(あたし何やってんねんろ?)
湯船に浸かりながら沙羅は膝を抱き締めた。
あれから一時間後、なんとか夜明け前にマンションにたどり着いた沙羅は気力を使い果たして気を失い掛けた。
海から殆どノーブレーキで(勿論信号無視しまくりだ)、クラッチ操作もろくにせず突っ走って来た訳だが、無事に到着したのは奇跡と言えるだろう。出発して三分で既に手足の感覚は無くなっていたのだから。
ともかく気を失い掛けた沙羅はもう一枚の着物にくるまれ、晶

に抱き上げられて家に入った。その後晶

に頼んで冷めた湯の中に下ろしてもらい、約一時間を掛けて血の気と共に感覚を取り戻した。
最初熱湯に感じられた湯はいつの間にか、沙羅の体温を奪うようになり、沙羅は改めて湯を沸かして、服を脱いで人心地をついた訳だ。
(ホンマに何やってんや………。あんな初対面の奴のゆー事真に受けて家まで連れて来て。ホンマに………)
沙羅は抱き締めた膝に顔を埋めた。
(幻覚やったんや。そうや、そうに決まってる)
だがそう思う端からあれらが紛れもない事実である、と二つの証拠が沙羅を打ちのめす。
へその辺りで見事なまでの切り口で切断された分厚い皮のジャケットとセーターとデニムのシャツ。
そして腿から臑に掛けて、決して消ないケロイドを負っていた筈の両足が、全てが現実なのだと物語っているのだ。
(………自分で決めたんやないか。自分が信じたんやないか。人生迷っててもええ事あるかい。前進あるのみやっ!)
沙羅はそう決意すると風呂から上がった。バスタオルを体に巻き付け、球をもって脱衣所から、
「晶

ーっ。窓の方向いて目ぇ瞑れぇー」
と大声を出した。それからトテトテとリビングまで歩く。
(ありゃ?)
見れば晶

はカウンターの椅子に腰掛けて眠っていた。
(なんや、寝てたんかいな。──このままやったら風邪ひくんとちゃうか。………着替えてから起こしたろ)
意外に幼い寝顔を盗み見てから沙羅は自室に戻ってスウェットに着替え、リビングに戻る。
「晶

、起きや。風邪ひくで。晶

」
「ん………」
「ぎゃっ!!」
沙羅が肩を揺すぶって起こすと、何と晶

はぎゅぅっと沙羅を抱き締めたのだ。
「ちょ……、晶

っ!ちょっ、おいっ」
「璃巛………」
広く大きな胸から逃れようともがく沙羅をしっかりと抱き締めて、晶

は過去の人物の名を呼んだ。
「寝ぼけるなっ!」
「ぐっ!」
晶

の顎に肘打ちが炸裂した。
「痛ぅ……。り、璃巛、何をする……。さ、沙羅?」
「見た通りやがな。分かったらとっとと離してや」
「す、すまない。すっかり寝惚けてしまって………」
漸く戒めから解き放たれた沙羅は、何回か深呼吸してから、
「ったくもぉ。疲れてんやったら横になって寝ーや。床暖めてあるから雑魚寝でも大丈夫やろ。それから、腹減ってるんやたっら冷蔵庫──あれになんか入ってるから勝手に食べたらええわ。あたしは寝るから起きるまで起こさんといて。あ、トイレはそこの扉。んじゃ、お休み」
と言って部屋には行って布団に潜り込んだ。
(璃巛て誰の事やねんろ? ………ふん、あたしには関係ないわ。早よ寝よ)
胸に残る小さな痛みを振り払って眠りについた。
そして取り残された晶

は自分の修行不足を情けなく思って深々と反省していたのである。
陽もどっぷり暮れて午後七時。十三時間もの間、延々と惰眠を貪り続けた沙羅の活動時間が漸く始まった。
着替えてリビングに出ると、晶

はベランダに出て眼下の夜景に見入っていた。窓が開けっ放しになっていたので、はっきり言ってリビングは寒かった。
「コラッ、窓閉めとけへんかったら温い空気が逃げてまうやんか。勿体ないなぁ。………ホラ、入りっ、今からこっちの事説明するから」
サッシに寄りかかってそう言うと、沙羅はカーペットの上に座り込んで胡座を掻いた。
「沙羅、この鍵はこれでいいんだな?」
ガラス戸を閉めた晶

