昊天記神仙列伝
第六段 五行相生
天冥の門を潜った沙羅は、冥府を取り仕切る土神・犀渠の導きに従って天梯を昇った。だがこれは沙羅の想像を絶する重労働であったのだ。
  と言うのもこの天梯、黄泉のどん底から崇山の麓までを繋ぐ代物であったのだ。
  泉面までの高低差はおよそ十キロメートル。麓までは迎えが来るとしても、そこに辿り着くまでが大変なものである事には違いない。
  沙羅にして見れば門を潜る事がゴールであったのだ。正にお預けを喰らった犬も同然で、ぶつくさ、ぶつくさ、ぶつくさ、ぶつくさ(×100)白沢が辟易して本体に戻ってしまう程愚痴りながら延々と続く天梯を昇り続けたのであった。
  登り昇って十七日後。沙羅は遂に天梯を登り切ったのだ。
  半分無意識に手足を動かしていた沙羅は麓に降り立つなり、倒れ込んで完全に意識を失った。そんな沙羅は既に待ち受けていた天使達に直ぐさま沐浴させられた。黄泉で染みついた褻が酷く、そのままでは禁上殿堂に迎え入れる事が出来なかったからだ。
  そんな訳でよってたかって好きなようにもみくちゃにされていた沙羅だが、疲れ果てて爆睡していたので全く問題は起こらなかった。
  そしてすっかり禊ぎを終えた沙羅は天使達に連れられて禁上殿堂の最奥、紫微宮に迎え入れられた。
  沙羅が体力を回復し、目を醒ますのに要した日数は丸二日。漸く目覚めた沙羅は例によって寝惚けており、現状認識出来ずにいた。
  広く豪華な寝台に清潔な衣服。肺に満たされるほんのり甘い空気。ずらりと並んだ気配を感じさせない嬪御達。頭の周囲に?マークを飛ばしながら沙羅は身を起こした。途端わらわらと嬪御達が動き出す。
「黄泉のお渡りお疲れ様でございます、不死人様。お起きになりますか?」
「は?」
「畏れ多くも上帝が不死人様をお待ちしていらっしゃいます。お起きになりますならばお召し替え致しましょう」
「はあ…」
  まだまだ寝惚けている様で沙羅は嬪御に促されるままに寝台から降り立った。
「ではお召し替え致しましょう」
「へ? はぁ……」
  言うなり嬪御達は沙羅の服を剥いて着替えに取り掛かった。着替えは「あっ」という間に終わってしまった。いきなり真っ裸にされて、飾り立てられたのだが、沙羅はやはり酷く寝惚けていて、半開きの目で斜になりながら突っ立っていた。
  しかし椅子に座らされ、髪を梳かれた途端に覚醒した。
「痛い、痛いっ、痛いっ! 何すんねんっ」
「ほほほほほ、ご覧の通り御髪を整えさせていただいておりますのよ。不死人様の御髪は酷く乱れていらっしゃる故、丹念に梳らせて戴きますわ。少ぅしばかり我慢して下さいませ」
「ど、何処が少しばかりやねんっ! イタイッ! 無理に髪の毛引っ張らんといてっ」
  立ち上がって腕を振り払おうとする沙羅を
嬪御達は片側四人ずつで椅子に押さえ込んだ。
「ほほほほほ、上帝に御見なさるのでございましょう? ならばきちんと身なりは整えて戴かなくてはなりません。此処は下界でも黄泉でもございませんのですから」
「何を大層に…イタイってゆーてるやんかっ、ヘタクソッ! もう、触るなっ!」
「ほほほほほ、お静かになさいませ不死人様。紅がずれて妖のようなお口になってしまいますわよ」
「見事な御髪ではございますが、結い上げてしまいますと、かなり短くていらっしゃるようですわね。付け足させて戴きますわ」
「いじじじじ………」
  まるっきり沙羅の話を聞こうとしない嬪御達に沙羅はげんなりと諦めて、ひたすら歯を食いしばって痛みに耐えていた。
「こちらの宝珠は如何致しましょうか?」
  嬪御の一人が鏡の中の沙羅に向かって尋ねた。
「あ〜、これは白沢から借りたモンやからおいといて」
「は?」
「そのままにしておいて頂戴」
「畏まりました」
