昊天記神仙列伝
第五段 黄泉冥路
「あ──、もおっ、けったくそ悪いなぁっ。ゆっくり休んでられへんがなっ!」
  異様に薄明るい霧の中を疾駆しながら沙羅は毒突いた。
  右手には一振りの刀剣、そして背後に尸妖。
  そう沙羅は今、黄泉の直中にいた。
  黄泉に入って早二ヶ月が過ぎた今日この頃、感覚がマヒした所為か、褻に当たっての嘔吐や発狂は無くなってきていた。が、それでも長時間、褻に当たり続けると頭痛や腹痛に苛まれていた。
  そして今も小休止を取ろうとした矢先、人面羊身、嬰児の声と虎の歯と人の爪を持ち、両の目を腋の下に隠す尸妖に襲われたのだ。
「クソッたれがぁ! 行き止まりかいっ」
  袋小路に追い込まれてしまった沙羅は口汚く舌打ちすると岸壁に背を預けて、昊天国秘蔵の名刀・斫水刀を構えた。
  斫水とは水を切るという意味で、名前通り流れ落ちる滝を切った事がある宝刀なのである。勿論それは達人で以て初めて為される技なのだが、単純に切れ味の点からしても、昊天国にはこれ以上の刀剣は無いのだそうだ。つまり斫水は晶からの贈り物なのである。
そして白沢からの二つ目の贈り物とは──。
〈あれはという妖じゃ。腋の下にある目を狙うのじゃ〉
「わぁった!」
  額に埋め込まれた宝珠が助言を発する。飛び掛かってくる鋭い牙を躱して、擦れ違いざまに左腋にある目を斬り付けた。
「ふぇええぇえぇぇっ!」
  気の抜ける絶叫を挙げてはのたうち回った。その際大きな鈎になっている爪が沙羅の腕を引っかけ、そして引き千切った。
〈沙羅っ!?〉
「大丈夫っ! けどちょぉっとバランス悪いっ!」
  飛んだ肘から先を見ようともせず沙羅はよたつきながら留めを刺しに掛かる。だが、相手は手負いの尸妖。簡単には首を取らせてはくれる筈がない。
  こうなったときの沙羅の戦法は一つしかなかった。つまり『肉を切らせて骨を絶つ』のである。
  そうして約三十分後、脇腹を餌に沙羅は斫水をの眉間に突き立て、頸を落とした。絶命した尸妖の死肉はズルズルッと崩れ落ちた。漸く屍から解放されたの魂魄は沙羅に擦り寄って礼の意を示し、遥かな門を目指して駆けて行った。
「き…きっつー。死にそうやわ………。ペッ!」
  ぼそりとこぼして沙羅はこみ上げてきた血を吐き捨てた。無くなった左腕も喰われた脇腹も幾許かの内に再生してしまう。
「あ〜ぁ、まぁた服がボロボロになってしもたわ」
  沙羅は立ち上がると何処ぞに放り投げてしまった荷を拾って解いた。そして衣服の役目を為さぬボロ布を脱ぎ捨て、新たな服を着る。
〈そなた…、もう少しマシな戦い方が出来ぬのか? 見ている方が痛くなるわい〉
  額の宝珠から白沢の呆れた意識が投げ掛けられた。そうこの宝珠こそが白沢からの二つ目の贈り物なのである。
  珠の名は摩尼宝珠。竜王の頭から取り出された霊験灼かな珠で、白沢はこの珠に己の意識を分けて沙羅に授けたのである。御陰で沙羅はそれなりに楽しく快適な旅路を続けているのであった。
「そんなんゆーたかて、しゃあないやん。木刀とか鉄パイで殴り付けんのとは訳がちゃうんやもん。ビギナーに剣技なんて特殊技能求めんといて」
  少し膨れながら不平を述べる沙羅に白沢はわずかな沈黙を返した。
〈………。沙羅よ、休むなら界を造れ。また新たな尸鬼尸妖が襲って来寄るぞ?〉
「あ〜せやな。わぁった。…………え…と、灰珠以為天、白珠以為沢、赤珠以為火、青珠以為雷、紫珠以為風、黒珠以為水、藍珠以為山、朱珠以為地、黄珠以為主!」
