日が改まって六刻が過ぎた頃、

人と見張り以外の人間が皆寝静まった宮殿は耳が痛い程に静まり返っていた。
そんな静寂の中、小さな軋みを発して扉が開かれ、一つの影が現れいでた。
目立たない黒服を纏った沙羅であった。
沙羅は周囲を窺うと音も立てずに城闕を目指した。進む足取りに迷いはない。何と言っても、この為だけに昼間晶

を引っ張り回したのだから。
(今はもう晶

の痛みも治まって號閃達も寝入っとる筈や。チャンスは今しかない!)
そう決心した沙羅はリュックに着替えと宛われた部屋から物色した金目の物を詰め(!)て、白帝城脱出を試みたのである。
そして何度か見張りをやり過ごして、沙羅は城壁を臨む窓を開けた。
地面までは約十メートル。傾斜はほぼ垂直。沙羅は石垣の隙間に爪先をかけて慎重に降り始める。が、
「………!」
ガリッ ズザザザザッ グァンッ
所詮フリークライミングなどした事のない沙羅は物の見事にあっさりと落ちた。
「─────────っっっっ」
見れば両手の爪は無惨にも捲れ落ち、落ちた拍子についた右手はイヤな方向に折れ曲がっていた。
沙羅は荒い息を無理矢理に鎮めると、震える左手で布を厚く折り畳み、噛み締め、
「─────────!!!」
メキ…
声を殺して、骨の向きを直した。だがそうこうしている内に爪は総て生え替わり、痛みは消え、右手も何もかもが自由に動くようになった。
(………便利やなぁ。医者要らずやん)
感動しながら立ち上がって埃を払い落とすと、沙羅は改めて城壁を見上げる。これも大概高い。でも沙羅は、
(ま、何とかなるやろ)
と高をくくっていた。そして城壁に手を掛けようとしたその時。
「触れない方がいいわよ。触れたら王に知らせが行くから」
突然背後から制止が投げ掛けられた。
「! あんた…」
バッと振り返った沙羅の背後、気配を気取らせず、腕組みして立っていたは

暉であった。

暉は月夜に映える長い白髪が目立たぬようにと黒衣を引っ被っている。
「方壷に、神獣白沢に会いに行くんでしょ? 城壁の側で張っていれば来ると思ったわ」
「………」
沙羅は言い当てられた驚愕を押しやり、無言で身構えた。
「安心なさい。止めに来たのではないわ。………どちらかと言えば勧めに来たのよ」
「え?」
「道々話すわ。行くわよ」
言うなり

暉は沙羅を抱えて天を目指した。
「うぎぃ…………」
「静かになさいっ。號閃達に気取られるじゃないのっ。いいこと?たとえ今私が手を放して地面に叩き付けられたとしても、あなたは死なないのだから落ち着きなさい。分かった? 手を放すわよ?」
今イチ納得しきれない内容ではあったが、沙羅はコクコクと頷いた。それを確認してから徐に

暉は口を塞いでいた手を放し、沙羅の肩を支えた。
口が自由になった沙羅は二度三度深呼吸して落ち着きを取り戻す。
「…なんで? なんであんたがあたしに協力してくれるん?」
「私があなたの為に何かするとでも思ってるの? あくまで王の為よ」
「ま、そらそうやろうけどさ。でもなんでなん?」
呆れたように素っ気なく言い捨てる

暉に、沙羅はポリポリと頬を掻き、詳細を求める。
「王をお救いする為よ。あなたは昊天とは、いえ、九天とは全く関わりのない異界人。そして不死人。これを利用しない手はないわ」
「つまりあんたにとってのコマかいな、あたしは」
言葉を飾らず、あくまで率直に真意を語る

暉に対して、沙羅は僅かながら好感を持った。コマ扱いされても怒りが沸いてこないのだから間違いないだろう。
「そうよ、私はあなたが嫌いだから遠慮なく利用させて貰うわ。でもそれはあなたも同じでしょ?」
その視線は問いではなく確認であった。
「ご明察。あたしも晶