  よっぽど沙羅の愚痴に嫌気がさしたのか、白沢はあれから姿を現さない。基本的に借りた物は手渡しで返す主義の沙羅はそれをおいておく事にした。
  そして諦めの境地で目を瞑って待つ事しばし、沙羅はこれ以上はないほど豪奢に着飾られていた。
「なぁんか生え際の辺りがちりちりするんやけど」
「ほほほほほ、お慣れになるまでご辛抱下さいませ。では、不死人様参りましょうか」
  相変わらず笑顔を能面の様に貼り付かせたまま嬪御が促すと、沙羅は寝台の脇に立て掛けてあった斫水刀を手に取った。
「不死人様! 上帝の御前に於いての帯刀は認められておりませぬっ。さあさ、その様な物騒な物はわたくし目にお預け下さいませ」
「いやや」
  沙羅は首を振ると嬪御の手を押し返した。
「不死人様!」
「喧しい。ゆっとくけど、ここはあたしにとって敵陣なんや」
「な、何という失礼な事をおっしゃいますか。わたくし共はこうして不死人様に最高の敬意を払ってございますのに」
  嬪御の口調にはそかはかとなく恩着せがましさがまぶされていた。それを敏感に感じ取って沙羅はふんっと鼻で笑う。
「うるさいわい。そんなん知った事か。これは絶対に放さんからな」
「わ、わたくし共が上帝からお叱りを受けてしまいますっ」
  痛切な嬪御の言葉にも沙羅は繰り返し鼻で笑う。
「じゃあ、こないしたるわ」
「ヒィッ!」
  沙羅はスラリと抜刀すると口やかましい嬪御の喉元に押し当てた。他の嬪御達は一同口元を隠して悲鳴を上げた。
「大人しゅう上帝の…、女大君の所に案内してんか。他のんは下がっとれ」
「ななな、なんと野蛮なっ! 神罰が下されますよっ!?」
「まず最初に神罰が落ちなアカンのは秀妃やないんか?」
「!」
  沙羅の言葉に居合わせた者は皆息を飲んだ。
「あたしゃあんたらの相手しとる暇はないねんや。とっとと女大君んとこに案内してんか」
「しょ、承知致しました」
  斫水刀を押し当てられた嬪御が口をひきつらせながら承知すると他の嬪御達は引き潮のように下がっていった。肩を震わせながら歩き出した嬪御について沙羅は幾重もの回廊を巡って、やがて巨大な門扉の前に辿り着いた。
  只ならぬ様子に守護の武人が鉄尖棒を構える。
「こちらで…ございます」
「はい、ごくろーさん」
  言って沙羅は斫水刀を鞘に納めた。だが武人達は退かず、威嚇するように棒を構え直し、沙羅と対峙する。
「………ごっつ邪魔やねんけど」
「その刀をお渡し戴ければ如何様にも」
「出来んな。それは」
「ならば我らも上帝の御座所をお守りする者としてお通しする訳には参りませぬ」
「ふん」
  沙羅は面白くなさそうに斫水刀を引き抜いた。その時、武人の背後にそびえる巨扉が音もなく開かれた。
「莫迦な………」
「控えなさい。上帝は不死人様の帯刀をお許し下さいました。不死人様、どうぞこちらへ入られませ」
  人一人分だけ開いた隙間から現れた嬪御は、驚愕に目を見開いている武人を退けると沙羅を促した。
  沙羅が斫水刀を納め直すと扉は更に開かれ、中を一望する事が出来た。
「あれが上帝。女…大君?」
  沙羅は我知らず呟いた。
  広大な玉堂の遥か前方に遠近法を狂わせる者がいた。
  巨大な長椅子の、高めに位置づけられた肘置きにゆったりと凭れ掛かっているその身の丈は五十メートルは下らないだろう。しかも美しさを湛えた憂いの顔とは対照的に、玄衣の裾から生えるモノは蒼黒の鱗に包まれた蛇身であったのだ。
「その通りでございます。ささ、もう少し御前に歩まれませ」
「う、うん…」
  女の真っ直ぐな視線を受けながら沙羅は一歩一歩床を踏み締めて歩いた。
  女を基準として創られているのかこの玉堂は嫌気がさすほどに広く、天井が高い。開かれた空間に対して恐怖を感じる者ならば気を失ってもおかしくない程の広大さなのだ。
「………!」
