真王・晶

の帰界(表向きは快気)祝いは実に盛大に行われた。
昊天国の吉兆、白き六獣が天空を舞う光景は正に壮観と言うべきものであった。
(えーと……。あのホワイトタイガーが號閃で『白虎』、白い竜が

暉で『白竜』……まんまやなぁ、亀やら鹿やら魚やらのごちゃ混ぜ鳥が天

で『白鳳』、白い火だらけの鳥が伯英で『白雀』、白ガメが樂峯で『白亀』、一本角の鹿っぽいのが粋珠で『白麟』やったっけ? ………うん、おーてるな)
沙羅は昊天国王城・白帝城の宛われた房室の露台で、蒼穹を乱舞する六獣の識別をしつつ、カンペで確認しつつ、カルチャーショックを克服していた。
………そう、沙羅は昊天国にいるのだ。
あの後、天

から事の顛末を事細かに仕入れた沙羅は当然の如く激怒した。
自分に害を為す者は一遍の情けも掛けずに排除してきた沙羅にとって、晶

の………いや、九天総ての、相手が神だからその罰を甘んじて受ける、と言う受動態精神が我慢できなかったからだ。
その時のやり取りを少しリプレイしてみると………。
『こんな消極的な奴に付き合って、後残り三年弱の命やと? 冗談ちゃうわっ。やってられるかい!!』
『そんな事を言ったって、これが俺の運命なんだから受け入れるしかないだろうがっ!! 大体九天の理を知らない沙羅に何が分かる!!』
『自慢やないけど学校行ってへんからなぁ、コトワリやてこ難しい言葉なんか知るかいな。でもなぁっ、道理ぐらいやったらあたしかて知ってるわ。どう考えてもあんたとこの世界は道理から外れてる!!』
『九天は上帝を中心に回っているんだ。その上帝に逆らったら昊天国はどうなると思っている!!』
『昊天国のことやてあたしには関係ないっ! もうええっ、あんたが出来んのやったらあたしがやるっ!!』
と言う、売り言葉に買い言葉でこうなってしまった訳だ。
そしてその後、大反対の晶

を無視して、結構乗り気の天

と共に界を越えたという次第だ。
しかし、気負って来たのは良いが、余りの前時代的な世界に度胆を抜かれてしまったのだ。
(科学的なモンが一っつもなくて、代わりに超常的なモンで溢れ返ってる。けったいな世界やけどあそこでアホ相手に喧嘩してるよりはオモロソーや)
夜明けと共に働き、日暮れと共に眠る。そんな健康的な生活とは正反対の生活を送ってきた沙羅にとって、この世界は返って新鮮に見えた。そして幻想的な六獣乱舞を見入りながら沙羅はかつて経験したことのない昂揚感を覚えた。
ザリ…
と背後で敷き詰められた玉を踏み締める音がした。
「………何か用か?」
振り向きもせず沙羅はつっけんどんに尋ねた。
「ゆーとっけど、絶対に気は変えんからな」
あの日以来決して顔を見ようとしない沙羅に、音の主、晶

は深々と溜め息を吐いた。
「沙羅、只人が神に敵う訳がないんだ。頼むから黄溟公主に対峙するなんて、そんな危険な真似は止めてくれ」
「そんなんやってみな分らんやろが。それにあたしはなぁ、あんたと違ってウン千年も飽きるほど生きてへんの。まだまだしぃたい事がぎょーさんあんの。………あんたにあたしを止める権利やて、欠片もないわっ」
「!」
既に全ての情報を持ち合わせている沙羅にこう言われると、晶

は沈黙せざるを得なかった。
「明日の朝、號閃がゆーとった白沢とかゆー奴に会いに行って、上帝とかに会う方法聞いてくる。あんたはここでうじうじとしとればええわ。──明日は早いらしいからもう寝るんやけど」
さっさと出ていって。沙羅の内心を如実に物語る視線を受けて、晶

は何かを言い募ろうとした。だが、欄干に腰を降ろしてそっぽ向いてしまった沙羅に吐息して、
「後ろは崖なんだから、欄干の上に座らない方がいい」
とだけ言って、背中を向けると房室を出て後ろ手に扉を閉めた。その時。
(………沙羅?)
何かが聞こえた気がして、晶