の為やなく自分の為に上帝とかに会いに行くんや。折角手に入れた不死身の体。飽きるまで使わな損やんか」
「ふっ…俗物ね。でもとにかくお互いの利害は一致してるのよ、私達。私があなたに望む事はただ一つ。秀妃を殺して王を呪いから解放して差し上げる事。そうすればあなたはあなたの望み通り飽きる程若々しく生きられるわ」
嗤う

暉に同種の笑みを返して沙羅は聞き返す。
「秀妃を殺せば呪いは解けるんか?」
「おそらくね。………かなり王宮から離れたわね。そろそろいいかしら。しっかり掴まってなさいよっ!」
「え?」
小さな閃光を伴って

暉は汚れ無き純白の鱗に包まれた竜に変化した。
「うわっ、うわっ、うわ────っ!!」
気付いた時には沙羅は白竜の頭上に座り込んでいた。左右を見回すと真珠質で覆われた大木のような角が淡い燐光を放っている。沙羅はそれに掴まりながら立ち上がった。
「おわっ!?」
ワックスで磨き上げられた床の如く、つるつる滑る鱗に足を滑らした沙羅は間一髪、鬣にぶら下がった。必死でよじ登り、今度こそしっかりと足場を確保してからもう一度立ち上がり、真っ正面から風を受けた。
「ネバーエンディング ストーリーみたいやん……。感動やわ…」
〈感動するのはあなたの勝手だけど、落ちたって拾ってあげないわよ〉
「わ、悪い。でも……、むっちゃキレーやなぁ、

暉」
頭に直接流れ込んでくる憮然とした

暉の思考に、素直に謝った。そして目を輝かせる。
〈誉めたって何も出ないわよ。それよりもしっかり掴まってなさい。とばすわよ〉
言葉と共にグンッと速度は増し、沙羅の身体に強いGが掛かった。角にしがみついていなかったなら後ろにすっ飛ばされていただろう。だが深い感動の直中にいた沙羅は抗議の声を挙げる事もなく、背後を見遣った。
(なっがいなぁ。百メートルはざらにあるやろなぁ。胴体も直径五メートルはありそうやし……。しかしこんな重そうなんが、こんな軽く飛ぶもんなんかい)
〈沙羅、あれが上帝の御座所、禁上殿堂よ。多分秀妃もあそこにいるわ〉
少年のように目をキラキラさせて感動している沙羅に、

暉は思考を投げ掛けた。
はっとしたように沙羅は示された左前方を見遣る。
雲海を凌ぐ大山の山頂に、光り輝く城闕が在った。かなりの距離があるにも関わらず、その巨大さ、荘厳さ、そして沙羅だけに感じられる忌々しさは驚く程であった。
「このまま行けたらええのになぁ」
〈仙でないあなたにその資格はないわ〉
厳しい顔付きで呟く沙羅に

暉はあっさりと言い捨てる。
「せやさかい白沢にその方法を聞きに行くんやろ?」
〈そう、神獣白沢は知的探求心が実体化したようなものよ。あなたが異界人だと知ればあなたの知識と引き替えに方法を教えてくれる筈よ〉
「………あたしの知識なぁ。それがいっちゃんの問題やわ」
〈全てはあなた次第よ〉
「プレッシャー掛けんといてや。……まあ買わん宝くじは当たらんからなぁ、とりあえずやるだけの事はやってみるけどさ。………なぁ

暉、方壷には何時着くん?」
盛大な溜め息を吐いて沙羅は尋ねた。
〈今丁度、鈞天だから夜明けまでには着くわ。眠りたいのなら鬣の中に入って、鬣の一本で身体を固定させて眠りなさい。それなら落ちる心配はないわ〉
「ありがと、そうするわ」
沙羅は飛ばされないように捕伏前進しながら沙羅の背丈よりも深い鬣の中に分け入った。
風は中まで吹いておらず、

暉自身のうねりで鬣が揺れているほか、これと言った異常はなく、暑くも寒くもなかった。
緩やかにうねる寝床に横になりながら沙羅は自分に言い聞かせる。
(大丈夫、あたしはやれる。あたしは自分の為にやったら何でも出来る)
次第に微睡みが沙羅を支配する。
(大丈夫…。いける…)
その夜の夢に現れた晶