が鍵を指して念押しのように尋ねた。
「……………………」
ふと沙羅の心に一抹の不安が過ぎった。
「晶

、ちょおおいでや。こっち、こっち」
立ち上がってキッチンに入り、流しの前に立って手招きする。大人しく沙羅の言葉に従ってキッチンに入った晶

に、
「こっからは水が出ます。さて、どうすれば水が出るでしょーか」
普通ならばこれ程相手を馬鹿にした問い掛けはないが、当の晶

は、
「えっ!? ここから水が出るのか!?」
だった。その返答を聞くや、ガックリと床に膝をついた沙羅の頭の中は真っ白に燃え尽きていた。
(よ、予感的中。こいつホンマに何も知らんのやないか。………どないしょ。一から十まで教えなアカンのかいな……。あぁ、めんどいなぁ、もぉ)
「沙羅、何をしてるんだ。それよりもどうすれば水が出るのか教えてくれ」
子供のように目を輝かせて晶

は沙羅を急かせた。
(………ホンマにもぉ、しゃあないなぁ)
かくしてこの物知らずな青年を現代人に仕上げるべくスパルタが始まったのだった。
そして二時間後には沙羅が思いつく限りの日常生活を晶

はあっさりとマスターしてしまった。
実際晶

は優秀な生徒で一度見た物、聞いた事は忘れも、間違えもしなかった。お仕置き用に用意した物差しも遂には使われず終いだった。
「おもろなぁ…、折角物差し用意したのに無駄になってしもたやんか」
「………もしかしてそれで撲つつもりだったのか?」
「当たり前やん! ──まあええわ、次行くで。次は日常生活外出編! ……て行きたいけどそのカッコはあんまりやな」
力強い肯定にガックリ項垂れた晶

を放って、沙羅はどんどん話を進めていった。が、新たな問題点に気がついた。
沙羅の言う通り、晶

の格好は全く日本的でない上、表着の二枚は沙羅にやってしまった為にひどく不完全だった。
「晶

、ちょお立ってみて。………ん──、百八十……七、八。そんなもんやな。ちょっと待っとき。服、買ぉてくるから」
沙羅は自分と晶

を比較してみて大雑把に身長を測り、ジャケットを取りに部屋に向かおうとした。その時、
「此界じゃ、こんな遅くまで市が開いているのか?」
との心底感動した様子の晶

の言葉に沙羅はバッタリと倒れてしまった。
「沙羅っ! 大丈夫か!?」
「だ…大丈夫や。ちょっと力が抜けてもうただけや。あー、あんな、ユニクロやったら十時まで開いてる筈やから大丈夫やろ。あんたは家ん中歩き回って、分らん事捜しとき」
フラフラと立ち上がると財布とバイクのキーを持って出ていった。
そして一時間後、大きな紙袋を抱えた沙羅が帰ってきた。
「はい、コレがこっちの標準の服。あたしの部屋で着替えといで」
紙袋を手渡し、自室を指さす沙羅に晶

は怪訝そうに尋ねる。
「………どうやって着れば良いんだ?」
バッタァ──ン
再度沙羅がぶっ倒れた。
(あたしのアホアホアホアホ──っ! 水の出し方知らん奴が洋服の着方知っとる訳ないやんか──っ!!)
「沙羅っ、どこか具合が悪いのか!?」
慌てて駆け寄り跪いた晶

を、沙羅は心底厭そうな顔で見上げた。
「………あーっ、もう、くそぉっ。服の着せ方ぐらい手取り足取り教えたるがな!」
結局着替え終わるのに三十分もの時間が費やされた。その大半は下着に掛かった訳だ。
正に悪戦苦闘(沙羅だけだが)の末、晶

は(外見だけだが)立派な現代人になった。
「もぉこれからは一人で着てやぁ……」
疲労困憊の相でカーペットに突っ伏して沙羅はそうぼやいた。勿論晶

は真面目に頷いて応える。
「すまない、何から何まで世話になりっぱなしで」
俯せになっている沙羅の頭の近くに腰を降ろした晶

が自嘲気味に呟いた。
「気にしぃな。あたしは自分で決めた事をやり遂げてるだけや。あたしはな、やさぐれてるけど自分がゆーて、自分で決めた事くらいの責任は持つで」
ゴロンと仰向けになって沙羅は自分を覗き込む晶