は扉の向こう側を窺った。
「………………」
応えは返らず、代わりに激しい悪寒が晶

に纏わり付いた。
「沙羅、入るぞ!」
一応断りを入れてから晶

は扉を開けた。
見れば先程と同じく、房室から露台に続く扉が開き放たれている。
「沙羅?」
房室を突っ切って出た露台に沙羅の姿はなかった。
ただ敷き詰められた玉の上に、くたびれたシューズが片方転がっているのみ。
(まさかっ!!)
シューズを拾い上げると晶

は欄干から大きく身を乗り出した。視界に入るのは切り立った断崖。大概に於いて谷間には霧が立ちこめており、底を望むことは叶わなかった。
「チッ!!」
舌打ちするや晶

は欄干を飛び越えた。
垂直落下の直中で印を組み、呪を唱えるとその身はゆるゆると落下速度を緩め、やがて止まった。足下には霧よりも白く鮮やかな飛雲が形を為していた。
(………なんて事だ。これが、これが沙羅の沙羅の運命だったというのか? こんな事ならあの時是が非でも彼界に留めておくべきだった! ……いや、そもそもの原因は俺じゃないか。俺が彼界に渡りさえしなければ)
自責の念が嵐のように襲い掛かる。
(何故俺が幸せを望む者は不幸になるんだ。璃巛にしろ、沙羅にしろ何故なんだ!)
唇を噛み締めながら谷を降りるが、一向に底には付かない。
(この断崖を落ちたのなら……、死…体さえも、残っていないのだろうな)
分かっていながらも晶

は沙羅を探し求めて谷をひたすら下った。その姿は魂を失った幽鬼さながらであった。
しばらくすると不意に霧が切れた。谷底は霧で日光が遮られているにも関わらず、かなり明るかった。
「沙羅……、何処だ?」
地面に降り立った晶

は返る筈のない応えを求めた。
そして幾許かの時が経った頃、ふと視界の隅で何かが蠢いた。
「沙羅……なのか?」
フラフラと吸い寄せられるように近寄って行った晶

の動きが止まった
(何だ? これは)
それはグニグニと蠢く肉の塊であった。
肉塊は伸縮を繰り返して少しづつ大きくなっていく。そして拳大ぐらいから赤子ほどの大きさになると、今度はパキパキと擬音を発して五方に伸びて人型になった。
(こ、これは、まさか、再生っ!?)
晶

が驚愕に震えている内にも、肉人形は次第に形を整えていった。器官が現れ、次いで皮膚が張っていく。そして──。
(不死人……)
肉塊であった物は黒髪の乙女に変化したのだ。
「沙羅…?」
そう、髪の色こそ違えど、その乙女は沙羅であった。
(そんな、沙羅が不死人!? ではあの時の沙羅は死んでいなかったという事なのか!?)
駆け寄って抱き起こし、晶

はまじまじとその顔を見つめた。
耳を澄ますと安らかな寝息が聞こえる。触れた掌から確かな暖かさを感じる。
「沙羅…!」
晶

は強く強く沙羅を抱き締めた。そして、沙羅を玄衣の一枚でくるんで、抱き上げた。
(これで……、これで沙羅が公主に挑む必要が無くなった)
心底安堵の表情を浮かべて晶

は飛雲に昇った。何故かというと前述通り、尸解の術とは死者に施せば蘇らせるのだが、生者に施せば不死人になるのであった。そして術者が死ねば一段階前の状態に戻される。つまり生者は死者に、不死人は只の生者に戻るのである。
とどのつまり、沙羅は晶

の命運が尽きようとも死ぬ事はないのである。危険を冒して秀妃と対峙しなくていいのである。
(よかった…。本当に)
あどけない寝顔に頬寄せて晶

は心から微笑んだ。先程の幽鬼ぶりがまるで嘘のような晴れ晴れとした笑顔だった。
尤も一抹の寂しさが無いわけではない。
これで沙羅は彼界に帰ってしまうのだ。
もう二度と逢えなくなってしまうのだ。
一抹どころか胸が引き裂かれるくらい辛い。
だが、沙羅が生きていてくれたと言う事実がそれを相殺して尚も余る歓びを与えてくれたのだ。
やがて飛雲は元の露台に到着した。晶