はこの上もなく悲しげであった。
「お、おいっ。

暉っ! 白沢の、洞は、ま…まだなんかいっ」
方壷に着いてかれこれ四刻(一時間)、二人は黙々と山を登り続けていた。ただし疲れているのは沙羅だけで、

暉の方は平然と沙羅の愚痴を黙殺して歩を進めていた。
「何で、白沢は、こんな所に、おんねんな。もうっ。ちょっと休もうや。

暉っ、無視すんなっ!」
「……着いたわよ」
「へ?」
唐突に

暉は立ち止まり、振り返って簡素な一軒家を指さした。
「ここが白沢の洞? なんや、『洞』ってゆーから洞穴なんやと思ってたわ」
「入るわよ」
「へいへい」
少し緊張した面持ちで、二人は庭と思しき叢の中に足を踏み入れた。
不用心にも開け放たれた扉の前に立つと

暉は、
「わたくしは極泉真君こと昊天国後ロ王朝初代天王ロ

様にお仕え申し上げる白竜で、名を妍翅漣、字を

暉と申します。神獣白沢にお願いの議がございまして参りました。白沢殿はご在宅でしょうか」
朗々たる声で名乗って、返事を待つ事しばし。双頭の猫が現れた。
「頭二つあるやん。けったいげぇな猫やなぁ。この世界はこんなんが多いんかいな」
との沙羅の問い掛けを無視して

暉は猫のくるくる変わる瞳を覗き込んでいた。
一方猫もじっと二人を検分するとふいっと尾首を巡らし、奥の闇へと消えて行った。
「行きましょう。とりあえず興味を持って戴けたみたいだわ」
「ホンマかいな…」
疑い眼の沙羅を放って

暉は猫の後を追った。ポツーンと残された沙羅は深々と溜め息を吐くとゆっくり後を追う。薄暗い廊下を行き、幾つかの扉を通り過ぎた。
「……… ?」
気配を感じて通り過ぎ掛けた扉の前にとって返し、躊躇無く沙羅は扉を押し開けた。
中では

暉が幼い、十歳前後の少年に対して礼節を取っていた。が、察しの悪い沙羅は相変わらず突っ立ったままだった。

暉は眉根を寄せながら立ち上がると少年を示す。
「………沙羅、こちらが神獣白沢よ。ご挨拶申し上げなさい」
「えっ!? このチンケなガキが白沢!?」
「沙羅っ!!」
何処までも思ったまんまを口に出す沙羅を

暉は大慌てで諫めた。が、当の沙羅にして見れば拍子抜けも良い所で、途端に気分がダレてしまったようだ。
「だいじょぶだいじょぶ。心配せんでも何ゆーてるかなんて分らんて」
「通じているぞ、異界の女」
「ゑ?」
憮然とした調子で少年──白沢は沙羅が理解出来る言葉を返した。
「その方が異界の者だと李雛の目を通して分かった故、伝志の術を施しておったのじゃが………。上帝をも礼を以て接する儂にチンケなガキとはなぁ」
「申し訳ございませぬ、神獣白沢。何分九天の道理も知らぬ愚か者故、御無礼の段、何卒御容赦願います」
かなり不機嫌な白沢に叩頭して謝罪する

暉を余所に、沙羅はずかずかと室内を突っ切って白沢を見下ろした。
「言葉が通じてんやったら話は早いわ。あんたに聞きたい事が二つばかしあるんや。一つは仙でなくても鈞天に行ける方法を知ってるかどうか。もう一つは、あんたが知ってるんやったら──、やけど、その方法。先ず一つ目の質問に対しての答は?」
「沙羅っ!!」
悲鳴に近い叫び声を受けて

暉は沙羅を戸口まで引きずっていった。
「あなたは人に教えを請う時の態度ってものを……」
「うるさい、

暉黙っとき。それでどっちなんよ? 知ってんの? 知らんのん?」
「沙羅っ!!」
最早顔面蒼白の

暉を押し退けて沙羅は白沢を見据えた。
「………知っていると言ったら?」
「さっさと教え」
「いやだと言ったら?」
「シバキ回して吐かせる」
どこまでも不遜な態度で突き進む沙羅に、とうとう