に笑って応えた。
「沙羅は素晴らしい人間だな」
「ブッ!」
大真面目な晶

の言葉に沙羅は思わず吹き出し、
「あ、あんた、よーそんなくさい事真顔で言えるもんやなぁ。………まー、ホンマのあたしを知らんさかい言えるんやろうけどな…」
そして自嘲した。
「俺は人を見る目はかなりある方だぞ? その俺が言うんだから間違いないさ。沙羅は素晴らしい人間だ」
「………ありがとぉ。誉められて悪い気はせんわ」
力強い肯定に沙羅は素直に笑って応えた。
親子断絶のあの日以来、とことん人を疑って掛かるようになった沙羅は、他人の誉め言葉など信用した事がなかった。それなのに不思議な程晶

の言葉はするりと沙羅の心の中に溶け込むのだ。
出会った時、あれ程簡単に晶

の言葉を信じた訳はコレに因っていたのだ。
「? 沙羅、これは玉…あの球か?」
ふと気づいたように晶

は身をかがめて顔を近づけた。伸ばされた手が、長い黒髪が沙羅の耳に、頬に触れた。
ボンッ
「え?」
見る見るうちに沙羅の顔は真っ赤になっていった。
「あ…、すまないっ」
顔を近づけ過ぎている事に気付いた晶

は慌てて身を起こした。沙羅はと言うと努めてゆっくり起き上がり、努めてゆっくり振り返り、
「これか? 肌身離さず持ってなアカンのやったらこれが一番と思ってな。服買ってる間に知り合いに頼んどいたんや」
何事もなかったような素の顔で右耳に光るピアスを説明した。
「そう、か」
「うん、そうや。んじゃさ、日常生活外出編を兼ねて外で飯喰おか。考えたらあたし、丸一日何も喰ってへんかったわ。──さてと、ちょっと待っといてな」
立ち上がると沙羅はクルリと背を向け、ある扉の中に入っていった。
(あれは『といれ』とかいう厠牀だったな。じゃ沙羅の支度がすむまで夜景を見ていよう)
晶

も立ち上がるとベランダに出て光の洪水を楽しんだ。
一方沙羅は扉を閉めるや、ズルズルッとへたり込んでいた。その顔は再び真っ赤になっている。
(あ──ビビッたぁ。思っくそ反応してしもたやんか。………どーもあのぬっくい手には弱いみたいやなぁ)
改めて思い返すとあの微睡みの中での晶

に撫でられた感覚が蘇る。同時に熱く胸が疼く。
あのように優しく撫でられた事のない沙羅には少し辛さを伴う感覚ではあったが、それでも確かな嬉しさがこみ上げる。
(人の手って誰のんでもあんなに温いんやろか?)
火照る頬を包む自分の手はとても冷たい。
(なんやろ、もうあの手触らん方がええような気がしてきた)
それは未知の感情に対する無意識の防衛本能だった。だがその感情を分析しきれないまま、沙羅はとりあえず用を足してリビングに出た。
「ごめん晶

、ほな出掛けよか……」
(何処行ったんや、アイツは。一人で外にいく行く筈ないし。……何やまたベランダかいな)
開いている鍵に気付いて沙羅はガラッと戸を開けた。
「晶

、お待ちー……晶

っ! どうしたんやっ? 大丈夫か!? しっかりしぃ!!」
顔を出すなりぶっ倒れている晶

に気付き、沙羅は慌てて駆け寄った。
「晶

! 晶

っ!!」
「………大、丈夫だ……。しばらく、すれば………治まる、から」
脂汗がひっきりなしに流れ落ちる様子は全く大丈夫そうには見えなかった。
「どこがやねんなっ!! ちょっと待っときや、医者…いや、救急車呼ぶからなっ。それまで我慢するんやで! って、ちょっと! 手ぇ離しぃや!」
立ち上がろうとした沙羅の腕を、晶