は飛雲から降り立つと、閨室に入り、牀榻の上にそっと沙羅を寝かせた。
(これが沙羅の本当の姿か。綺麗な黒髪だ。高く結い上げればさぞかし美しいだろうに)
艶やかな黒髪を撫でて、脳裏に着飾り、優しく微笑む沙羅を思い浮かべた。が、晶

は苦笑すると頭を振った。
(そうだな、元々沙羅は着飾る事が嫌いだし、俺に微笑み掛ける筈もないな……)
更に苦笑の色を深くして吐息を漏らす。
(………彼界のように絶対的統治者の存在しない世界であったなら、俺も沙羅のように運命は己の手で切り開くもの、と思えるようになるのだろうか? ………考えても詮無いことだな。蚩尤の例に倣うでもなく、上帝に従うが天地開闢以来の理なんだから)
愚かな思想を振り払うと晶

は黒髪を撫でていた手を頬へ滑らし、身を屈めて口付けた。
「見ぃ──たぁ──ぞぉ──」
「! ご、號閃!?」
「はっはー。天

に聞いてまさかと思ったけど、本当だったんだなぁ、あの話。おい、このやろ、やっぱ数千年の禁欲生活は辛かったのか?」
屏風の陰に隠れていたのか、號閃が鬼の首でも取ったかのような勝ち誇った顔で現れた。
「お、お前、六獣乱舞はどうした。まさか抜けてきたのか?」
「俺達に何十刻舞わせるつもりだよ。そんなモン、とっくの昔に終わってんだよ。とっくにな。それより話すり替えっちゃて、まぁ、何だろうねぇ。悲しいわ晶

。母はあなたを寝込みを襲うような卑怯者に育てた覚えは無くてよ?」
ウリウリと肘で小突く號閃はオヤジそのものであった。
「誰が母だ。第一育てられた覚えもない」
「相変わらず洒落の通じない奴」
「しゃーねーなぁ」と肩をすくめてみせる號閃に晶

はぼそぼそと言い訳を言う。
「……別に寝込みを襲ってた訳じゃない。最後の思い出にと思ってだな」
「最後の? 何だそりゃ。お前、沙羅が死ぬと決めつけてるのかよっ」
にやにや人の悪い笑みを浮かべていた號閃だが、その言葉に引っかかるのもを覚えたのか金の瞳に剣呑な光を宿らせ突っ掛かった。
號閃はこの思ったままをポンポンと口に出す少女にかなり好感を持っていたのだ。
「いや、沙羅は死なない。たとえ今俺が死んだとしても沙羅は死なないんだ」
「どうゆう事だよそれ。それに沙羅の髪。俺達が舞ってる間に何があったんだよ」
「それは…」
詰め寄る號閃に説明しようとした時、
「申し訳ございません。私達もお聞きして宜しいでしょうか?」
言って

暉達がゾロゾロと露台の扉の陰から現れた。
「………お前達、何時から其処にいた」
押し殺した低い声を発する主に天

は、
「上空から主上が女性を抱いて谷から上がってくるのが見えたんですよ。それで誰なのかなぁと思って気配殺してず───っと窺ってたんですよ」
と、極めてあっけらかんに答えて見せた。
「………天

、お前は本当に仁獣か?」
「よく言われます」
「…………………」
「あ、あの、晶

様。本当に申し訳ございませんっ。わたくし、お止めしたのですが、皆様聞いて下さらなくて」
申し訳なさそうな粋珠の口の辺りは、塞がれていたのか、うっすらと、だがしっかりと手形が付いていた。
「…いや、いい粋珠。感知できなかった俺が迂闊だったんだ」
最早投げ遣りな相で晶

は吐息を吐いた。
「そゆこと。んじゃ、晶

。話の続き、話の続き」
再度深ぁく吐息を吐いて、晶

は事の顛末を話した。
「………なぁるほど、そうゆう訳か」
「沙羅ちゃんが不死人ねぇ」
「わたくし不死人の方って初めてお目に掛かりますわ」
「なぁんか沙羅ってば人生経験豊富よね。いーなぁ。羨ましいなぁ」
「で、主上は沙羅を彼界に帰す訳ですね」
好き勝手自分の感想を述べる四獣を余所に晶