暉は言葉を無くしてしまった。二人から離れて壁に背を預けると右の手で額を支えた。
(これ程愚か者だとわ思わなかったわ。こんな事なら私一人で来れば良かった。………私一体何しに来たのかしら。心が引き裂かれるくらい苦しい思いを我慢して王を偽ってきたというのに………)
やり切れなさと虚しさで気が狂いそうだった。虚しすぎて

暉は思惑の全て台無しにした沙羅にかつて無い程の殺意を抱いた程だ。
だが、そんな

暉の耳に届いた白沢の答は、
「よかろうて」
であった。
ポカンと大口を開けている

暉に白沢は大人びた微笑みを浮かべ、至極簡単に要求を了承したのだ。
「おっしゃ、早ぅ教え」
言うなり椅子を引き寄せてどっかりと座り込んだ。白沢も冷笑を浮かべて長椅子に腰を掛け、床にへたり込んでいる

暉に着座を促した。
「只人が鈞天に行く方法であったな?」
「うん、そう」
「方法は二つじゃな。一つは上帝に、女

大君に勅許戴く事。まあ、これは却下じゃな。そしてもう一つは」
「もう一つは?」
焦らすように白沢はにんまりと微笑む。
「もう一つはっ!?」
「………生きたまま黄泉を渡り、天冥の門を潜ればよい」
「そんなっ、黄泉をっ!?」
驚愕に目を見開く

暉に白沢は満足げに頷き、眉根を寄せている沙羅せせら笑う。
「そうじゃ。苦境黄泉を渡り、天冥の門を潜りし生者には上帝と雖も礼を以て応えねばならぬ。どうした異界の女。余りの恐ろしさに声も出ぬか?」
俯き口元に拳を当てて黙り込んだ沙羅に、白沢はせせら笑って問い掛けた。
「………………。なぁっ

暉、こうせんって何?」
ピンピンに張りつめていた緊張感がブッーチンと断ち切れてしまった。
そんな沙羅に、

暉はガァックリと項垂れ、白沢は少し面白くなさそうに口を尖らせた。
「何じゃ、異界の女よ。黄泉を知らんのか。──こちらに来るが良い」
立ち上がって卓子を指さした。
「沙羅って名前があるんやけど」
不愉快そうな沙羅の言葉に素直に肯定し、
「あい分かった。沙羅よ、これを見よ」
と、白沢は卓子の上に一枚の大きな紙を広げた。途端、紙面の絵柄がじわりじわりと浮かび上がってくる。
「何コレ? ホログラフ?」
「何じゃそれは。その様な物は知らん。これは画仙と謳われた霄靖が描いた地図じゃ。霄靖の絵には命が宿り、描かれた物は命を得て紙面を飛び出す。故にこの地図も命を得て飛び出しておるのじゃ。まぁ、それはそなたにはどうでも良い事じゃな。良いか? そなたから見て上が北じゃ。ほれ、ここが昊天国で八天の中央と四方に巨山があろう。これらが五岳と呼ばれる五天帝の御座所じゃ。中でも中央の山を崇山と言うて上帝の御座所、つまり、鈞天じゃな。そしてここ」
崇山と八天の隙間を埋める濃霧地帯を指さすと、
「ここが黄泉じゃ」
中空に『黄泉』と字を記す。
「別に黄色でも泉でもないやん」
屁理屈をこねる沙羅を無視して白沢はさくさくと説明を続ける。
「黄泉の中央には天冥の門なる大門がある。九天の…いや此界の死魂はこの門を目指さねばならぬ。何故ならば門をくぐれぬ死魂は全て尸鬼尸妖と化してしまうからじゃ。故に此界の常として死の理を受け入れた者は黄泉に投げ込まねばならぬのだ。つまり黄泉は死の褻に充ち満ちておる。沙羅よ、試しに黄泉に指を入れてみよ」
「──な、何っ!? 今のん何!? 何かむちゃくちゃ気色悪ーて、気が遠ぉなったけど」
促されて素直に黄泉に指を入れた沙羅だが、触れた瞬間に手を引いた。余りの汚らわしさにしばらくの間鳥肌が治まらなかった程だ。
「今のが死の褻じゃ。加えて黄泉は尸鬼尸妖の住処。八天が興って約百年の間は天冥の門を求めて数多の剛の者が黄泉に挑んだが、皆発狂して尸鬼に成り下がったわ。どうじゃ、只人のそなたには到底成せまいて」
まるで沙羅が絶望する様を待ち侘びているかのような、実に楽しそうで、実に人の悪い嗤いを浮かべて白沢は問うた。
「………」
「言葉が出ぬのか? まあ無理もあるまい。何しろ黄泉は…」
口に手を当て、俯き、考え込んでいる沙羅に満足したのか、白沢は勝ち誇ったように蘊蓄をたれる。が、
「オッケーオッケー! それで鈞天に行けんのかいな。楽勝やん! なぁ、