  限りない悪意を感じて沙羅は立ち止まった。そして徐に投げ掛けられた方を見遣る。
  天地開闢以来初めての天冥の門をくぐった沙羅を見物するために集まった数多の神人神女で玉堂はごった返していた。だが沙羅はその中でたった一人の神女を見据えた。誰に言われるまでもなく沙羅にはこの神女の正体が分かったのだ。
(コイツが秀妃かいな…)
  確かに美しい、美しすぎる神女であった。が、沙羅にして見れば、
(ま、それなりにべっぴんやろーけど、そんあエラそーにふんぞり返るくらいべっぴんとは思えんなぁ。この世界の奴らって趣味悪いんとちゃうか)
で、ふいっと視線を逸らすと再び歩き始めた。
  ほんの数瞬の事ではあったが、玉堂は激しい緊張感に包まれていた。と言うのも、此処にいる誰もが、秀妃が昊天国に手を出した事を、今回の沙羅が黄泉を渡った理由を、その秀妃の所行故に天界が二分している事を聞き知っていたからだ。
  そんな皆のオロオロとした視線を不愉快に思いながら秀妃は歩き続ける沙羅の背中を見つめていた。その動きが止まる。
  脇に従っていた嬪御達が跪き、叩頭した。が、沙羅は相変わらず突っ立ったままだった。周囲にざわめきが立ち上る。
「不死人様っ、上帝に叩頭なさいませ。無礼でございましょう」
  慌てた嬪御達は両方から沙羅の手を取って座らせようとしたが、
「うるっさいっ。あたしにそんなんせなアカン義務はないっ!」
言って沙羅は乱暴に腕を振り払った。嬪御は「あっ」と声を挙げて蹌踉めく。そして周囲はその言葉と行動にいよいよ以て大きくどよめいた。だが沙羅は口々に己を非難する周囲を一切無視して女に向かい合った。
「あたしはこの世界のモンとはちゃう。アンタの恩恵を受けた覚えはないからな。どっちかゆーたら恩恵どころかあんたのバカ娘の所為で難儀な目に遭ってんや。とてもやないけど、こいつらみたいには出来ん」
  ざわめきもどよめきも消えた。次の瞬間、思い上がった只人に対して、凄まじいまでの罵声が投げ掛けられた。
「……っるさいなぁ…。女大君、あんたと秀妃と三人で話がしたいんやけど、外野を下がらしてくれんか?」
  余りのうるささに耳を塞いで舌打ちした沙羅の言葉に、女が無言のまま目を伏せた。すると巨扉が開かれた。罵声は再びどよめきに変わる。だが、上帝の命に背く訳にもいかず、沙羅と女、そして秀妃以外の神人神女はぞろぞろと御前を辞していった。
  そして最期の一人が姿を消すと扉は再び閉じられた。沙羅がそれを見届けてから、再び前を見ると、いつのまにやら秀妃は女の座する長椅子の脚の脇にいた。
「自己紹介がまだやったな。あたしの名前は矢敷沙羅。あんたのおかげというか、所為というか今は不死人をやってる」
「………よう参られた、天冥の門をくぐりし異界のお方。太古の約定に従いて妾はあなたを迎え入れねばなりませぬ」
  初めて女が言葉を発した。その声は意外にか細く、とてもこの世界を統治するという最高権力者・上帝たる威厳は感じられなかった。はっきり言えば只人のようでもあった。
「ふーん…。物凄い不本意そうやなぁ。けど、まぁええわ、本題に入らして貰うで。アンタに上帝として、そこのおる秀妃に晶に掛けた呪いを解けって命令してほしい。………そんでからやけど、秀妃には死んで貰う」
「何とっ!?」
「だってさ、おらん方がええやん。今まで白沢とかに色んな話聞いてきたけど、秀妃が世の為人の為になった事って、全くっちゅーてもええくらいないやんか。迷惑なだけやん。あ、ちなみにこの案には西王母のおばちゃんも、東王父のおっちゃんも、はん炎帝はん少昊はんも賛成してくれてる」
「………抜かしよるわ、下賤な小娘の分際で………」
  沙羅の強気な言葉に、秀妃は忌々しげに吐き捨てた。