は強く握り締めて引き寄せた。
「晶

っ!!」
「命に………障りはないっ。だから、だから」
「───分かった。分かったから、せめて中に入ろ。なっ? 肩貸すから、ほら、頑張ってや」
これ以上喋らせない方がいいと判断した沙羅は晶

の脇に肩を入れ、グンッと立ち上がった。部屋に入るとカーペットの上にそっと晶

を寝かせる。
「ぐっ………」
「晶

、大丈夫か? ホンマに医者呼ばんでいけんのか?」
常の沙羅を知る人間には信じられないくらいオロオロとした涙声で尋ねる沙羅に、晶

は間断無い激痛に耐えながら、実に暖かく柔らかい微笑みで頷いて見せた。
「! ……」
「さ、沙羅!?」
晶

の慌てた声に我に返ると沙羅は晶

を抱き締めていた。と言うよりもしがみついていた。だが、気付いた後でもその手を解く事はなく、更に強く腕に力を込めた。
いきなりの抱擁に驚きを隠せなかった晶

だが、己を包む柔らかく暖かな感触と、少し速いが規則正しい鼓動に安堵を覚えて目を閉じた。すると心なしか激痛が和らいだ気がした。
(不思議だ…。どんな術も仙薬もこの痛みを和らげる事は出来なかったのに…)
そして晶

の脳裏にただ人であった頃の、遥かなる昔が蘇る。
全てが信じられないと自暴自棄になっていた自分を正してくれた存在。親でも、兄弟でも、臣下でもなく、心からの優しい睦言を交わした存在は言葉などではなく、ただ抱き締めると言う行為だけで心を癒してくれた。言葉などでは言い尽くせない愛情でもって進むべき道を照らし出してくれた。
その頃の新鮮な感動が鮮やかに蘇る。
(女とは…本当に不思議な存在だな…。儚く、流されるだけかと思えば、大事になると男など及ばない程強く大きくなる)
沙羅の胸中に頬を埋めながら、改めて女性に対する尊敬の念を噛み締めていた。
そして小一時間が過ぎた頃、例の通り唐突に痛みは消えた。
「ふ──っ」
緊張を解いて大きく息を吐いた晶

だが、沙羅の方は相変わらず強く晶

を抱き締めたままだった。
「沙羅。沙羅、もう大丈夫だ。痛みは治まったから」
「……………」
「沙羅、本当に大丈夫だから」
安心させる為に背中をポンポンと叩いてみると、漸く沙羅は腕を解いた。その目はうっすらと涙で潤んでいた。
「心配させてしまったな。これは俺の………持病なんだ。色々あってすっかり忘れてたが、日が改まる毎に痛む。治る事はないが、命に障る事もない。そういう病なんだ」
「………………ビビらしなやぁ。ホンマにもぉ…。今にも死にそうな顔して何が大丈夫やねんなっ。いー加減な事言わんといて! ………あたしゃてっきりご臨終かと思たわ」
脱力してガックリと肩を下ろす沙羅は縁起でもない事を言った。
「……治らん病気ってゆーたけど、命に別状無いってホンマなん?」
「ああ…、本当だ」
「…それやったらええわ。不本意ながらあんたとは一蓮托生なんやからな」
あっさりと自分の言葉を信じた沙羅に、晶

は呪いではない痛みを覚えた。
真実の寿命は三年足らず。九十九まで生きるつもりのこの少女は希望の五分の一程しか生きられないのだ。
(このまま隠し通すべきなのか…。だが、いずれは分かる事だ。………言えば、やはり俺の事を憎むんだろうな。それで『二度と顔見せるな!』とか言われるんだろうな)
今更ながら、沙羅に対してかなり前向きな好意を抱きつつある晶

にはかなり辛い事なのだろう。晶

はブルーを通り越してダークネスになってしまった。
「ちょっと! 何激しく落ち込んでんねんよ! 要はあんたが長生きすれば済む事やろが、なっ?」
激しく落ち込んでしまった晶

の肩をバンバン叩いて、沙羅は「何でもない事やん」と笑い飛ばした。
そんな沙羅に苦笑を返して晶

は沙羅を抱き締めた。
「ちょっ…、何すんの!」
「何って抱擁」
「そそそ、そんなん分ってるがな。なんですんのよ!」
「何故って沙羅が可愛いから」
「ア、アホかいっ! 早よ放せっ」
ジタバタ暴れる沙羅をしっかりと抱き締めて晶