は樂峯の問い掛けに頷いた。
「沙羅が目覚め次第、事情を説明して帰す。その際誰か送って遣ってくれ。………

暉、どうした」
「え? あっ、い、いえ、何でもございません。…………王、そのお役目、わたくし目にお任せ下さい」
晶

の話の間ずっと口元に手を当てて思案顔だった

暉ははっとして頭を振ると進んで申し出た。
「

暉が?」
「はい、お願い致します」
言って片膝を付く

暉に、晶

は数瞬の間を置いて承諾した。そして沙羅が目覚めるのを待った。
「………? ─────────」
額を抑えて紡がれた言葉に、晶

は玉が失われている事に気付いた。懐から玉を取り出すと、呪言を唱えて再び玉を造り出す。
「沙羅、これを」
「? ────。あれ? あたし前にもろた奴無くしてしもたんか?」
通じない言葉と、差し出された玉を見て沙羅は皆を見上げた。
「沙羅、あんた、その目の色…」
「目の色?」
「見た方が早かろう」
樂峯が渡してくれた手鏡で確認すると、
「え? あっ! コンタクト落としてしもたぁっ!」
沙羅の瞳は、光の加減に拠って銀に見える明灰色になっていた。
「こんたくと? 何なの? それ」
「目の色変えられる薄い色ガラス、やと思う。何で出来てるとか詳しい事はあたし知らん」
小首を傾げる伯英に沙羅は正直に答えた。
「目の色?」
「あたし、この目の色が嫌いやの。だから黒のコンタクト付けとったんや」
忌々しげに吐き捨てる沙羅に、皆は綺麗だからいいのではないか? と首を傾げる。
「とても綺麗な色ですよ?」
「そうそう、光の加減で銀に見えるから、昊天国じゃ貴色を戴いてるってもて囃されるんじゃねーの?」
「綺麗でも嫌いやの!」
むくれて沙羅はそっぽを向いた。
ちなみに貴色とは、鈞天を中心に同心円の大陸を八等分した各天国が尊ぶ色の事である。 その配色は北の玄天国が玄(黒)色、北東の変天国が藍色、東の蒼天国が蒼(青)色、東南の陽天国が紫色、南の炎天国が紅(赤)色、南西の朱天国が朱色、西の昊天国が白(銀)色、北西の幽天国が灰色、そして中央の鈞天が黄(金)色なのである。
ちなみのついでで、鈞天より各天国に遣わされた神獣は鈞天の貴色から各天国の貴色に染まる事により忠誠を誓う。つまり自国の神獣が何時まで経っても黄(金)色のままという事は裏切られる可能性大と言う事なのであった。
「アレ? あたしの服どうしたんよ。それに髪が黒いやんっ。なんで!? あんた、寝てる間に何かしたんか!?」
素肌の上に晶

の深衣のみを纏っている事に、唐突に気づいた沙羅はキッと晶

を睨み付けた。
「ち、違う! 沙羅が心配してる様なことは絶対にしていない!」
「据え膳喰ってたくせに……」
「! このドすけべっ!」
バキィッ!!
晶

の左の頬に拳が見事にのめり込んだ。
「痛ちちち…」
「王、大丈夫ですか!? 伯英! 何か冷やす物を!」

暉が慌てて駆け寄った。あっけに取られていた伯英は我に返って頷くと、水差しの水に布を浸して晶

に差し出した。
「ああ、ありが…痛っっ」
頬を抑えて晶

は恨めしげに號閃を見た。
「ま、まさか、拳が出るとは……」
「次、こんな事やってみぃ。これぐらいや済まさへんからなっ!」
呆然としている號閃を遮って沙羅は怒鳴りつけた。
「なんであたしこんなカッコしてんのよ?」
言いたい事を言い、したいようにして気が済んだのか、沙羅は普段と変わりない素の声音で問い掛けた。晶

は気を取り直すと、最初から話して聞かせた。
聞き終えた沙羅の第一声は、
「そんな奴おらんわぁ〜」
であった。
「嘘じゃない。本当の本当に沙羅は不死人なんだ」
「ちゅーてもなぁ。晶