暉?」
白沢の言葉を遮ると沙羅はガッツポーズを決めて高笑いした。
その様子に最初驚いていた白沢は不愉快そうに眉間に皺を寄せていた。だが、それを虚勢と取ったようで直に鼻で笑う。
「ふん、沙羅よ。そなたは真の無知であるのじゃな?」
「フンッ、ホンマに無知なんはアンタの方や。ええか? あたしはなぁ天下無敵の不死人様やの。普通の人間が死ぬような死ぬような事したって死なんのや!」
自信満々の相で右手の親指で自分を指す沙羅の言葉に、白沢はこれ以上は目玉が落ちる、と言うほどに目を見開いた。
「何っ!? 不死人となっ!?」
「ふっふっふー。証拠見せたるわ」
言うなり沙羅は思い切りよく己の腕を切り裂いた。二十センチぐらいの裂傷は血が流れ出るよりも早く、モノの五秒もしない内に綺麗さっぱり消え失せた。
「ハハハハッ。どうや、参ったかっ!?」
まるで苦虫を噛み潰したような白沢に追い打ちを掛けようと沙羅はふんぞり返って高笑いする。
「ハハハハ。ごっつぅ気分ええわ。気分ええからアンタにぴったりのうちの世界の諺教えたるわ。一つは『井の中の蛙大海を知らず』っちゅーのと、『無知の知』や。意味は分かるよな?」
「おお。じゃが、じゃが二つ目は儂には当てはまるまい」
白沢は忌々しげに頷いたが、直ぐさま反論を申し立てる。沙羅もそれを肯定する。
「まぁな、でもアンタには別バージョンが当てはまるんや。差詰め『無知の無知』って所か?」
「沙羅っ、いい加減になさいっ! ──神獣白沢、真に申し訳ありません。並びにありがとうございます」
際限なく天狗に成り続ける沙羅の口を封じて

暉は白沢に礼を述べた。
「いいや、気にせんでよい」
最早張り合う気力もなくしてしまったのか、

暉の言葉に白沢は首を振った。そして沙羅に問い掛ける。
「それよりも沙羅よ。何故に極泉真君はそなたに尸解の術を施したのじゃ? あれは生者への施術は禁じられておる筈じゃが」
「誰それ?」
「………王の仙号よ」
「ああ、晶