はくすくす笑う。
「さっきは沙羅から抱き締めてくれたよなぁ。うっすら涙なんか浮かべちゃって、本当に可愛かったよ」
「あ、あれは、その、えと、なんや…」
「そう言えば沙羅に抱き締められてると痛みが和らいだ気がしたんだが、これからも頼もうかなぁ」
「! ぜ、絶っ対にやったらへんっ」
「くっくっくっ、沙羅。俺は仙人とは言え男なんだからな。あんまり可愛らしいとこうゆう事になるぞ? 自分が大事なら男に隙を見せるもんじゃない」
言ってやっと晶

は軛を解くや、沙羅は部屋の端までズザザザッと遠ざかって何度も大きく息をついた。
「ば、馬鹿モン! 家主に対してなんちゅう事すんねん! 追い出すぞ!?」
「くっくっくっ、分かった、分かった。だから、これから気を付けてくれ」
微笑む晶

に沙羅は頬を赤らめ、ギリリと歯を食いしばり、
「今度やったら、ホンマに追い出すからな!」
ビシィッと指差すと、
「何か買ぉてくる!」
と言って家を出ていった。その後ろ姿を晶

は暖かな愛情でもって見送る。
(………軽口を叩き合っている方が、内心を気取られないか………。だが、いつまで持つ事か)
ガラス戸に凭れて晶

は厳しい顔付きになった。
晶

の内心…後ろめたい真実と、沙羅への思い。勿論隠しきる自信はある。だが、それにも限界があろう。その時に沙羅は、輝く生命力に満ちあふれた沙羅は失われるのだ。それは昊天国が失われるのと同じくらい耐えがたいものであった。
(参ったな……。今更こんな思いに取り付かれるなんて…。此界に来るべきではなかったな。…悔やんだとして全ては後の祭り、だな。もう沙羅に出逢ってしまったのだから。今更離れる事など考えられん)
何千年ぶりかの恋。
思い返せば沙羅は璃巛に、最初で最後の人とした彼の女に似ている所がある。
(そこに惹かれたか。気が強くて、そのくせ寂しげな目をしたところがそっくりだ)
苦笑して晶

は沙羅の帰りを待つ。
(もう、触れるまい)
触れれば沙羅を傷付けてしまうだろう。
癒される事のない傷を心に負わせてしまうだろう。
その結果、沙羅は歪んでしまうかも知れない。それこそ晶

が最も望まない未来だ。
(登仙修行よりも大変な日々が始まりそうだな…)
しかししかし、この晶

の悩みを知らぬ沙羅は、まずい事に、初めて得られた温もりを無意識の内に求めるようになっていた。
社会見学の為外出すると、気が付けば手を掴まれている(別に何も繋がれている訳ではない)。
机に向かい、文字の勉強をしていると気が付けば背中合わせで眠られている(ただ単なる背凭れとの見解もある)。
そして日々の呪いが始まると何処にいても駆け寄って抱き締めた。
そんな感じで気が付けば、気が付けばが続き、出逢いの日から一月余りが経ったある日の事。晶

の我慢は限界に近付きつつあった。
その日は本を読む晶

の膝枕で眠るという、端から見れば実に新婚ほやほや、ラブラブバカップルのような事態が発生したのだ。
コレにはさすがの晶

も困り果てていた。
沙羅からすれば父親の膝で眠っているつもりなのだろう。が、晶

にして見ればそれが分かっている分だけ針の筵そのものだったのだ。
ついには無邪気に微笑んで眠る沙羅を憎らしく思える程にまで我慢は限界に近付いた。
だが、元仙人のプライドと理性で以て自制すると、少し沙羅にお灸を据えることにしたのだ。
晶

は脇に本を置き、大きく深呼吸し、気を落ち着せてから身を屈めて唇を触れ合わせた。
「ん……? わっ! ビックリしたぁっ!」
うっすらと目を開けるや、床に肘を付き、鼻先三センチに迫った真摯な顔に驚きを隠せなかった。
「ちょっ…、晶え…。ちょおっ!」
身を滑らせて起き上がろうとして沙羅は肩を押さえつけられて、強引に口付けられた。
「んんんんんっ!」
沙羅は必死の抵抗を試みたが、晶