は嘘吐きやしなぁ」
「…………」
あくまで信じようとしない沙羅に、それ程までに信用を無くしてしまった自分に晶

は深く溜め息を吐いた。そして額に手を当てて考えあぐねていると

暉が歩み寄ってきた。
「そんなに自分が不死身である事が、王の御言葉が信じられない? ──そう、ではこうすれば信じてもらえるかしら?」
ヒュッと空を切って

暉は腕を薙いだ。
「アチッ!」
「

暉!?」
「沙羅!!」
左の二の腕を押さえた沙羅の右手から深紅の雫が滴り落ちた。恐る恐る手を放してみると、パックリと切り裂かれた肉の間に白い骨が見えていた。一旦傷を認識してしまうと途端にジワジワと痛みが自己主張を始める。その痛みに我に返った沙羅は、
「! な、な、何しくさんねんっ! このクソアマ………晶

っ、號閃っ、離せ! 離さんかい!!」
激昂して口汚く怒鳴りつけ、

暉に飛び掛かろうとした。
寸前、そんな沙羅を両脇から抑えて二人は、いや、沙羅と

暉と血を見た時点で気を失った粋珠を除く五人は非難の目で

暉を見つめた。
「

暉っ、お前もっとマシな方法を思い付かなかったのかよ!」
と號閃。
「そうだそうだ、女の子に傷なんか付けて可哀想じゃないか」
と天

。
「麒麟に血を見せるのはどうかと思うが…」
と粋珠を抱く樂峯。
「あんたってば時々キレるんだから、おっかないのよねぇ」
と伯英。
「

暉、先ずは沙羅に謝罪しろ」
「………ごめんなさいね、この方が手っ取り早いと思ったものだから」
主の命に

暉は全く気持ちの籠もっていない言葉を吐いた。
「でも、あなたの腕をご覧なさいよ。ほら」
「ちょお!」
近付いて腕を取ると、強引に血を拭った。
「嘘ぉ…。ホンマに治ってるやん」
沙羅の腕には傷の名残さえも無かったのだ。
「王のお話を信じてくれた?」
「………お陰様で。どうも身を以て実証してくれてえらいおおきに!」
「どう致しまして」
にっこり微笑む

暉と、忌々しげに睨み付ける沙羅との間に火花が飛んだ気がして、男(雄)連中は背筋を寒くした。
「……もう放してや。飛び掛かったりせんからさぁ。ええ加減肩が痛いんやけど」
「絶対に殴り掛かったりしないか?」
「せんて。あたし嘘はつかん」
きっぱり言い切った沙羅を見つめて、二人は漸く戒めを解いた。
大人しく牀榻の上に座り直し、少し開いてしまった袷を直す沙羅に安心して、晶

は話の続き、越界についてを話し始めた。
やがて聞き終えた沙羅は送り手が

暉である事に目を眇めたが、殊の外ゴネる風もなくすぐに了承した。この中では一番沙羅を知る晶

が拍子抜けするくらいだった。
(好奇心旺盛な沙羅の事だから、てっきり厭がるかと思ったが……。余程この世界が気に入らなかったらしいな)
ここ数日ですっかり板に付いた苦笑を殊更深くした。
「では、越界は明日の晩にしよう。沙羅、疲れているだろうから、それまではゆっくり休んでくれ」
「分かった」
頷いて沙羅は、「よっこらしょ」と立ち上がると、ツカツカと六獣に歩み寄ると……。
バンッ!!
沙羅の平手が

暉の頬に叩き込まれた。
下から上へと振り上げられたその平手打ちは常人ならば脳震盪を起こしてブッ飛ばされるぐらい強烈なものであった。が、そこはやはり竜族だからか、蹌踉めくだけに止まった。
「やられっ放しは体に良くないからなぁ。やっぱちゃんとお返ししとかなアカンわ。殴りかからんとは言ったけど仕返しせんとはゆーてへんもんな」
コケにするかのように「ケケケ」と嗤って沙羅は

