事が出来ずにいたのだった。
  祭の後の世界は一種独特の空虚な色に染まり、要はその空気の中トゥハに向かい両親の墓前に訪れた。抱え切れない程の花束を供えて、キシェルを連れて地球世界に帰る事を報告し、王宮に帰還した。
  そして出発日前夜。今宵は内輪でのささやかな宴が開かれた。それでも要、キシェル、カーティ、風月は勿論、人型を採った他の守護神獣や守護霊獣、直系王族、十賢者、並びに大臣以下諸侯等で、七十人強と仲々の数字であった。さすがに熱狂の嵐は去り、人々は落ち着いた会話を交わすようになっていた。
「しかしバディガル殿は大変でしたね」
  ウォーレンがグラスを手渡しながら要に話し掛けた。
「そうだな…」
  要は手にした酒を飲み干して──おいおいっ──頷いた。
  バディガルは約二年程前からの記憶を失い、王が以前言ったとおりの凡庸な人物になってしまったのだ。
「ところでラーズラーシャ様はどうなさったんです? この三日間、全くお会いしませんでしたが…」
  ふと気付いたようにウォーレンが問うと、要は少し不機嫌そうに表情を曇らせて、
「知らない」
とだけ答えた。
「喧嘩でもなさったのですか?」 
「喧嘩なんかしてなさ。ただ言うに事欠いてあいつがっ…」
  言葉を切るやボッと顔を赤くした要を見て、ウォーレンは大方の察しをつけた。姿は若くとも千六百歳を越えているのだ、あらゆる経験も場数も踏んでいても不思議ではない。そしてその経験を生かし、ウォーレンは何かを言おうと口を開きかけたが、にっこり微笑むだけに済ませた。事恋愛に関して口に出すのは、特にこの二人には余計な事であると判断したのだ。
「…そうですか。喧嘩したのではないなら結構。後はお互いの歩み寄りだけですね」
  ウォーレンはそう言うと、人込みの中に消えていった。含みの有る物言いに頬を膨らませてその背中を見送った要に、今度はラキスは話し掛けた。
「やあ、この度は御苦労様。剣の腕前も見違える程上手になって、師匠としては鼻が高いよ」
「いっぱい戦って、いっぱい殺したから…」
  その時をぼんやりと思い出しながら、要は新しいグラスに口を付けた
「………君はこの世界に来た事を後悔…してるのかな」
「―…命を奪って罪の意識を感じるのは命を大切にしてないからだって、でもそれは裏を返せば命の大切さを知っているからだ、って母さんが言ってた。私は今まで気にも止めずに小さな生き物を殺してた。私は…自分がどれ程の命の上に成り立っているのかを知らなかったし、知ろうとも思わなかった。でも、ここに来たお陰でそれを知る事が出来た。来た時は突然だったんで怒ったけど、今は感謝してる」
「そう、それはよかった」
  柔らかく微笑むラキスに、子供のような笑顔を返す。
「うん、それに友達がたくさん出来たし、何と言っても父さんと母さんに会えた事が一番だ。―そうだ、十賢者にもお礼がまだだった。代表してラキスに言っておくよ。どうもありがとう、父さんと母さんをこの世に留どめておいてくれて」
「どう致しまして。でも感動の御対面が見れなかったのはとても残念だったよ。―おや、大臣が呼んでいる…じゃあ僕は失礼するよ。ああそうだ、未成年なんだから余り飲み過ぎないように」
  軽く手を振ってラキスも又、人込みの中に消えて行った。
(少ししか飲んでないんですけど…)
  ザルである要の『少ししか』は、ボトル一本の事である…。
(暑くなってきたな…少し涼もう)
  額に浮かぶ汗を拭って、要はバルコニーに出た。
「良い風だなぁ―」
  思わず声に出る程心地よい風が吹き抜けるテラスの手摺に腰掛け、要は再びグラスを口元に運んだ。その時、
「イディア…」