の力は予想以上に強く、そして初めてとも言える濃密な口付けに力は失われて行くばかり。次第に手足は痺れて晶

を押し返していた両手はバタンと床に落ちた。と同時に執拗に舌を絡ませていた晶

は唇を離した。
晶

は静かな表情で沙羅を見つめ、沙羅は目を見開いて晶

を睨んだ。
「だから言っただろう。俺に…男に隙を見せるなって。……これに懲りたら…」
諭し付けるように語り出した晶

の口が凍り付いた。
(………やはり、やりすぎたか……)
尚も睨み付けながら沙羅は泣いていた。
ふーっと溜め息を吐き、晶

は流れ出した涙を拭おうと沙羅の頬に手を遣ると、ビクッと沙羅が震えた。怯えの色濃い沙羅を見ると、晶

は自嘲して三メートル程距離を置いて腰を降ろした。
「………………」
嗚咽を漏らしながら沙羅は起き上がり、力無く晶

を睨み付ける。
「……だからて……。だからて、なんでこんな……」
言葉に出来ず、俯いて涙を流す。
「そうだな……。本当に悪いのは俺の方だな。この気持ちを抑える事が出来なかったのだから、全ては俺の修行不足だ。何も知らない沙羅を責めるのはお門違いも甚だしい」
「気持ち……?」
首を傾げる沙羅に晶

は自嘲気味に頷いた。
「………言うつもりはなかった。言えば沙羅を苦しめるだけだと分かっていたからな。だから、この命が果てるまで沙羅を見守って生きようと心に決めた」
真っ直ぐ沙羅を見つめて晶

は複雑な胸の内を語る。
「だが、結局は抑えきれず、こうして沙羅を傷付けてしまった。本当にすまなかったな…。俺は………此界に来るべきではなかった」
「………ぃてへん」
俯きながらぼそりと呟いた。
「え?」
「傷付いてへんってゆーたんや。……むっちゃ驚いたけど、思わず泣いてしもたけど、あんたがゆーてるようには傷付いてぇへんよ」
グイッと乱暴に涙を拭うと、少し余裕を取り戻したのか沙羅はニッと笑った。
「それに不思議とイヤな感じはせんかったもん。前にアホな知り合いが同じよーな事して来よったけど、気持ち悪ーてしゃあなかったもん」
ニャハハハと照れ笑いを浮かべて沙羅は言った。ちなみにそのアホな知り合いは撲殺寸前の目に遭って全治三ヶ月の重傷を負った。
「沙羅……?」
晶

は「まさか…」と言う思いで沙羅を見つめた。見つめられて照れた沙羅はフイッと視線を逸らし、大きく深呼吸をしてからもう一度、真っ直ぐ向き合った。
「あたしは…、多分、あんたの事が好きなんや、と思う。今まで人を好きになった事無いからよー分らんけど、あたしはあんたの事が好きや」
「沙羅…!」
驚愕に目を見開く晶

に小さく微笑み掛けて、沙羅は誰にも話した事のない本心を語り出す。
「あたしな、家庭の事情っちゅーのがさ、余所に比べてエライどろどろやねんな。そのせーか、どーも人間不信の気があんねんけど、それでも信用できる知り合いも何人かおる。でも信用できるようになるまで何年か掛かんねん。………あんたが初めてやで? 初対面でゆー事信じたんわ」
「…………」
晶

は無言で腰を上げると膝歩きして距離を詰め右手を伸ばす。そして沙羅の頬に触れる。
「!」
ビクついた沙羅に晶

は反射的に手を引いてしまった。
「…なんかあたし、あんたの手には弱いみたいや」
「手?」
その言葉に晶

はまじまじと己の手を見た。
「うん、なぁんかあったかーて、優しーて。最初ん時もそーやった。そぉゆー風にされた事無かったからなんか悲しかったけど、むっちゃ気持ちいーんや」
「そうなのか?」
コクンと頷く沙羅に晶