の事かいな。ちゃうちゃう、晶

は知ってやったんとちゃうで。成り行きでこないになったんや」

暉の耳打ちにポンと手を打って、沙羅は端的に事の顛末を説明した。
「…なるほどのぅ。黄溟公主、か…」
話を聞き終えた白沢の顔は何故か哀しみに彩られていた。そして昔を思い出すように空を仰いでから、ぽつりぽつりと語り出す。
「………以前この洞には儂の他に一人の仙女がおったのじゃ。仙号を蓮絢仙子とゆうてな、赤子の頃、蓮の葉に乗って流れてきた故の命名なのじゃが、儂が拾って仙女に育て上げたのじゃ。蓮絢仙子は素晴らしく聡明で美しい仙女であった。この儂が養い親として鼻が高くなる程にな」
その仙女を思い出してか、初めて白沢が柔らかく微笑んだ。だが、その微笑みは直ぐに掻き消えてしまう。
「じゃがある日の事じゃ。儂の用向きで瑤池、西王母様の下に伺った蓮絢仙子は骸となって帰ってきおった。儂は直ぐさま瑤池に飛び、詳細を求めた。──蓮絢仙子は黄溟公主……秀妃に無礼を働いたとかで殺されたのじゃ」
「!」
「蓮絢仙子が他者に対して無礼を働く筈がない! 儂はそう上帝に申し上げた。……じゃが全ては徒労に終わった。蓮絢仙子は無礼者の烙印を押されて死んだのじゃ」
静かに語る白沢の相貌から静かに涙がこぼれ落ちる。その涙を拭おうともせず白沢は尚も語り続ける。
「白沢………」
「儂等は愛し合っておった。蓮絢仙子は仙女故、男女の仲ではなかったがな、それでも儂等は静かに、だが深く愛し合っておったのじゃ」
沙羅は白沢に近寄ると袖で涙を拭ってやった。
「すまぬ」
「まぁまぁ」
ぐしゃぐしゃと頭巾頭を撫でて明るく笑む沙羅に、白沢は背筋を伸ばして向かい合うと、
「沙羅よ、神をも恐れぬ者よ。そなたは此界に吹きしく颶風となるであろう」
厳かな調子で言の葉を紡いだ。
「…何それ?」
「し、神獣白沢の予言よ。しかも吉兆じゃないのっ!」
「へぇ……。そーなん?」
興奮気味の

暉に対して、相変わらず九天を理解していない沙羅は感動薄げに呟いた。
そんな沙羅に苦笑すると白沢は椅子から降り、戸棚から十五センチ四方の平ぺったいの箱を取り出した。
「沙羅よ。そなたにこれを預けたい」
地図をしまって、代わりに箱を沙羅に差し出した。
「開けてええ?」
「無論」
「──ふぁー、何コレ。もしかして真珠?」
箱の中には二センチほどの真珠九つが納められていた。
「色を見て分かるとおり、それらの真珠はそれぞれ九天を表しておる」
白沢の言うとおり、九つの真珠は九天の貴色を顕していた。
「………なんか、青やら赤やらの真珠って、ごっつアヤシーな」
「罰当たりな事を申すな。全く…。良いか? その珠は一つ一つでは貴石としての価値しかないが、九つ集めて初めて威力を為す物なのじゃ」
掌で珠を弄ぶ沙羅を諫めて、とくとくと九真珠の有り難さを説くが、沙羅にして見れば『アヤシー』以外の何物でもないらしい。
「八卦を知っておるか?」
「占いのんか? 当たるも八卦、当たらぬも八卦とかゆーのんの?」
「まぁそうじゃ。金真珠を除く八真珠はそれぞれ八卦を表す。つまり八真珠だけで森羅万象を表しておるのじゃ」
「はぁ…」
家を出てからこっち、余り真面目に学校に通っていなかった沙羅の国語能力は、あまり良くない。加えて特殊知識的な事を言われているので、全く以て意味を理解していなかった。
沙羅の歯切れの悪い返答にその事を如実に理解した白沢は小さく溜め息を吐く。
「その顔から察すに、どうもよく分かっておらぬようじゃな。………噛み砕いて言うとじゃな、この八真珠を用いて己の周囲に小世界を創り出せるのじゃ」
「…………え?」
「………」
「申し訳ありません神獣白沢。私が代わりに説明致します」
見兼ねた