  白沢の言葉に慌てて袋から九真珠を取り出し、暗記してしまった呪を唱えながら、一つ一つを地に撒いた。するとあっと言う間に褻が退き、沙羅にズッシリとのし掛かっていた重石が霧散した。
「ああぁ…。やっとゆっくり出来るわ」
  心から安堵して沙羅は岩を背もたれに泉面を仰いだ。だが霧に閉ざされた相変わらずの曇天模様の所為で、天を望む事も、星を望む事も出来ない。
〈ようやった。あの尸妖も漸く門をくぐれるじゃろうて〉
  白沢の労いの言葉を受けた沙羅は、擦り寄って去って行ったに思い出し、そして深々と溜め息を吐いた。
「……しかしまぁ、死んでまで苦労せなアカンやて、ホンマ大変な世界やなぁ」
  九天の常として屍は黄泉に流される。
  これは儀礼でもしきたりでもなく、そうしなければ屍は獰猛な尸鬼尸妖になってしまうからである。
  また、生きたまま黄泉に投げ込まれた生者生妖も死して尸鬼尸妖になる。が、生きて黄泉から帰還した者はいないので、一般的には知られていない事実である。
  ちなみに陸には尸妖が(比較的)多く、黄泉には尸鬼が(圧倒的に)多い。何故かというと黄泉は口封じの場に最適だからであった。
  ともかく、死んだ課程がどうであれ、尸鬼尸妖になり果てたモノは徒に肉を好むようになる。それが死肉であれ何であれ、地獄の苦しみを紛らわすために貪り食うのである。また、そうする事によって、喰われた尸鬼尸妖、死者死妖の魂魄は肉体から解放され、門に迎えるのである。
  この二月の間、沙羅も数多の尸鬼尸妖を解放してきた。
  ちなみに沙羅は戦う毎に衣服をボロボロにしているので、最初に用意した着替えなどは直ぐに尽きてしまった。今では解放した尸鬼の服を着続けているのである。
  普通、多感な十代の少女であればいくら必要に迫られたからと言って死人の衣服に袖を通そうなどとは思いもしないだろう。だが沙羅は、
「無いモンは有るモンで間に合わしたらええやんか。ああ? 気色悪ぅないんかって? べぇつにぃ、どうもありゃせんわ」
と、極めて素の顔で語っていた。
  さておき、安堵と同時に空腹感が沙羅に纏わりついた。
「ああ〜、モノごっつハラへったわ。考えたら三時間ほど歩いて、走って戦ってたんちゃうか?」
  荷の中からもう一つ、真珠に似た拳大の美しい石を取り出し、土に埋める。石は見る見る間に芽を出し、幹を為して枝を広げた。そして埋めた石と同じ石がたわわに実る。
「いっただきまぁす」
  沙羅は成った実をもぎ、カリコリと食べ始める。
  石の名は琅、六獣を代表して天からの贈り物であった。琅は生き物を食せない鳳凰の為の食物なのだが、石だから腐る心配はないとのことで持たされたのである。
  初めはおっかなびっくり口に運んだ沙羅だったが、今では不思議に美味しく、飽きの来ない琅をいたく重宝していた。そして五つほど琅を食べると沙羅は一つを種用に袋に入れてデザートに手を出す。
「もーちょい、味が濃かったらゆー事無いんやけどなぁ…」
  ブチブチ文句を言いながら黄泉に自生している桃にかぶりつく。白沢の説明によるとこの桃は魂魄が飢えて苦しまぬようにと黄帝軒轅が植えた物なのだそうだ。沙羅はまた二つ三つほど食べるとゴロンと寝転がった。
「ちょい、寝るわ。お休み」
〈うむ、心身共にゆっくり休んで疲れを取るのじゃ。先はまだまだ長いはずじゃ〉