  ラシャが夜風に乗って姿を現した。
「ラー…シャ。……何か用かよ」
  思わず駆け寄りかけたが、先の一件を思い出し、ふいっと横を向いた。
「散歩しないか?」
  その様子にラシャは小さく、弱々しく微笑むと天を指さした。そして返事も聞かずにフワリと飛び上がった。
「ちょっと待てよ」
  要は慌てて後を追う。どれ程上昇しただろうか。遥か眼下にある地上と王宮の灯が満点の星の灯と微妙に地平線で交じり合い、宇宙空間を漂っているような不思議な気分になる。
「綺麗だな…お前が今も昔も護りたがった世界は…」
「うん…」
  ラシャの意図は分からないが、とりあえず要は頷いた。綺麗なものは綺麗なのだ。
「……でもお前は出て行ってしまう。この世界を捨て、俺の知らない世界に行ってしまう」
「捨ててって…大袈裟な。ラシャ…。ラシャ! こっち向けよっ」
  だがラシャは依然として背を向けたままだった。イラついた要は肩をつかんで強引に振り向かせた。
「……! お、お前、何泣いてんだよ」
  同年代の男の泣き顔なぞ見た事の無い要は、驚きまくってラシャの顔を覗き込む。
  不意に抱き付かれた。
「俺にとってお前は総てなのに、お前にとって俺は…」
  抱き締める腕に力がこもる。
「お前にとって俺は一体何なんだ…? お前は俺の事をどう思ってるんだ? この四日間ずっとその事だけを考えていた。直接お前に聞けば済む事だけど…出来なかった。怖くて聞けなかった」
  血を吐くような悲痛な声。水晶のような涙が要の白いマントに淡い染みを造る。
「こんな事なら人になど成らなければ良かったんだ。そうすればお前と離れる事も、戦う事も無かった。男同士だからって拒まれる事もなかったんだ!」
  バチンッ
  ラシャの白い頬に強烈な平手打ちが炸裂した。
「な……!」
「お前、あんなに強く抱きしめても、この四日間考えてもまだ私がなんなのか判らないのかっ!!」
  いきなりの平手打ちと、感極まって泣き出した要に驚いて、ラシャの涙が引っ込んだ。おろおろと要の肩に手が伸ばされる。が、要はその手を強くはたいて拒絶する。
「触るなっ! もういいっ、もうお前の顔なんか見たくないっ! お前なんか大っ嫌いだっ!」
  そう叫ぶと要はぐるんと踵を返して、物凄い速度で王宮へと帰って行った。
  残されたラシャは激しい拒絶の後の大嫌い宣言にただ呆然とするのみで、追い掛ける事さえ出来なかった。
  ―全ては要の男らしさとラシャの鈍感さに故に起きた悲(喜?)劇なのであった。



「あちらでもお元気で頑張って下さい」
「これ皆からのお土産。向こうのご家族やお友達にどうぞ」
  そう言ってジュニマイラが小さな箱を三つ手渡した。
  ここは要が召還されたホールだ。あの時と同じように四方から差し込む光がまるで要の旅立ちを祝うかのようだった。
「こいつが世界中で美味いと言われてる酒と肴一揃え。こいつが置物とか装飾品で、こいつがあんたの為に誂えた式服。結構詰め込んでるから開ける時は気を付けろよ」
  トトラトが箱一つずつの説明をする。
「うん、わかった。ありがと、そんなにたくさん」
  礼を言ってから要は箱を制服―地球に帰るので着ているのである―のポケットに入れ、こぼれないようにボタンを止めた。
「イディア様ぁ」×2
  涙声にギクリと振り返ると、目を真っ赤にしたダリルとザーナであった。
  実を言うと彼女達は物凄い超高倍率を勝ち抜いて、イディア付きの侍女になったのである。戦いも終わり、やっと自分達の仕事が出来ると思った矢先、元の世界に帰ると言い出したのだ。彼女達のショックの度合いは推して知るべし、と言うものだろう(笑)。