暉が進み出ると?マークを飛ばし続けている沙羅に向き直った。
「沙羅、此界では妖とか褻を祓う為に護符を用いるの」
「うちの世界でもせやけど?」
「なら話は早いわ。この八真珠を護符だと思いなさい。いいこと? あなたはこれから黄泉に入るわ。でも黄泉はさっきも言った通り褻に満ちている。その褻を祓う為に神獣白沢はこの九真珠を持って行きなさい、と言って下さってるのよ」
「なぁんや、それやったらそー言えばえーやんか。変に小難しー事ゆーからこんがらがったわ」
「………」
「教え方悪いんとちゃう?」とちろりと横目で見遣る沙羅に白沢は深々と溜め息を吐いた。
(……この者、真の颶風と成り得るのじゃろか?)
と己の予言を疑うほどになっていたのだ。
「但し、それは止まっている時にしか使えないから小休止や睡眠の時に使いなさい」
「なんで使えんの?」
「地に撒かねば効力を為さん」
「へー。で、金真珠はどないすん」
指先で金真珠をつつく沙羅に、白沢は淡々と話して聞かせる。
「肌身離さず持っておれ。それが無くば八方陣の中には入れぬ故な」
「分かった。ありがとうな、白沢。大事に使わして貰うわ」
九真珠を箱に納めた沙羅は跪き、白沢と視線を合わせて礼を言った。急に素直に礼を言われて照れたのか、白沢は真っ赤になるとビシッと沙羅を指さした。
「あ、預けただけじゃからなっ。本懐を遂げし暁にはそなたが手ずから返しに来るのじゃ! 良いなっ!?」
「ハイハイ」
「はいは一つじゃっ」
「ハイハイ」
「───そなたと言う奴は…全く持って神をも畏れぬ奴じゃな…。九天とは全てを異にする界から来し者よ。そなたの道行きに数多の幸いの在らんことを」
言って白沢は沙羅の頸にしがみついた。返す沙羅も小さな身体を抱き締める。
「ありがと、白沢。絶対に秀妃を倒してみせるわ」
「その意気じゃ。………また客の様じゃな」
ふと気付いた様に白沢が外に意識を飛ばすと

暉ははっとしてそして、真っ青になった。
「

暉、どしたん。顔色悪いで?」
「お、王がいらっしゃったわ」
「晶

が!? なんでよっ。 むっちゃ早いやんっ」
焦る二人を見て大方の察しを付けた白沢は「やれやれ」と小さく息を吐くと二人を残して玄関へと向かった。
「その窓から逃げ出すか?」
「駄目よ。王から戻ってこいと直接命じられたら私は逆らえないわ」
「無理矢理……越界って事になるんか?」
「恐らくは………」
「くっそ! 何のためにここまで来てんなっ。ブッ倒してから黄泉に向かうっちゅーてもアイツには敵わんし…」
地球世界においてバカ相手に喧嘩を始めた沙羅は一度ならず何度も晶

に抑えられた事があった。
そうして打開策を考え出せない内に足音は近づき、同時に

暉がガタガタと震え出した。
「おい

暉……、大丈夫かぁ?」
「も、物凄い怒気だわ。王は、未だかつて無いほどに怒っていらっしゃる……」
「………」
キィ……と軋みを響かせて扉が開かれ、白沢が姿を現した。そしてその背後にはこの上なく不機嫌な晶

と気まずそうな號閃達。
無言の怒りに飲まれ掛けている己を叱咤しつつ、沙羅は晶

と対峙した。
「ゆっとくけどあたしはあたしの考えを曲げんからなっ」
「………沙羅よ、極泉真君はとりあえず二人の話を聞くとゆうておる。着座せい」
「…………はぁい…」
促されて沙羅は渋々椅子に腰を掛けた。だがあくまで晶

の顔を見ようとせず、そっぽを向いたままだった。
そして晶

も沙羅を見ず、真っ青になっている

暉を睨め付けた。
「まずは

暉に聞く。何故俺をたばかった」
「! ちょっと、言うに事欠いて何よそれっ。晶

、言い直しっ!」
「沙羅は黙ってろっ!!」
晶

のあまりの迫力にビクッとした沙羅だが、直ぐさま怒りが全身に回り、ギリリと眉をつり上げ、倍以上に怒鳴り付ける。
「! なぁんやてぇ? 何様のつもりやねんっ、エラそうにっ! えぇっ!? 大体なぁ、頭の先から足の先まであんたの事しか考えてない

暉がやで、あんたのことたばかる筈がないやろうがっ。何処に目ぇ付けてんよ! それにやで? 今回の事かてなぁ、あたしが決めて、自分で行動したんや!