  沙羅は頷いて目を閉じると、ドラ○もんのの□太君のように三秒で眠りに落ちた。
  沙羅が眠りに就いたかを確認すると、白沢の意識は摩尼宝珠から出て上空を目指した。そしてあっと言う間に黄泉を脱し、昊天国王城、白帝城に向かった。そして宛われた一室で書を読んでいる本体に入り込むと晶の元へと向かう。
  相変わらず政務に取り組んでいた晶は白沢の姿を認めると破顔して官を退ける。
「沙羅は眠りましたか?」
「うむ、やはり地の道と違い、道程は思うほどに進まぬが、日々頑張っておる。剣技の腕前も未だ未熟ではあるが、戦う毎に進歩しておる。この三日の間で八体の尸鬼と五体の尸妖を解放しおった。しかも一体に蠱雕二体に、窮奇二体じゃぞ? どうやら沙羅には剣士としての類い希なる資質があるようじゃな」
に蠱雕に窮奇!? それは凄いっ。……でも、ともかく無事で何よりです」 
は心から安堵したようにほっと息を吐いた。
「うむ、それに余裕が出来てきたのか、此界の言葉を習いたいと申しておった」
「言葉を?」
「うむ、上帝に謁見の時は通訳よりも己の言葉で、己の意志を伝えたいを申してな。歩きながらや休みの時においおい覚えておるわ」
「ははは、相変わらず前向きなんですね。沙羅は」
「良い事じゃ」
  その後白沢は様々な報告をして晶を安心させると再び意識を分けて黄泉へと戻っていった。
「………黄泉は想像以上に広く、険しい。沙羅の足では門に辿り着くまで一体どれだけの時間が掛かることか」
「──ですが沙羅ならばやり遂げてくれるでしょう」
「そう願うばかりじゃ」
  開け放たれた窓から遥か東を見遣って二人は沙羅の道行きの無事を祈った。



  また幾月かの時が過ぎた頃、門に至る緩やかな坂、いわゆる黄泉平坂を下り続ける沙羅の耳に嬰児の泣き声が届いた。
  妖には嬰児の声を発することによって人の注意を引き、近付いた所を喰らう、と言う類が多い。例によって白沢はウンザリした調子で呟く。
〈また尸妖か………。真、黄泉は尸妖の宝庫じゃな。じゃがここからは遠い様じゃ。構うことはない先を急ぐぞ〉
「………でも…、この声。いつものんとは違て、なんか妙に物悲しー感じがする…」
  沙羅の言う通り、その声音には尸妖の泣き声にはない、もの悲しさが宿っているのだ。
〈気にするな。ここが黄泉であること忘れるでない〉
  だが、沙羅にはその悲しげな波動を発する泣き声を無視することが出来なかったのだ。結局、白沢の制止を無視して声の主を捜し求めた。
「子供やん………」
  声の主は一つ二つの幼子であった。姿の見えぬ母親を求めて泣いていた幼子は沙羅を見付けると泣きながらだっこを強請る。
  憑かれたように跪き、沙羅は幼子を抱き上げた。抱き上げてしまった。
〈愚か者っ!〉
  沙羅の頸から鮮血が吹き出した。
〈愚か者めがっ!〉
  繰り返し叱責する白沢の意志が宝珠によって強化増幅され、刃と化して幼い尸鬼に襲い掛かる。
「ギャウッ!」
  奇声を上げて幼い尸鬼はもんどり打って仰け反った。肉の薄い両足が刃によって落とされているにも関わらず、幼い尸鬼は出来た血溜まりまで這いずって深紅の液体を貪り舐めていた。
〈愚か者めがっ! ここは黄泉ぞ!? ここにそなたの他には生者はおらぬのじゃっ! 目を醒まさぬかっ〉
「アウッ!」
  血を舐め続ける幼子を呆然と見続ける沙羅に、白沢は小さな雷を喰らわせた。
  その間に喰千切られた頸の傷は塞がり、一面に散っていた血も沙羅の中に還った。