は恐る恐る頬に触れてみた。再び沙羅は身を強張らせたが、今度は手を放さなかった。沙羅は目を閉じ、左手を重ね合わせてその温もりを確かめた。そしてそっと目を開くと自分も右手を伸ばして晶

の頬に触れた。
擦れ違っていた視線が一つに絡み合った。
晶

はそっと顔を寄せた。先のような奪う激しさなど無く、触れるだけの口付け。触れて離れてお互いを見つめると沙羅は真っ赤になってそっぽを向いた。
晶

は苦笑すると両手で沙羅の頬を包み込み、正面を向かせる。悪あがきをする沙羅は目のやり場に困って視線を泳がせた。
「沙羅」
「うっ……」
少し諫めるような声音に沙羅は渋々視線を合わせた。愛しさを満面に湛えて晶

は唇を重ねる。沙羅も必死に応える。やがて晶

の手が服に伸びた。
「ちょ、ちょっと!」
「厭か?」
とのストレートな問いに沙羅は、うっと詰まった後、
「…………イヤやない……」
消え入りそうな小さな声で答えて堅く歯を食いしばった。晶

の唇が喉元から胸元に移動するにつれ、そうしなければ大声で叫び出しそうになったからだ。だが、頭の奥の方は意外と冷静で、
(何で、服の着方を知らんかった奴がブラの外し方知ってんねん)
と晶

の手際の良さに少なからぬ疑念を抱いていた。
「あ…っ」
激しい快感が沙羅を支配し、首を左右させた時、沙羅はベランダに信じられないモノを見た。
それは一人の男。年の頃は二十四、五。晶

よりも少し若いくらいの、長い白髪と薄茶の瞳が印象的ななかなかの美男子だった。そして晶

と同じく古代中国的な着物。
男は二人の濡れ場にポリポリと頬を掻いていたのだが、沙羅と目が合うと不遜にもひらひらと手を振ってきたのだ。
「…………晶

……。晶

っ。晶

ってば晶

!!」
しばらく呆然と男と向き合っていた沙羅は我に返ると、何も気付かず愛撫を続けている男の名を連呼し、その背中を叩いた。
「痛っ。痛いっ、沙羅! 一体…」
「アアア、アレ。アレッ、アレッ!」
「アレ?」
非難の声を遮って沙羅がベランダを指差す。それに従い体を捻って晶

は外を見た。
「! 天

天

じゃないか!」 いる筈のない腹心の姿に驚いた晶

はバッと立ち上がり掛けた。が、霰もない姿の沙羅を天

に見せる訳にもいかず、先ずは沙羅にシャツを着せ掛けた。と。……もしかして知り合いなん?」
ボタンを留めつつ、セーターを着つつ沙羅が怖ず怖ずと尋ねると、晶

は苦虫を潰した顔で頷いた。
「あ、あたし部屋にいっとくから!」
「沙羅!」
言うなり沙羅は自室に駆け込んだ。追った晶

は眼前で扉を閉められ、深々と息を吐いた。
ベランダでは解錠を急かすように天

がにこやかな顔でガラス戸をノックしている。とことん間の悪い腹心に再度溜め息を吐いて晶

は扉を開け、
「いつからそこにいたんだ?」
げんなりした様子で問うた。
「つい今始方でございます。声をお掛けしようにもお掛け出来ない状況でしたので、どうしようかなぁ、と思案に暮れておりましたら、彼女と目が合いましてね。思い切って手を振ってみた次第でございますよ」
「………………。ああ、そのままで入るな。沓を脱ぐんだ。此界では住居に於いての土足が禁じられている」
にぃっこりと笑て答えた天

に三度目の大きな溜め息を吐いて晶

は中へ招き入れた。
「失礼します」
断って天

は足を踏み入れ、後ろ手に戸を閉めると、徐に跪き叩頭して、
「御尊顔拝し奉り、恐悦至極に存じます。お見受け致しましたところ、大事無く、恙無き御様子、真に欣喜の限りと存じ上げます」
と、つらつらと口上を述べた。
「………天

も無事で何よりだな。昊天国は、……斂意はどうしている」
「自ら仮王を称され、主上の還御をお待ち申し上げておいでです」
「仮王だと!?」
その言葉に投げ遣りな様子を一変させて晶