暉を見据えた。
「……………」
「

暉っ、落ち着け! 元はと言えばお前が悪いんだし、それにお前が本気出したら宮殿が壊れる! 沙羅は死なないが他の人間が死ぬ!!」
號閃は果敢にも中に割って入った。

暉は少し赤らんだ頬に手を添えて、殺気の籠もった眼差しを投じていた。だが、不意に勝ち誇ったように微笑むと、
「子供相手に本気で怒る事ほど大人気ないものはないわね。ごめんなさい、お嬢ちゃん。私が悪かったのだわ」
言って沙羅の頭を撫でると礼儀正しく挨拶して閨室を出て行った。残り四獣はワナワナと拳を震わせる沙羅の怒りのとばっちりを受けぬように、と、そそくさと出て行った。
残った晶

はちろりと沙羅を見遣る。それをじろりと睨み返す沙羅。
「………沙羅はこの世界が嫌いか?」
「別に。…何で?」
「いや…、やけにあっさり向こうの世界に帰るって決めたから」
「あぁ、それでかいな。別にキライちゃうで。どっちかゆーたらムッチャ興味あるもん」
言ってから少し考え込むと、
「なあ、ここら辺をさぁ、ちょっと案内してくれへん? 折角の異世界旅行なんやからさ。……あっ、忙しいか、あんたは」
晶

の目を覗き込んで案内を請うた。
返す論晶

は勿論、
「いや、大丈夫だ。何も俺が四六時中指図を下す必要はないからな」
と二つ返事で受け入れた。彼にしてみれば願ったりと言うものだろう。
「んじゃ着替えるからちょっと表で待っといて」
頷いて晶

が扉の向こうに姿を消すと、沙羅は牀榻の脇に置いてあったバッグから着替えを出した。
一方、扉に凭れて沙羅を待つ晶

は思わず頬が弛むのを禁じ得なかった。
(何故だか分からないが、態度が軟化してきている。どの道、結ばれないとしても嫌われたままでいるよりも、よっぽど嬉しいものだな)
勿論、沙羅には沙羅の思惑が在ってのことなのだが、ま、本人が幸せならばそれで良いのであろう(合掌)。
「へい、お待ち」
「………何だ、こっちの服を着なかったのか。折角用意したのに」
沙羅の格好は黒のGパン、長袖の白いTシャツ、黒のジャケット、そして細やかな刺繍の施された青い沓。
「あんなビラビラした服着たら、一歩歩いただけで転けてまうわ」
「沓と合ってないぞ?」
「うるさいわいっ、靴の代えなんか持って来てへんねんもんっ。片っぽなくしてしもたんやからしゃあないやんか」
「目立つぞ?」
「おーおー、その方が異世界気分を満喫できるがな」
「………分かった。じゃあ行こうか」
「ん」
と言って歩き出したは良いが、城闕までの道すがら沙羅は周囲を見て回るのに一生懸命で、晶

の話などてんで聞いておらず、街に降りてもぶつぶつ考え込んでいるばかりであった。
「…沙羅、考え事でもあるのか?」
「……………」
「沙羅っ」
「へ? あ、ああ、ごめん。ちゃんと聞いてるよ。迷子になってもええように今来た道順覚えててん。………ごめんな、あたしから頼んだのに、ぼんやりしてて。気ぃ悪ぅしてしもた?」
少しばかり気分を害していた晶

であったが、何故かいつもより素直に謝られ、心底申し訳なさそうに顔を覗き込まれると「ああ」とは言えず、話を変える他無かった。
「いや、気にしちゃいないさ。それよりも迷子になるって、ちゃんと俺が付いてるんだからそんな事にはならないさ」
「うーん。そらそやな。よっしゃ、んじゃ安心して異世界食い倒れツアー行こか! おいしい店連れてってや?」
「ははは、分かった。任せとけ」
通り過ぎる誰もが、異質な雰囲気を放つこの二人を注視していたが、当の二人は何も気にせず、手当たり次第に店を物色制覇していった。そしてこれはある店での会話である。
「なぁ、號閃がゆーとった白沢って何者なん? あ、これおいしい。おかわり頼んで」
「すまん、これをもう一つ。えと。白沢の事だったな。白沢は九天一の知恵者だ。森羅万象の全ての理を解き明かしたと言われていて、上帝でさえもその知識を教授願う為に洞を訪れる事があるそうだ」
「ふーん、よー分らんけど、ものごっつ頭ええんやな。んで、晶