  再び飢餓に襲われた幼子がずりずりと沙羅に向かってくる。
「なんで、なんで、こんな小さいお子がここで尸鬼になってんのよ。なんで?」
  力無く問い掛ける沙羅に、白沢は身内の恥でも語るように憮然とした調子で語り始める。
〈………恐らくは口減らしじゃろうな〉
「口減らし!? 何やのそれ、ここってまだそんなんあんの!?」
〈致し方あるまい。此界には疫病や悪天候に悩まされて、貧困に喘ぐ天国が大半を占めておる。その者の親にしてみれば苦痛を味わわせることなく死なせたと思っているのじゃろう。世間では黄泉に流せば尸鬼尸妖には成らぬと思われているからのう〉
  這いずって沙羅の足元まで来た幼子は血の涙を流して精一杯手を伸ばす。
〈沙羅よ、早う首を落としてやれ〉
「! ………」
  沙羅はビクリと体を強張らせた
〈何を躊躇っておる。そなたは今まで何体の尸鬼尸妖を切り捨ててきたのじゃ? 姿形に惑わされるでない!〉
  厳しい白沢の声葉を受けて沙羅はゆっくり斫水を抜くと幼子の首筋に当てた。でも未だ躊躇いから逃れず、だらだらと脂汗を流して幼子を凝視する。そんな沙羅の葛藤も知らず、幼子は牙を剥いて沙羅の足にかぶりついた。
〈………沙羅よ、この者の涙の真意を知れ〉
白沢の静かな言葉に沙羅は目を閉じると幼子の首をはねた。
「………」
  長久の苦痛から解放された幼子は愛らしくキャラキャラと笑うと沙羅にだっこを強請った。抱き上げて沙羅は頬摺りした。
「この子も…親に、捨てられたんやなぁ」
〈この子も? なんじゃ、沙羅は孤児であったか?〉
「いぃや、ちゃんと親はおるよ。一応食べさせてもくれとった。でもそれだけや、あたしはクソババ……、お母さんから嫌悪の気持ち以外貰ったことないねん。なんでや思う?」
  沙羅は幼子を寝かし付けながら岩に腰を下ろして問うた。白沢はあえて意識を返さない。
「あたしな、お母さんが浮気して出来た子やねん。………浮気て分かる?」
〈不義密通の事じゃな〉
  白沢の古めかしい言い様に沙羅は小さく笑った。
「そう。でもな、あたしが普通の子やったらそんな事分らんかった筈やねん。──あたしの目ぇって青交じりの薄い灰色やろ? でもな、うちとこの国もさぁ、ここといっしょで大概、黒か茶色の目と髪やねんな。当然あたしのお父さん…戸籍上の人もそうやねんけど、生まれてきた子はこんなんやった………。この目ぇがな、お母さんの浮気の証拠やねん」
  光の加減で銀色にも見える自分の目を指さしながら沙羅は冷笑を浮かべた。
〈………〉
「お母さんもお父さんもあたしの事を認めてくれへんかった。側におってもいっつもおらんように扱われた。でも…、あたしが十三の時、お父さんにムチャクチャ折檻されたことがあったんや。お父さんあたしのこと押さえ付けて殴りながら全部くっちゃべってくれたわ。あたし、お父さんをガラスの灰皿で殴り倒して逃げてな、一人になって考えてみて、全部納得出来たわ。お母さんらの態度というか、仕打ちがさぁ。それからあたしこんなんになったんや」
  自嘲気味に片頬をひきつらせている沙羅の話を、白沢は黙して聞き役に徹している。
「あたしその日から悪いことばっかりしたんや。あの二人をとことん苦しめたろー思てな、滅茶苦茶やったった。………でもな、お父さんは離婚して逃げて、お母さんは自分の殻に閉じ籠もってしもた。………なんか無茶苦茶アホらしかったわ。さんざん人のこといたぶっといてやで? いざ自分の番になったら一目散に逃げてまうんやもん…。呆れるくらい根性無いアイツらが情けなーて、引き返せんほど滅茶苦茶なことやってしもた自分がアホらしゅーて、ホンマ涙が出て来たわ」