「そのような戯言、一体何処から出てくるのじゃ? 如何に西王母様方が妾の死を望んでいらっしゃろうと、母上様がお許しになるとでも思うたかっ?」
  強気な秀妃の言葉に「そーくるか」と小さく呟いて沙羅は話を進める。
「確かに女大君には色んな権利がある。どんなに他の天帝らがアンタを殺そと思ても、女大君がアカンてゆーたら、ハイそれまで。叶いはせんわ。何故か!? 答えは至極簡単。女大君が上帝やからや」
「まさか…」
「もしや…」
  秀妃は脂汗を滲ませ、女は顔を強張らせ始めた。
「天地開闢以来の九天の理にはこんなんがあるんやて? 上帝は如何なる大事にあろうとも他の天帝の革命を阻む事は出来ん、ちゅーのがさ。……えっとぉ金剋木、五行相剋やったっけ? 女大君は旦那の伏羲と同じ木気の帝、少昊はその木気を剋す金気の帝。放伐が起こってみいな、次の上帝は少昊や。………どのみちアンタの行く末は決まってんや」
  冷徹に断罪する沙羅に、女は少し震える声音で尋ねる。
「少昊様は…、西王母様は革命を起こすおつもりなのですね」
「まあな。ホンマは口止めされとってんけど、黙っとくのもなんやし、胸クソ悪いし、ゆーてしもたわ」
  白沢から耳にタコ出来るほど口止めされていたにも関わらず、沙羅はあっさりと味方の手の内をバラしてしまった。
  問い掛けた女は、沈痛な面持ちではあったが、さりとて騒ぎ立てる事もなかった。だが、極刑を言い渡された秀妃は顔色を失って長椅子の脚に取りすがった。
「不死人殿」
「はいな」
「……人界であれ、天界であれ、革命は民を疲弊させます」
「そうやろうな」
  政治的なことはよく分からない沙羅ではあったが、戦争になって一番苦しむのは何の力も持たない民であることは理解していた。
「そして秀妃は妾と大兄の最後の御子。喪う訳には参りません」
「………」
「不死人殿、どうか、どうか西王母様に取りなして下さい。何卒秀妃の助命を取り計って下さるように、と…。もしそれが叶いますなら、妾は五行相生の理に従って炎帝に禅譲致します」
「母上様!?」
「不死人殿、どうかお願い致します」
  言って女は、九天の全てを統べる上帝は異界の少女に頭を下げた。
  沙羅は暫し考え込んだ後、残酷なまでにきっぱりと首を振った。
「不死人殿!」
「──秀妃、アンタ今までどれだけのモンを殺してきた?女大君にとってのアンタみたいに、誰もが誰かの大切な、掛け替えのない人やったんや。アンタはその大切な人をどれだけ奪って、どれだけのモンを泣かせてきた? アンタは一体どれだけのモンを不幸にしてきた? もうアンタは女大君が上帝位を譲り渡すだけや済まん程に、自分自身を崖っぷちに追いつめてきたんや。………自業自得やと思って諦め」
「!」
  さぁっと秀妃の顔が絶望に染まった。小刻みに震え出し、華奢な両の手で顔を覆った。沙羅が秀妃に近付くとポンと肩を叩くと同時に秀妃はその場に頽れた。そして小さく溜息をついた沙羅が合わせてしゃがみ込むと、
「何故じゃっ!? 何故、妾ばかりがかような目に遭わねばならんのじゃっ」
「どわっ」
いきなり顔を上げると、激しい形相で沙羅に…、いやこの世の全てのモノに対して吐き捨てた。驚いた沙羅は思わず尻餅を付いていた。
「幼き頃から大姐と比較され続け、陰の存在を強いられてきた。そして漸く大姐が死んで妾が陽の存在に成れたというのに。何故じゃっ。妾が何をしたというっ! 間違った事など何一つしておらぬっ。なのに、何故じゃ」
  叫んで秀妃は起き上がった沙羅の胸元に両の拳を叩き付けた。沙羅は眉根を寄せながら小さく舌打ちし、秀妃を放って立ち上がった。
「………処置無しやなぁ…」
「何故じゃ。何故じゃ。何故じゃぁっ! ああああああ」
  沙羅は泣き伏す秀妃を指して女を厳しく睨み付けた。