暉に唆されたんとちゃうわっ!」
「沙羅っ」
「あたしの人生やっ。あたしのすることに余計な口出すなっ! 何でも自分の思い通りにしたいんやったらなぁ、箱庭作ってリカちゃん人形ででも遊んどけっ!!」
「!!」
「大体……」
尚も怒鳴りつけようとする沙羅の眼前で、白沢が右手を薙いだ。途端、沙羅はふにゃらぁーと卓子に突っ伏して眠り込む。
「やれやれ、まとまる話も拗れてしまうわ。極泉真君よ、此度の件…儂も手を入れさせて貰う故な」
「神獣白沢が?」
「さほど驚くことでもあるまいて、人との付き合いを絶っておるとゆうても、世を捨てた訳ではないのだからな」
怪訝そうに眉目を寄せる晶

に、白沢は快活に笑ってみせた。
「も、申し訳ございません。………ですが、何故に……」
晶

は己の不躾な態度にに恐縮したが腑に落ちぬようで理由を尋ねる。
「──蓮絢仙子の事は真君も存知ておろう」
はっとした晶

に白沢は穏やかに微笑む。
「生まれたからには死するのが運命とは言え、鬼籍に載らぬ、時期に外れた死は冥府の働きを狂わせ、引いては万物の歪みとなる。………あの神女は万物を歪ませる存在じゃ。このまま秀妃の暴挙を見逃せば、いずれは天地を揺るがす革命が起ころう。現に西王母様が鈞天並びに蒼天との交わりを絶って久しい。そして何よりも愛する者を亡くして悲哀の徒に成り果てるのは儂だけでもう十分じゃろう」
「神獣白沢…」
「真君が亡くなれば一体どれだけの者がこうなるのであろうか?」
真っ直ぐな白沢の視線に晶

は小さく唇を噛む。
「………」
「真君よ、儂は沙羅にこう予言した。『そなたは九天を吹きしく颶風となろう』と。儂は…沙羅に九天の命運を預けたいと思うておる。沙羅ならばやってくれるじゃろう。この者には九天の民にはない、強い生への執着と意志を持っておる」
白沢は卓子に突っ伏して眠りこける沙羅の頭を撫でた。その強い信頼の現れている言葉に晶

は大きく長く息を吐き、意を決したように白沢を見つめる。
「………正直にお話致します、神獣白沢。お気付きの通り、私は仙にあるまじき恋情を沙羅に抱いております。だからこそ私は沙羅を危険な、しかも辛いと分かり切っている目に遭わせたくはないのです。死の無い不死人であってもそのような事は許せないのです」
「──真君の気持ちはよう分かった。だが、その気持ちは真君の好いた沙羅を歪めてしまうのではないか?」
「え?」
「真君よ、一度己の気持ちを振り返って見るのもよかろうて。一体己が沙羅の何処を好いたのかをじゃ。儂等は席を外す故、しばし思い返してみよ。さすれば採るべき道は自ずから示される筈じゃ」
白沢は立ち上がると茶を入れて晶

の前に置き、號閃達を引き連れて出て行った。
残された晶

は組んだ手に額を預けてしばし考え込んだ。そしてふと面を上げると目の前ですやすやと眠っている沙羅をみつめた。
脳裏に激した沙羅が思い出される。言葉が晶

を貫く。
『何でも自分の思い通りにしたいんやったら箱庭作って人形遊びでもしとけっ!!』
あの時白沢に言われるまでもなく、沙羅に対する全てが自己満足のための我が儘である事に気が付いてしまったのだ。
もしかすれば、ずっと以前に気付いていたのかもしれない。ただそれを認めたくなかっただけなのかもしれない。
何故ならそれを認めてしまったなら、己を貫き通すことに対して、自分自身が疑問を抱いてしまうからだ。
(所詮、己を偽る事は出来ないのか?)
そう自問して苦笑すると晶

は茶を飲み干した。そして席を立つと沙羅を抱き上げ、皆の待つ間へと向かった。
早い決断に號閃達は驚き、白沢は貫禄のある笑みを浮かべる。
「元より心は決まっておったようじゃな?」
全てを見通している白沢の言葉に、晶

は苦笑を返すしかできなかった。
「出来れば気付きたくはありませんでした」
「ほっほっほっ。人間正直が一番じゃ。さて真君よ、これからどうする?」
「とりあえず昊天国に戻ります。今頃王城では私が居ない、と大騒ぎになっているでしょうから」
「ふむ、そうか。では儂も昊天国に赴こう。沙羅にやらねばならぬ物がもう一つあった故な」
「分かりました。ではご案内致します」
そして晶

は沙羅を抱いて號閃に、 白沢は晶

の許しを得た

暉の背に乗って昊天国へと向かったのであった。
つづく