〈………沙羅は父母を厭うておるのか?〉
  漸く白沢が問い掛けた。返す沙羅は心底呆れたように白沢に言葉を返す。
「あったり前やん。この手で絞め殺したりたいくらい大っ嫌いやわ」
  両手をギュウッと握りしめて沙羅はそう吐き捨てた。
〈それは嘘じゃな〉
「はぁ? 何が嘘よ。嘘な訳無いやんか。白沢かてあたしが嘘嫌いなん知ってるやろが」
〈うむ、沙羅が嘘が大嫌いなのはよく知っておる。故にこれは沙羅の深淵でついておる嘘なのじゃ〉
  カッとして沙羅が言い立てると、白沢はあっさりと肯定の意を返した。だが続く言葉に沙羅はますます語気を荒くする。
「何よ、それ。あたしそんなん知らんわっ」
〈じゃから沙羅の預かり知らん心の奥底でついておる嘘なのじゃ。少し静かにせい〉
  言い返そうとする沙羅を留めて白沢は淡々と話を続ける。
〈よいか? 沙羅が一番厭うておるのは他でもない沙羅自身じゃ。父母の愛情を得られなんだ己を嫌うておるのじゃよ〉
「!」
〈先程、復讐の為に様々な悪事を働いた申したな? それは無関心な父母の意識を得たいが為ではなかったか? だからこそ父母が逃げた時に虚しさを感じたのじゃ〉
「ア、アホな事言わんといてっ! それがホンマやったらあたし、無茶苦茶カワイソーな子になるやんか!」
  激昂した沙羅を無視して白沢は尚も真実を突きつける。
〈沙羅はこの者が哀れじゃと思うておるのじゃろう? だからこそ、いつになく情けを掛けたのじゃ。そなたは知らず、この者と己を重ね合わせて哀れんでおったのじゃ〉
「ちゃ、ちゃうちゃうっ。絶対にそんなことないっ!」
〈沙羅は哀れじゃ。じゃが一番哀れなことはそなた自身がそれに気付いておらぬということじゃ〉
「!」
  雷に打たれたように沙羅の動きが止まった。激しい怒りで満ちていた両目は虚ろで、なんの感情も宿っていなかった。
  そんな沙羅の胸を幼子が叩いた。不意に意識が引き戻され幼子を省みた沙羅は、幼子の顔が濡れている事に気が付いた。驚いていると更に雫がポタポタと滴り落ちた。
「え?」
  沙羅は己の頬に手を当てた。
〈それさえも気付いておらなんだか…。なんと哀れな………〉
「………っ」
  それからしばらく沙羅は声を殺して泣き続けた。心の奥底に凝り固まった負の感情、思い出の全てを吐き出すかのように延々と涙を流し続けた。白沢も幼子も黙って沙羅を見守り続ける。そして幾許かの時が経った頃、沙羅は顔を上げると、涙を拭いながらボソリと呟いた。
「………。おおきに」
〈なに、大したことはしておらん。だが、己を知ることは万物の理を知るよりも困難じゃ。………よく己を受け入れたな〉
「……まだよぉは分らん。でもかなり気が晴れたような気がする」
  大きく深呼吸して沙羅は胸の内を素直に話す。
〈ほほほ、今の所はそれで充分じゃ。これから悠久の時を掛けて、おいおい己と対峙してゆけばよい。──沙羅よ今日はもう休め〉
「ううん、なんか気分が晴れた分、やる気が充実してるねん。………先に進むわ」
〈そうか。では頑張るのじゃ。……なんじゃ、その者を道連れに致すのか?〉
  幼子を抱き上げた更に白沢は問うた。
「うん、先は一緒やし。この子があたしを必要としてくれてる間わな」