「見てみ。これがあんたの娘なんやで? アンタ、何でここまで秀妃の気持ちが捻れるまでほっといたんよ? ──優しいだけのアンタにゃ人の上に立つ資格も、母親の資格もないわ」
「………返す言葉も、ありませぬ」
  只人の言葉に女は涙を堪えるような面持ちで呟いた。そんな女に、沙羅は嫌なモノでも見たかのように顔を背ける。
「母上様っ、母上様っ! お願い、妾をお助けになって! 妾は、妾は死にたくないっ。死にたくないっ!」
  女はそんな裾に取り縋って懇願する秀妃に務めて優しく微笑み掛けた。
「大切な妾の秀妃。大丈夫です。そなたを一人で逝かせたりはしませぬ。妾も全ての責を負って、共に冥府に参りましょう」
「女大君っ!?」
「母上様っ!?」
「不死人殿、かように西王母様にお伝え下さい」
  言って再び女は頭を下げた。沙羅はポカンと口を開けていたが、ふと困ったように小さく笑った。
「なんや………。アンタって、やっぱり母親なんかいな…。羨ましいわ、ホンマに……」
  心の底からそう呟いた時、突然弾けたように秀妃は嗤い出した。
  怪訝そうに眉根を寄せる沙羅と女に、秀妃は侮蔑の色も露な嗤いを返し、距離を取った。
「ふん、羨ましいじゃと? 唯一人の己の娘の命すら救えぬ母親が羨ましいじゃと? 使えぬ親など貴様にくれてやるわっ」
「何ぃっ!?」
「秀妃っ!?」
  秀妃は勝ち誇った様な実に艶やかな笑みを浮かべると、沙羅を真っ直ぐ見つめた。
「助命が叶わぬならば、せめてもの手土産に昊天王を連れて参る!」
「止めっ……」
  以前晶の胸に突き立てられた簪が、秀妃の細く白い喉に突き立てられた。勢いのまま秀妃は仰向けになって後方に倒れ込んだ。
「ドアホがっ! なんちゅう事すんねんっ。女っ、アンタ尸解の術は使えんかっ!? コラッ、抜いたらアカンっ!」
  沙羅の制止も聞かずに秀妃は簪を喉から引き抜いた。血が噴き出し、沙羅に降り掛かる。
「………無駄じゃ。たとえ…何度、黄泉返えろうと…、妾は、死んで…やる」
  ひゅーひゅーと気管から漏れる空気の音と共に、秀妃は凶言を吐き捨てて絶命した。
  広大な玉堂を痛いほどの沈黙が支配した。
「な…な…、なんちゅうやっちゃっ! ………ちょっと、女! 秀妃が最後にゆうてた手土産て、どういう事よっ!」
  しばらくして我に返った沙羅は女を見上げた。が、女は秀妃の亡骸をすくい上げると、獣のような咆哮をあげた。
  その咆哮は紫微宮、いや禁上殿堂のみならず、九天全土に響き渡った。
  数千年前、妃が溺死した折りと同じ咆哮に、昔を知る者は全てを理解した。
  余響が止み、白々とした静けさが九天に戻って来た時、紫微宮に四方天帝と西王母、東王父が訪れた。
  玉堂に到着した六人が広大な空間に見た物は二つの小さな人影。一つは仰向けになってぶっ倒れている沙羅であり、もう一つは秀妃を抱き締める女であった。
  文字通り玉座から降りた女は普通の人型を採っている。
「女…」
  女の兄であり、夫であり、蒼帝でもある伏羲が歩み寄った。
「大兄…。秀妃が…秀妃が…」
「うむ…」
  女は伏羲に取り縋って泣き続けた。
  この後、形ばかりの葬儀がなされ、秀妃の亡骸は早々に黄泉に投げ込まれた。
  沙羅が目覚めたのはその二日後。刻限を三日後に控えた日の事であった。


「呪いが解けてへんやとぉ?」
  六獣を代表して鈞天を訪れた號閃が重々しく頷いた。
「あんのアマァ………。最後ぐらいは人の為に成る事せえっちゅーのに。ったく、クソッタレがぁ!」
  沙羅はガンッと卓子に拳を叩き付けると徐に立ち上がった。
「何処に行くんだよ」
「玉堂。あの人らやったら何かええ方法知ってるかもしれん」
「俺も行くよ」
「好きにしいや」
  さっさと尾首を巡らすと沙羅はすたすたと玉堂に向かって行った。
  現在の上帝位は女が玉座を降りた事により事実上空位なのだが、禅譲式が執り行われるまで女が取り合えず位に就いているのである。