は天

を見た。が還御なされても恙無きようにと日夜奔走しておいでです」
「………相変わらず頭の固い男だな……」
「人の上に立つ者、それくらいでなくてどうします。主上の頭が柔らか過ぎるんですよ」
顔を上げるや呆れた表情で主を評した。
「玉座を投げて、異界に渡って、俺達が必死で探し回ってるってのに、あーんな可愛い女の子と乳繰りあっちゃってまあ、よぉござんしたねっ」
憤慨した様子の天

に、晶

はキョトンと目を丸くした。そして、
「………天

が怒るなんて珍しいな」
と、てんで的外れな事を呟いた。ボケた主に天

はヒクヒクと頬をひくつかせた。
「どうしてそこに論点が移るんですかっ! ったく、俺でなくとも怒りたくなりますよっ。何処の天国に主の最後を看取らない神獣がいますか! 主上はご存じ無いかも知れませんがね、それって物凄ぉく不名誉な事なんですよ!! 忠誠誓う前ならまだしも、千年も仕えた主を見取れないなんて………。情けなさの余り憤死しそうですよ!」
「………そうなのか? それは知らなかったな、すまない」
ぜいぜいと肩で息をする腹心に晶

は座って頭を下げた。
そうすると天

も照れ隠しのために言った自分本位な言葉を思い返して恐縮するが、言ってしまったものはどうにも出来ず、うじうじ落ち込んでいた俺達もいけなかったんですけどね」
とボソボソ横を向いて呟いた。
「でも、とにかく昊天国には戻って戴きますよっ。残り四月。何が何でもお仕えさせて戴きますからねっ!」
「四月? 残りはまだ二年と九月は有る筈だぞ?」
「えっ!?」
「ほら、確かに印は二つと半分以上有るぞ」
ボタンを外して晶

は珠印を確認した。
事実晶

の主観でいくと、霊夢のあの日から三ヶ月も過ぎていないのであった。
「どうやら此界と彼界では時の流れ方が違うようだ」
「幸運と言うべきでしょうか…」
天

が複雑な思いを込めて呟いた時、カチャリと扉が開き、着替え直した沙羅が姿を現した。この者は……」
立ち上がり天

を紹介しようとした晶

を、沙羅は厳しい顔で見上げる。
怪訝そうに小首を傾げる晶

に、感情を押し殺した低い声音で問う。
「戸の向こうで聞こえてきたんやけど、看取るとか、残り二年と九ヶ月とかって何よ」
「! 天

っ。お前、まさか玉を持っているのか!?」
「勿論ですよ。主上から戴いた物ですからね。皆、肌身離さず持ち歩いていますよ」
慌てふためく主を訝しく思いながら、天

は右袖を捲った。余り肉のない、色白い手首には玉と水晶で造られた数珠が煌めいていた。
「沙羅」
紡ぐべき言葉が見つからない。そんな晶

の様子に、沙羅は二人の会話の真意を理解した。
「前に命には障りはないってゆーたけど、嘘やったんやな」
「…………」
「はっきり言いや!!」
鋭く詰め寄る沙羅に観念したように晶

は真実を語り出す。
「………全部が全部嘘じゃない。あの痛みは俺を苦しめる為のものだから、実際命に障りはないんだ」
「あのね、お嬢さん。主上はね、あるド根性の悪い、性格ひん曲がった神女に呪いを掛けられているんですよ」
「天

!」
主と少女の会話から、大体の成り行きの予想を付けた天

が横から口を挟んだ。
そんな天

に沙羅はきびしく誰何する。
「呪いぃ? 何よそれ、大体あんたは誰よっ」
「これはこれは失礼致しました。私は昊天国後ロ王朝初代天王、こちらにおわします晶

様にお仕え申し上げます白鳳で、字を天

と申します。以後お見知り置きを…」
優雅な仕草で挨拶した天

を、沙羅はこれ以上はない程胡乱気な目を向けた。
「『こうてんこく』って何処よっ! 『てんおう』ってなんなんよ!? あ───っ、もうっ、何もかも分らん! 晶

っ。全部分かるように説明しっ!!」
癇癪を起こしてがなり立てる沙羅の声は隣にまで届いていた………。
つづく