「な、泣かないでよぉ〜。あ、あの暇見付けたら絶対に遊びに来るし、学校終わったらこっちに住むかもしんないし、その時は、ねっ? 二人の世話になるからさっ」
  相変わらず泣く子に弱い要は例に漏れず、慌てて二人を宥めに掛かる。
「本当ですか!? ―ぃやったぁ!」
  いきなり泣き止んだ二人に戦きつつも要が頷くと、二人は手に手を取って喜び、周囲の目に気付いて顔を赤らめて鎮まった。いよいよ真っ赤になる二人に、少し暗かった雰囲気に光が射した。
  最後に風月が歩み出る。
「カナメ、体に気を付けて。キシェルも良い子でいるんだよ。カーティ、二人を頼んだぞ」
「任せとけって。―お前、ほんとに一緒に行かないのか?」
  カーティにとって風月は馬の合う仲間なのだ。その仲間が同行しないのは、彼としては少々寂しい事なのである。
「ラシャ様の事が気掛かりだから…」
  風月は二人の間に何があったのかは知らないが、激しく落ち込んでいるラシャを放っておける筈が無かった。
「あんな奴、ほっときゃいいんだよっ」
  要の鋭い声が飛んだ。
「あ…ごめん、ついムキになっちゃって…。ごめん」
  赤くなって要は皆に誤った。
「青春だねぇ」
「全くだねぇ」
  トトラトとカートが茶を啜りながら──どこから出したんだ?──老人くさく呟いた。
「なんだよそれは」
「ぶぇつぅにぃ」×2
  不機嫌そうに聞き返す要に二人ともニヤニヤ笑うだけで答えようとはしなかった。
「キシェルちゃん、また遊びに帰っておいでや。お菓子ぎょーさん用意して待ってるからなぁ」
  キシェルの事をいたくお気にいりのアルマリアが、キシェルを子犬のように抱き締める。
「うん、おばさんありがとう」
  怖いもの知らずのキシェルの言葉に、アルマリアはがっくりと頽れた。
「おば…、……うちはまだそんな年やないんやで」
「千過ぎてるくせに、よく言うよ。このおばさんは…いててててっ!」
  からかったパルトバールは即座に報復を受けた。
「はいはい、そこまでそこまで。喧嘩は止めだ、二人とも」
  呆れた調子でセリオスが止めに入る。
「はぁ〜い」×2
  間の抜けた返事に雰囲気が更に軽くなった。
「──それじゃ、そろそろ行くよ。みんな元気で」
  各々の頬にキスを交わして《陣》を造る。
「イディア様っ、お元気で!」
「うん、みんな本当にありがとう、またねっ!」
  光が凝縮し一気に弾けた。
「──行っちまったな…」
「そうね…」
  皆の背後で足音がし、振り返ると憔悴の色の濃いラシャが佇んでいた。
「ラシャ様! イディア様はもう行ってしまわれましたよ」
「分かってる。ずっと見ていたから」
  ラシャは消えた《陣》の後を見詰め続けていた。
「…私達はお邪魔でしょうから、これで失礼します」
  気を利かせて十賢者はダリルとザーナを連れてホールを出て行った。しばらく続いた沈黙を破ったのはラシャの方だった。
「あいつは変わったな。同性だからって拒まれて、嫌われるなんて思いもしなかった」
  ラシャは大きく溜め息をついた。
「はっ?」
「何度も言わせるな、辛いんだから」
  額に汗を浮かべて、風月は震える声でラシャの真意を確かめる。
「ラ、ラシャ様、もしかしてイディア様にそのような事をおっしゃったのですか…?」
  頷くラシャを見て風月は心の中で頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
(イディア様がが怒り狂っていらした理由はコレか。………本当にもう、だから少しは女性らしい色合いの服を着て下さいって申し上げたのに。それにしてもラシャ様って、案外鈍くていらっしゃるのだな)
  風月は息を静めてラシャに言って聞かせる。