  実に暖かい笑顔で応える沙羅に、白沢も喜悦の波動を発する。
〈良い傾向じゃ〉
「へ?」
〈なんでもない。さあ、参るぞ。颶風たる者よ〉
「うんっ」
  頷いて沙羅は未だ見えぬ門を目指して歩き出した。その足取りは今以上に軽く、そして力強かった。
  その日、沙羅は変調を来すまで歩き続けた。
  八方陣を張るとあの幼子は沙羅が休む間にも門を目指したいと沙羅から離れていった。
  僅かな間の道連れではあったが、沙羅は自分を解放してくれた幼子の幸福なる前途を祈ってその背を見送った。
  そして沙羅が寝入った後、白沢は先と同じく、宝珠から抜け出て昊天国に赴いた。
  霊夢の日から約一年。晶の苦痛は八時間ほどになっていた。



「日に日に窶れてきよるな。真君」
「黄泉を渡る沙羅の苦しみに比べれば大したことではございません」
「その身で政にも参じておるのも考え物じゃ。少しは沙羅の為にも身をいとえ。真君は長生不死と雖も、沙羅と違うて不死身ではないのじゃからな」
  つい先程痛みの終わったばかりの晶は白沢に勧められて寝台に身を横たえていた。整った秀麗な顔にははっきりとした翳りが落ち、目元にはくまが出来ていた。
「これからはお会い出来ない日が多くなるでしょうね」
「………」
「すみません、神獣白沢。私の事よりも沙羅の事をお話し下さい。沙羅は元気にしていますか?」
  失言に自嘲した晶はやんわりと話を変えた。白沢もその事には触れず、日々の出来事を簡潔に話して聞かせた。黙って聞き終えた晶は脇に控えていた號閃を見遣る。
「………休んでなくて大丈夫なのかよ」
「帰ってからきっちり休む。悪い、一目で良いから逢いたいんだ」
「…素直で結構。主の命とあらば喜んで致しましょう」
  恭しく一礼すると號閃は戸棚の中から小箱を取り出し、晶に手渡した。開けた箱の中には大きな金真珠が燦然と輝いている。
「ほう、さすがは八天一の大天国。見事な金真珠じゃな。全部揃うておるのか?」
「ありがとうございます。残念ながら紫と灰を欠いているんですよ。……神獣白沢、申し訳ございませぬが、ご足労願います」
「心得た」
  素早く着替え終えた晶は変化した號閃に跨り、白沢の導きに従って黄泉へと、愛しい沙羅の元へと空を駆った。
〈………ここいらじゃろう。この真下辺りに沙羅はおるわ〉
「分かりました。ありがとうございます、神獣白沢」
  厚く礼を述べてから晶は號閃の背からひらりと飛び降りた。
「………昊天国を出立してから六ヶ月で道程の三割強。この分なら充分刻限に間に合いそうですね」
〈うむ、じゃが尸鬼尸妖が進む毎に数を増しておる。おそらく門の周辺は困難を極めるじゃろう。道のりは儂の想像以上に厳しいモノじゃ。………それに、門を潜ったとして上帝が黄溟公主を切り離せるかどうか…〉
「正に神頼みですね………。俺が言うのも変ですけど」
〈そうじゃな………〉
  一体と一頭は遥か禁域を見つめて闇に包まれた未来に思いを馳せた。



  有史以来二人目の生者が黄泉に降り立った。
  所々に実を成している桃の木以外、薄く霧の立ちこめているそこはあまりにも伝承通りで、晶は少しばかり拍子抜けしていた。
  天冥の門に向かって在るか無しかの緩やかな傾斜を造る大地は石と岩だけで構成されており、虚無的な雰囲気に包まれた世界は見ているだけで気が滅入りそうだった。
(こんなところを沙羅はひたすら歩き続けているのか?)