  勝手知ったる他人の居城。沙羅は人を押し退けて玉堂に足を踏み入れた。
  玉堂の最奥には疲労の色濃い女と、その脇に立ち並ぶ四方天帝。沙羅は五天帝が視界に収まる玉堂の中央で立ち止まる。號閃は沙羅の隣で跪いている。
「おお、不死人殿、如何した。険しい顔をしているようだが」
  玄帝が沙羅を認めて声を掛けた。女と伏羲以外の天帝はこの異界の勇者に対して好意的に接してくれていた。
「秀妃が死んでしもた今でも晶の呪いが解けてない」
「!」
「何とかしても晶は助けにゃならんの。だから、この呪いを解く方法を教えてんか」
  相変わらず他者に教えを請う者の態度ではなかったが、沙羅はこれ以上はない程真剣さを明灰色の瞳に込めていた。だが五方天帝は黙したままだ。沙羅は小さく舌打ちすると更に詰め寄った。
「世界中で一番偉い神様達やんっ!? 知ってるんやろっ? だから黙ってるんやろっ? お願いやっ、教えてよっ!?」
  やはり五方天帝は黙したままだ。沙羅はギリッと唇を噛むと、床に跪いた。
「………────お願いします。どうか、どうか、晶を、昊天王を助ける方法を教えて下さい。お願いしますっ!」
「不死人っ!?」
「沙羅っ!?」
  土下座して床に額を擦り付けて懇願した沙羅に、五方天帝と號閃は驚きを隠せず目を見開いた。
  どのような相手に対しても傲頑なまでに不遜な態度をとり続けていた沙羅が、今初めて膝を折ったのだ。これは五天帝に弱からぬ衝撃を与え、沙羅の真険さを余すことなく伝えたのだった。そして、
「…………不死人殿、お立ちなさい」
と伏羲が静かに声を掛けた。
  ゆるゆると面を上げた沙羅の目にはいつもの強気はなく、取り縋るような弱々しい光に支配されていた。
「それ程までに昊天王の命を救いたいのですか?」
「はい。晶はあたしだけじゃなく、隣にいる號閃や昊天国にいる暉達、それに昊天国の国民全てが必要としている人間なんです。晶は絶対に死んだらいけない人間なんです。お願いします。あたしに出来る事なら何でもします。だから晶を助けられる方法を教えて下さいっ!」
  言って沙羅は再び額を床に押し当てた。
  暫くの間、沙羅の真意を計っていた五方天帝はお互い視線を交わし合うと、小さく溜め息を付いた。女は姿勢を正して沙羅を見つめ、
「不死人殿。一つだけ…昊天王を救う術があります。それは―――――」
たんたんと術を語り出した。聞く毎に顔を強張らせる號閃とは裏腹に、沙羅は顔を輝かせた。
「どうしますか? 不死人殿」
「やりますっ! 今から昊天国に行ってきます。ほらっ、號閃っ、行くで」
  実に晴れやかな笑顔で沙羅は號閃を引っ張って駆けていった。全速力で禁闕を通り過ぎると裾を翻して変化した號閃に跨る。
「おいっ、沙羅! お前………」
「へへへ、晶には絶対に内緒やで。ごっつ照れ臭いからな。絶対やで」
  首を巡らして困惑顔の號閃に、沙羅は人差し指を口の前に立ててウインクした。
「でもな、自分でもごっつ驚いてるんやで? こんな自分がおるやて夢にも思わんかったもん」
  純白の、最高級のビロードの上に俯せになって寝転がった沙羅は穏やかな笑みを浮かべた。
「でも沙羅、俺は黙ってなんか………」
「號閃、晶に喋るつもりやったら背中の毛ぇ全部抜いたるで」
「イテッ! でも、そんな事言ったって、…イデイデイデ! 止めろっ! 分かった。言わないからっ」
「絶対やで? ………んじゃさ、あたし今から考え事するから静かにしててな」
「はいはい」
「なんせ一世一代の大嘘つかなアカンねんからな」
  沙羅はニッコリ微笑んで四つほど出来てしまったハゲを撫でた。その胸が痛くなるような暖かな笑みを向けられた號閃は前を向くと、風に沁みた目に任せて涙を流した。
つづく