は会った事あんの? あ、これ今イチや」
「いやない。噂によるとここ数千年人に会った事がないらしい。どうもこの世に興味を失ってしまったそうだ」
「なんかけったいげーな奴ちゃなぁ。でも、そんなんであたしに会ってくれたんやろか? いやぁ、この酒イケるわぁ」
「あ、風角は口当たりは軽いからと言って、調子に乗ってると腰に来るぞ。そんなにガブガブ飲むな」
「えっ? そーなん? んじゃ、ヤメとこ。ほんで晶

、上帝も行ったことあるその洞って何処にあるん?」
「ああ、白沢の洞は蒼海の遥か彼方、今ではもう伝説に近い方壷と言う島にある」
「………確か昊天国って九天のいっちゃん西にあんねんなぁ。むちゃくちゃ遠いんちゃうん。あいつらどないして行くつもりやったんやろ?」
「確かに人の足だと、辿り着く事は難しい距離だが、神獣にしてみれば一昼夜もかからず着く距離だ。アイツらは風よりも速く天駆けるからな」
「ふーん、ええなぁ」
「………それにしてもよく喰うな。その細い体の何処にそれだけの食料が入るのか、不思議でしょうがない」
「自分こそ五軒ほど前からえらいピッチで飲んでるやんか。酔い潰れても放って帰るからな」
「相変わらず手厳しいことで……。でもご心配なく。俺はなかなか酔えない質でね」
「ふーん。そら気の毒に。んじゃ、次行こかぁ」
「えぇっ!? まだ喰うつもりか!?」
「冗談やがな。いくらあたしでこれ以上喰ったら吐いてまうわ」
「よかったぁ」
大仰に安堵の息を吐く晶

を睨み付けて沙羅は食後のお茶を飲み干した。
その後、沙羅に誘われるがままに買い物をして、王宮に戻ったのは日が暮れて大分経ってからのことだった。
「何やってんだよ

暉。こんな所でさ」
こんな所とは白帝城の遥か上空のことである。
「あら號閃。あなたこそ何?」
「露台からお前の姿が見えた」
だから来たんだ。と號閃は暗に語る。
「………沙羅が王を連れ回しているのよ。ホラ、あそこ。また違う店に入ったわ。これで十七軒目よ。どれだけ食べて、どれだけ王を振り回せば気が済むのかしら」
この高々度に於いて地上の人は豆粒どころか塵ほどの大きさでしかないのに、

暉は真っ直ぐ一点を指差した。
「十七軒目!? そりゃスゲーな。妖並の胃袋してんじゃねーのか? あいつら。……で、お前はずっと、ここから覗いてた訳か?」
「──ええ。ふふふ、私も大概暇なのね」
って自嘲気味に微笑むと、

暉は號閃の視線を避けるようにして身を翻した。
「

暉っ!!」
「………何かしら?」
「お前、何か悩み事でもあんのかよ。もしあんなら遠慮なく言えよ。俺、姿はこんなんだけど、お前よか人生経験豊富なんだからな」
神獣は各天国に遣わされた時点で時流から切り離される。號閃は千年も前に昊天国に来ており

暉はつい三百年ほど前に遣わされたのだ。
無表情を保っていた

暉は少し目を丸くして年下にしか見えない年長者を見つめた。
「ふふふ、ごめんなさい號閃。心配掛けてしまったらしいわね。………でも、私達に悩みが無い訳ないじゃない」
「! ………そう、だったな…。悪ぃ」
ばつの悪そうな顔をして頭を下げた號閃に

暉は優しく微笑んで頭を振った。
「謝らないで。心配してくれてありがとう。とてもうれしいわ。でも、私なら大丈夫だから」
「そっか…。じゃあ、もう一つだけ聞いてもいいか?」
「ええ、勿論」
「俺達、いや晶

に何か言うことはないか?」
「………無いわね、何も」
「そうか、ならいいや。あ、俺、このまま散歩にでも行って来る」
やんわり微笑んで答える

暉に號閃はほっと息を吐くと手を振って大空の中に駆けていった。その姿が見えなくなるまで見送っていた

暉は再び身を翻すと宮城に降りていった。
つづく