  荷を枕に、着替えの上着を衾に、沙羅は昏々と眠り込んでいた。
(人の気配には人一倍敏感な沙羅が熟睡している………。よっぽど疲れているんだな…)
  深衣の上着を一枚脱いだ晶はそれを掛けてやり、ホンの少しばかり疲労の色の見える頬に手を触れた。
「………? なんでこんなトコに晶がおるん? ────あー、そっかぁ。あらし、まぁた夢見てんねんなぁ」
  沙羅がふわりと目を醒ました。だが頭の中は完全に寝惚けているようだった。晶は敢えて訂正せずに苦笑を浮かべた。
「エーライ顔色悪いけど…どしたん?」
「大したことはない。それよりも沙羅の方こそ大丈夫か?」
  常と違ってえらく緩慢な喋りに合わせて晶もゆっくり話し掛ける。
「ぜぇーんぜぇんだぁーいじょーぶぃ。あらしはぁ不死人様やでぇ。ぜぇーんぜぇんだぁーいじょーぶ。わはははは」
「そうか………」
  言って晶はそぉっと沙羅の髪を撫でた。
「あらしのことよか晶の方が具合わるそーや。なぁんかごっつぅ痩せてしもてるぅ。アカンなぁ…。ちゃんとご飯食べてるかぁ?」
  沙羅は覗き込む晶の顔に手を伸ばし、目元、鼻、頬、口元を撫で、そして両手で頬をきゅっと摘んだ。晶は更に苦笑を深くして頷く。
「ホンマに? アカンでぇ、晶が病気になってしもたら困る人がものごっつおんねんからさぁ。第一あらしもさぁ、心配でしゃあないやん」
  「よっこいしょ」と起き上がると沙羅は晶の頬を包み込んだ。
「あらしガンバルからさぁ、晶もガンバってやぁ」
「……ああ、分かった俺も頑張る。最期の日まで、精一杯」
「よぉーしっ、約束やでぇ。あらし絶っ対にあんたに掛けられた呪いを解いたるからなぁ。大体なぁ、おとぎ話でもなんでもおーじ様の魔法を解いたるのは女やねん。そんでみんなみんな幸せになんねん。………晶、あらし、幸せになりたいねん。あらしなんかなぁ、幸せになられへんって思とったけど、もしかしたら幸せになれるかもしれんねん。………晶
「何だ?」
「幸せに………なりたいよ。誰よりも…幸せに………ふにゃぁ」
  そう言い終えると沙羅はふらぁっと横に揺れて眠り込んだ。晶は頭を打つ寸前に抱き留めた。
  心の中では沙羅の言葉が繰り返されている。
  酷く刹那的で、ムチャクチャ排他的で、物凄く自己中心的な沙羅の言葉と思えなかったからだ。だが、これこそが沙羅の深層心理で求められて来た物なのかと思うと、暖かな安堵と共にはっきりとした哀れみを覚えた。
(幸せに、してやりたい。誰よりも、何を犠牲にしても)
  この時初めて晶は沙羅の考え方を理解した。受け入れた。あれ程何を於いても上帝に従わなければならないと思っていたのにだ。
(最早公主であろうと上帝であろうと関係ない。沙羅の幸せを阻むというのなら、許さない)
  そう決意すると晶は沙羅を横たえさせ、そっと口づけてから黄泉を後にした。
  そして西王母や東王父、三方天帝に渡りを付け、少しでも沙羅の負担が軽くなるようにと助力を申し出た。
  白沢の話通り、西王母は秀妃の、欽帝の所行にかなりの不満を持っており、それは夫君である東王父も三方天帝も同様であった。
  西王母達は二つ返事で助力を了承し、中でも西王母は日々苦痛に苦しめられている晶を気の毒に思って瑤池の秘薬を多く授けた。呪いを解く術には成り得なかったが、あらゆる全ての苦痛を消す事が出来る最高仙薬・竜胆を晶は手にした。だが、晶はそれを服せず、あくまでも苦痛を耐えていた。………一度でも服してしまえば、中毒のように精神が破壊されてしまう、とふんだからだ。
  そして更に時は流れた。晶は最早寝台から身を起こせない程に痩せ衰えていた。
  また、天界も只ならぬ緊張感に包まれていた。
  何度秀妃の処罰を打診しても応じることのない欽帝と、それを擁護する蒼帝に対して、三方天帝と西王母、東王父は完全に一線を画していたからだ。
  何の進展もないまま両陣営の溝は深まり、蒼帝伏羲の配偶神女が司る木気を五行相剋に従って剋す金気の白帝少昊が放伐を考える程になっていたからだ。
  だがそれは言うまでもなく最後の手段である。
  天界を二分する争いとなれば九天全世界に害が及ぶのは必至。それを避けて通りたい天帝並びに、神族仙家は全ての命運を沙羅に託したのだった。
  そして期日を一月後に控えたある日のこと、数多の尸鬼尸妖を苦痛から解放して、沙羅は天冥の門を潜ったのだった。
つづく