「いいですか? ラシャ様、今生のイディア様は女性です」
「嘘だ」
  妙に確信を持って即答するラシャに風月は頬をひきつらせた。
「だって俺より背が高くて、昔の通りの雄々しさで、それに何よりも胸なんか全くなかったぞ」
「………貴方様よりお背が高くていらしても、昔通り雄々しくいらしても、……胸が乏しくていらしても今生のイディア様は女性なのですっ。そして貴方様以上に多感な十六歳の少女でいらっしゃるのですよ!? それなのに第一の理解者であるべき筈の貴方様からその様な事を言われれば深く傷付かれるに決まっているではありませんか!!」
「!」
  ラシャは蒼白になって身体を震わせた。
「お、俺は知らない内にイディアをひどく侮辱していたんだな……。クソッ! これじゃ心の底から軽蔑されたって当たり前じゃないかっ!」
  時間を戻してしまいたかった。勿論、それは神たる存在になれば可能な技であった。だがそれは他でもないイールディオンの協力があって初めて為されるものなのだ。結局の所、覆水盆に返らず、なのである。
「もう顔も見たくないと言われた。それ程に嫌われた。謝ることも出来ないっ。もう二度とイディアをこの手にすることは叶わないっ。………死んだ方がマシだ」
  「もうそれしかない……」と呟くと姿を消そうとした思い込みの激しいラシャを、大慌てで引き留める風月。
「お待ち下さいっ。どうして貴方様は昔からそう極論に走られるのですかっ。………よぉくお聞き下さい。イディア様は貴方様の事を嫌ってなどいらっしゃいません。私とあのお方の名にかけてもかまいません」
「じゃあ、イディアは俺の事を愛しているとでも言うのか?」
  疑い眼でラシャは問う。
「今はまだそこまでは…。ですが私に言える事はイディア様は決して貴方様の事を嫌ってなどいないと言う事だけです」
「………根拠は?」
(…口止めされてないし、言っても…いいかな?)
  僅かな逡巡の後、風月は意を決して語り出した。
「……イディア様がこちらにいらしてまだ間もない頃、貴方様の夢をご覧になったそうです。勿論、昔の記憶が無い訳ですから、イディア様御自身も夢の人物が貴方様だとはご存じありませんし、私もお教えしていません。イディア様は夢の人物、つまり貴方様の事を、見ているだけで心が暖かくなるような人だと、笑顔を見ているだけで幸せを感じるような人だとおっしゃってました」
「それって…」
「きっとイディア様は好きとか嫌いとか、そういう感情を越えて、貴方様という存在を大切に思っていらっしゃるのですよ」
「………!」
  目を見開くラシャに風月は頷いて更に言葉を繋ぐ。
「これは今生でのイディア様のお父様のお言葉です。『誤りは正さなきゃならない。誰かを傷付けたらなら償なわなきゃならない。だけど死は償いじゃなく、ただの逃げだ。逃げちゃいけない。生きる事を止めちゃいけないんだ』僕はその通りだと思います。イディア様は確かに貴方を邪険に扱われるかも知れない。それでも貴方様はそれを乗り越えなければならないのです。全ては貴方様の総て、イディア様と共に在る為です。………追い掛けますか?」
  風月はラシャの顔を覗き込む。
「──止めとく」
「何故?」
  理由は分かっているがとりあえず聞いてみる。
「今の俺じゃあいつと釣り合わない。イディアの総てを理解して、イディアの総てを包み込めるようになってから改めて会いに行く。とりあえずはイディアよりも背を高くしなければな。大丈夫、時間はたっぷりあるんだ」
  万人を魅了する艶やかな笑顔で、声の届かない異世界の少女へと告げる。
「覚悟しろよ、イディア。俺は必ずお前を手に入れてみせる!」
つづく